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2020-03-30

呪術の本質は「神を操ること」/『日本人のためのイスラム原論』小室直樹


・『国民のための経済原論1 バブル大復活編』小室直樹 1993年
・『国民のための経済原論2 アメリカ併合編』小室直樹 1993年
・『小室直樹の中国原論』小室直樹 1996年
『小室直樹の資本主義原論』小室直樹 1997年
『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹 1997年
・『日本人のための経済原論』小室直樹 1998年
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹 2000年
『日本人のための憲法原論』小室直樹 2001年
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹 2001年

 ・呪術の本質は「神を操ること」

・『イスラーム国の衝撃』池内恵
『イスラム教の論理』飯山陽

 このモーセとの対話にかぎらず、古代イスラエルの神はなかなか自分の名前を明かそうとしない。
 たとえば、アブラハムの子孫のヤコブに対してもそうだった。
 ヤコブというのは、イスラエル民族の直接の先祖とされる男なのだが、この人物のところにある夜、神が現われて彼と格闘をする。
 結局、ヤコブが神を負かしてしまうのだが、このとき彼が神に「どうかあなたの名前を教えてください」と尋(たず)ねるのである。
 すると神は、
「なぜわたしの名前を知りたいのだ」
 と言ったきり、本当の名前を教えなかったとある(「創世記」三二)。
 なぜ、神はモーセにもヤコブにも、自分の名前を教えなかったのか。
 また、なぜ神は十戒の中で「あなたの神、主(しゅ)の名をみだりに唱(とな)えてはならない」と命令したのか。
 それは呪術(じゅじゅつ)につながるからだ。
 マックス・ウェーバーは当時のエジプトにおいて、「もしもひとが神の名を知って正しく呼ぶなら神が従(したが)うという信仰」(『古代ユダヤ教』内田芳明訳)があったことを指摘している。
 つまり、神の本名(この場合、ヤハウェ)を呼び、そこで願い事をする。そうすれば、神は人間の願いをかなえてくれるというわけだ。
 呪術の本質は、神をして人間に従わせるということにある。
 その目的をかなえるために、神の名前を呼ぶ、あるいは火を焚(た)く、生贄(いけにえ)を差し出す、呪文を唱えるなどの方法が古来“開発”されてきた。
 こうした呪術を知っている人のことを、普通は呪術者とか魔術師と呼ぶわけだが、実は古代宗教の神官(しんかん)というのも、みな呪術者のようなものである。

【『日本人のためのイスラム原論』小室直樹〈こむろ・なおき〉(集英社インターナショナル、2002年)以下同】

 密教の特徴は呪術性にあると私は考える。鎌倉仏教はむしろ日本密教と呼ぶのが正確だろう(ただし禅宗は除く)。祈祷(呪法)・曼荼羅(絵像、木像)・人格神の3点セットが共通している。

 呪術の本質が「神を操ること」と喝破した慧眼には恐れ入った。私は長らく祈りと悟りについて思索してきたが「祈りが一種の取り引き」であり、欲望から離れることを教えたブッダに背く行為であることは理解できた。それが「神を操ること」であるならば人は神の上位に立ってしまう。仏教でいえば「法(真理)を操ること」になるのだ。

