2008-11-30

アイルランドが生んだ天才数学者ウィリアム・ハミルトンの悲恋/『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦


『妻として母としての幸せ』藤原てい

 ・アイルランドが生んだ天才数学者ウィリアム・ハミルトンの悲恋

『祖国とは国語』藤原正彦
『国家の品格』藤原正彦
『日本人の矜持 九人との対話』藤原正彦
『日本人の誇り』藤原正彦

必読書リスト その三

 9人の天才数学者をスケッチした紀行風の評伝。明晰な文章が数学者らしい。また、いつもながら藤原正彦のユーモラスな頑固ぶりに、両親(新田次郎、藤原てい)の面影が偲(しの)ばれる。歴史に名を残した天才達の有為転変をすくい取り、成功に至るまでの苦心惨憺と、人生の不遇や悲哀まで描かれている。いずれも小説になりそうなほど劇的な生きざまである。不思議なまでに振幅が激しい点で共通している。

 ハミルトンの神童ぶりが凄い。わずか5歳にして英語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を読解し、10歳までに10ヶ国語(イタリア語、フランス語、ドイツ語、アラビア語、サンスクリット語、ペルシア語)をマスター。10歳でユークリッドの『原論』を、12歳でニュートンの『プリンキピア』を読んだという(Wikipedia)。

 そんなハミルトンだったが、初恋は相思相愛であったものの途中で引き裂かれてしまった。彼女の父親が、資産のある中年牧師と強引に婚約させてしまったのだ。父親は、無一文の学生(ハミルトンは当時19歳)と娘を一緒にさせるつもりはなかった。

 その後、ハミルトンは別の女性と結婚。しかし、彼は初恋の人キャサリンに対する思慕を終生捨てることはなかった。苦心の末に刊行した『四元数講義』は難解過ぎて、誰からも理解されなかった。

 その中にあって彼の心を慰めたのは、初恋の人キャサリンの思い出だったかも知れない。彼は終生キャサリンへの愛を抱き続けたのだった。彼女が不幸な結婚生活を送りながら、ハミルトンをいまだに慕っていることを、友人である彼女の兄から聞いていただけに、なおさら想いが募ったのだろう。
 45歳の時には、キャサリンを見初めた、今ではすっかり朽ち果てた家を訪れ、黄昏の光の中、彼女が26年前に立っていた、その床に接吻をしたのである。

【『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦(新潮選書、2002年/文春文庫、2008年)以下同】

 そして3年後、キャサリンからのメッセージが届けられた。彼女は既に死の床に就いていた。ハミルトンは彼女の下へ走った。そこで二人は生まれて初めて静かに唇を合わせた。キャサリンは2週間後に黄泉路へ旅立った。死神が二人の再会を手引きした格好となった。

 締め括りの文章はこうだ――

 遥か届かぬ人への一途の想い、私は妙に胸が塞ぐままに天文台を辞し、待たせてあったタクシーで四元数発見のブルーム橋へ向かった。天文台から3キロほどの、田園を貫く運河にかかる小さな石橋であった。タクシーを止めると、歴史的発見の現場にたどり着いた興奮のためか、私は走り出した。橋のたもとの土手を下り、橋の直下に回ると、幅5メートルほどの小さな運河に面した壁に、碑文が埋め込まれてあった。
「ここにて、1843年10月16日、ウィリアム・ハミルトンは、天才の閃きにより、四元数の基本式を発見し、それをこの橋に刻んだ。i2乗=j2乗=k2乗=ijk=1」
 ハミルトン自身の刻んだ式は見つからなかったが、壁にそっと手を触れると、彼の人生における最大の歓喜が、指を通して電気のように私の胸まで伝わった。
 ハミルトンの散歩道だった運河沿いの一本道を、私は歩き始めた。歩きながら、この一本道は、ハミルトンの歓喜とともに、涙をも滲(にじ)ませた一本道であると思った。栄光と悲劇の一本道は、ハミルトンが通り、アイルランドが通った一本道であった。私は行きつ戻りつしながら、次第に足の重くなるのをしきりに感じていた。
 どのくらいたったろうか、どこかから「大丈夫ですか」という声が聞こえた。振り返ると橋の上で、タクシー運転手が私を見下ろしていた。黙ってうなずく私の表情に何かを察したのか、「いやごゆっくりどうぞ」と慌てて言うと、橋の向こうに消えた。

