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2020-02-03

仏教は神道という血管を通じて日本人の体内に入った/『神風』ベルナール・ミロー


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎
『月光の夏』毛利恒之

 ・読書日記
 ・フランス人ジャーナリストが描く特攻の精神
 ・仏教は神道という血管を通じて日本人の体内に入った
 ・特攻隊員は世界の英雄

『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 仏教が日本人に与えた影響がきわめて大きいことを、再度強調しておきたい。なぜなら、仏教は日本人を精神主義化させ、形而上的レベルにまでひきあげることによって、この国にもとからあった伝統や、慣習的思考に一種の帰結、結論をもたらしたからである。この国には伝来当時からほとんど変貌していない、原型を多分にとどめた禅宗という仏教の一派があるが、これを調べてみると、仏教の教義と戒律は、神道という血管を通じて日本人の体内に入ったものであることが判る。そして仏教を通らせた血管の神道は、権威への絶対服従、半神天皇の崇拝から、さらに悔恨や屈辱からまぬがれて愛国的飛躍に達するための自己愛による自己犠牲といった、それまでの仏教になかったものを、それにつけ加えたものであった。
 日本人はこれらのドグマから、国家の真の倫理をひき出すほどまでに、この修正仏教に帰依し、かぶれきった。その影響は多岐にわたり、かつ多様ではあるけれども、とにかく武士も芸術家も居者も、仏教の戒律と仏教的思考法を通じて、日本人はみな同一思考に結びつけられた。これは生まれた土地がちがおうと、階級がちがおうと、差異はなかった。日本人には同じような純粋さ、同じような解脱心、同じような感情の圧殺が生じた。苦悩や死を前にしての日本人の行動、努力するかぎりは栄光のあの世へ行けるのだという観念、大戦を通じて我々の見たこのような日本人像は、疑いもなく主として仏教の形づくったものであり、仏教の真髄であるともいえるのである。

【『神風』ベルナール・ミロー:内藤一郎〈ないとう・いちろう〉訳(ハヤカワ・ノンフィクション、1972年)】

 たまたま今読んでいる小室直樹の『中国共産党帝国の崩壊 呪われた五千年の末路』(カッパ・ビジネス、1989年)に「人民の要諦(ようてい)は、われわれは一つであるという、連帯(ソリダリティ)の意識である。換言(かんげん)すれば、連帯なきところに人民なし、といえる」と書かれている。それゆえ「中国に人民はいない」と。小室によればアメリカ国民が確立されたのは南北戦争を通してのことであった。リンカーンが第二の国父と仰がれる理由もアメリカを歴(れっき)とした国家(ネイション)にした功績による。

 そう考えると日本に国民感情が芽生えたのは元寇(蒙古襲来)の頃だろう。モンゴル軍の実態については杉山正明著『クビライの挑戦 モンゴルによる世界史の大転回』(講談社学術文庫、2010年)が詳しい。この時全国の武士が掻き集められた。軍事力に優れた日本だったが自衛戦争であったため、後々参戦した武士に幕府は恩賞を与えることができなかった。これが鎌倉幕府滅亡の遠因となる。日蓮が文永の役の14年前(1260年)に認(したた)めた「立正安国論」も国家意識を雄弁に物語っている。

 私は予(かね)てから神仏習合を「神道と仏教の妥協・歩み寄り」と考えてきたのだが間違っていたようだ。

小林●日本人の宗教という問題で一番の困難は、他の部門の文化と同様に、やっぱりその外来性にあるんだなあ。本地垂迹(ほんじすいじゃく)という難しい問題に衝突してしまうところにあるんだな。
 素朴な宗教的経験のうちから教理が生まれ育って行くという過程がなく、持って生まれた宗教心と外来宗教のドグマとの露骨な対立、その強引な解釈というものがまずあった。そこから宗教の歴史が始まっている。

【『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』小林秀雄(新潮社、2004年)】

 私はこれをリアリズムに基づく折衷主義と考えていた(本地垂迹説/『鎌倉佛教 親鸞と道元と日蓮』戸頃重基)。だが実は神道というエートスに仏教が骨格を与えたのだろう。それまでアニミズムに過ぎなかった神道が仏教によって行動原理を樹立したのだ。実際の戦闘がないにもかかわらず江戸時代の様式化した武士道が死を見据えたのも仏教の影響が大きいと思われる。

 ミローの慧眼は「修正仏教」の一語に表れている。仏教史から見れば日本仏教は噴飯物だが、国民意識を涵養するための方便と考えることも可能だろう。

 特攻に仏教の精神を見抜くジャーナリストの眼光が行間からほとばしる。