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2021-10-31

農業の産業化ができない日本/『脱ニッポン型思考のすすめ』小室直樹、藤原肇


小室直樹
藤原肇

 ・農業の産業化ができない日本

『新しい資本主義 希望の大国・日本の可能性』原丈人

藤原●アメリカのCIAは、インテリジェンスをうたっているけど、内閣調査室を「日本のCIA」と呼ぶ場合には、あれは日本のセントラル・インフォメーション・エージェンシーの略だと思えばいい。どうせインテリジェンスのやれる人材なんかがいるわけないですから。

小室●インテリジェンスというのは数学的な発想が基礎になっています。ところがそれが日本人にはない。私は、かつて、役人相手に数学の基礎理論を手ほどきしたことがあるけど、その実情に驚いたことがある。

藤原●それは生態環境としての生活圏の問題が多いに関係しているせいです。それもインテリジェンスのレベルまで行かずに、インフォメーションのレベルで決定的な役割を演じています。くわしいことは『情報戦争』や『日本が斬られる』という本で論じたが、情報に対しての理解の仕方と構えで見ると、農耕民族と遊牧民は本質的に異なっているんです。農耕民の情報は蓄積し発酵して知恵にしている。それに対して、遊牧民の情報はオンタイムでとらえ、的確に選択し行動に移すことで、そのグループの生存に結びつける。そうなると、リーダーシップが関係してきて、遊牧民はリーダー中心の社会で、いうならば、男の世界です。

小室●たしかに、農耕社会は大地と結びついているから女性的です。日本も天照大神が一番偉いし、かつ女性上位だし……。

藤原●トップの性別はあまり関係なくて、たとえ男であっても女性型支配をするのです。それが長老であり、農耕民族は蓄積だから長老が一番偉い。情報も新しさよりも知恵と結びついた古さのほうが重要視される。その辺にリーダー型の西欧や中東と、長老型のアジアの違いがあります。

小室●一般にヨーロッパ的、アジア的と区分する人が多いが、中国やインドのほうが日本よりはるかにヨーロッパに近い。実は、世界中で日本だけが例外中の例外です。たとえば、牧畜を例にとってみても、牧畜をまったくやらないのは日本ぐらいで、中国もインドも農業と牧畜の二本建(ママ)てです。それに日本の驚くべき特徴として指摘していいのは、どんなに見かけ上近代化したように観察されても、日本では農業が絶対に産業化されない点です。こういうことはアジアでもめずらしい。

藤原●日本語では術語が十分にないので、議論がむずかしいから英語を借りて話すと、日本にはファーミングもアグリカルチャーもなくて、あるのはガーデニングだけです。ガーデニングは技術集約化がむずかしいから産業化するところまでは行かない。

小室●日本軍がフィリピン作戦をしたときに、フィリピンは農業しかないから、農村地帯では食糧が自給できるはずだと思い込んでいたら、それはとんでもないことだった。タバコ地帯ではタバコだけしかないし、麻を作るところには麻しかなかった。いわゆるモノカルチャーです。農村地帯は食糧があるはずだと期待したいのに、食糧はない。だがタバコや麻を食べるわけにいかないので、作戦は大混乱してしまったそうです。

藤原●ベトナムだってブラジルだって同じです。農業が労働力集約型から技術集約型への進化の系列の中で動いているので、産業が可能になる。それを植民地主義がプランテーション化を通じてやったわけです。

小室●フィリピンは遅れている、と日本人は頭から決めつけてかかる癖があるが、農業でみる限りでは、産業の組織化という点で、返っらのほうがはるかに進んでいる。日本の農業なんて何でも作るし、それも主な目的は家族が食べるところにある。

藤原●インダストリアライズして剰余価値を生み出すところまで行っていない。

小室●農業に見る限り、日本は世界で最も遅れた状態を維持している。しかも、この農業地帯を地盤にした政党が農本的な政治をやってきたのだし、これからも続けようとしているので救いがありません。

