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2022-02-16

前頭葉と大脳辺縁系/『警鐘』リー・チャイルド


『前夜』リー・チャイルド
『キリング・フロアー』リー・チャイルド
『反撃』リー・チャイルド

 ・前頭葉と大脳辺縁系

『葬られた勲章』リー・チャイルド

 透明人間でいることになれきってしまっていたからだ。自分がおかれた状況に目をそむけようとするもやもやした気分から出た反応であることは、脳みその前方の部分ではわかっていた。2年まえ、なにもかもがひっくり返ってしまった。お山の大将的な存在から、ただのその他大勢になった。高度に組織化された共同体の上官であり、なくてはならぬ存在から、2億7000万の名もなき市民のひとりになった。望まれる必要な人材から、いてもいなくてもいい存在になった。毎日つねに居場所を確認される状況から、この先たぶん40年以上にわたって、地図も日程表もなしに何百万平方キロにおよぶ広大なアメリカの大地と向き合う境遇になった。だからそういう反応もわからぬではないが、それにしても身構えすぎだ、と頭のなかで前頭葉が言っていた。ひとりでいるのは好きなくせに、まわりにだれもいなくなることには不安をおぼえる男の反応。そういうのは白か黒でないと気がすまない人間の反応だから、少し気をつけるべきだと前頭葉は語りかけていた。
 しかし、前頭葉のうしろに埋もれていて生存本能をつかさどるトカゲ脳は、やはりひとりでいたいと告げていた。名無しの存在でいることが好きだった。だれにも知られない存在でいることが好きだった。そのほうが心穏やかでいられたし、快適で、安心できた。それをだいじにしていた。表向きは友好的で社交的だったが、自分のことを多く語ったことはなかった。支払いは現金、移動は陸路を好んだ。どんな乗客名簿にも載ったことがなかったし、クレジットカードをカーボン・コピーされたこともなかった。自分から名前を告げたこともなかった。キー・ウェストでは、ハリー・S・トルーマンの名前で安っぽいモーテルに宿を取った。宿泊者名簿に書かれた名前を見ていくと、自分だけが元大統領の名前を使っているのではないことがわかった。

【『警鐘』リー・チャイルド:小林宏明〈こばやし・ひろあき〉訳(講談社文庫、2006年)】

 小林宏明の訳文は平仮名が多すぎる。せめて「だいじ」は漢字にすべきだろう。

 ヒトの脳は左右に分かれているが、上下の位置によっても全く別の顔を見せる。トカゲ脳とは大脳辺縁系(情動脳)である。考えていることと感じることは違う。この不一致を克服するために「努力」という言葉があるのだ。

 リーチャーが根無し草のような生活スタイルを愛するのは計画性の放棄である。計画や努力は社会的成功を目指す。そこで得られるものが何であるかよりは、羨望の眼差しが注がれることで幸福を覚えるのだろう。有名人、政治家、官僚など。ただし彼らの姿が幸せには見えない。ひょっとしたら私の眼が曇っているのだろう。

 何らかの責任に伴う幸福はあり得る。世の中ではそれが金儲けにつながっているところに不幸がある。どんなに小さくてもよい。社会が向上するような仕事や行動が幸福に通じる。その意味から言えば、「自分だけの幸福」はあり得ない。幸せという感情は人と人との間に流れ通うものだ。

 ジャック・リーチャーは漂泊しながら様々な出会いを重ね、ドラマを紡いでゆく。時折、軍という過去が蘇るが、決してそこに埋没することはない。飽くまでも遊撃手の立場を貫く。自由を声高に主張するよりは、気ままに行動する方が楽しくて余裕がある。

 

2022-02-05

リー・チャイルド三昧/『反撃』リー・チャイルド


『前夜』リー・チャイルド
『キリング・フロアー』リー・チャイルド

 ・リー・チャイルド三昧

『警鐘』リー・チャイルド
『葬られた勲章』リー・チャイルド

 頭は、同時にふたつのことをおこなっていた。ひとつは、時間をはかることだ。最後に腕時計を見てからそろそろ2時間がたつが、20秒ほどの誤差でいまの時刻を言いあてられる。実戦でいく晩も寝ずの番をしたときに身につけた特技だ。なにかが起こるのを待つ場合、冬場のビーチハウスのように体の動きを停止させ、刻々とすぎていく時間だけに神経を集中させる。いわば仮死状態になるのだ。そうすることで、エネルギーの浪費をふせぎ、意識のなくなった脳は心臓を鼓動させる役割から解放され、その分を体内のどこかに隠された時計にまわす。おかげで思考に費やす暗く巨大な空間が確保される。だが、ひとたびなにかあればいつでも反応できる程度には覚醒しているから、いつでも現在時刻を把握していることができる。

【『反撃』リー・チャイルド:小林宏明訳(講談社文庫、2003年)】

 本を読む速度が急に衰えてきた。「これはいかん」と思い、昨年11月に『隠蔽捜査』シリーズを1日2冊ペースで読み、12月からはリー・チャイルド三昧である。ラドラムパーカー亡き後、私が唯一頼みとするミステリ作家である。

 ややスーパーマン的な要素に鼻白むが、娯楽作品と割り切ってしまえばいい。必ず美女と行為に及ぶ点も同様だ。一種のサービス精神か。

 自然の要塞と化した地でミリシア(民兵)がアメリカからの独立を目論む。陰謀論に囚われた極右組織として描かれているが、アメリカのポリティカル・コレクトネスに配慮したものか。『最重要容疑者』の中には「トルーマンはリーチャーの好きな大統領だ」とある。民主党政権でフランクリン・ルーズベルトが死去し、副大統領から大統領に格上げされた。日本に原爆を落とした大統領でもある。

 やはり、最初に『前夜』を読むのが望ましい。そうすればリーチャーの上司であるレオン・ガーバー大佐の立ち位置がよくわかる。

 

2022-01-19

訓練の目的/『自覚 隠蔽捜査5.5』今野敏


『隠蔽捜査』今野敏
『果断 隠蔽捜査2』今野敏
『疑心 隠蔽捜査3』今野敏
『初陣 隠蔽捜査3.5』今野敏
『転迷 隠蔽捜査4』今野敏
『宰領 隠蔽捜査5』今野敏

