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2022-02-16

視覚というインターフェース/『世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』ドナルド・ホフマン


『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル
『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
・『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール・ゼキ
『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』藤田一郎
・『もうひとつの視覚 〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』メルヴィン・グッデイル、デイヴィッド・ミルナー

 ・視覚というインターフェース

『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル

必読書リスト その五

 実在に関する真実を告知しないのなら、知覚はどうして有用でありうるのか? いかに私たちの生存に資するのか? 直観を導いてくれるたとえ(メタファー)を用いて説明しよう。あなたが編集しているファイルは、デスクトップ画面の中央に青い長方形のアイコンで示されていたとする。この事実は、そのファイル自体が青く、長方形をし、コンピューターの中央部に存在していることを意味するのか? もちろんそうではない。アイコンの色はファイルの色ではない。それには色などなく、アイコンの形や位置は、ファイルの真の形や位置を示しているのではない。そもそも形、位置、色に関する言葉は、コンピューター上のファイルを記述することなどできない。
 デスクトップインターフェース[この例ではデスクトップ画面を指す]の目的は、利用者にコンピューターの「真実」を開示することにあるのではない。ちなみに、このたとえでの「真実」とは、電子回路や電圧や一連のソフトウェアを指す。むしろインターフェース[インターフェースについては訳者あとがき参照]の目的は、「真実」を隠して、Eメールを書く、画像を編集するなどといった有用な作業がしやすくなるよう、単純な図解(グラフィック)を提示することにある。Eメールを書くために自分で電圧を調節しなければならなかったら、あなたが書いたEメールが友人のもとに届くことは決してないだろう。
 これは進化がなし遂げた仕事である。つまり進化は、真実を隠して、子孫を生み育てるのに十分なだけ生存するために必要とされる単純なアイコンを表示する感覚作用を私たちに与えてくれたのだ。周囲を見渡したときにあなたが知覚する空間は三次元のデスクトップ画面であり、リンゴやヘビやその他の物体は、この三次元デスクトップ画面上のアイコンにすぎない。それらのアイコンが有用である理由の一つは、実在の持つ複雑さを隠蔽してくれるからだ。

【『世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』ドナルド・ホフマン:高橋洋〈たかはし・ひろし〉訳(青土社、2020年/原書、2019年)】

 つまり感覚が捉えているのは「シンボル」に過ぎないというわけだ。中々スリリングなアイディアだ。私にとっては意外でも何でもない。なぜなら視覚は種(しゅ)によって全く違う世界が現れる。同じものの姿が違うのだ。


 視覚は種にとって有益な情報を取捨選択するように進化したのだろう。

 英単語の「Interface」の直訳は「境界面」「接点」であり、ビジネス用語の「インターフェース」はここから「異なる2つのものを仲介する」という意味で使われます。

「インターフェース」ってどういう意味? わかりやすい使い方と例文

 我々が視覚情報を絶対視してしまうのは触覚など別の感覚によって補強できるためだ。世界と接触した時の感覚全てがインターフェースに過ぎないと考えれば、我々が「ありのままの世界」を認識することは不可能であることが理解できよう。

 世界は感覚の中に存在すると考えたのが唯識(ゆいしき)である。しかしこれだと世界=インターフェースとなってしまう。むしろ感覚は世界を知る手掛かりと考えるべきだろう。



視覚情報は“解釈”される/『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』ビル・ブライソン

2021-10-29

意識化されない無意識は強迫的に受け継がれていく/『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠


『経済は世界史から学べ!』茂木誠
『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠
『「米中激突」の地政学』茂木誠

 ・「アメリカ合衆国」は誤訳
 ・1948年、『共産党宣言』と『一九八四年』
 ・尊皇思想と朱子学~水戸学と尊皇攘夷
 ・意識化されない無意識は強迫的に受け継がれていく
 ・GHQはハーグ陸戦条約に違反
 ・親北朝鮮派の辻元清美と山崎拓

世界史の教科書
日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 この状況(※大東亜戦争敗戦)において、国家再生のためには新しいモデルが必要でした。
【日本人はそのモデルを、恐るべき敵であったアメリカに求めた】のです。
ストックホルム症候群」という精神医学の概念があります。1973年にスウェーデンで起こった銀行強盗で、銀行員数名が人質として監禁され、死の恐怖に怯(おび)えて数日間を過ごした事件がありました。事件は結局、警察が突入して犯人を逮捕しますが、この間、人質となっていた被害者が、犯人を擁護するような言動を繰り返したのです。この事例から、極度の恐怖を体験した人間は、加害者を自分と同一視することで恐怖を免れるという心理的メカニズムがあることが理論化されました。日常的に夫から虐待を受ける妻、親から虐待を受ける子どもがなかなか被害を訴えようとしないもの、同じメカニズムによるものです。
 連日連夜の空爆を受け、原爆を投下され、米軍に軍事占領された日本人の深層心理に、同じメカニズムが働いたと私は見ています。アメリカという悪魔にこれ以上蹂躙(じゅうりん)されないためには、アメリカを理想国家として賞賛し、アメリカと一体になるしかない……。
 これは日本人の集団的な無意識として働いたものですから、文献として残っているわけではありません。しかし【この無意識は、意識化されない限り、戦後日本人に世代を超えて強迫的に受け継がれていく】のです。

【『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠〈もぎ・まこと〉(祥伝社、2021年)】

「意識化されない無意識は強迫的に受け継がれていく」――衝撃的な一言である。これを読むだけでも本書には必読書の価値がある。意識化とは「見る」ことだ。ありのままに真っ直ぐ見つめれば答えは自ずから導き出される。

 黒船襲来を「強姦」と位置づけたのは司馬遼太郎であった(『黒船幻想 精神分析学から見た日米関係』岸田秀、ケネス・D・バトラー)。ただ、歴史は振り返った時にしか見えてこない。当事者たちは川の流れの中で自分たちの位置すら理解できない。

 意識化されるのは一瞬である。「あ!」と気づけば違う世界が開ける。例えば私の場合、北海道で育ったこともあって長らく皇室制度を軽んじてきた。義務教育を苫小牧~帯広~札幌で受けてきたが、君が代を歌ったことは一度しかない。それも音楽の授業で習ったのだ。国旗に対する敬意を教わることもなかった。これが社会党王国の現状だった。もちろん道民が由緒正しい血筋と無縁であった背景にも由来しているのであろう。父方の祖父は戦争で樺太から引き揚げてきたと聞いている。北海道に家意識はない。「内の嫁」「内のしきたり」という言葉を聞いたことがない。このため全国で一番離婚が多い。家を背負っていないのだから当然だ。感覚はややアメリカに近いものがある。私は上京して「なんと因習が深いのだろう」と驚いた憶えがある。寺社仏閣も桁違いに多い。