 こうした呪術は古代エジプトだけにあったわけでは、もちろんない。
「宗教のあるところ、かならず呪術あり」と言ったほうがいいくらいだ。
 人間というのはわがままだから、とうにかして自分の都合のいいように物事を動かしたがる。だからこそ、呪術がはびこり、大きな力を持つようになるというわけだ。
 そこで、心ある宗教者ならこうした呪術を何とか追放しようと試みる。
 たとえば仏教においてもそうである。
 仏教は本来「法前仏後」(ほうぜんぶつご)の構造を持つのだから、釈迦(しゃか)といえども、この世の法則を動かすことはできない。
 したがって、仏を操る呪術が出てくる余地はないのだが、その代わりに超能力は存在する。  仏教ではそれを「五神通」(ごじんつう)と呼ぶ。(中略)
 こうした神通力は釈迦自身も持っていたのだが、釈迦はけっして神通力の開発を奨励(しょうれい)しなかった。
 というのも、超能力は修行を深めていけば、自然に備(そな)わるものであって、それを目的に修行するのは本末転倒(ほんまつてんとう)になるからである。神通力ほしさに修行するなど、外道(げどう)の行なうことであるというのが仏教のスタンスであった。
「であった」と過去形でなぜ書いたかといえば、こうした釈迦の精神は仏教の普及とともに失(うしな)われていったからである。
 ことに決定的だったのは大乗(だいじょう)仏教の成立である。
 すでに述べてきたように、仏教は本来、修行によって救済を得るというのがその本旨(ほんし)であった。だから、悟りを得ようとすれば、いきおい出家をしてサンガに入ることが求められたわけである。
 だが、仏教が広がるにつれて、多数の在家信者(ざいけしんじゃ)が生まれてくると、そうは言っていられなくなった。出家しなくても、悟りを得る方法はないのかという要求が高まったのである。
 そこで生まれたのが大乗仏教であったわけだが、仏教の大衆化は否応(いやおう)なく呪術の発達を促(うなが)した。護摩(ごま)を焚(た)き、あるいは呪(じゅ)を唱(とな)えることで仏(ほとけ)や菩薩(ぼさつ)を動かし、自分の願いをかなえようとする方法が開発されるに至(いた)ったのである。
 また、仏教を各地に普及させるため、超能力も積極的に使われるようになった。中国で仏教が広まったきっかけも、インドからきた浮図(ふと/仏教僧)が驚くべき超能力を使ったからに他ならない。

 日本に仏教が伝わった時は超能力ではなく医学が使われた。私はブッダを思慕する者ではあるが仏教徒ではない。戒律と修行が悟りにつながるとは到底思えないのが大きな理由だ。ブッダに近侍(きんじ)したアーナンダ(阿難)が悟りを開いたのはブッダ死後のことである。

 悟りには段階がある(『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃)。しかしながら預流果(よるか)に至った人すら私は出会ったことがない(『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ)。仏教徒を名乗るのであれば、せめて悟ったか悟っていないのかをはっきりと表明すべきだろう。

 繰り返されるマントラ(真言)は輪廻そのものにすら見える。

2020-03-14

インターネットを通じたイスラム教の宗教改革/『イスラム教の論理』飯山陽


『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳
『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
『日本人のためのイスラム原論』小室直樹

 ・インターネットを通じたイスラム教の宗教改革

・『イスラム2.0 SNSが変えた1400年の宗教観』飯山陽

宗教とは何か?
必読書リスト その五

 イスラム教の価値観を前面におしだすこうした現象が増加している背景のひとつに、インターネットを通じたイスラム教の「正しい」教義の普及があります。本来イスラム教の教義は民主主義も世俗主義も国民国家体制も認めませんし、イスラム教と他宗教の間の平等も認めませんから、インドネシアの現状はイスラム教に反しています。しかしこれまでは、インドネシア国民として生まれたイスラム教徒の多くが、自分たちの置かれている状況がイスラム教の教義に反しているなどとは考えもしませんでした。
 なぜなら、彼らにとってのイスラム教とは親や周囲の人が語り実践するものであり、自らコーランハディースと対峙して解き明かすようなものではなかったからです。イスラム教徒ではあっても戒律にそれほど頓着しない人ばかりが身近にいれば、自分もそれが当然だと思うのは無理もありません。それに、彼らの身近にいて、モスクで説教をしたりイスラム教について語ったりする穏健派法学者たちは軒並み体制派ですから、「実は西洋由来の民主主義は反イスラムである」とか、「イスラム教は他宗教との平等を認めない」などとは口が裂けてもいいません。彼らは現体制を守り社会を安定っせるのに好都合なコーラン章句だけを引用して、「民主主義とイスラム教は両立する」などと人々に伝えてきたため、人々はイスラム教をそういうものだと認識してきたのです。
 ところがインターネットの普及により、体制派の穏健派法学者がもっぱらイスラム教解釈を独占する時代は終焉を迎えました。というのもインターネット上ではコーランやハディースのテキストがいくらでも閲覧可能であり、それらを自国語に訳すのも簡単であるため、誰でも手軽に教義を知ることができるようになったからです。これにより、穏健派法学者たちが説き自分たちが「正しい」と信じてきたイスラム教のあり方が実は正しくないのではないか、と疑念を抱く人々が現れました。彼らはSNSやウェブ上のフォーラムなどを通して、イスラム教の教義について学び議論するようになりました。そしてインターネット上でイスラム教に関する情報や議論が増加するのに伴い、それまで穏健派法学者が説いてきたのととは異なる「正しい」教義が広まり始めたのです。