 絶品としか言いようがない。

迷信・誤信を許せば、“操作されやすい社会”となる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ


『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・誤った信念は合理性の欠如から生まれる
 ・迷信・誤信を許せば、“操作されやすい社会”となる
 ・人間は偶然を物語化する
 ・回帰効果と回帰の誤謬
 ・視覚的錯誤は見直すことでは解消されない
 ・物語に添った恣意的なデータ選択

『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル

必読書リスト その五

 何も考えたくない時がある。どうにでもなれ、と捨て鉢になることもある。私はないけどね。壁にぶち当たって行き詰まると、人は思考を意図的に停止させる。ま、今時は普段から停止しっ放しという若者も多いが。きっと、脳内がエコ・モードとなっているのだろう。節電。

 考えることと考えないことの間には、知性と欲望の川が流れている。欲望に身を任せれば、あっと言う間に川下に流されてしまう。知性は明確な意思に基づいて川上を目指す。

 こんなことは誰でも考えつくことだ。もう一歩考えてみよう。欲望という言葉だと誰もが否定的になるが、これを熱狂と言い換えると妙な引力が働く。人は心のどこかで熱狂を求めている。そう。祭りだ。熱狂の坩堝(るつぼ)。リオのカーニバル。

 私が東京で暮らすようになってから最初に驚かされたのも祭りであった。北海道には御輿(みこし)を担ぐという文化がない。多分。日本人が住むようになってから1世紀あまりしか経ってないことが、先祖や土地への呪縛を薄めているのだろうと個人的に解釈している。

 元来は「祀(まつ)り」であった。それが、「祭り」となり「政(まつりごと)」と変化してきた。では、何を祀っていたのだろうか? そりゃあ、生き物に決まってるわな。何らかの犠牲を伴った方が、神仏からの見返りも大きいと考えるのが普通だよ。当然、若い人間を生贄(いけにえ)にした時代もあったことだろう。生と死は暴力を実感する中で自覚される。そして、熱狂と暴力は同じアパートに住んでいるのだ。

 例えば、ヒトラー支配下のナチス・ドイツ。あるいは、マッカーシズムが旋風を巻き起こしたアメリカ。はたまた、魔女狩りが横行した中世のヨーロッパ。いずれも熱狂と暴力が同居していた時代だ。「考えない」代償はこれほど大きい。

 誤信や迷信を許容していると、間接的にではあるが、別の被害を受けることになる。誤った考えを許容し続けることは、初めは安全に見えてもいつのまにかブレーキが効かなくなる「危険な坂道」なのである。誤った推論や間違った信念をわずかとはいえ許容し続けているかぎり、一般的な思考習慣にまでその影響が及ばないという保証が得られるだろうか? 世の中のものごとについて正しく考えることができることは、貴重で困難なことであり、注意深く育てていかなければならないものなのである。私たちの鋭い知性を、いたずらに正しく働かせたり働かせなかったりしていると、知性そのものを失くしてしまう恐れがあり、世の中を正しく見る能力を失くしてしまう危険がある。さらには、ものごとを批判的にみる能力をしっかり育てておかないと、善意にもとづくとは限らない多くの議論や警告にまったく無抵抗の状態になってしまう。S・J・グールドは、「人々が判断の道具を持つことを学ばずに、希望を追うことだけを学んだとき、政治的な操作の種が蒔かれたことになる」と述べている。個人個人が、そして社会全体が、迷信や誤信を排除するよう努めるべきである。そして、世の中を正しく見つめる「心の習慣」を育てるべく努力すべきであると私は考える。