藤原●そこに日本の政治が近代以前のパターンでしか機能しない理由もあるし、日本人が情報一般に関して非常にニブイ原因もあると思います。その当然の帰結として、インテリジェンスの問題がいかに重要であるかについて誰も気がつかないし、また、それを論じようともしないのです。(中略)

藤原●とてもじゃないが、日本の農業社会を見る限りでは、近代資本制などの水準には達していないといえます。

小室●とてもキャピタリズムじゃない。

藤原●じゃあ、前に話したように原始(グラスルーツ)共産制ですね。

小室●農業だけでなく企業や産業界までが同じであり、労働力は労働と分化しないまま、労働者は会社という一種の共同体の所属物になってしまっている。古典的な資本主義では労働市場が存在して、そこでは完全な自由競争が行なわれるのに、日本ではそれさえなくて、賃金でさえ、生きる上で必要な給与を分配してもらう形をとっている。

藤原●原始共産制における分け前だから、交通費や厚生費の現物支給があったり、年功序列の手当てが給料の形をとるのです。

小室●それに〈生産者と生産手段が分離する〉という、資本主義にとって最も基本的なこの性格が欠けている日本の経済システムは、中世的な共同体のままといえます。

藤原●中世じゃなくて古代以前だと思いますね。政治を見ればわかるけれど、どう考えても呪術的ですよ。だから、情報以前なのは当たり前かもしれない。

【『脱ニッポン型思考のすすめ』小室直樹〈こむろ・なおき〉、藤原肇〈ふじわら・はじめ〉(ダイヤモンド社、1982年)】

大東亜戦争はアメリカのオペレーションズ・リサーチに敗れた/『藤原肇対談集 賢く生きる』藤原肇

「オペレーションズ・リサーチ」が本書に書かれていたと思い込んでいて、三度も画像を確認する羽目となってしまった。これ、と思った情報はメモ書き程度で構わないから残しておく必要がある。はてなブログを使うか。

「インテリジェンス」という言葉は佐藤優〈さとう・まさる〉が嚆矢(こうし)と思いきや、本書の方がずっと早かった。藤原、小室、そして倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉あたりを嚆矢とすべきか。

 農業の産業化ができない日本という指摘は納得できる。近頃、農業本を数冊読んできたのだが「工夫次第では儲かる」というレベルで、大規模化を農地法が妨げている現状だ。安倍政権が何とか改革したが、まだまだ道半ばである。

 日本の政治は食料安全保障の意識が欠如している。食とエネルギーこそ国家の生命線である。自民党にとって農家は票に過ぎない。農業のグランドデザインを描く政治家を私は見たことがない。日本の食料自給率はカロリーベースで37%まで低下した(令和2年/日本の食料自給率:農林水産省)。国防もさることながら食料においても有事を想定していないことがわかる。

 小室と藤原は合理性をそのまま人間にしたような人物である。ただし、今読むとどこか新自由主義の臭いがして、すっきりと頷けないところがある。

2020-09-19

二・二六事件を貫く空の論理/『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹


『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹

 ・日本人の致命的な曖昧さ
 ・二・二六事件の矛盾
 ・二・二六事件を貫く空の論理

『世界史で読み解く「天皇ブランド」』宇山卓栄
『〔復刻版〕初等科國史』文部省

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

  二・二六事件を貫いているのは、ギリシア以来の論理ではなく、まさしく、この空(くう)の論理である。
 決起軍は反乱軍である。ゆえに、政府の転覆を図った。それと同時に、決起軍は反乱軍ではない。ゆえに、政府軍の指揮下に入った。
 決起軍は反乱軍であると同時に反乱軍ではない。ゆえに討伐軍に対峙しつつ正式に討伐軍から糧食などの支給をうける。
 決起軍は反乱軍でもなく、反乱軍でないのでもない。ゆえに、天皇の為に尽くせば尽くすほど天皇の怒りを買うというパラドックスのために自壊した。
 二・二六事件における何とも説明不可能なことは、すべて右の空(くう)の「論理」であますところなく説明される。

【『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹(天山文庫、1990年/毎日コミュニケーションズ、1985年『三島由紀夫が復活する』に加筆し、改題・文庫化/毎日ワンズ、2019年)以下同】