【『イスラム教の論理』飯山陽〈いいやま・あかり〉(新潮新書、2018年)】

 ツイッターでは喧嘩上等の飯山だが単に威勢がいいだけではなかった。「イスラム教の論理に基づけばイスラム国を否定することはできない」との指摘に始まり、アッラーに額(ぬか)づく精神世界が教義という合理性に貫かれていることが書かれている。筆致に独特の勢いがあり機関銃を連射するような小気味のよさが巻末まで続く。

 アブラハムの宗教を筆頭とする一神教とギリシャや日本のような多神教との違いは神の絶対性と相対性にある。イスラムは服従を意味する言葉だ。山や森のそこここに神が存在する多神教は和を重んじるが、その分だけ価値観が曖昧になる。一神教には「あれもこれも」といった鷹揚(おうよう)さはない。その厳しさは苛烈な砂漠が育んだものだ。温暖で水の豊富な環境にいれば、そりゃあ甘くもなる。

 イスラム教はたぶん宗教改革(『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通)を経験していないだろう。そうするとインターネットを通じたイスラム教の宗教改革が近代化に向かう可能性は十分ある。ただし近代化に向かわなかったとしてもイスラム社会は持続可能性をはらんでいる。

世界中でもっとも成功した社会は「原始的な社会」/『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト

 私たちは近代の世界に住んでいる。近代において人間を動かすものは何かと考えると、みんな、お金とか名誉とか、あと暴力~強制とか、そういうものだと信じている。っていうかそういうものでしか人間は動かないと思っている。だからテロが起こると「これは強制されたんだ」とか、「お金がない(貧しい)から」とか、そういう風にしか考えられない。自分の立脚している価値観だけに基づいてイスラム教徒が起こしているテロを見るからそうなっちゃう。私が言っているのは「あなたが思っている当たり前と彼らの当たり前は違うんですよ」ということ。彼らの当たり前に立脚するとあなたの言っていることは的外れだ、ということを私は言っている。

【飯山陽×池内恵「イスラム法の真実」】


 女性アナウンサーの知的レベルが低く、池内の口ごもった喋り方が聞き取りにくいので視聴は勧めないが、飯山の言葉は近代の陥穽(かんせい)を見事に突いている。

 人権だとか教育だとかを過大に信じる我々は自由に至上の価値を見出す。ところが絶対性という視点からすると、イスラム教の不自由さに我々の自由はかなわない。そして一番大事なことは人間が自由と同じように不自由を好むことだ。一番わかりやすいのはスポーツのルールである。一定の不自由を課すことで体力・知力・技術を競い合うのだ。その意味から申せばイスラム教はスポーツのルールたり得るが、資本主義経済の自由は肥大した好き勝手でしかない。

 飯山は世界のイスラム人口を18億人としている。


 イスラム教では4人までの妻帯が認められており、その他にも性奴隷が存在する。クリスチャンの出生率がわからないがムスリムの方が高いに違いない。あと数十年もすれば世界最大の宗教となりそうだ。

 その絶対性を思えば日本にムスリムの帰化を認めるのは危険だろう。彼らに「みんな仲良く」という志向はない。天皇陛下に敬意を表することも難しいのではあるまいか。