【『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ:守一雄〈もり・かずお〉、守秀子〈もり・ひでこ〉訳(新曜社、1993年)】

 祭りは「ハレ」の日だ。つまり非日常。現代の非日常といえば、そりゃあテレビに決まってるわな。そして、メディアは情報を加工・修正し、時に粉飾・デフォルメを加え、日常的な操作を行っている。

 一枚の木の葉にも光の鼓動が脈打っている。北極星の輝きは430年もの旅を経て我々の瞳に届けられたものだ。思議し難いが故に不思議。そして、不思議に魅了される内なる不思議。本物の感動はそこにある。

 メディア情報を鵜呑みにしているタコ野郎は、必ずやいつの日かヒトラーのような政治家に一票を投じることになるだろう。



カーゴカルト=積荷崇拝/『「偶然」の統計学』デイヴィッド・J・ハンド

2008-11-16

ゲーデルの生と死/『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎


『死生観を問いなおす』広井良典

 ・ゲーデルの生と死
 ・すべての数学的な真理を証明するシステムは永遠に存在しない
 ・すべての犯罪を立証する司法システムは永遠に存在しない
 ・アインシュタイン「私は、エレガントに逝く」
 ・クルト・ゲーデルが考えたこと

『理性の限界 不可能性・確定性・不完全性』高橋昌一郎
『知性の限界 不可測性・不確実性・不可知性』高橋昌一郎
『感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性』高橋昌一郎

宗教とは何か?
必読書 その三

 ゲーデルの不完全性定理入門。これは良書。新書でこれだけの内容を盛り込めるのだから、高橋昌一郎の筆力恐るべし。ただ、読点が多過ぎるのが気になった(「、ゲーデルが、」が目立つ)。

 巻頭でゲーデルの人生がスケッチされているが、これまた秀逸。一気に引き込まれる――

 クルト・ゲーデルは、1978年1月14日、71歳で生涯を閉じた。死亡診断書に記載された死因は、「人格障害による栄養失調および飢餓衰弱」である。身長5フィート7インチ(約170センチメートル)に対して、死亡時の体重は65ポンド(約30キログラム)にすぎなかった。死の直前のゲーデルは、誰かに毒殺されるという強迫観念に支配された。そのため、食事を摂取できなくなり、医師の治療も拒否して、自らを餓死に追い込んだのである。彼は、椅子に座ったまま、胎児のような姿勢で亡くなっていた。
 3月3日、ゲーデルの追悼式典が、プリンストン高等研究所で開催された。司会を務めた数学者アンドレ・ヴェイユは、「過去2500年を振り返っても、アリストテレスと肩を並べると誇張なく言えるのは、ゲーデルただ一人である」と述べた。このような賛辞は、ゲーデルにとって生存中から珍しいものではない。
 すでに1950年代、高等研究所所長だったロバート・オッペンハイマーは、入院中のゲーデルの担当医師に向かって、「君の患者は、アリストテレス以来の最大の論理学者だからね」と声をかけている。70年代には、物理学者ジョン・ホイーラーが、「アリストテレス以来の最大の論理学者と呼ぶくらいでは、ゲーデルを過小評価しすぎだ」と述べている。天才的と呼ばれる数学者や物理学者にとっても、ゲーデルは、さらに別格の天才だったのである。
 1929年、23歳のゲーデルは、ウィーン大学博士論文で「完全性定理」を証明した。この定理は、古典論理の完全性を表したもので、アリストテレスの三段論法に始まる推論規則が完全にシステム化されることを示している。つまり、ゲーデルは、完全性定理によって古典論理学を完成させたのであり、この時点でアリストテレスと肩を並べたと言っても、過言ではない。
 その翌年、24歳のゲーデルは、「不完全性定理」を証明した。この定理は、古典論理とは違って、自然数論を完全にシステム化できないことを表している。一般に、有意味な情報を生み出す体系は自然数論を含むことから、不完全性定理は、いかなる有意味な体系も完全にシステム化できないという驚異的な事実を示したことになる。オッペンハイマーが「人間の理性一般における限界を明らかにした」と述べたように、不完全性定理は、人類の世界観を根本的に変革させたのである。