 ・訓練の目的

『去就 隠蔽捜査6』今野敏
『棲月 隠蔽捜査7』今野敏
・『空席 隠蔽捜査シリーズ/Kindle版』今野敏
『清明 隠蔽捜査8』今野敏
・『選択 隠蔽捜査外伝/Kindle版』今野敏
『探花(たんか) 隠蔽捜査9』今野敏

 甘えるな、と叱られるかもしれないと思った。
 だが、竜崎は、拍子抜けするほどあっさりとした口調で言った。
「みんなの足を引っぱっていると言ったな? それが、私には理解できない」
「どうしてです? 私のせいで、みんなはいらいらしているはずです」
「訓練というのは、他人のためにやるものではない。たいていは単独で、非常事態に対処しなければならない。他の者が何を考えているかなど、気にする必要はない」
「それはそうですが、ある程度結果を出さなければならないと思います。ですが、他のメンバーと私の実力や体力が、あまりにも違い過ぎるのです」
「女性だから、仕方がないだろう」
「それが悔しいのです」
「悔しがる理由がわからない」
「それは、竜崎さんが、女性になったことがないからです」
「当たり前だろう」
「体力でも、技術でもかなわない。それが悔しいのです」
「不思議だな」
「何が不思議なんですか?」
「どうして、女性であることを利用しないのか、不思議なんだ」
 美奈子は、一瞬言葉を失った。
「言ったでしょう? 府警本部長や警備部長とお酒を飲みに行ったって……」
「それは、彼らが君を利用したに過ぎない。君が女性であることを利用したわけじゃない」
「私には、同じことのように思えますが……」
「腹を立てているようだから、はっきりと言っておく。私が女性だったら、それを最大限に利用するよ。それだけじゃない。キャリアの立場も利用するし、今なら、署長という立場も利用する。利用できるものは、何だって利用する。それが、人の特質というものだ」
「特質?」
「特質というのは、その人に与えられるものだ。訓練で周囲は男ばかりだと言ったな。それならば、君が女であることが特質だ。体力や技術で劣っていると、君は言った。劣っているところばかり見ていると、訓練の本質を見誤るだろう」
「訓練の本質ですか?」
「そうだ。訓練の目的は、疑似体験を通して新たな能力を身につけることだ。そして、先ほども言ったが、訓練は、自分自身のためにやるものだ。だから、人それぞれに成果は異なる。一つだけ言えるのは、体力を使うより頭を使うほうが、ずっと大切だということだ。頭を使ってこそのキャリアであり、体力を補うために頭を働かせてこその女性ではないのか?」
 それを訊いたとたんに、憑(つ)き物が落ちたように気分が軽くなった。

【『自覚 隠蔽捜査5.5』今野敏〈こんの・びん〉(新潮社、2014年/新潮文庫、2017年)】

「3」で竜崎が想いを寄せていた畠山美奈子が特殊訓練に耐えかねて電話で相談する場面だ。短篇集としては「3.5」より出来がいい。

 目的を見失うと余計なことが目につき始める。仕事の悩みは職場の人間関係に尽きる。待遇が問題であれば転職すればいいだけのことだ。その判断すらできないような人々は、家庭や交友関係も上手くいくことはないだろう。

 竜崎の合理主義は周囲の妄想を明らかにする効用がある。彼の言葉が「魔法」のように感じられるのは、複雑さを無視して、問題のテーマを単純化するためだ。

 10年ほど前に茂木健一郎がやたらと「プリンシプル」なる言葉を使っていたことがある(茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの「プリンシプルなき者が、匿名性の裏に隠れる」 - Togetter)。たぶん白洲次郎著『プリンシプルのない日本』(新潮文庫、2006年)あたりの影響だったのだろう。原理原則を曖昧にして、なあなあでやっていくのが村社会の慣行である。二・二六事件の原因もそこにあった。

 談合文化は日本人の知恵から生まれたのだろう。だが国際競争に晒されるとそれは通用しなくなる。バブル景気崩壊をきっかけにして護送船団方式は終焉を告げた。終身雇用も破壊され、雇用が不安定となった結果、結婚する若者が激減した。少子化にも拍車がかかる。失われた20年のダメージは深刻だ。その間、国民は二度の大震災にも耐えてきた。

 本書が官僚小説の域を超えるとすれば、竜崎は何らかの政治的行動を取って、日本が独立するためにアメリカと対峙せざるを得ない。

2022-01-18

竜崎伸也の流儀/『宰領 隠蔽捜査5』今野敏


『隠蔽捜査』今野敏
『果断 隠蔽捜査2』今野敏
『疑心 隠蔽捜査3』今野敏
『初陣 隠蔽捜査3.5』今野敏
『転迷 隠蔽捜査4』今野敏

 ・竜崎伸也の流儀

『自覚 隠蔽捜査5.5』今野敏
『去就 隠蔽捜査6』今野敏
『棲月 隠蔽捜査7』今野敏
・『空席 隠蔽捜査シリーズ/Kindle版』今野敏
『清明 隠蔽捜査8』今野敏
・『選択 隠蔽捜査外伝/Kindle版』今野敏
『探花(たんか) 隠蔽捜査9』今野敏

 溜め息をつく音が聞こえる。
「無事に解決したからいいようなものの、失敗していたら、おまえも俺も首だぞ」
「そんなに首が怖いのか?」
「何だって?」
「俺は、首よりも、やるべきことをやれないような事態のほうが恐ろしい」

【『宰領 隠蔽捜査5』今野敏〈こんの・びん〉(新潮社、2013年/新潮文庫、2016年)以下同】

 小説の書評は粗筋(あらすじ)を書くべきではないと考える。そんな信念が強固なため、読んだそばからストーリーを失念することが多い。感情の振幅が激しいこともあって細部に意識が向いて、全体を見失っている可能性もある。そこで隠蔽捜査シリーズの概要を振り返ってみたい。

 1:足立区で起こった女子高生コンクリート詰め殺人事件(1988年)の復讐劇。
 2:家族の不祥事で竜崎は大森署に左遷させられる。立てこもり事件。SITとSATが登場する。
 3:アメリカ大統領が来日。竜崎は警備の一翼を担う。テロ計画。そして竜崎が恋に落ちる。
 3.5:竜崎の幼馴染である伊丹俊太郎を主役にした短篇集。
 4:大森署管内でひき逃げ事件、放火事件、殺人事件が発生する。殺人の背景には南米の麻薬が絡んでいた。外務省との駆け引き。
 5:国会議員の誘拐事件が起こる。更に神奈川県警との合同捜査で警察同士が縄張り争いに固執する。
 5.5:短編集だが主役がそれぞれ違う。3.5よりずっとよい。
 6:ストーカー事件。ストーカー対策チームで戸高善信と根岸紅美がタッグを組む。
 7:ハッキング事件と少年犯罪。
 空席:Kindle版。未読。
 8:神奈川県警の刑事部長に栄転。不法入国した中国人が殺害される。警察OBや公安との確執。横浜中華街の変遷。

