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2021-12-18

母国の日本人移民差別政策に断固反対したアメリカ人女性/『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』エリザ・R・シドモア


『逝きし世の面影』渡辺京二

 ・母国の日本人移民差別政策に断固反対したアメリカ人女性

『武家の女性』山川菊栄

日本の近代史を学ぶ

 彼女の人生の後半は、日米の赤十字活動や国際連盟の運営協力に費(つい)やされます。さらに晩年は自国の日本人に対する移民差別政策に断固反対してスイスに亡命、二度と故国へ戻ることなく昭和3年(1928)晩秋、ジュネーブの自邸で亡くなります。72歳でした。正義感に溢(あふ)れ武家の婦人のように凛(りん)とし、生涯を独身で通したシドモア女史、彼女を悼む元駐米大使・埴原正直〈はにはら・まさなお〉や外務省高官、さらに新渡戸博士夫妻、横浜市長、英米の外交官が多数参列し、国際社会に尽くした功績を称え、慈愛に満ちた面影(おもかげ)を偲(しの)びました。

【『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』エリザ・R・シドモア:外崎克久〈とのさき・かつひさ〉訳(講談社学術文庫、2002年/初版は明治24年)】

 シドモアという女性の存在が逆にアメリカを見直すきっかけとなる。かような人物を生み出す土壌がアメリカにはあったのだろう。祖国を捨てることは並大抵の決意ではできない。

 エリザ・ルーアマー・シドモアは米国地理学協会初の女性理事でもある紀行作家。27歳で来日し、以後45年間にわたって日米友好を推進した。上野公園や隅田川の桜を見た彼女が、ポトマック河畔の植樹を実現に導いた。選りすぐりの苗木3000本がワシントンに贈られ、明治45年(1912年)3月、ポトマック公園で寄贈桜の植樹式が行われる。タフト大統領珍田〈ちんだ〉駐米大使夫人の手で植えられた。女史の悲願が20年越しにかなった瞬間であった。

 日本のあらゆる階層に子供の遊技や遠足が普及しています。学校は野外運動に熱心で、陽(ひ)当たりのよい朝は毎日子供たちが旗や色付き帽子で区分されて隊列行進し、公園や練兵場へ行って運動、訓練、競技にいそしみます。(中略)
 ある女学校では昔の和式作法を教え、女学生は伝統的礼法、茶の湯、刺繍(ししゅう)、俳諧(はいかい)、生け花、さらに三味線を学びます。最近、一度廃(すた)れかかった琴が人気復活し、甘美な音色の水平ハープを少女らは好んで弾(ひ)いています。

 一番驚いたのは亀戸天神の藤棚や葛飾の堀切菖蒲園が紹介されていたことだ。自分が暮した地域が出てくると、どうしても思いが深くなる。

 しかし、何といっても浜松の最も羨(うらや)むべき財産はオタツさんです。私たちが宿に到着すると、オタツさんは私たちの身につけている指輪、ピン止(ママ)め、ヘアピン、時計、ビーズ飾りに好奇心いっぱいで夢中になりながら、2階へ手荷物を運んでくれました。笑顔満面で手を叩き、澄んだ瞳がキラキラ輝き白い歯がまぶしここぼれるオタツさんは、まさに明眸皓歯(めいぼうこし)の女性です。夕食の際、高さ8インチ[20センチ]の膳が置かれ、傍(かたわ)らに座った愛らしいオタツさんが仕切って給仕をしました。彼女の美貌(びぼう)だけでなく、魅力的率直(そっちょく)さ、無邪気さ、機敏さ、さらに優雅さが私たち全員をいっそう虜(とりこ)にしました。私たちの賞賛に美しき乙女は限りなく欣喜(きんき)し、しばらくして真新しい青と白の木綿着に着替え、町で買った最高級の髪飾りをつけ、華麗な黒縮緬(くろちりめん)と金紐(きんひも)で青黒くふさふさした髪を蝶(ちょう)の輪(わ)に結んで戻ってきました。そしてオタツさんの発案で小さな踊り子を招きました。少女は一本のしなやかな細枝とお面で、天照大神(あまてらすおおみかみ)にまつわる踊り手・鈿女(うずめ)、さらに伝説やメロドラマに登場する有名なヒロインを演じました。
 浜松の宿を去る際、優しく愛らしいオタツさんから私の写真を送るよう請(こ)われました。強く懇願する瞳に、私は流暢(りゅうちょう)な彼女の日本語を理解せずには済まされぬ衝動にかられました。彼女は走り去り、また戻ってきて私にとび込み、1865年[慶応元]当時の服装をした外国美人の安価な彩色写真を見せました。茶屋を出発するときが、とうとうやってきました。しばらくの間、オタツさんは人力車に付き添い、別れ際、愛らしい眼に涙を浮かべ手を握り、最後の「サヨナラ」の声は啜(すす)り泣(な)きに変わりました。