【『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、1999年)】

 で、不完全性定理だ。昨今の科学本には、量子力学と共に必ず登場する。いやはや私も衝撃を受けた。心底驚いたよ。

 本物の学説は、それまでの研究成果を台無しにする破壊力に満ちている。それは、まさしく「革命」の名に値する。何とはなしに、「ブッダやイエスが説いた教えを初めて聞いた人々も、こんな衝撃を受けたんだろうな」と思ってしまうほど。

 数学が神の領域に達する様相は、実にスリリングで脳味噌が激しく揺さぶられる。



アルゴリズムとは/『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ
論理万能主義は誤り/『国家の品格』藤原正彦

2008-11-15

自分の位置を知る/『「わかる」ことは「かわる」こと』佐治晴夫、養老孟司


 大物同士の対談ということで期待していたのだが、とんだ肩透かしを食らった。初心者向けの内容であった。「ためになる茶飲み話」といった印象だが、それでもキラリと光る言葉が散りばめられている。

佐治●われわれが迷子になるときになぜ不安になるのかというと、自分の位置づけがわからなくなるからですよね。窓際族なんてまさにそれでしょう。その人の位置づけをわからなくさせるってことだから。

【『「わかる」ことは「かわる」こと』佐治晴夫〈さじ・はるお〉、養老孟司〈ようろう・たけし〉(河出書房新社、2004年)】

 理論物理学者がこう言うと、「ほほう、地球が太陽系の軌道を回っているうちは、迷子じゃないってわけですな」と返したくなる。ミクロの世界だと電子の軌道とかね。

 座標軸がなければ自分の位置がわからない。コンパスがなければ進むべき方向も定まらない。

 じゃあ、我々は一体どうやって自分の位置を特定しているのだろう。家族や友人、思想・信条、仕事や趣味といったところか。

 例えば若い時分だと、「母親を悲しませてはならない」と誰もが思う。これなんかは、母親を座標軸として自分の位置関係を確認していることになろう。時に両親を失った若者が捨て鉢な生き方をすることも決して珍しくはない。

 自分へとつながっている“見えない糸”が確かにある。その本数や太さが、確かな自分を築き、人生に彩(いろど)りを添えるのだ。

2008-11-09

嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ


『身体感覚で『論語』】を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

 ・ユーザーイリュージョンとは
 ・エントロピーを解明したボルツマン
 ・ポーカーにおける確率とエントロピー
 ・嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理
 ・対話とはイマジネーションの共有
 ・論理ではなく無意識が行動を支えている
 ・外情報
 ・論理の限界
 ・意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる
 ・神経系は閉回路

『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
意識と肉体を切り離して考えることで、人と社会は進化する!?【川上量生×堀江貴文】
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン

必読書 その五

「嘘つきのパラドックス」は「自己言及のパラドックス」ともいう。

「私は嘘をついている」――この言葉、嘘つきのパラドックスは、何千年にもわたってヨーロッパの思索者たちを悩ませてきた。この言葉は、もし正しければ偽りになり、偽りなら正しくなる。自分が嘘をついていると主張する嘘つきは、真実を語っていることになるし、逆に、彼が嘘をついているのなら、そう主張したときには嘘をついていないことになってしまう。このパラドックスを特化させたものはいくらでもあるが、根本はみな同じで、自己言及は問題を来たすのだ。これは「私は嘘をついている」という主張にもあてはまるし、「有限の数の語句では定義できない数」という定義にもあてはまる。そうしたパラドックスは、じつに忌まわしい。その一つに、いわゆる〈リシャールのパラドックス〉という、数の不加算性にまつわるものがある。
 ゲーデルは、そうしたパラドックス(哲学者のお好みの言葉を使えば「二律背反」)を彷彿とさせる命題を研究することで、数学的論理の望みを断ち切った。1931年に発表された論文に、非数学的表現を使った文章は非常に少ないが、その一つにこうある。「この議論は、いやがおうにもリシャールのパラドックスを思い起こさせる。嘘つきのパラドックスとも密接な関係がある」ゲーデルが独創的だったのは、「私は証明されえない」という主張をしてみたことだ。もしこの主張が正しければ、証明のしようがない。もし偽りならば、この主張も立証できるはずだ。ところがこの主張が証明できてしまうと、主張の内容と矛盾する。つまり、偽りの事柄を立証してしまったことになる。この主張が正しいのは、唯一、それが証明不可能なときだけだ。これでは数学的論理は形無しだが、それは、これがパラドックスや矛盾だからではない。じつは、問題はこの「私は証明されえない」という主張が正しい点にある。これは、私たちには証明のしようのない真理が存在するということだ。数学的な証明や論理的な証明では到達しえない真理があるのだ。
 ゲーデルの証明をおおざっぱに言うとそうなる。