 驚くべきことだが似たような内容が一つもない。まだまだ書けそうな印象を受ける。ファンとしては20冊くらいを目指して欲しいと思う。シリーズ8冊目までで累計300万部を達成しているようだ。

 また全体を通して必ずキャリアとノンキャリアや省庁間などが反目する様相が描かれている。竜崎伸也がトリックスター的な位置にいるのは階級と役職が異なるためだ。彼の階級は警視長で、警察庁長官官房総務課課長~警視庁大森警察署署長~神奈川県警刑事部長と異動する。警視庁とは言い方を換えれば東京都警である(警察法の警察階級と役職及び警察組織図-キャリア・ノンキャリア情報)。

「やるべきことを断乎としてやる」のが竜崎伸也の流儀であり、いい意味での原理主義者・合理主義者である。彼を貫くのは「国家・国民のため」という価値観であり、そこからブレることがない。清濁を併せ呑む伊丹とは異なり、濁を真っ向から否定する。必要とあらば泣かずに馬謖(ばしょく)を斬ることもできるだろうし、自らを斬ることすら厭(いと)わない。

 なるほど、そのための呼び出しか。
 竜崎は思った。
 神奈川県警の面子を保つために、本部長と刑事部長が打ち合わせをしていたというわけだ。誘拐事件が進行中にもかかわらず、だ。
 それが、警察幹部の仕事だと思っているのだろうか。竜崎は、あきれてしまった。
 そんなことは、被疑者を確保した後に考えればいいことだ。おそらく、それでは警視庁に後れを取ると考えてのことだろう。
 彼らは政治をやりたいのだ。警察官の仕事は政治ではない。
 被疑者の身柄を、警視庁に持っていこうが、神奈川県警が押さえようが、竜崎はどうでもよかった。どうせ、送検してしまえば警察の手を離れるのだ。

 竜崎もまたキャリアとしての出世を肯定するが、それは「使える権限が増える」からだ。彼にとっての権限とは道具のようなものだ。武器はたくさんあった方がいいに決まっている。しかし、たとえ降格人事を食らったとしてもそこに自らの使命を見出す。真のエリートは国家の捨て石となる道を選ぶ。その潔さが本書の魅力であり、主役が淡白なのは今野敏がしがらみの少ない道産子のためか。

2022-01-14

竜崎伸也というキャラクター/『転迷 隠蔽捜査4』今野敏


『隠蔽捜査』今野敏
『果断 隠蔽捜査2』今野敏
『疑心 隠蔽捜査3』今野敏
『初陣 隠蔽捜査3.5』今野敏

 ・竜崎伸也というキャラクター

『宰領 隠蔽捜査5』今野敏
『自覚 隠蔽捜査5.5』今野敏
『去就 隠蔽捜査6』今野敏
『棲月 隠蔽捜査7』今野敏
・『空席 隠蔽捜査シリーズ/Kindle版』今野敏
『清明 隠蔽捜査8』今野敏
・『選択 隠蔽捜査外伝/Kindle版』今野敏
『探花(たんか) 隠蔽捜査9』今野敏

 その折口理事官から電話があったのは、夕刻のことだった。
「記者会見はご覧になりましたか?」
「見ました」
「さぞかし、歯がゆい思いをされたことでしょうね?」
「そんなことはありません。妥当な落としどころだと思います」
「本音ですか?」
「私は本音しか言いません」
「そうでしょうね。あなたは、やはり面白い方だ」
「別に面白くはないと思いますよ」
「あなただけです。私の悩みをずばり指摘してくださったのは……」
「自責の念にかられていたということですね?」
「あなたは私の苦しみを理解してくださった。私の野心が八田さんと若尾さんを死なせる結果になってしまったのです」
「後悔しても二人は生き返りません。また、事実を隠蔽したところで、何の解決にもなりません」
「おそらく、あなたのおっしゃるとおりなのだと思います」
「私たちは国家公務員です」
「ええ……」
「国家公務員は、国のために働いている。それはつまり、戦いの最戦線にいるということです。戦いなのだから、時に犠牲者も出ます」
 しばらく無言の間があった。
「勇気が出るお言葉です」
「同じ間違いを繰り返さないことです」
「やはり、あなたは一所轄の長に甘んじているような方ではない」

【『転迷 隠蔽捜査4』今野敏〈こんの・びん〉(新潮社、2011年/新潮文庫、2014年)】

「9」が刊行される(1月19日発売)ことを知り、1から読み直しているところ。1日2冊ペースで読んでいる。2と4(本作)が出色の出来だ。

 初めて読んだのは4年前のこと。謎解きの部分はきれいさっぱり忘れている。物覚えが悪いのも捨てたものではない。同じ本を何度も楽しめるのだから。

 今野敏の名前は知っていたがそれまで読んだ作品はなかった。1978年、大学在学中にデビューし、その後は長らく賞と無縁な時代が続いた。『隠蔽捜査』で2005年の吉川英治文学新人賞、『果断 隠蔽捜査2』で2008年の山本周五郎賞と日本推理作家協会賞を受賞した。「玄人(くろうと)筋では評価が高かった」(西上心太〈にしがみ・しんた〉:「果断」文庫版解説)、「無冠の帝王であった」(村上貴史〈むらかみ・たかし〉:「初陣」文庫版解説)などと持ち上げる向きもあるが買い被り過ぎだろう。本シリーズ以外の作品を2~3冊読んだが全く面白くなかった。

 つまり、だ。今野敏は「竜崎伸也」〈りゅうざき・しんや〉というキャラクターを生み出すのに作家人生の四半世紀を費やしたことになる。

 キャラクターは特徴・性質を表す言葉で、個人を表すのはパーソンである。パーソンはペルソナ(仮面)に由来する。竜崎伸也というパーソンを生んだ途端、物語は勝手に走り出したのだろう。確立されたキャラクターは自律運動を始めるのだ。