 知人のライターが東日本大震災に対する天皇のメッセージをツイッターで紹介していた。彼は「陛下」と尊称をつけていた。それを見て、「へえー」と呟き、次の瞬間に「あ!」となった。胸の内に小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉の生きざまがまざまざと蘇った。尊皇の精神が息を吹き、血の中に流れ通った瞬間であった。様々な知識が線となってつながった。大東亜戦争の歴史的な意味合いもストンと腑に落ちた。私は日本人となったのだ。

 これは決して大袈裟な話ではない。若い時分から本多勝一や鎌田慧〈かまた・さとし〉、黒田清〈くろだ・きよし〉、浅野健一などを読んで、完全に頭の中はリベラルに洗脳されていた。彼らの反日感情を見抜くことができなかった。左翼が主張するポリティカル・コレクトネスは破壊工作の手段に過ぎない。

 日本近代史に関する書籍を読み漁り、菅沼光弘を経て、竹山道雄に辿り着き、小室直樹倉前盛通で完璧に補強した。武田邦彦の影響も大きい。

 民族的な自覚は危機の中から芽生える。戦争や災害の中で国家の輪郭が際立ってくるのだ。

2021-10-16

人は見た目に騙される


 第一印象を弄(もてあそ)ばされた事実を知り、笑って誤魔化す大衆をとくとご覧あれ。










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2021-07-20

視界は補正され、編集を加える/『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』藤田一郎


『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル

 ・視界は補正され、編集を加える

『世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』ドナルド・ホフマン
『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 ものが目に映り、像が網膜の細胞に捉えられた段階で、何が見えるかが決まり、それが私たちの意識にのぼるのであれば、目に映った像がものの見え方を決めるはずである。ところが、この章のさまざまな例で示してきたように、目に映った像がすべてを決めているのではないのである。
 目に映っているものは同心円なのに見えるものはらせん模様であったり、同じ印刷がなされているものがちがった色や明るさに見えたり、何も描かれていないものが見えたり、目の前にあるものが見えなかったりする。これらのことは、眼底に映った外界像を網膜の細胞がとら(ママ)えて生体電気信号に変換した時点で、「見える」という知覚が生まれているのではないことを示している。網膜から電気信号が脳に送られ、脳の中で再処理され、その結果生成された電気信号が私たちの知覚意識のもとになっている。見ることも、ほかの心のできごとと同様に脳によって担われている。
 見ることは、しばしば、カメラで写真を撮ることに誤ってたとえられている。目で起きていることを、光がカメラのフィルムやデジカメのCCD素子にとらえることにたとえるのは的外れではない。外界世界が網膜に像を結ぶ過程は、純粋な光学過程である。そして投影された光の強度と波長にもとづいて、視細胞にイオンの流れすなわち電気反応を起こす。ここまでは、カメラと本質は変わらない。カメラにおいても、レンズを介してフィルムに像を結び、化学反応により像は焼きつけられるのである。
 しかし、ものを見ることの本質は、そうやって網膜でとらえられた光情報にもとづいて、外界の様子を脳の中で復元することである。その復元されたものを私たちは主観的に感じ、また、復元されたものにもとづいて行動するのである。

【『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』藤田一郎〈ふじた・いちろう〉(化学同人、2007年)】

「DOJIN選書」の一冊。後半が難解で挫けた。それでも前半の内容だけで教科書本としておく。

「同心円が螺旋模様に見える」というのはフレーザー錯視のこと。ま、百聞は一見に如かずだ。ご覧いただこう。


 今まで結構な量の錯視画像を見てきたが最も衝撃を受けた一つである(1位は「妻と義母」)。視界は補正され、編輯(へんしゅう)を加える。我々は五官情報をそのまま受け取ることができないのだ。あらゆる情報は「読み解かれる」。人は想念の中で生きる。

 天台宗では十界(じっかい)を説く。生命の諸相を十種類に分けたものだ。人は外界の縁に触れて様々な生命の状態を表す。因→縁→果→報という推移が瞬間瞬間展開されてゆくのが生活とも人生とも言い得る。その果を法界(≒世界)と捉えたところに天台宗の卓見がある。固定した性格ではなくチャンネルや周波数のように見つめるのだ。

 例えば自分の人生を映画さながらに見つめることは可能だろうか? 自分が怒られたとか、傷ついたとか、落ち込んだとか、嫉妬したとか、マイナス感情の虜(とりこ)になる時、人は我を失う。それどころか卑屈になった心は妄想に取り憑かれ、憎悪や怒りが増幅されてゆく。

 見ることは簡単だ。だが、ありのままに見ることは難しい。



視覚情報は“解釈”される/『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』ビル・ブライソン

2020-04-19

見ることは理解すること/『時間と自己』木村敏


『異常の構造』木村敏
・『自己・あいだ・時間 現象学的精神病理学』木村敏

 ・見ることは理解すること

・『あいだ』木村敏

 外部空間の【もの】とは、【見る】というはたらきの対象となるようなもののことである。もちろん眼に見えないものも多い。しかしそれは、われわれの眼の能力に限界があるためであって、そのものが原理的に見えないということではない。それと同じように、内部空間の【もの】についても、「見る」という言いかたが許される。われわれが頭の中で考えをまとめようと努力しているときなど、われわれは自分の考えが浮かんでくるありさまをじっと見続けているわけである。
 外部的な眼で見るにしても内部的な眼で見るにしても、【見る】というはたらきが可能であるためには、ものとのあいだに【距離】がなければならない。見られるものとは或る距離をおかれて眼の前にあるもののことである。それが「対象」あるいは「客観」ということばの意味であり、【もの】はすべて客観であり、客観はすべて【もの】である。景色を見てその美しさに夢中になっている瞬間には、景色もその美しさも客観になっていないということがある。景色や美しさのあいだになんらの距離もおかれていないから、われわれはその景色と一体になっているというようなことがいわれる。主観と客観とが分かれていないのである。そのような瞬間には、われわれの外部にも内部にも【もの】はない。われわれは【もの】を忘れた世界にただよっている。しばらくして主観がわれに帰ると、そこに距離が生まれる。景色や美しさが客観になる。そしてわれわれは、美しい【もの】を見た、という。あるいは美しさという【もの】を余韻として味わうことになる。
 古来、西洋の科学は【もの】を客観的に【見る】ことを金科玉条としてきた。「理論」(theory)の語の語源はギリシャ語の「見ること」(テオリア)である。西洋では、見ることがそのまま捉えること、理解することを意味する。そしてこれが、単に客観的観察とする自然科学だけではなく、哲学をも含めた学一般の基本姿勢なのである。