 面白い結論だが衒学的に過ぎる。三島の遺作となった『豊饒の海』から逆算すればかような結果が導かれるのだろう。だが仏教の「空」を持ち出してしまえば、それこそ全てが「空」となってしまう。

 青年将校の蹶起(けっき)に対して上官は理解を示した。4年前に起きた五・一五事件では国民が喝采をあげた。ここに感情の共有を見て取れる。例えるならば腹を空かせた子供が泣きながら親に抗議をするような姿ではなかったか。その子供が天皇の赤子(せきし)であり、親が天皇であるところに問題の複雑さがあった。当時の閣僚は言ってみれば天皇が任命した家宰(かさい)である。怒りの矛先が天皇に向かえば革命となってしまう。それゆえ青年将校の凶刃は閣僚に振り下ろされた。

 唯識論によれば、すべては識のあらわれであり、その根底にあるのが阿頼耶(アーラヤ)識
 しかし、もし、識(しき)などという実体が存在するなどと考えたら、これは仏教ではない。
 識(しき)もまた空(くう)であり、相依(そうい/相互関係)のなかにあり、刹那(せつな)に生じ、刹那に滅する。確固不動の識などありえないのだ。ゆえに、識のあらわれたる外界(肉体、社会、自然)もまた諸行無常なのだ。
 二・二六事件の経過もまた、諸行無常そのものであった。
 決行部隊のリーダーたる青年将校たちの運命たるやまるで、平家物語の現代版である。
 名もなき青年将校が、一夜あければ日本の運命をにぎり、将軍たちはおびえて彼らの頤使(いし)にあまんずる。昭和維新も目前かと思いきや、あえなく没落。法廷闘争も空しく銃殺されてゆく。この間の世の動き、心の悩み、何生(なんしょう)も数日で生きた感がしたはずだ。
 将軍たちの無定見、うろたえぶり、変わり身の早さ、海の波にもよく似たり。
 この間、巨巌のごとく不動であったのは天皇だけであった。
 天皇という巨巌にくだけて散った波。これが三島理論による二・二六事件の分析である。

 小室の正確な仏教知識に舌を巻く。天台・日蓮系では九識を立て、真言系では十識を設けるが実存にとらわれた過ちである。識とは鏡に映る像と考えればよい。鏡の向きは自分の興味や関心でクルクルと動く。何をどう見るかは欲望や業(ごう)で決まる。しかも自分では鏡と思い込んでいるのだが実体は水面(みなも)で、死をもって水は雲のように散り霧の如く消え去る。像や鏡の存在が確かなものであることを追求したのが西洋哲学だ。神が存在すると考える彼らは実存の罠に陥ってしまう。

 一神教(アブラハムの宗教)が死後の天国を信じるのと、バラモン教が輪廻する主体(アートマン)を設定するのは同じ発想に基づいている。ブッダは輪廻そのものを苦と捉えて解脱の道を開いた。諸法無我とは存在の解体である。「ある」という錯覚が妄想を生んで物語を形成する。人類は認知革命によって虚構を語り信じる能力を身につけた(『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ)。

 人は物語を生きる動物である(物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答)。合理性も感情も物語を彩る要素でしかない。我々が人生に求めるものは納得と感動である。異なる物語がぶつかると争いが起こる。国家や文化の違いが戦争へ向かい、敵を殺害することが正義となる。

 昭和維新は国家の物語と国民の物語が衝突した結果であったのだろう。しかし日本国にあって天皇という重石(おもし)が動くことはなかった。終戦の決断をしたのも天皇であり、戦後の日本人に希望を与えたのも天皇であった。戦争とは無縁な時代が長く続き、天皇陛下の存在は淡い霧のように見えなくなった。明治維新によって尊皇の精神から生まれた新生日本は、いつしか「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」(「果たし得てゐいない約束――私の中の二十五年」三島由紀夫)となっていた。