 キリスト教の場合だとアダムとイブが該当する。ま、神そのものにも特徴があるゆえ、大いなるペルソナと考えてよかろう。

 そこまで気づくと、結局我々の人生も「どのようなキャラクター作りを行うか」がテーマになっていることが理解できる。思春期に方針が決まらないと、外部の様々な情報に振り回される羽目になる。私のように3歳でキャラクターが決まっていれば、あれこれ迷うことは全くない。間もなく還暦を迎えるが、他人の顔色を窺ったことは片手で数えるほどしかない。いつだって喧嘩上等である。

 本シリーズが独創的なのは警察庁のキャリア官僚を主役にしたところだが、原理原則と合理性を重んじる竜崎は、役人の理想を体現しているように見える。しかしそれだけではあまりにも小物である。ヒーローたり得ない。竜崎の価値観は本音と建て前を使い分ける日本の文化や、上意下達の官僚組織や、縦割り行政の矛盾を衝くために必要不可欠なのだ。

 エリート官僚の世界は足の引っ張り合いが横行し、縄張り意識で省庁や警察署同士がいがみ合い、権限のある者が威張り散らす。大東亜戦争を思い起こすほど、この国の権力機構は変わっていない。彼らの仕事の半分以上は無駄なもので、国民の利益よりも自分たちの面子をひたすら重んじる。

 キャリアとノンキャリアの差別も酷いものだ。日本では22歳で競争が終わってしまうのだから。大器晩成型の人材は役所で生きてゆくことはできないだろう。エリート選抜システムの単純さがこの国を亡ぼすかもしれない。そんな危惧すら抱かせる。

2022-01-08

のたうち回るような衝撃/『イノセント・デイズ』早見和真


 ・のたうち回るような衝撃

『ぼくんちの宗教戦争!』早見和真

ミステリ&SF

 幸乃の呼吸の音だけが耳を打つ時間は、数分にわたり続いた。6年かの拘置所生活ではじめて見せる彼女の抗おうとする姿に、周りを取り囲んだ者たちは息をのんで見守るしかなかった。それは私が望み続けていた光景に近かった。ただ、彼女が立ち向かおうとするものだけが、望んだものと違っていた。

【『イノセント・デイズ』早見和真〈はやみ・かずまさ〉(新潮社、2014年/新潮文庫、2017年)】

2021年に読んだ本ランキング」に入れるのを忘れていた。衝撃の度合いでは高村薫著『レディ・ジョーカー』を超える。死刑囚・田中幸乃と彼女を取り巻く人々の短篇連作集である。異なる人生が事件を巡って交錯する。それぞれの思いが擦れ違い、欲望が絡み合う。

 私にとっては女子高生のいじめが目を背けたくなるような代物だった。「旭川女子中学生いじめ凍死事件」(2021年)を思えば、さほど珍しいことでもないのだろう。もしも私が被害者なら間違いなく相手を殺す。迷うことなく。自分の力が弱ければ不意打ちをすればいい。人間の知性はそのように使うべきなのだ。「いじめを行った者は必ず殺される」という事実が常識となれば、いじめはこの世からなくなることだろう。

 どこにも救いのない物語である。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』へのオマージュ作品だとすれば、見事に成功している。のたうち回るような衝撃である。

2021-08-03

創作された存在/『レディ・ジョーカー』高村薫


・『黄金を抱いて翔べ』高村薫
・『神の火』高村薫
・『わが手に拳銃を』高村薫
・『リヴィエラを撃て』高村薫
・『マークスの山』高村薫
・『地を這う虫』高村薫
・『照柿』高村薫

 ・鑑とは
 ・創作された存在

・『李歐』高村薫
・『半眼訥訥』高村薫
『あなたに不利な証拠として』ローリー・リン・ドラモンド

ミステリ&SF

《ところで、半田さんから聞いた。仲間に入れてほしい》
「理由は何だ」
《理由が要るのか》
「そういうわけではないが、君もいろいろ考えていることがあるだろう」
《人生に踏ん切りをつけたいだけだ》
「何のための踏ん切りだ」
《俺の人生を見たら、分かるだろう》
「君の人生か。腕のいいドライバーで、月に六、七十万の稼ぎがあって、嫁さんが病気で、娘が障害児だ。それがどうした。そんな人生は世間にごまんとある」
 物井は、布川が気分を害して電話を切ってしまうだろうと思ったが、電話は切れなかった。代わりに、全身から噴き出したような、ほとんど悲鳴のような《ああ――》というため息が聞こえ、また沈黙になった。野球のボールを打つカーンという音、走れ、走れと叫ぶ子どもの笑い声が電話の向こうで響いた。
 理屈ではなく、幸不幸でもなく、弱い人生が一つあるというだけのことだった。

【『レディ・ジョーカー』高村薫〈たかむら・かおる〉(毎日新聞社、1997年/新潮文庫、2010年)】

 冒頭の怪文書を読んでいて不思議な気分に浸(ひた)った。創作された存在が目の前に立ち上がってきたのだ。存在は目撃される。しかし、それを誰かに伝える時、存在は言葉と化す。死者を語る行為は新たな生を吹き込む営みでもある。旧字体で綴られた文書を通して私の中に岡村清二という男を立ち上がらせる。本来、不在のはずの人間が存在する不思議に目眩(まめい)がした。

 それにしても文章がいい。澱(よど)みなく流れる速度の心地よさを感じる。野球に興じる子供たちが障碍を持つ娘の姿を際立たせる。「踏ん切り」と「弱い人生」というキーワードの重みがまた心地よい。

 ビッグネームなので敢えて必読書には入れなかった。尚、相変わらずの同性愛傾向が腐女子っぷりを示しているようで感心しない。もう一つ、合田・半田・倉田と田がつく苗字が多いのも瑕疵(かし)と言える。

2021-05-20

鑑とは/『レディ・ジョーカー』高村薫


・『黄金を抱いて翔べ』高村薫
・『神の火』高村薫
・『わが手に拳銃を』高村薫
・『リヴィエラを撃て』高村薫
・『マークスの山』高村薫
・『地を這う虫』高村薫
・『照柿』高村薫