【『時間と自己』木村敏〈きむら・びん〉(中公新書、1982年)】

 クリシュナムルティの参考文献として紹介しよう。木村の文章が苦手である。思弁に傾きすぎて言葉をこねくり回している印象が強い。ドイツに留学したせいもあるのだろう。西洋哲学も同様だが思弁に傾くのは悟性が足りないためだ。

 主観と客観とが分かれたところに分断が生まれ、好悪(こうお)が生じ、欲望が頭をもたげる。見ることに満足できない我々は美しい景色をカメラで撮影したり絵に描いたりする。続いて「もっと美しい景色はないだろうか」とあちこち探す羽目となる。

 物理の世界においてすら見る行為=観測そのものが量子に影響を及ぼしてしまう。量子の位置と速度は同時に測定することができない。原子核の周囲を飛び回っている電子は惑星のように存在するのではなく、雲のように浮遊し確率論的にしか示すことができない。なぜなら量子は波と粒子の二重性を併せ持つからだ。

 マクロの世界も同様である。宇宙の年齢は138億年であるが、現在観測されている最も遠い銀河は131億光年のEGS-zs8-1である(すばる望遠鏡が発見した銀河団は130億光年)。胸躍る発見ではあるが今見えているのは131億年前の光である。EGS-zs8-1の現在の姿は131億年後までわからない。

 もっと卑近な例を挙げよう。我々が見ている太陽は8分20秒前のもので、月は1.3秒前の姿だ。見るとは光の反射を眼で受容することだ。つまり何を見たところで光速度分の遅れがあるわけだ。

 現在にとどまる瞑想の意味はここにある。「観に止(とど)まる」と書いて止観とは申すなり。

2016-06-25

「見る」ことは「知る」ことであり「背負う」こと/『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健


『僕の名前は。 アルピニスト野口健の青春』一志治夫

 ・「見る」ことは「知る」ことであり「背負う」こと

 この写真集で最も表現したいのは「現場」の世界。ヒマラヤの高山、アフリカ、そして日本の被災地など、僕はどの現場に行ってもA面とB面があると考えている。パッと目に入る美しい世界がA面ならば、あえて踏み込まなければ見えてこない世界がB面。ときにB面は目を背けたくなるほど残酷だったりする。人の目はどうしてもA面ばかりに向きがちだが、本当の意味で「知る」ということはA面B面のどちらも必要なこと。僕が最も大切にしているのは「見る」ということ。なぜならば「見る」ということは「知る」ということであり、同時に「背負う」ということだから。

【『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健(集英社インターナショナル、2013年)】

 いい写真集だ。ヒマラヤ、アフリカ、フィリピン・沖縄の遺骨収集、そして東日本大震災の被災地を野口がゆく。中学生や高校生の頃に出会いたかったというのが本音である。目をどこに向けるか、何を見て、どう感じるかで人生は決まる。噂話を垂れ流すテレビよりも、一枚の写真に心を動かされる。

 写真には他人の視線に入り込むスリルがある。同じ場所へ行っても見る世界は人によって違う。そして切り取られた瞬間は二度と訪れない時間でもある。人も出来事も来ては去る。風景も時間も来ては去る。諸行は無常を奏でながら一瞬としてとどまることがない。ところが写真は瞬間を永遠に引き延ばす。何という不思議だろう。

 野口の公式ブログにも写真は掲載されている。山男らしいダイナミズムを感じさせるものが多い。

2015-11-23

野生動物の自己鏡像認知


 鏡に映った自分を認識できる能力を自己鏡像認知という。これができる動物としてはヒト(2歳児未満を除く)、ボノボ、チンパンジー、オランウータン、バンドウイルカ、アジアゾウ、カササギなど。ブタやイカにもある。マークテストやルージュテストで判断する。眠っている間に顔などへマーキングをし、マークに対する反応を見るもの。「但し、鏡像認知が自己意識の指標であるのか、低次な自己身体の認識の指標であるのかについては議論がある」(森口佑介、板倉昭二、2013年)。私は社会性の上から捉えることが正しいと思う。「鏡に映った自分を認識できる」ことは他人の目を意識できることを示す。ここに学習の可能性があるのではないか? 我々が日常生活の中で鏡を前にして身だしなみを整えるのも社会性の現れである。西洋においては他人の目どころか神の目まで設定した。群れ+学習を社会性といってよいだろう。






人格障害(パーソナリティ障害)に関する私見
高砂族にはフィクションという概念がなかった/『台湾高砂族の音楽』黒沢隆朝

2015-02-23

認知科学の扉を開く稀有な対談 養老孟司×押井守


 気難しい養老が微笑んでいる。波長のほぼ完全な一致。まず話しぶりがそっくりだ。どちらかというと独り言タイプ。ま、オタクと言い換えてもよろしい。つまり説明能力は高いが対話には向いていない性格だ。2000年に行われたようだが認知科学の扉を開く稀有な対談となっている。この短い時間(45分)で映画論・時間論・哲学論・宗教論にまで言及している。終盤に至って養老は言葉少なである。まるで「話す必要もない」ほどのコミュニケーションが成立しているかのようだ。押井の深き問いは、その中に答えをはらんでいる。かつて何度も見た動画であるが、昨夜再び見て衝撃を新たにした。



脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)

神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡ユーザーイリュージョン―意識という幻想意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)

2014-03-26

白い点ひとつで生命感を表現したフェルメール/『誰も知らない「名画の見方」』高階秀爾


 精緻(せいち)な写実の画家というのが、フェルメールに対する一般的な評価であろう。たしかにその描写は、ひじょうに繊細である。しかし、彼の作品をよく見ると、画家がけっして事物の質感表現を極めようとしていたわけではないことがわかる。むしろフェルメールが追求したのは、事物を照らし出し事物にまつわりつく光の効果なのだ。彼の作品の多くにおいて、その画面は、厳密な質感描写というよりも、事物の表面を覆う光の結晶に満ちあふれている。

 そんなフェルメールの描く人物の魅力的な表現の秘密は、目にある。代表作の《真珠の耳飾りの少女》でも、描かれた少女の魅力は、神秘的ともいえるそのまなざしに由来する。では、フェルメールはどのようにして、この表情豊かな目を描き出しているのだろうか。ポイントなっているのは、瞳に描かれた白い点である。ハイライトとして白い点をひとつ、瞳に描き加えることだけで、生命感にあふれた人間の顔を描くことができるということを、フェルメールは発見したのだ。これは、「光の効果」を研究し尽くした画家ならではの発見といえるだろう。