【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(紀伊國屋書店、2002年)】

 ゲーデルの不完全性定理については、以下のページがわかりやすい――

不完全性定理 - 哲学的な何か、あと科学とか

 第1不完全性原理「ある矛盾の無い理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する」

 第2不完全性原理「ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、その理論体系の中で証明できない」

 ということは、だ。もし全知全能の神がいるとすれば、それは神が創った世界の外側からしか証明できないってことになる。それでも、ゲーデルは神の実在を証明しようとはしていたんだけどね。

 これは凄いよ。デジタルコンピュータが二進法で動いていることを踏まえると、数学は「置き換え可能な言語」と考えられる。そこに限界があるというのだから、人間の思考の限界を示したも同然だ。早速、今日から考えることをやめようと思う。エ? ああ、その通りだよ。元々あまり考える方ではない。

 ただし、ゲーデルの不完全性定理は、「閉ざされた体系」を想定していることに注目する必要がある。これを、「開かれた体系」にして相互作用を働かせれば、双方の別世界から矛盾を解決することも可能になりそうな気がしないでもないわけでもなくはないとすることもない(←語尾を不明確にしただけだ)。【※これは私の完全な記述ミスで「開かれた系」は系ではない。システムは閉じてこそ世界が形成されるからだ。例えば人体が開かれているとすれば、それはシャム双生児のようになってしまう。同じ勘違いをする人のために、この文章は敢えてそのままにしておく。 2010年9月3日】

 だけどさ、不完全だから面白いんだよね。物質やエネルギーを見ても完全なものなんてないしさ。大体、完全なものがあったとしても、時を経れば劣化してゆくことは避けようがない。成住壊空(じょうじゅうえくう)だわな。

「私たちには証明のしようのない真理が存在する」――そうなら、ますます生きるのが楽しみになってくるよ。科学も文明も宗教も、まだまだ発展する余地があるってことだもんね。



アルゴリズムとは/『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ

2008-11-07

ホロコーストは「公式プロパガンダによる洗脳であり、スローガンの大量生産であり、誤った世界観」/『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン


 ・目次
 ・エリ・ヴィーゼルはホロコースト産業の通訳者
 ・誇張された歴史を生還者が嘲笑
 ・1960年以前はホロコーストに関する文献すらなかった
 ・戦後、米ユダヤ人はドイツの再軍備を支持
 ・米ユダヤ人組織はなりふり構わず反共姿勢を鮮明にした
 ・第三次中東戦争がナチ・ホロコーストをザ・ホロコーストに変えた
 ・1960年代、ユダヤ人エリートはアイヒマンの拉致を批判
 ・六月戦争以降、米国内でイスラエル関連のコラムが激増する
 ・「ホロコースト=ユダヤ人大虐殺」という構図の嘘
 ・ホロコーストは「公式プロパガンダによる洗脳であり、スローガンの大量生産であり、誤った世界観」
 ・ザ・ホロコーストの神聖化
 ・ホロコーストを神聖化するエリ・ヴィーゼル
 ・ホロコースト文学のインチキ
 ・ビンヤミン・ヴィルコミルスキーはユダヤ人ですらなかった