 ・鑑とは
 ・創作された存在

・『李歐』高村薫
・『半眼訥訥』高村薫
『あなたに不利な証拠として』ローリー・リン・ドラモンド

ミステリ&SF

 さらに、被害者の鑑の範囲はきわめて狭く、施設に友人もなく、施設の外との手紙のやり取りもない。

【『レディ・ジョーカー』高村薫〈たかむら・かおる〉(毎日新聞社、1997年/新潮文庫、2010年)以下同】

「鑑」の意味を検索したのだが判明せず。そもそも「かん」なのか「かがみ」なのかもわからない。150ページほど先に答えがあった。

「なに、悪くはない組み合わせだ。関係者同士の地理的社会的つながりを警察の用語で鑑(かん)と言うんだが、俺たちにはその鑑がほとんどない。鑑がないと、捜査する側は犯行グループを辿(たど)りにくい」

 つまり土地鑑(※土地勘は誤用)の鑑だ。尚、私が読んだ作品のリンクを示してあるが、『半眼訥訥』だけは面白くなかった記憶がある。

土地鑑 - Wikipedia
ことばの話2815「土地鑑か?土地勘か?」

2021-05-09

幼い心の傷痕/『緑衣の女』アーナルデュル・インドリダソン


『罪』カーリン・アルヴテーゲン
『湿地』アーナルデュル・インドリダソン

 ・幼い心の傷痕

・『』アーナルデュル・インドリダソン
・『湖の男』アーナルデュル・インドリダソン
・『厳寒の町』アーナルデュル・インドリダソン
・『許されざる者』レイフ・GW・ペーション

ミステリ&SF

「それがすべての原因だろうか。わからない。おれは10歳だったが、あれ以来ずっと罪悪感を感じている。それを払い落とすことができないでいる。いや、払い落としたくないんだ。良心の痛みは壁となって、俺が手放したくない悲しみのまわりを囲んでいる。もしかするとおれはずっと前にこの悲しみを手放して、救われた命をありがたく思い、なんらかの意味をこの人生に与えるべきだったのかもしれない。だがおれはそうしなかった。これからもきっとそうしないだろう。人はみななにか重いものを背負っている。おれの背負っている荷物は、同じように大切な人を失ったほかの人の荷物よりも重いというこではないかもしれない。だが、おれにはこれ以外の生き方ができないんだ。
 おれの中でなにかが消えてしまった。おれはあの子を見つけることができなかった。いまでもしょっちゅうあいつの夢を見る。あいつはまだあそこのどこかにいるとおれにはわかっている。一人で吹雪の中をさまよい、みんなに見捨てられ、寒さに震えている。しまいにどこかに倒れるんだ。だれにも見つけられないようなところに。雪が吹き積もって、姿が見えなくなってしまう。おれがどんなに探しても、どんなに彼の名前を読んでも、だめなんだ。おれには見つけられない。彼の耳におれの声は届かない。吹雪の中で永遠におれの視界から消えてしまうんだ」

【『緑衣の女』アーナルデュル・インドリダソン:柳沢由実子〈やなぎさわ・ゆみこ〉(東京創元社、2013年/創元推理文庫、2016年)】

 アーナルデュル・インドリダソンの作品は全部読んでいる。北欧の暗い心情が何となく日本の侘(わ)び寂(さ)びと共鳴する。エーレンデュル捜査官シリーズは現実のリズムを奏でて振幅の大きいメロディーを拒む。頑ななまでに。

 エーレンデュルは幼い頃に吹雪で遭難し弟を喪った。その傷痕が中年になっても癒えていない。むしろ樹木の傷のように歳月を経るごとに大きく引き延ばされてゆく。娘との関係も破綻している。10代の娘がドラッグ漬けになったり、売春に手を染めているのが日常的な光景のように描かれていて、欧州の惨状が垣間見える。

 主人公の内省志向が好き嫌いを分ける。私は決して嫌いではないが、最新作『厳寒の町』では完全な失敗を犯している。

2021-05-05

貝印の旬シリーズ/『ゴースト・スナイパー』ジェフリー・ディーヴァー


『ボーン・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー
・『コフィン・ダンサー』 ジェフリー・ディーヴァー
『エンプティー・チェア』ジェフリー・ディーヴァー
・『石の猿』ジェフリー・ディーヴァー
・『魔術師(イリュージョニスト)』ジェフリー・ディーヴァー
・『12番目のカード』ジェフリー・ディーヴァー
『ウォッチメイカー』ジェフリー・ディーヴァー
『ソウル・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー
『バーニング・ワイヤー』ジェフリー・ディーヴァー

 ・貝印の旬シリーズ

・『スキン・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー
・『スティール・キス』ジェフリー・ディーヴァー
・『ブラック・スクリーム』ジェフリー・ディーヴァー
・『カッティング・エッジ』ジェフリー・ディーヴァー

 後部座席に置いていたスーツケースから宝物の一つを取り出した。愛用の料理用ナイフ――貝印“旬”(しゅん)シリーズのスライスナイフ。刃渡り22センチ、日本の関(せき)市で鍛冶職人によって一つひとつ作られたもので、刃の部分にこのブランドの特徴的な槌目(つちめ)模様が入っている。刃の芯材はV金10号、そこにダマスカス鋼を32層重ねて作られたものだ。柄の材質はクルミ、価格は250ドル。同じ会社のさまざまな形状やサイズのナイフを何本も持っているが、なかでも気に入っているのはこのスライスナイフだ。我が子のように愛している。魚を下ろすのにも使うし、牛肉をカルパッチョ用に透けるほど薄く切るのにも、また人間にモチベーションを与える道具としても使う。

【『ゴースト・スナイパー』ジェフリー・ディーヴァー:池田真紀子訳(文藝春秋、2014年/文春文庫、2017年)】

 夢は断片的な情報がストップモーションで次々に現れるのだが目覚める直前に脳が物語化する。細切れの情報が脈絡のあるストーリーとして再構成されるのだ。記憶もまた同様で当てにはならない。『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』の後で本書を読んだと思い込んでいたのだが実は逆だった。

 いずれにせよ大した料理もできない私が庖丁を強く意識したのはこれら二つのテキストによるところが大きい。脳に刻印されたのは鋼(はがね)と貝印だ。そして最近、庖丁研ぎに目覚め、次に購入すべき庖丁を探していた時に、月寅次郎氏のサイトと出くわした(家庭用のおすすめ庖丁)。強く望めば歩むべき道を見出すことができる。