 旅先で擦れ違うような出会いにも心を留(とど)めている。やはり人と人とは理解し合えるのだ。今更ながらその事実に感動する。人柄は振る舞いという反応に表れる。言葉が通じなくとも心は通う。こうした出会いが日本への愛情と育ち、日米親善の道を開き、そしてアメリカの人種差別を許さぬ行為につながったのだろう。類書に『イザベラ・バードの日本紀行』がある。

2021-08-10

老後の楽しみ/『ブナの山旅』坪田和人


 太古の昔から幾世代も世代交代を繰り返しながら同じような原生林を維持してきたのだろう。人間は世の中の進歩に合わせて生き方を変えてきたが、ブナたちは生き方を変えることがない。ブナたちは何の野心も持たずに、与えられた環境のなかでせいいっぱい生きて子孫を残すことに徹している。これが生き物の純粋な生き方なのだ。人間は悲しいとき、苦しいときに救いを求めて森の中に入る。そんな人間をブナの森はいつでも優しく包み込んで癒してくれる。人間は昔は森の中でこんなブナたちと一緒に暮らしていたのだ。私たちの遺伝子のなかにそんな思い出が刻み込まれている。ブナの森の中に入ると昔の記憶が蘇って、昔の仲間であるブナたちと心の交流をはじめるのだ。道南のブナの旅の終わりに、こんな見事なブナ林に出会えて大いに満足した。

【『ブナの山旅』坪田和人〈つぼた・かずと〉(山と渓谷社、1999年)】

 2年前、突然ブナに興味が涌いた。検索するごとに私は「ブナだな」と呟いた。今まで「これだ」と思う森に出遭ったことがなかった。多分ブナが欠けていたのだろう。そんな気がした。

 上記テキストは賀老(かろう)高原(北海道島牧郡島牧村)を紹介したものだ。

【賀老高原】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet


ブナ

 本書を読んで「老後はブナを巡る旅でもするか」と閃いた。収められている写真がまた素晴らしい。


 私は美しい写真やフィルター処理された画像に興味はない。むしろ、ありのままのスナップショットこそ好ましいと考えている。老後はそう遠くない時期にやってくる。密かな楽しみを温めておこう。



潜在自然植生/『宮脇昭、果てなき闘い 魂の森を行け』一志治夫

2015-11-03

琉球漂流民殺害事件と台湾出兵/『街道をゆく 40 台湾紀行』司馬遼太郎


『セデック・バレ』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督
『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』古川勝三

 ・琉球漂流民殺害事件と台湾出兵

 1868年に、アジアに異変が起こった。日本が明治維新をおこし、近代国家に変容したのである。
 周辺の中国・朝鮮は、儒教という超古代の体制のままだったから、この衝撃波をうけた。
 近代国歌である手はじめは、国家の領土を、アジア的「版図」の概念から脱して、西洋式の領土として明確にすることだった。ただし、国際法など法知識については、明治初期政権は、御雇(おやとい)外国人から借りた。
 たとえば琉球は、両属(清の版図と日本の版図)だった。
 たまたま明治4年(1871)、琉球国の島民66人が台湾の東南海岸に漂着し、そのうち54人が山地人に殺された。山地人は、西海岸の漢人だとおもったという。
 日本はあざやかすぎるほどの手を打った。まずその翌明治5年9月、琉球王国を琉球藩にし、国内の一藩とした。清はのどかにもこれに対し、抗議を申し入れなかった。
 殺された琉球の島民は、日本人になった。この基礎の上で、使者を北京に送り、清朝に抗議した。
 清側は口頭でもって、「台湾の蛮民は化外(けがい)の者で、清国の政教はかれらに及ばない」と答弁した。
 日本はその後、一貫してこの口頭答弁を基礎とし、台湾東半分は無主の地であるという解釈をとった。
 その後、清国は表現を変えた。両国のあいだで水掛け論がかさねられた。
 この時期、明治維新の主勢力だった旧薩摩藩(鹿児島県)が、新政府に不満で、半独立を維持し、他の府県の不平士族とともにいつ暴発するか、きわどい状態にあった。
 日本政府は、国内に充満したガスを抜くべく、まったく内政的配慮から、兵を台湾東部に出した。明治7年(1874)のことである。
 清国は、おおらかだった。
 ほどなく、清国はこの討伐費を日本に支払ったのである。支払うことによって、清国は台湾東部が自国領であることを証拠づけた。
 さらに清国は台湾が自国領であることを明確にするために、明治18年(1885)、台湾を台湾省に昇格した。つまり、“国内”になった。“国内”は、10年つづいた。
 明治27~28年(1894~95)、日清戦争がおこり、下関条約の結果、台湾は日本領になった。