 畏(おそ)れ多いことではあるが日本の天皇は極めて優れた統治システムである。西洋の王や教皇は権力をほしいままにして戦争を繰り返した。天皇に権威はあるが権力はない。王政や共和政だと国家が亡ぶことも珍しくない。日本が世界最古の国家であるのは天皇が御座(おわ)しますゆえである。日本の左翼が誤ったのは天皇制打倒を掲げたことに尽きる。尊皇社会民主主義に舵を切ればそれ相応の支持を集めることができるだろう。

 最後に一言。天皇陛下が靖国参拝を控えた理由は「A旧戦犯の合祀に不快感を示された」ためと2006年に報じられたが(天皇の親拝問題)、二・二六事件での御聖断を思えばそれはあり得ないだろう。



誰のための靖国参拝

2020-09-16

二・二六事件の矛盾/『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹


『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹

 ・日本人の致命的な曖昧さ
 ・二・二六事件の矛盾
 ・二・二六事件を貫く空の論理

『世界史で読み解く「天皇ブランド」』宇山卓栄
『〔復刻版〕初等科國史』文部省

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 決行部隊の主張(Cause)は、かくのごとくもおそろしい矛盾(ジレンマ)を内包している。
 あるいは、このジレンマには、はじから目をつぶって、天皇を傀儡(かいらい/あやつり人形)化し、ただ唯々諾々(いいだくだく)、彼らの違憲に盲従させるとでも考えていたのか。
 彼らの旗印(はたじるし)のひとつは、天下も知るごとく、天皇親政である。
 では質問す。彼らが主張する「天皇親政」とは天皇を彼らのロボットとして自由にあやつって勝手気ままなことをなすことであったのか。
 これこそまさに、彼らが攻撃してやまない奸臣の所為ではないか。いや、それ以上だ。二・二六事件、五・一五事件の青年将校たちが、軍官のトップや財閥を奸臣ときめつけ殺そうとする理由は、これらの「奸臣」が天皇と国民のあいだに立ちはだかって国政を壟断(ろうだん)しているとみたからである。
 しかるに、決行部隊のリーダーたる青年将校の思想と行動は、右にみたごとく、畢竟(ひっきょう)、天皇のロボット化にゆきつかざるをえないことになる。
 この根本問題について、誰も本気になって考えてみない。いや、意識にすらのぼらなかったと言ったほうがいいだろう。
 かれ(ママ)ら青年将校の「尊皇」は、結局、「大逆」にゆきつき、「天皇親政」は、「天皇のロボット化」にゆきつく。
 青年将校たちは、こんなこと、夢にも思ってはいなかっただろう。
 しかし、気の毒千万ながら、かれら青年将校たちが、生命をすてて、ただ誠心誠意行動すればするほど、そのゆきつく果ては、こういうことになってしまうのである。
 では、なぜ、そんなことになってしまうのか。
 これを説明しうるのは、三島哲学をおいてほかにない。

【『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹(天山文庫、1990年/毎日コミュニケーションズ、1985年『三島由紀夫が復活する』に加筆し、改題・文庫化/毎日ワンズ、2019年)】

 二・二六事件で気を吐いた将校は石原莞爾〈いしわら・かんじ〉ただ一人であった。現場に駆けつけるや否や誰何(すいか)してきた兵士を怒鳴りつけている。そして蹶起(けっき)将校に同調していた荒木貞夫大将と真崎甚三郎大将を「こんなバカ大将がおって、勝手なまねをするもんだから、こんなことになるんです」罵倒した。

 事件後、帝国ホテルのロビーで三者会談が行われた。橋本欣五郎大佐、石原莞爾大佐、満井佐吉中佐の顔ぶれで、彼らは次の首相を誰にするかを相談した。橋本は建川美次〈たてかわ・よしつぐ〉中将、石原は東久邇宮、満井は真崎甚三郎大将を推した。利害絡みの思惑が一致することはなかった。

 青年将校を衝き動かしたのは止むに止まれぬ感情であった。論理は後付で北一輝が補強した。貧困は悲惨だ。人々から人間性を剥(は)ぎ取り獣性に追いやる。義侠心は暴力の温床となりやすい。不幸を目の当たりにすればムラムラと怒りが湧いてくるのは人間性の発露といってよい。