 では犯人が愛用している庖丁をご覧いただこう。


 月寅氏の旬シリーズ(貝印の海外向けブランド)に対する評価は「ロゴもダサい上、コストが悪い」と辛辣だ(関孫六・旬(貝印)- 包丁ブランドの解説(1))。

 驚くべきはジェフリー・ディーヴァーの見識だろう。ひょっとすると実際に使っているのかもしれない。最後の「人間にモチベーションを与える」という言葉が庖丁の切っ先のように突き刺さる。「痛めつける」でもなく、「従わせる」でもない。やる気を出させるのだ。

 最後に最近見つけた外国人掲示板の翻訳ページをいくつか紹介しよう。

外国人「日本の刀匠はこうやって包丁を削っていくらしいぞ」 : 海外の万国反応記@海外の反応
海外「日本製の包丁が好きな外国人、ちょっと集合してくれ」 : 海外の万国反応記@海外の反応
「間違いなく世界最高峰の職人芸」 岐阜県の刃物まつりに参加した外国人がクオリティに感嘆 : 海外の万国反応記@海外の反応

2020-06-07

警察組織にはびこる薩長閥/『初陣 隠蔽捜査3.5』今野敏


『隠蔽捜査』今野敏
『果断 隠蔽捜査2』今野敏
『疑心 隠蔽捜査3』今野敏

 ・警察組織にはびこる薩長閥

『転迷 隠蔽捜査4』今野敏
『宰領 隠蔽捜査5』今野敏
『自覚 隠蔽捜査5.5』今野敏
『去就 隠蔽捜査6』今野敏
『棲月 隠蔽捜査7』今野敏
・『空席 隠蔽捜査シリーズ/Kindle版』今野敏
『清明 隠蔽捜査8』今野敏
・『選択 隠蔽捜査外伝/Kindle版』今野敏
『探花(たんか) 隠蔽捜査9』今野敏

ミステリ&SF

 理由は明らかだ。
 初代の警視庁大警視は、薩摩(さつま)藩出身の川路利良(かわじとしよし)だった。大警視は後の警視総監だ。
 今とは、警察機構自体が違うのだが、事実上、川路利良は全国の警察のトップだったと言える。
 警視庁は当時から東京府の警察だったが、内務省が統括していた。他の地方警察が知事によって統括されていたことを考えれば、警視庁は国家警察の性質も持ち合わせていたのだ。
 事実、その後は、特別高等警察など、内務省の実務をこなしていくことになる。
 戦後、警察も大きく様変わりした。全国の警察組織である警視庁と、地方警察とに分かれた。
 だが、いまだに警察組織は、薩長閥(さっちょうばつ)がある。一般の人には信じられないかもしれないが事実なのだ。
 警視庁のことを符丁(ふちょう)でサッチョウと呼ぶ。これは警視庁と区別してケイだけを省いたのだと言われているが、それだけではない。実は、薩長とかけてあるのだ。
 会津と薩摩・長州は、その歴史をひもとくまでもなく犬猿の仲だ。
 会津藩最後の筆頭家老だった西郷頼母(さいごうたのも)や白虎隊(びゃっこたい)の悲劇は、いまだに住民の心に深く刻まれている。それが、薩摩・長州への恨みにつながっているのだ。

【『初陣 隠蔽捜査3.5』今野敏〈こんの・びん〉(新潮社、2010年/新潮文庫、2013年)】

 私が道産子のせいか血や土地のつながりを重んじるエトスが全く理解できない。苫米地英人〈とまべち・ひでと〉も「日本における『勝ち組』の正体は薩摩・長州出身者」と指摘している。

 ところで、徳川幕府に取って代わった明治維新の新勢力は、結局どのような人物たちでしょうか。
 もちろん、薩摩と長州の武士たちです。
 脈々と現代に生き続ける、日本の「勝ち組」の正体は、じつはこの薩摩と長州を中心とする勢力だということができます。
 明治維新以来、昭和21年に日本国憲法が施行されるまでの間に任ぜられたのべ45人の内閣総理大臣のうち、薩摩出身者はのべ5人、長州出身者はのべ11人に上っています。倒幕に参加した土佐藩からはのべ1人、肥前藩からはのべ2人、占有率はじつに42パーセントを超えてしまいます。大蔵大臣、外務大臣などの主要ポストも薩長閥がほとんどです。
 中央省庁のなかでも、とくに警察庁と防衛省は、薩長の牙城です。鹿児島県、山口県の出身者が多く、事情を知る関係者の間には「鹿児島県、山口県の出身者でなければ出世できない」という暗黙の了解があるほどです。最後まで新政府軍と戦った会津藩の福島県には、昭和になってからようやく国立大学が創られたというのも有名な話です。

【『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(ビジネス社、2008年)】

 安倍晋三首相も長州から出馬している。東京生まれだが本籍は父親(安倍晋太郎)の故郷である山口県になっている。

 内田樹〈うちだ・たつる〉が「原発があるのは戊辰戦争のときの賊軍側の藩ばかり」と言ったのは強(あなが)ち的外れではない(安易には言えないが、原発が立地しているところは戊辰戦争や西南戦争の敗者が多いのは確かだ | タクミくん二次創作SSブログ(Station後))。

 藩閥、軍閥、閨閥(けいばつ)、学閥などがまかり通っているならば、人事は情に流されていると言ってよい。閥とは利益を共有するつながりである。それが1869年(戊辰戦争が終わった年)から続いているとすれば腐敗の極みに達しているのは確実だ。

 世界にあってもロスチャイルド家は同族の婚姻しか認めないと言われる。また、「アメリカ大統領は1人を除き全て英国史上最低の暗君ジョン王の子孫だった」と12歳の少女が見破ったのは2012年のことだ(世界の真実や報道されないニュースを探る ■地球なんでも鑑定団■)。

 政治家の世襲は政治資金団体を通すことで相続税を回避するのが最大の目的とされる。株式会社もまた同様だ。国家を率いる立場の政治家や企業家が税負担を避けながら、その一方で消費税を増税するとは噴飯物である。

 共産主義が目指した革命にはそれ相応の大義があった。だが実現した社会主義国家には新たな門閥が生まれただけであった。崩壊したソ連から何一つ学ぶことなく共産主義の郷愁に浸っている団塊の世代が多い。