【『誰も知らない「名画の見方」』高階秀爾〈たかしな・しゅうじ〉(小学館101ビジュアル新書、2010年)以下同】

 頭の中を「!」が支配した。その後「なぜ私は気づかなかったのだろう?」のリフレインが押し寄せた。見ているようで見ていなかったのだ。高階に見えたものが私には見えなかったという事実に打ちひしがれた。で、教えてもらった途端、それは「見える」ようになるのだ。ここに視覚の奥深さがある。きっと私には見えていないものがたくさんあるに違いない。視覚は並列的かつ横断的に働くため細部を見逃しやすいのだ。

 では実際にご覧いただこう。ヤン・ファン・エイクとフェルメールの光には決定的な違いがある。


 ヤン・ファン・エイクが写実的であるのに対してフェルメールは高窓から差すような光を描いている。白い点ひとつで生命を吹き込むのだから凄い。

 実は最近知ったのだが涙袋効果ってのがあるそうだよ。

【あの芸能人で徹底比較】涙袋の大切さ!!あるだけでこんなに違う・・・!!?

 確かに違う。まったく違うよ。人の目は陰影を好む。ネクタイのえくぼスタッコ壁、ボイン、筋骨隆々、碧眼(へきがん)、鼻の高さなど。神は細部に宿るってわけだ。

 じつは、現代においても写真家はしばしば、生き生きとした表情をつくり出すために、被写体の目のなかに人為的な光を加えるという。400年近くも前にフェルメールが試みたこの手法を用いている。つまり、自然のとおりの即物的な光を描写するかわりに、かならずしも自然のとおりではないけれど、人物に生命感を与えるような光を描き加える。そのことによって、瞳はたんに外光に反応する肉体の一器官としての「目」ではなく、内部に精神を宿した「まなざし」となる。そのとき画家は、自分が見た対象としてではなく、画家を見ている「人間」を描くことに成功したのである。

 さすが大御所。文章が香り高い。2時間程度で読める本だが各所に侮れない指摘がある。学ぶことは世界を広げることでもある。本を読めば読むほど豊かな世界が広がってゆく。

Art 1 誰も知らない「名画の見方」 (小学館101ビジュアル新書)

2014-03-15

稀有な文章/『石に話すことを教える』アニー・ディラード


 ・稀有な文章

『本を書く』アニー・ディラード
『動物たちのナビゲーションの謎を解く なぜ迷わずに道を見つけられるのか』デイビッド・バリー
『悲しみの秘義』若松英輔

動物記』のアーネスト・T・シートンによると、ある人が空からワシを撃ち落とした。死骸を調べたところ、ワシの喉には干からびたイタチの頭蓋骨が顎でぶら下がっていた。想像するに、ワシがイタチに襲いかかるや、イタチはくるっと向きなおって本能の命ずるままにワシの喉に歯を立て、もう少しで勝ちをとるところだったのだろう。わたしは叶うものなら、撃ち落とされる何週間か何か月か前に、天翔けるそのワシを見たかった。ワシは喉元にイタチごとぶら下げて飛んでいたのだろうか。毛皮のペンダントかなにかのように。それとも、ワシはイタチを届くかぎり食べたのだろうか。胸元のかぎ爪を使って生きたまま内蔵をかき出し、首を折るように曲げて肉をきれいについばみ、美しい空中の骸骨に仕立て上げたのだろうか。

【『石に話すことを教える』アニー・ディラード:内田美恵〈うちだ・みえ〉訳(めるくまーる、1993年)以下同】

「イタチのように生きる」と題した一文を紹介する。40年以上に渡って本を読んできたが、これに優るエッセイはない。稀有(けう)といってよい。ソローの超越主義的臭みを感じた私は本書を読み終えてはいない。それで構わない。一篇の随想が稲妻のごとく私の背骨を垂直に貫く。


 彼女は数日前にイタチを見かける。

 4フィート先の、ぼうぼうに生えた野バラの大きな茂みの下から姿を現わしたイタチは、驚いて凍りついた。わたしも幹に坐ってうしろをふり向きざま、同様に凍りついた。わたしたちの目と目は錠をかけられ、その鍵を誰かが捨てたようだった。
 わたしたちの表情は、ほかの考えごとをしていて草深い小道でばったり出食わした恋人どうし、もしくは仇敵どうしのそれだったにちがいない。意識を澄ませる下腹への痛打か、あるいは脳への鮮烈な一撃か。それとも、こすりつけられた脳の風船どうし、出合いがしらに静電気と軋みを発したのか。それは肺から空気を奪い、森をなぎ倒し、草原を震わせ、池の水を抜き去った。世界は崩れ、あの目のブラックホールへともんどり打っていった。人間どうしがそんな見つめ方をすれば、頭はふたつに割れて両の肩に崩れ落ちるほかはない。だが、人はそれをせず、頭蓋骨は守られる。つまり、そういうことだった。

 正直に告白しておくと何も書く気がしない。ただテキストを抜き書きして紹介したい。しかしそれではブログの格好がつかないし、何といっても私の魂の震えが伝わらないだろう。

 ディラードの文章は瑞々しい静謐(せいひつ)に包まれている。そして一瞬の想像力が太陽に向かって跳躍する。その姿は逆光の中で鮮やかな影となって確かな姿を私は捉えることができない。だがそのスピードと高さだけは辛うじてわかる。彼女は「見る」という行為を限りなく豊かに押し広げ、そこに自分を躍らせるのだ。


 どのように生きるか。わたしは学ぶなり思い出すなりできたらと願う。ホリンズ池に来るのは、学ぶためというより、正直言ってきれいさっぱり忘れるためである。いや、わたしは野生動物からなにか特定の生き方を学ぼうなどとは考えていない。このわたしが温かい血を吸い、尾をピンと立て、手の跡と足の跡がぴったり重なるような歩き方をしてどうなるというのだ? けれども、無心ということを、身体感覚だけで生きる純粋さを、偏見や動機なしで生きる気高さを、いくらかなりとも身につけることはできるだろう。イタチは必然に生き、人は選択に生きる。必然を恨みつつ最後にはその毒牙による愚劣な死を遂げる。イタチはただ生きねばならぬように生きる。わたしもそう生きたいし、それはすなわちイタチの生き方だという気がする。時間と死に苦もなく開き、あらゆるものに気づきながらなにものも心にとどめず、与えられたものを猛烈な、思い定めた意志で選択する生き方だ、と。