『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
『ヒトラーの経済政策 世界恐慌からの奇跡的な復興』武田知弘

 ノーマン・G・フィンケルスタインは、自分の主張が独善へと傾斜しないように、さまざまな人物からの指摘も挙げている。これもその一つ――

 イスラエルの著名ライター、ボアス・エヴロンは「ホロコースト意識」について、その実体は「公式プロパガンダによる洗脳であり、スローガンの大量生産であり、誤った世界観である。その真の目的は、過去を理解することではまったくなく、現在を操作することである」と喝破している。ナチ・ホロコーストそのものは、本質的にはいかなる政治的課題にも奉仕するものではない。イスラエルの政策を支持する動機にもなれば、反対する理由にもなる。しかしイデオロギーのプリズムを通して屈折させられるとき、「ナチによる絶滅の記憶」は「イスラエル指導層と海外ユダヤの掌中の強力な道具」(エヴロン)として働くようになる。すなわち、「ナチ・ホロコースト」が「ザ・ホロコースト」になったのである。

【『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン: 立木勝〈たちき・まさる〉訳(三交社、2004年)】

 歴史は長いものに巻かれる。恐ろしいのは、既に「ナチ・ホロコースト」よりも「ザ・ホロコースト」の方が長期間に渡って流布している事実である。ホロコーストからの生還者だって、もうさほどいないことだろう。そして、証人を失った歴史は更に塗り替えられる結果となる。新事実を盛り込むことだって可能だ。メディアが許認可事業である以上、権力には抗しきれない。

 苫米地英人の一連の著作を読むまで、洗脳とは閉ざされた環境下で睡眠などを奪って行うものだとばかり思っていた。ところが、実はもっと日常的に行われているもので、いわゆる「刷り込み」(インプリンティング)に近いものだと知った。ホロコーストに関しては、膨大な情報が溢れている。それらに触れれば触れるほど、怒りや悲しみを覚える。そして、激しい感情と共に思い込みが強化されてゆくのだ。

 もちろん、事実というものは多面的な姿を持っている。だが明らかに、「ザ・ホロコースト」は嘘で築かれている。嘘の歴史が闊歩し、巨額な賠償金を詐取している現実がある。

 人々がテレビの前から腰を上げない限り、洗脳は避けようがない。小さな声でもいいから、一人ひとりが何らかの発信を行うべきだと考える。それ以外に、洗脳を拒絶する手立てがないからだ。

2008-11-05

嘘、悪意、欺瞞、偽善/『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ


『悲しみの秘義』若松英輔
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『休戦』プリーモ・レーヴィ

 ・嘘、悪意、欺瞞、偽善

『プリーモ・レーヴィへの旅 アウシュヴィッツは終わるのか?』徐京植
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 ページをめくるごとに私はたじろいだ。死の臭いがそこここに立ち込めている。プリーモ・レーヴィの遺作は、遺作となることを運命づけられていた。深い思索は地表にもどることができぬほどの深淵に達していた。

 地球の中心までは6400kmもの距離がある。人類が最も深く掘った穴は、ロシア北西部のコラ半島で、たったの12.261kmだ。5000分の1ほどの距離しかない。レーヴィは多分、マントルあたりまで行き着いてしまったのだろう。岩石がドロドロに溶ける2891kmのギリギリまで辿り着いたのだ。そして、鉱物相が相転移し、不連続に増加した密度が発する震度に、読者の自我が揺り動かされるのだ。

 生っちょろい覚悟でこの本と向き合うと危険だ。この私ですら死にたくなったほどだ。プリーモ・レーヴィはアウシュヴィッツを生き延びた。そして1987年4月11日、自宅のアパートから身を投げて死んだ。強制収容所を生き抜いた男ですら、生を断念する世界に我々は置かれている。