 薩長閥は戦後レジームよりも厚い壁なのだろう。

 尚、本シリーズの「.5」とは短篇集を意味する。

2020-02-24

和製ジェフリー・ディーヴァー/『犯罪者』太田愛


 ・和製ジェフリー・ディーヴァー

『幻夏』太田愛
・『天上の葦』太田愛
『未明の砦』太田愛

ジェフリー・ディーヴァー
ミステリ&SF

 首都高のジョイントの音がメトロノームのように単調に響く車内で、滝川は掌の中でいつものように握力ボールを回転させながら黙って服部から事の次第を聞いた。事務的な口調とは裏腹に服部の胸の内が冷たい怒りに満ちているのが滝川にははっきりと解った。今夜は相手にまんまと裏をかかれ、服部は使いに出された小僧も同然だった。そのうえ、明後日には佐々木邦夫の要求どおり滝川と二人で5億の金を運び、繁藤修司とサンプルを買い取るよう磯辺に命じられたのだ。頭にくるのももっともだと滝川は思った。それでも服部は、先ほど滝川が目にした森村に比べれば格段に落ち着いている。服部は怒りや鬱屈をそのまま集中力に変えるだけの、どこかしら陰惨な匂いのする自制心を身につけている。滝川はそう感じた。

【『犯罪者』太田愛〈おおた・あい〉(角川書店、2012年『犯罪者 クリミナル』/角川文庫、2017年)】

 一気読み。太田愛はテレビドラマの脚本家で「TRICK2」「相棒」などを手掛けた。とてもデビュー作とは思えぬ出来栄えで老練な印象すら受けた。

 駅前広場のテロ事件から幕を開ける。出刃包丁を振りかざした無差別テロが実は計画的な犯行で4人の被害者には共通項があった。もう一つ別の物語が並走する。幼児を襲う奇病メルトフェイス症候群だ。眼球を含む顔面の組織が次々と壊死する病だった。原因は食品大手のタイタスフーズが作った離乳食「マミーパレット」に混入していた中国産の野菜と後に判明する。架空の病気を設けることで薬害が生まれるメカニズムを見事に描いている。太田は森永ヒ素ミルク事件(1955年)をイメージしたようだ。

 二つの物語が一つに結びつき真相が判明する。しかも下巻の序盤で。「ここからまだ捻(ひね)るのか」という期待が一気に高まる。和製ジェフリー・ディーヴァーの誕生か。

 滝川は政治家に雇われた殺し屋である。繁藤修司〈しげとう・しゅうじ〉と彼を匿う刑事の相馬亮介、そして元テレビマンの鑓水七雄〈やりみず・ななお〉が滝川のターゲットだ。

 文句なしの面白さだが目立つ瑕疵(かし)が二つある。まず登場人物の名前がよくない。苗字が奇抜だと読み手は記憶することを強いられ物語に集中する力を削がれる。ロシア文学が嫌われるのも人物名を覚えられないためだ。次に若い修司が相馬や鑓水に助けられながらも二人を呼び捨てにすることはあり得ない。理解に苦しむ設定だが、ひょっとするとテレビ業界の影響があるのかもしれぬ。

 尚、太田作品は『幻夏』『天上の葦』と続くが、いずれもこの3人が主役なので本書から順番で読むのが望ましい。

2019-12-15

脇役が光る/『許されざる者』レイフ・GW・ペーション


 ・脇役が光る

ミステリ&SF

「いや、平手です」マックスは、ヨハンソンの親友よりもまだ大きい右手を広げてみせた。
「鼻を平手打ちしただけで。だって、やつはその前におれのことを車で轢いたんですよ?」
「鼻だって?」こいつ、前にもやっているな――。平手と拳では処分がちがうのを知っていやがる。
「殺さずに出血させるにはいちばんいい場所ですから」マックスは肩をすくめた。「顎や額を殴ったら、死なせてしまうかもしれない。おれは、血を流さずに頭蓋骨を割ることもできますから」
「それだけか」どうやら優しい心ももちあわせているようだ。
「はい。あとはその場を去っただけです」
「やつが生きているといいが」
「もちろん生きてますよ。ちょっと鼻血を出したくらいで死ぬやつはいないでしょう」
「そうだな。他に方法はなかったんだな?」
「ええ。レストランに入って殴ることもできたけど、そんなことしたらたくさんの人に見られてしまう。長官、おれのこと怒ってますか」
「大丈夫だ。お前の言うとおりだとしたら、怒るに怒れない状況だからな」それに、今この瞬間にお前を養子にしたいと名乗り出るやつらを、少なくとも二人は知っている。
「長官、安心してください。おれは嘘はつきません。嘘をつくのは悪いやつだけだ。おれは今まで嘘をつく必要などなかった」

【『許されざる者』レイフ・GW・ペーション:久山葉子〈くやま・ようこ〉訳(創元推理文庫、2018年)】

 元国家犯罪捜査局長官が脳塞栓(心臓由来の脳梗塞)で倒れた。入院先の病院で女性主治医から25年前の未解決事件を聞かされる。9歳の少女を強姦した犯人は捕まっていなかった。ラーシュ・マッティン・ヨハンソンは車椅子生活を余儀なくされながらも非公式の捜査に取り掛かる。昨今話題の北欧ミステリだがスウェーデンの微妙な地政学が伺えて興味深い。

 ヨハンソンは主役だから人物造形が優れていて当然だが、介護人のマティルダと用心棒役のマックスが秀逸なキャラクターだ。マティルダはピアスまみれだが実は賢い。マックスはロシア生まれ。養護施設で悲惨な目に遭いながら育った。無口だが腕っ節は滅法強い。形を変えた親と子の物語だ。

 ラストの賛否が分かれるところだが作者は読者のカタルシスを優先したのだろう。個人的にはマックスを主役にしたシリーズを待望する。

2019-09-01

諜報大国イギリス/『裏切りのノストラダムス』ジョン・ガードナー


 ・諜報大国イギリス

・『ベルリン 二つの貌』ジョン・ガードナー
・『沈黙の犬たち』ジョン・ガードナー
・『マエストロ』ジョン・ガードナー

ミステリ&SF

 おそらくケンプは、最後の審判の当日になってもその懐疑的な性格を捨てず、それどころか、みんなの前に進み出て、大天使ガブリエルの職権を証明する書類を見せろと請求し、ガブリエルが自分の身分証明書と天国音楽学校の卒業証明書を提示しないかぎり、審判開始のラッパをたとえ1音符分でも吹き鳴らすことを許さないだろうとは、みんながかねがね噂し合っているところだった。