「偏見や動機なしで生きる気高さ」「時間と死に苦もなく開き、あらゆるものに気づきながらなにものも心にとどめず」との文章がクリシュナムルティと完全に一致している(偏見動機気づき)。「時間と死に苦もなく開き」という言葉は作為からは生まれ得ない。すなわちディラードの文は生きる態度がそのまま表出したものであろう。本物の思想や言葉は生そのものから「滴(したた)り落ちてくる」ものなのだ。


 その機会を、わたしはのがした。喉元に食らいつくべきだったのだ。イタチの顎の下の、あの白い筋に向って突進すべきだった。泥の中だろうが野バラの茂みの中だろうが、食らいついていくべきだった。ただ一心に得がたい生を求めて、わたしたちは連れだってイタチとなり、野バラのもとで生きることもできたろう。ものも言わず、わけもわからずに、いたって穏やかにわたしは野生化することもできたろう。二日間巣にこもり、背を丸め、ネズミの毛皮に身を横たえ、鳥の骨の匂いを嗅ぎながら瞬きし、舐め、麝香(じゃこう)を呼吸し、髪に草の根をからませて。下は行くにいい場所だ。そこでは心がひたむきになる。下へは外へでもあり、愛してやまぬ心から外へ抜け、とらわれのない感覚へと戻ることである。

 見るものは見られるものである。瞳が捉えた対象との間に距離や差異は消え失せて完全にひとつとなる。ディラードの生とイタチの生はDNAのように螺旋(らせん)を描き、分かち難く結びつき新たな生命として誕生する。

 もうこれ以上は書かない。ただただアニー・ディラードの奏でる文章に身を任せ、堪能し、浸(ひた)り、溺れて欲しい。この随想はこう終わる――。

 そうすることもできたはずだ。わたしたちはどのようにも生きられる。人は選んで貧困の誓いを、貞節や服従の誓いを、はたまた沈黙の誓いを立てる。要は、呼ばわる必然へと巧みに、しなやかにしのび寄ることだ。やわらかい、いきいきとした一点を見つけて、その脈に接続することだ。それは従うことであり、抗うことではない。イタチはなにものをも襲わない。イタチはそう生きるべく生きているだけだ、一瞬一瞬、ひたむきな必然の、完全なる自由に身をゆだねて。
 自分のただひとつの必然をつかみとり、それをけっして手放さず、ただぶら下がってどこへなりと連れていかれることは、すばらしくまっとうで従順な、純粋な生き方ではないかと思う。そうすれば、どのように生きようが結局は行きつく死でさえ、人を分かつことはできないだろう。
 つかみとることだ。そしてその爪で空高くつかみ上げられることだ。両の目が燃えて抜け落ちるまで。おのが麝香の身をずたずたに裂かれ、骨は千々に砕かれ、野や森にばらかまれることだ。軽やかに、無心に、望みの高みから、ワシのごとき高みから。




2012-12-25

まばたき:脳リセットの働き? 大阪大などのチームが発表


 まばたきするのは脳をリセットし、新たな展開に備えるため――。こんな可能性があるとの研究結果を大阪大や情報通信研究機構未来ICT研究所(神戸市)のチームがまとめ、24日付の米科学アカデミー紀要電子版に発表した。

 映像を見ている時、まばたきをするのと同時に、脳で活発に働いている領域が一瞬変化することから得た分析。中野珠実大阪大准教授は「目を閉じることで、物語の流れに区切りをつけて注意を解き、情報処理を円滑にしているとみられる」としている。

 ヒトは毎分15~20回まばたきする。目を潤すには毎分3、4回で十分で、頻繁なまばたきの理由は謎。(共同)

毎日jp 2012-12-25

 眠りは「小さな死」で、まばたきは「ミクロな死」というのが私の持論だ。つまり、まばたきするごとに世界は新しく構成されている。多分それが真実だ。

2012-10-19

そのシルエットは男性か女性か、性別認識の偏向を明らかに 米研究


 ぼんやりとした光の中に人が立っているがその顔や衣服の見分けはつかない──果たしてこの人物は男性なのだろうか、それとも女性なのだろうか。

 多分あなたは、この人物を男性だと考えるのではないだろうか。10日の英学術専門誌「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」に掲載された研究によれば、その理由は、生き延びるための「反射的な判断」だという。

◆そのシルエットは男性?女性?

 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(University of California at Los Angeles、UCLA)の心理学者が編成する研究チームは、人間が他人を評価する際に用いる視覚情報の役割について研究を行った。

 研究チームは、男女学生らに21人のシルエットを見せた。身長の同じ21人のシルエットは、ウエストとヒップの比率がそれぞれ異なり、明らかに女性的な「砂時計のようにくびれた」シルエットから、最終的には「たくましい体格」の男性的なシルエットへと徐々に変化した。

 実験に参加した学生らには、この21人のシルエットについてそれぞれの性別を質問した。どのシルエットの時点で性別が変わるかを確認するという意図だ。

 調査結果について研究チームのケリー・ジョンソン(Kerri Johnson)氏は、参加者らは曖昧なシルエットについてはどれも男性とみなす傾向があったとし、「その効果の大きさに驚いた。想像していたよりもはるかに大きかった」と述べた。

 自然界では、女性のシルエットと男性のシルエットの境は、ウエスト対ヒップのサイズ比が0.8ほどになったところとされる。だが参加者らは平均0.68に「男女の境界」を置いた。言い換えると、参加者にとって女性であると認識できるシルエットは、「グラビア写真における理想的なくびれ」とほぼ同じだったのだ。

 ジョンソン氏の研究チームは、実験結果が偏って(歪曲して)いないことを確認するため、少しずつ手法を変えて3件の追加研究を行った。結果、シルエットを男性とみなそうとする傾向は変わらなかったという。

◆危険回避のための認識バイアスか

 これは認識の錯誤だろうか──。そうではない、とジョンソン氏は語る。生き延びるため、人間にもともと備わっているメカニズムだと同氏は考えている。

 男性は女性よりも物理的な脅威になりやすい。そのため、われわれの認識はその危険性に備えるように設定されているという考えだ。「自己防衛のためではないかと、われわれは考えている」とジョンソン氏は語った。

「夜に暗い路地を歩いているとしよう。女性は物理的な脅威にはならないと一般的には考えられている。だが見知らぬ男に遭遇したとしたら、その男が物理的な強さを備えており、なんらかの危険性を及ぼす可能性が高まるだろう」とジョンソン氏は説明する。また文化的背景により「反射的な判断」が左右される可能性も否定できないとしながらも、「恐らく同じような結果がどこでも得られるはずだ」と述べた。