【『街道をゆく 40 台湾紀行』司馬遼太郎(朝日新聞社、1994年/朝日文庫、2009年)】

 琉球と台湾がチベットやウイグルと重なる。帝国主義の大波が小国を呑み込む。戦争の勝敗を分けたのは戦術よりも武器の進化であった。科学の進歩は戦争によって花を開かせてきた。第一次世界大戦(1914-1918年)では迫撃砲・火炎放射器・毒ガス・戦車・戦闘機が登場した。第二次世界大戦(1939-1945年)は空中戦の様相を示し、ドイツの弾道ミサイル「V2ロケット」が生まれ、アメリカの原爆が日本に止(とど)めを刺した。二度の大戦は戦争を国家の総力戦に変えた。

 台湾に漂着した琉球民は首を狩られた。「出草」(しゅっそう)である。これを「琉球漂流民殺害事件」という。悲惨ではあるが異なる文明の衝突が生んだ事故であったのだろう。

 映画『セデック・バレ』を観てから私の内側で台湾への関心が高まった。それから八田與一〈はった・よいち〉を知り、高砂義勇隊を知った。

 戦争を経験した台湾の老人たちには、いまだ大和魂が受け継がれているという。

2009-02-21

砂漠の民 ユダヤ人/『離散するユダヤ人 イスラエルへの旅から』小岸昭


 流浪の民ユダヤ人は、砂漠に追放された民でもあった――

「私にとって、砂漠の経験はまことに大きなものでした。空と砂の間、全と無の間で、問いは火を噴いています。それは燃えていますが、しかし燃え尽きはしません。虚無の中で、おのずから燃え立っております。」(「ノマド的エクリチュール」
「おまえはユダヤ人か」という火を噴くような問いを、このように「砂漠」を憶(おも)いつづける自分自身につきつけて思考するのは、エドモン・ジャベス(1912-91)である。エジプトからヨーロッパの大都市パリへ移住してきたこの詩人は、さらにこれにつづけて、「他方で、砂漠の経験は研ぎすまされた聴覚とも関係があります。全身を耳にする経験と言っても差しつかえありません」と言う。ジャベスのこのような「砂漠の経験」の根底には、当然のことながら、追放という濃密なユダヤ性が鳴りひびいている。
 エードゥアルト・フックスによれば、少なくとも1000年間は砂漠の中に暮らしていたというユダヤ人は、その「研ぎすまされた聴覚」によって、迫り来る危険をいち早く察知する能力を身につけていた。砂漠の遊牧民だったユダヤ人は、地平線から近づいてくる「生きもの」が獣であるか人間であるかを、そのかすかな音を耳にした途端すでに聞き分け、刻々と変化する危険な事態を乗り切るため、つぎの行動に素早く移行しなくてはならない。こうして砂漠の経験は、忍び寄る危険の察知能力ばかりでなく、あらゆる状況の変化への同化能力を彼らの中に発達させた。

【『離散するユダヤ人 イスラエルへの旅から』小岸昭〈こぎし・あきら〉(岩波新書、1997年)】

 実に味わい深いテキスト。砂漠という空間と、ユダヤ民族という時間が織り成す歴史。

 養老孟司が『「わかる」ことは「かわる」こと』(佐治晴夫共著、河出書房新社)の中で興味深いことを語っている。耳から入る情報は時間的に配列される。つまり、因果関係という物語は耳によって理解される。一方、眼は空間を同時並列で認識する。

 つまり、だ。迫害され続けてきたユダヤ人は、歴史の過程で「強靭な因果」思想を構築したことが考えられる。彼等が生き延びるためにつくった物語はどのようなものだったのだろうか。そこにはきっと、智慧と憎悪がたぎっていることだろう。

 民族が成立するのは、「民族の物語」があるからだ。そして民族は、過去の復讐と未来の栄光を目指して時が熟すのを待つようになる。



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