 それよりもはるかに大事なのは動機、正当化の理由である。あなたはなぜそれをしたのか? あなたは犯罪を犯していたことを知っていたのか?
 この二つの質問への答え、あるいは同様の質問への答えは、非常によく似ている。それは尋問される個々の人物には関係がない。たとえそれがシュペーアのように、野心的で、頭の良い専門家であっても、アイヒマンのように冷酷な狂信主義者であっても、トレブリンカのシュタングルやカドゥクのような愚鈍な野獣であっても。言い回しは異なり、知的水準や教養程度の差で傲慢さに強弱はあるにせよ、彼らは実質的に同じことを言っていた。私は命令されたからそれをした。他のものは(私の上司たちは)私よりもずっとひどい行為をした。私の受けた教育、私の生きていた環境では、そうせざるを得なかった。もし私がそうしなかったら、私の地位に取って代わった別のものがさらに残忍なことをしただろう。こうした自己正当化を読むものが、初めに感じるものは嫌悪の身震いである。彼らは嘘をついている、自分の言うことが信じてもらえるなどとははなから思っていない、自分たちがもたらした大量の死や苦痛と、彼らの言い訳の間の落差を見て取ることができない。彼らは嘘をついていることを知りつつ、嘘を述べている。彼らは悪を持って行動している。

【『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ:竹山博英訳(朝日新聞社、2000年/朝日文庫、2019年)】

 私は、パトリシア・エイルウィン(元チリ共和国大統領)の言葉を思い出した。「嘘は暴力に至る控え室である。“真実が君臨すること”が民主社会の基本でなければならぬ」――。

 レーヴィが耐えられなくなったのは、アウシュヴィッツを凌駕する嘘、悪意、欺瞞、偽善であったのか。悪臭にまみれた我々の鼻は、既に何も嗅ぎ取れなくなってしまっている。

 しかし、だ。レーヴィの鼻を通すと、そこにはもっと強烈な死臭がプンプンしているのだ。退くも地獄、進むも地獄だ。で、私は本を閉じてしまったというわけ。とにかく強靭な体力をつけておかない限り、こんな本は読めるはずがない。

2008-11-04

進化医学(ダーウィン医学)というアプローチ/『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ


 ・進化医学(ダーウィン医学)というアプローチ
 ・自然淘汰は人間の幸福に関心がない
 ・痛みを感じられない人のほとんどは30歳までに死ぬ
 ・進化における平均の優位性
 ・平時の勇気、戦時の臆病

『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス
『失われてゆく、我々の内なる細菌』マーティン・J・ブレイザー

 ユニークな学術書。トリビアネタ満載。短い章立てとなっており、すんなり読める。ただし、訳文が酷い。

 進化医学の基本的な考えはこうだ――

 私たちは、自然界の生物は幸せで健康なものだと考えたがるが、自然淘汰は、私たちの幸福には微塵も関心がなく、遺伝子の利益になるときだけ、健康を促進するのである。もし、不安、心臓病、近視、通風や癌が、繁殖成功度を高めることになんらかのかたちで関与しているならば、それは自然淘汰によって残され、私たちは、純粋に進化的な意味では「成功」するにもかかわらず、それらの病気で苦しむことだろう。

【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ:長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】

 つまり、病気の至近要因と進化的要因とを区別し、「なぜそのようなDNAを持つに至ったのか」を探る医学である。もう少しわかりやすく言えば、「なぜ病気になったのか?」ではなく、「病気になる何らかの理由があるはずだ」というアプローチをする。で、「何らかの理由」とは「進化上、種(しゅ)全体にとって有利な」という意味だ。そしてDNAは「繁殖成功度を高める」方向にのみ進化し続ける。ま、必要悪としての病気と言ってよい。

 我々の身体は、暑いとダラダラと汗をかき、寒ければガタガタと震え、風邪をひけば高熱を発する。だがこれは一面的な見方で本当の意味は違う。汗をかくのは気化熱で身体を冷やすためであり、震えるのは体温を高めるためであり、高熱を発するのは体内の病原菌を死滅させるためなのだ。快適な生活空間は、こうした身体機能を損なっている可能性がある。そして対症療法的な医療も。