AFP 2012年10月19日



 たぶん正面からのシルエットなのだろう。面白い研究だが当てにならない。真っ直ぐな道路や川沿いを歩いているとシルエットに対する考察が深まる。性差を決定づけるものは腰のくびれだけではない。真っ先に挙げられるのは髪型と胸の形である。次に服装、そして文化的な仕草や態度と続く。O脚の女性はいても、ポケットに手を突っ込んで、肩を怒らせ、ガニ股で歩く女はいない。

 川沿いでジョギングしている女性を見てわかったことが一つある。バストの大きい女性は男性をつかまえるには有利であるが、走る時はどうしても不利だということ。私の独断によると、災害リスクの高い時代は、ペチャパイの女性が増えることになる。逃げやすい体型の方が生き延びる確率が高くなるためだ。

 一方、草食系と呼ばれる男性が増えているのは戦争リスクが高まっていると考えることが可能だ。戦時において勇敢な男性は真っ先に死んでしまうからだ。これについて以下のグッピーの記事を参照されたい。

比較があるところには必ず恐怖がある/『恐怖なしに生きる』J・クリシュナムルティ

2012-09-15

偽りの画像が生む本物の迫真性


 flickrで見た一枚の画像に眼が釘づけとなった。反射的に画像のアカウントを辿った。私は息を呑み、眩暈(めまい)を覚えながら、震える指でクリックし続け、結局1000枚の画像を見る羽目となった。そして今再び1000枚の画像を見た。

 露出や露光を変えることで、現実にはあり得ない作品に仕上がっている。その意味では「偽りの画像」といってよい。だが実は単なるデフォルメではない。撮影対象を時間的・光学的に揺さぶることで視覚の本質に迫っている。

 私は小学生の時分に「なぜ眼が見えるのだろう?」とその不思議さに慄(おのの)いたことがあった。UFOや幽霊を見ることよりも、眼が見えること自体の方がはるかに不思議だ。

 その後、少なからず視覚に関する書籍を読んできた。現代科学はいまだ私の疑問に答えていない。それでも視覚のメカニズムは少しずつ判明している。実は我々の眼はそれほどよく見えてはいない。脳が多くの視覚情報を補正している。盲点は想像以上に大きいし、周辺視野は色を確認することができないのだ。

「見る」ということは、光の反射情報を受け取っていることだ。右耳と左耳との距離によって生じる時間差で方角を知るように、右眼と左眼の10cm足らずのズレによって我々は空間の奥行きを知覚する。

 昆虫は紫外線を見ることができる。また最近の研究によれば鳥類や魚類の多くも紫外線を認識することが明らかになっている。「目に映る世界」は決して一つではない。

 またモグラの眼は退化しているが困った様子はない。更に小型コウモリは超音波による反響定位で距離を測る。「耳で視ている」といってよい。

 長くなったので、もうやめる。一言でいえば視覚とは「脳内で像を結ぶ」知覚作用であろう。klikatu氏の写真は「イメージの原型」が持つ本物の迫真性に満ちている。

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迫真の肖像力

2012-06-24

アメリカ人の良心を目覚めさせた原爆の惨禍/『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル


 ・アメリカ人の良心を目覚めさせた原爆の惨禍

『夕凪の街 桜の国』こうの史代
『チェ・ゲバラ伝』三好徹
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
小倉に投下予定だった原爆

「何をどのように見るか」はその人の人生観に負う。「生の本質は反応である」という我が持論からすれば、正確には「何がどのように見えるか」となる。「見る」と「見える」には能動と受動の相違がある。知的な意志で視点を高めなければ「見る」ことはできない。

 友人のブログで初めて「焼き場に立つ少年」の写真を見た。背中におぶった赤ん坊の首はがっくりと後ろに反(そ)っていた。少年は下唇を噛んで直立不動の姿勢を保っている。生と死が直線と斜線を描いて交錯する。少年を直線にせしめている力を思わずにはいられなかった。

 悪しき教育、洗脳された思考などと安易に批判するのは簡単だ。そんな戯言(たわごと)は半世紀後に出したじゃんけんみたいなものだ。いかなる時代や社会であれ、人間の感情に大きな違いはない。少年の全身からにじみ出る無念の思いと悲しみが私を圧倒する。彼は独り、矛盾の断崖に立っているのだ。

 焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。
 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で弟を見送ったのだ。
 私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?

脚注※焼き場にて、長崎/この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。

【『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル、ジェニファー・オルドリッチ:平岡豊子訳(小学館、1995年)以下同】

joe

 ジョー・オダネルは少年を見た。そこに白人特有の差別意識はひとかけらもなかった。「同じ人間として」被爆した長崎の大地に立っていた。オダネルは23歳の青年であった。反逆の世代であったがゆえに戦争の不毛さや政治の嘘を嗅(か)ぎとることができたのだろう。

 爆心地が目の前に広がっていた。一瞬息が詰まった。地球に立っているとは信じられない。見渡すかぎり人々の営みの形跡はかき消され、瓦礫が地面をおおいつくしていた。私はたったひとりでここに立つ。まるで宇宙でたったひとりの生き残りであるかのように。徹底的に荒れ果てた地表には、鉄管や煉瓦が不気味な影を落としている。まわりの静けさが私を打ちのめした。
 私は体を失った彫像を見つめる。口はからからに乾き、眼には涙がにじむ。やっとの思いでつぶやいた。「神様、私たちはなんてひどいことをしてしまったのでしょう」と。

 トランクに封印していたのは単なる写真ではなかった。オダネルと日本人との間に通った交情であった。そしてオダネル自身も被爆していた。2007年に死去するまで、彼は50回もの手術を受けていた。痛みが情けをより深いものにしたことだろう。

 写真を公開するまでの半世紀にわたる煩悶(はんもん)と懊悩(おうのう)に思いを馳せる。そして多分、我々は戦争の悲惨さに涙を流しながらも、再び正義を振りかざして、またぞろ戦争を繰り返すのだろう。愚か者よ、汝の名は人類なり。

 オダネルの写真に反応してはいけない。強靭な知性と意志でオダネルの深い感情を汲み取る作業が求められる。

トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録
ジョー オダネル
小学館
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米軍カメラマンが見た長崎
ジョー・オダネルと日本人の交流
The Phoenix Venture's photostream
ジョー・オダネル(Joe O'Donnell)のこと
ジョー・オダネルの十字架(爆心地の土・元安川の砂による) 大津定信さん 名古屋市、71歳
米国が隠したヒロシマとナガサキ - Democracy Now!

2012-02-03

見つめているのか、見つめられているのか?