【『裏切りのノストラダムス』ジョン・ガードナー:後藤安彦〈ごとう・やすひこ〉訳(創元推理文庫、1981年)】

 諜報大国といえば真っ先にイギリスの名が上がる。続くのはヴァチカン(市国)である。かつてのソ連は凄まじい深度で資本主義国に浸透したが政治運動の匂いが強い。またアメリカの場合は力を背景にした軍事的な色彩が濃い。

 血塗られたヨーロッパの歴史で生き延びるために権謀術数は欠かせない。昔の国王が国を超えて姻戚関係を結んだ事実を思えば近代ヨーロッパは中国春秋時代の趣がある。産業革命を成し遂げ、七つの海を制覇したイギリスは世界の情報を掌握した。

 余談になるが「大航海時代」というキーワードは日本人の造語らしい(増田義郎〈ますだ・よしお〉による命名)。欧米では「Age of Discovery」(発見の時代)、「Age of Exploration」(探検の時代)というそうだ(Saki T アメリカ在住翻訳家)。近代がヨーロッパ中心主義であったことは動かし難い事実である。とすればヨーロッパ人の思い上がりをはっきりさせるためにも「Age of Discovery」(発見の時代)と表記した方がいいように思う。

「発見の時代」(Age of Discovery/大航海時代)においてヴァチカンは世界中に宣教師を派遣した。宣教師は世界各地で貿易を生業(なりわい)としながら各国情勢をヴァチカンに報告した。宣教師は植民地の尖兵として機能しながら宗教的な侵略を繰り返した。こうした歴史の積み重ねがヴァチカンの重厚なインテリジェンスとして現在も生かされている。

 本書は第二次世界大戦と1970年代を行き来するエスピオナージュである。ジョン・ガードナーはイアン・フレミング亡き後、007シリーズを引き継いだことで知られるが本物のスパイはどこまでも官僚である。ただし日本の官僚と異なるのは工作活動における言葉の操り方である。私からすれば修辞学の粋を凝らしたような駆け引きで、「こいつらの頭の中は一体どうなってるんだ?」と溜め息をつくばかりである。

 実際にナチスはノストラダムスの予言を都合よく利用したようだ。

 1939年の冬に、ベルリンの宣伝相官邸でゲッベルスは婦人のマグダからいきなり起こされた。彼女はノストラダムスの予言詩集を手に、或る部分をゲッベルスに指し示した。

 英国の政策は七度変わりそして二百九十年間血に染まるだろう
 独の支配から自由ではあり得ず
 ポーランドは東方の焦点となる(3章57番)

 その詩を読んだゲッベルスは、ノストラダムスの大予言をナチスの宣伝に使うと思い至ったと言われている。

ノストラダムスの大予言とヒトラー | ハイパー道楽の戦場日記

 ハービー・クルーガー・シリーズは3部作で番外篇が1冊ある。いずれも500~700ページのボリュームで満腹感を味わえる。初めて読んだのは20年以上前のことだが二度目の方が面白く読めた。

裏切りのノストラダムス (創元推理文庫 204-1)
ジョン・ガードナー
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2019-08-17

陰影の濃い北欧ミステリ/『湿地』アーナルデュル・インドリダソン


『罪』カーリン・アルヴテーゲン

 ・陰影の濃い北欧ミステリ

『緑衣の女』アーナルデュル・インドリダソン
・『』アーナルデュル・インドリダソン
・『湖の男』アーナルデュル・インドリダソン
・『厳寒の町』アーナルデュル・インドリダソン
・『許されざる者』レイフ・GW・ペーション

ミステリ&SF

「子どもは哲学者だ。病院で、娘に訊かれたことがある。なぜ人間には目があるのかと。見えるようにだとぼくは答えた」
 エイナルは静かに考えている。
「あの子はちがうと言った」ほとんど自分だけに言っているつぶやきだ。
 それからエーレンデュルの目を見て言った。
「泣くことができるようによと言ったんです」

【『湿地』アーナルデュル・インドリダソン:柳沢由実子〈やなぎさわ・ゆみこ〉訳(東京創元社、2012年/創元推理文庫、2015年)】

 アーナルデュル・インドリダソンはアイスランドの作家で北欧ミステリを牽引する一人だ。エーレンデュル警部シリーズは15作品のうち4作品が翻訳されており、今のところ外れなし。ロシア文学同様、登場人物の名前に馴染みがなく覚えるのに難儀する。取り敢えず名前は声に出して読むことをお勧めしよう。

 北欧ミステリは陰影が濃い。そして内省的である。島国のせいかどこか日本と似たような印象もあるが、影の深さは非行と犯罪ほどの違いがある。例えばエーレンデュルの子供は二人とも別れた妻が引き取ったが姉のエヴァ=リンドは薬物中毒で弟のシンドリ=スナイルはアルコール依存症だ。

「泣くことができるようによ」――年を取ると泣くことが少なくなる。悲哀に耐える精神力はやがて柔らかさを失う。泣いてしまえばその後に必ずリバウンドがある。跳躍するためには屈(かが)む必要がある。涙は精神の屈伸なのだろう。涙を失った瞳の乾いた大人になってはなるまい。

2018-12-25

新潮社はダメかもね/『ぼくを忘れたスパイ』キース・トムスン


『時のみぞ知る』ジェフリー・アーチャー

 ・新潮社はダメかもね

「なんだっけか?」彼は自問した。

【『ぼくを忘れたスパイ』キース・トムスン:熊谷千寿〈くまがい・ちとし〉訳(新潮文庫、2010年)】

 またぞろ新潮社である。翻訳家の熊谷は東北出身なのか? やっぱりね。宮城県出身のようだ。私としては新潮社の編集の問題であると考える。言葉を生業(なりわい)とする者が言葉に対して鈍感になった事実が新潮社の凋落(ちょうらく)ぶりを示して余りある。ひょっとすると「訛(なま)り」をも訳した可能性があるが、それならそうと説明を加えるべきだ。2ページ目でかような言葉を目にして読み続けることは困難だ。

ぼくを忘れたスパイ〈上〉 (新潮文庫)
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ぼくを忘れたスパイ〈下〉 (新潮文庫)
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