 仏法では生老病死と説き、成住壊空(じょうじゅうえくう)と断ずる。これ、万物流転のリズムか。ならば、病気は避けられない。となると、上手く付き合ってゆく他ない。病気を根絶することが進化上、有利かどうかは判断のしようがないためだ。その意味で、ダーウィン医学は東洋的なアプローチ法(運命論よりは宿命論に近い)といえる。

2008-11-01

「環境帝国主義」とは?/『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人


『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス

 ・環境・野生動物保護団体の欺瞞
 ・環境ファッショ、環境帝国主義、環境植民地主義
 ・「環境帝国主義」とは?
 ・環境帝国主義の本家アメリカは国内法で外国を制裁する
 ・グリーンピースへの寄付金は動物保護のために使われていない
 ・反捕鯨キャンペーンは日本人へのレイシズムの現れ
 ・有色人捕鯨国だけを攻撃する実態

『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン
『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

必読書リスト その二

 世界経済が自由競争で成り立っていると思ったら大間違いだ。実は、「不公平」というルールで運用されているからだ。欧米列強は、発展途上国が絶対に発展できない仕組みを既に作り上げてしまった。

 梅崎義人が糾弾しているのは、環境や動物愛護をテコにして、貿易すら自由にさせない欧米の悪辣(あくらつ)な手口である。昨今、声高に主張されている「環境問題」も全く同じ異臭を放っている。

 環境帝国主義とは、一般的には環境問題に関する自己の主張を相手に強要する行為を指すが、ここでは次のように定義しておく。
「自国以外に生息する動・植物の利用を、自国の法律または国際条約によって一方的に禁止しようとする考え方並びにその行動」
 このようなことが実際にあり得るだろうか。いぶかる人々も多いと思うが、環境帝国主義は堂々と罷り通っている。
 アメリカには「海産哺乳動物保護法と「絶滅に瀕した動植物保護法」という二つの国内法がある。いずれも1970年代の初めに制定されている。前者は、クジラを初め、オットセイ、イルカ、アシカ、アザラシ、トドなどすべての海洋哺乳類の保護を決めた法律で、殺すことはもちろん、虐待やいじめることも禁止している。更にその製品の輸入までも禁じられている。例えば、クジラのベーコンやアザラシの毛皮はアメリカ国内には持ち込めない。そして、後者の「絶滅に瀕した動植物保護法は、絶滅の恐れのある動植物の利用だけでなく、その生息、繁殖地の開発あるいは利用までも禁じている。
 信じられないことだが、アメリカのこの二つの国内法は、全世界を対象にしている。「海産哺乳動物保護法」に基づき、アメリカは国際捕鯨委員会(IWC)の場で全面禁止を実現した。同法はニクソン大統領時代の72年に制定されたが、このアメリカ大統領は「私はこの法律の効果を世界中に広めたい」と署名時に語っている。
「絶滅に瀕した動植物保護法」で、保護すべき動物としてリストアップされている種は全体で900にのぼるが、そのうちの600が、なんとアメリカ以外に生息する動物である。

【『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人〈うめざき・よしと〉(成山堂書店、1999年)】

 農耕民族にジャーナリズムは育たない、というのが私の持論である。なぜなら、真実を報じたところで立ち上がる民衆は一人もいないためだ。立ち上がったとしても、直ぐに座り込んでしまうことだろう。これを繰り返せばヒンズースクワットとなる。真実に目覚めて、自分の足を一歩前に出すことが、我が国では「村八分」を意味するのだ。

 かような背景もあって、日本のジャーナリズムは権力者のスポークスマンとなり、メッセンジャーとなり、アナウンサーと化している現状を呈している。

 そんな中にあって、梅崎義人が著した本書には、紛れもなく「ペンの力」が横溢(おういつ)している。ジャーナリストの仕事とは、「世界が置かれた状況を読み解く作業」と言ってよい。