Point Of View

 視線という視線にさらされている。見つめているのか、それとも見つめられているのか? 眼は点と線を併せ持つ。

2011-12-11

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他


『唯脳論』養老孟司

 ・霊界は「もちろんある」
 ・夢は脳による創作
 ・神は頭の中にいる
 ・宗教の役割は脳機能の統合
 ・アナロジーは死の象徴化から始まった
 ・ヒトは「代理」を創案する動物=シンボルの発生
 ・自我と反応に関する覚え書き

 文明の発達は、存在を情報に変換した。いや、ちょっと違うな。文字の発明が存在を「記録されるもの」に変えた。存在はヒトという種に始まり、性別、年代、地域へと深まりを見せた。そして遂に1637年、ルネ・デカルトが「私」を発明した。「我思う、ゆえに我あり」(『方法序説』)と。それまで「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー)。

 魔女狩りの嵐が吹き荒れ、ルターが宗教改革の火の手を上げ、ガリレオ・ガリレイが異端審問にかけられ、アメリカへ奴隷が輸入される中で、「私」は誕生した。4年後にはピューリタン革命が起こり、その後アイザック・ニュートンが科学を錬金術から学問へと引き上げた。120年後には産業革命が始まる。(世界史年表

 近代の扉を開いたのが「私」であったことは一目瞭然だ。そして世界はエゴ化へ向かって舵を切った。

 デカルトが至ったのは「我有り」であったと推察する。神学は二元論で貫かれている。「全ては偽である」と彼は懐疑し続けた。つまり偽に対して真を有する、という意味合いであろう。

 ここが仏教との根本的な違いである。仏法的な視座に立てば「我在り」となる。そしてブッダは「私」を解体した。「私」なんてものは、五感など様々な要素が絡み合っているだけで実体はないと斥(しりぞ)けた。またブッダのアプローチは「私」ではなく「苦」から始まった。目覚めた者(=ブッダ、覚者〈かくしゃ〉)の瞳に映ったのは「苦しんでいる生命」であった。

 貧病争はいつの時代もあったことだろう。苦しみや悲しみは「私」に基づいている。ブッダは苦悩を克服せよとは説かなかった。ただ「離れよ」と教えた。

 産業革命が資本主義を育てた。これ以降、「私」の経済化が進行する。一切が数値化され、幸不幸は所有で判断されるようになる。「私の人生」と言う時、人生は私の所有物と化す。だが、よく考えてみよう。生を所有することなどできるだろうか?

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 生の本質は反応(response)である。人間に自由意志が存在しない以上、選択という言葉に重みはない。

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
自由意志は解釈にすぎない

 人は自分の行為に色々な理由をつけるが、全て後解釈である。

 認知的不協和を低減する方法として、選択的情報接触というものもあげられている。
 たとえば、トヨタの車と日産の車を比較して、迷った後、かりにトヨタを買ったとする。買った後、「トヨタの車を買った」という認知と「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知は、不協和となる。認知的不協和は不愉快な状態なので、人は、認知の調整によってその不協和を低減しようとする。この場合、「トヨタの車を買った」というほうはどうにもならないから、「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知のほうを下げる工夫をすることになる。
 実際に、車を買った人の行動を調べてみたところ、車を買った後で、自分が買った車のパンフレットを見る時間が増えることがわかった。パンフレットは、通常、その車についてポジティブな情報が載せられている。したがって、自分の車のパンフレットを読むという行動は、自分の車が正しい選択肢で、買わなかったほうの車がまちがった選択肢であったという認知を自分に植え付ける行動だということになるわけである。認知的不協和理論の観点では、これは、行動後の認知的不協和低減のために、それに有利な情報を選択して接触する行動だと考えることができるわけである。このような行動を、選択的情報接触と言っている。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
情報の歪み=メディア・バイアス/『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』松永和紀
ギャンブラーは勝ち負けの記録を書き換える

 生命が反応に基づいている証拠をお見せしよう。


 時間軸を変えただけの微速度撮影動画である。まるで川のようだ。果たして実際に川を流れる一滴一滴の水は悩んだり苦しんだりしているのだろうか? 多分してないわな(笑)。では人間と水との違いは何であろう? それは思考である。思考とは意味に取りつかれた病である。我々は人生の意味を思うあまり、生を疎(おろそ)かにしているのだ。そして「私の思考」が人々を分断してしまったのだ。

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ

 山本(七平)氏の書かれるように、鴨長明が傍観者のように見えるとすれば、そこには視覚の特徴が明瞭に出ているからである。「観」とは目、すなわち視覚系の機能であって、ここでは視覚が表面に出ているが、じつは長明の前提は「流れ」あるいは「運動」である。長明の文章は、私には、むしろ流れと視覚の関係を述べようとしたと読めるのである。
「人間が流れとともに流れているなら」、確かに、ともに流れている人間どうしは相対的には動かない。それなら、流れない意識は、長明のどこにあるのか。なにかが止まっていなければ、「流れ」はない。答えを言えば、それが長明の視覚であろう。『方丈記』の書き出しは、まさにそれを言っているのである。ここでは、運動と水という質料、それが絶えず動いてとどまらないことを言うとともに、それが示す「形」が動かないことを、一言にして提示する。形の背後には、視覚系がある。長明の文章は、われわれの脳の機能に対するみごとな説明であり、時を内在する聴覚-運動系と、時を瞬間と永遠とに分別し、時を内在することのない視覚との、「差分」によって、われわれの時の観念が脳内に成立することを明示する。これが、ひいては歴史観の基礎を表現しているではないか。

【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」(『方丈記』)。養老孟司恐るべし。養老こそはパンクだ。

 生は諸行無常の川を流れる。時代と社会を飲み込んでうねるように流れる。諸法無我は関係性と訳されることが多いが、これだと人間関係と混同してしまう。だからすっきりと相互性、関連性とすべきだろう。「相互依存的」という訳にも違和感を覚える。

 ブッダは「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」と説いた(『自説経』)。此(これ)に対して彼(あれ)と読むべきか。

クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ

 同じ川を流れながら我々は憎み合い、殴り合い、殺し合っているのだ。私の国家、私の領土、私の財産、私の所属を巡って。

 大衆消費社会において個々人はメディア化する。確かボードリヤールがそんなことを言っていたはずだ。

知の強迫神経症/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール

 そしてボディすらデザインされる。

 ダイエット脅迫からくる摂食障害、そこにはあまりに多くの観念たちが群れ、折り重なり、錯綜している。たとえば、社会が押しつけてくる「女らしさ」というイメージの拒絶、言い換えると、「成熟した女」のイメージを削ぎ落とした少女のような脱-性的な像へとじぶんを同化しようとすること。ヴィタミン、カロリー、血糖値、中性脂肪、食物繊維などへの知識と、そこに潜む「健康」幻想の倫理的テロリズム。老いること、衰えることへの不安、つまり、ヒトであれモノであれ、なにかの価値を生むことができることがその存在の価値であるという、近代社会の生産主義的な考え方。他人の注目を浴びたいというファッションの意識、つまり皮下脂肪が少なく、エクササイズによって鍛えられ、引き締まった身体というあのパーフェクト・ボディの幻想。ボディだってデザインできる、からだだって着替えられるというかたちで、じぶんの存在がじぶんのものであることを確認するしかもはや手がないという、追いつめられた自己破壊と自己救済の意識。他人に認められたい、異性にとっての「そそる」対象でありたいという切ない願望……。
 そして、ひょっとしたら数字フェティシズムも。意識的な減量はたしかに達成感をともなうが、それにのめりこむうちに数字そのものに関心が移動していって、ひとは数字の奴隷になる。数字が減ることじたいが楽しみになるのだ。同様のことは、病院での血液検査(GPTだのコレステロール値だの中性脂肪値だのといった数値)、学校での偏差値、競技でのスピード記録、会社での販売成績、わが家の貯金額……についても言えるだろう。あるいはもっと別の原因もあるかもしれないが、こういうことがぜんぶ重なって、ダイエットという脅迫観念が人びとの意識をがんじがらめにしている。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】

 バラバラになった人類が一つの運動状態となるためには宗教的感情を呼び覚ますしかない。思想・哲学ではない。思想・哲学は言葉に支配されているからだ。脳の表層を薄く覆う新皮質ではなく、脳幹から延髄脊髄を直撃する宗教性が求められよう。それは特定の教団によって行われるものではない。あらゆる差異を超越して普遍の地平を拓く教えでなければならない。

 上手くまとまらないが、長くなってしまったので今日はここまで。

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)方丈記 (岩波文庫)悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

ネオ=ロゴスの妥当性について/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
人間の問題 2/『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ
暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ
縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ

2011-11-13

顔の錯視


 眼が四つ、口が二つになっただけで、焦点を結ぶことができなくなる。視覚は「眼が見ている」わけではなく、「脳が読み解いている」ことが明らかだ。

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騙される快感/『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル

2011-09-17

宇宙図の悟り

宇宙図

宇宙図

 前にも書いたが、上記ページのアニメーションを見て私は悟りが閃(ひらめい)いた。直ちに科学技術広報財団に申し込んだのが画像の宇宙図である。

科学技術広報財団(サイズは2種類)

 見るたびに脳が活性化される。137億年を俯瞰するのだからそれも当然だ。最初の悟りを再掲しておく。

時間と空間に関する覚え書き

◆では、宇宙図を見て閃いた悟りを開陳しよう(笑)。視覚が捉えている世界は「光の反射」である。光には速度がある(秒速30万km)。つまり我々に見えているのは「過去の世界」であって「現在という瞬間」を見ることはできない。

◆更に人間の知覚は0.5秒遅れる。つまり「光の速度+0.5秒」前の世界を我々は認識しているわけだ。

人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二

◆例えば北極星。地球上から見える北極星の光は431光年を経たものである。仮に北極星でサッカーの試合をしたとしよう。コイントスが終わっていよいよゲームが始まる。この場合、431年前のゲームを我々が見ていることになる。

諸行無常とは存在の本質を示した言葉であろう。「とどまることを知らない変化」こそが存在の存在たる所以であり、それが生命現象である。しかしながら我々の視覚に映じているのは過去の世界であるがゆえに、「存在の影(あるいは迹〈かげ〉)」しか認識できない。

◆「神」という視点は光に支えられた座標なのだろう。それは「見える世界」に限定される。そうでありながら光の源である太陽を人間は直視することができない。「見えるもの」には名が付与される。言葉は名詞から発生したと考えられている。神は光であるがゆえに「初めに言葉ありき」という構図ができる。

◆相対性理論は空間と時間が絶対ではないことを明かした。例えば光のスピードで走る車をあなたが道路で眺めたとしよう。車内の人達は全く動いておらず、彼らの周囲にある物は全て縮んで見える。車の中では普通に時間が進行しているにもかかわらずだ。

◆車を運転していたのは浦島太郎だった。首都「光速」道路で竜宮城へ行き、3年後に自宅へ帰ったところ、何と300年が経過していた。これを「ウラシマ効果」という。

◆実は我々の生活にもウラシマ効果は存在する。

相対性理論によれば飛行機に乗ると若返る/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン

◆神が光であると仮定すれば、神的世界は光の届く範囲に限定される。そして光は必ず影をつくり出す。なぜなら物体が光をさえぎるからだ。こうして光は「表と裏」という世界を形成する。地球が太陽に照らされる時、光と同じ速度で地球の影は宇宙に伸びる。その先にも闇は広がっている。

◆宇宙全体に光が及ぶことはない。なぜなら宇宙は光速度を上回るスピードで膨張しているからだ。

宇宙にはてはあるのですか?

◆光に支配されたキリスト教的時間観は直線的とならざるを得ない。生→死→復活→永遠、というのがそれだ。これでは系(システム)として閉じていないので必ず矛盾が生じる。

キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典

◆仏教は現在性を追求している。仏典においては「将来」ではなく「未来」という言葉が使われる。「将(まさ)に来たらん」とする時間ではなく、「未(いま)だ来たらざる」時間として捉える。厳密にいえば仏教は未来を認めていないのだ。

◆ブッダが説いた原始の教えはプラグマティズムと受け止められがちだが、むしろ現在性を重んじた智慧であったと考えるべきだろう。カースト制度を支える輪廻という物語を解体するには、前世・来世を一掃する必要があった。悟りとは修行の果てに得られるものではなく、ありのままの現在性を捉えることだ。

◆光の速度を超えると虚数の世界が現れる。2乗してマイナスとなるのが虚数だ。量子力学や電磁気学では実際に使われている。膨張する宇宙の果てが虚数の世界であれば、そこはネガとポジが反転する世界だ。生老病死も反転し、光速度を超えた時点で過去へと向かい、久遠元初に辿り着くかもしれない。

◆実際は光速度に近づくほど質量は無限に重量を増す。これがE=mc²。質量が無限大の世界といえばブラックホールだ。地球を2cmに圧縮すればブラックホールが出来上がる(※実際は質量不足で不可能)。そしてブラックホールを取り巻く空間は激しく歪む

◆物理世界における光速度を超えるのは、無意識の直観であり、これこそが悟りなのだろう。

敢えて“科学ミステリ”と言ってしまおう/『数学的にありえない』アダム・ファウアー
月並会第1回 「時間」その一
ブラックホールの画像と動画