 小室は論理の陥穽(かんせい)を突く。義憤は視野を狭(せば)める。目的が暴力を正当化し、怒りはテロ行為へと飛躍する。天皇親政を目指した彼らの行為は共産革命そのものだった。

 そしてまた石原らの密謀は憲法に謳われた天皇の任免権を犯すものだった。小室の筆は矛盾を刺し貫く。昭和初期は天皇陛下を仰ぎながらも一方で神輿(みこし)のように上げ下げしようとした時代であった。

2020-09-11

日本人の致命的な曖昧さ/『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹


『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹

 ・日本人の致命的な曖昧さ
 ・二・二六事件の矛盾
 ・二・二六事件を貫く空の論理

『世界史で読み解く「天皇ブランド」』宇山卓栄
『〔復刻版〕初等科國史』文部省

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 そもそも(※二・二六事件の)決行部隊と正規軍との関係はいかなるものであったろうか。
 名前こそ“決行部隊”などとはいっても、勝手に軍隊を動かして、政府高官を殺し、首都の要衝を占領しているのである。いま仮に正当性の問題をしばらく措(お)いても、決行部隊は、反乱軍か、さもなくんば、革命軍(「維新軍」といってもよい)である。正規軍(政府軍)とは敵味方の関係である。生命がけで戦って、決行部隊が負ければ反乱軍として討伐され、勝てば、革命軍として新しい政府をつくる。
 これ以外の論理は、全くありえない。
 日本でも外国でも、これ以外の論理は、あったためしがない。その、ありうるはずのないことが、昭和11年2月26日の夜に起きた。(中略)
 決行部隊は、正規軍たる歩兵第三連隊長たる渋谷大佐の指揮下に入って、なんと、警備隊にくみこまれたのであった。
 想像を絶する出来ごとである。
 クロムウェルの鉄騎兵が、チャールズ二世の麾下(きか)に加わり、ロンドンを警備するようなものではないか。政府を潰滅(かいめつ)させ、東京を占領した決行部隊が、【政府】軍の指揮下に入って、自分たちが軍事占領している東京の警備にあたるというのである。

【『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹(天山文庫、1990年/毎日コミュニケーションズ、1985年『三島由紀夫が復活する』に加筆し、改題・文庫化/毎日ワンズ、2019年)以下同】

 二・二六事件を三島理論で読み解くという意欲的な試みである。宗教に造詣の深い小室ならではの着眼で、唯識を通した現象論を展開している。

 世界恐慌(1929年/昭和4年)は既に関東大震災(1923年/大正12年)、昭和金融恐慌(1927年/昭和2年)で弱体化していた日本経済に深刻な打撃を与えた。東北地方は1931-35年(昭和6-10年)にかけて冷害で大凶作となった。1933年(昭和8年)には昭和三陸地震で岩手県を中心に30メートル近い津波に襲われた。

 そのため恐慌時に打撃を受けていた農家経済はさらに悪化し、木の実や草の根を食糧とせざるをえない家庭や、身売りする娘、欠食児童の数が急増した。芸妓(げいぎ)、娼妓(しょうぎ)、酌婦、女給になった娘たちの数は、33年末から1か年の間に、東北六県で1万6000余名に達している。

小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

二・二六事件と共産主義の親和性/『大東亜戦争とスターリンの謀略 戦争と共産主義』三田村武夫
『親なるもの 断崖』曽根富美子

 東北出身の兵士はじっとしていることができなかった。自分の姉や妹が芸者として売られているのである。戦時中の慰安婦は職業であったが、当時の性産業は奴隷のような扱いをしていたと考えて差し支えない。避妊すらまともに行われていなかった。

 格差が革命の導火線となることは必定である。そもそも動物の群れを支えているのは平等原則なのだ(チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール)。第一次世界大戦に敗れたドイツをいじめ過ぎてヒトラーが登場したのは歴史の必然と言ってよい。

 渦中の1932年(昭和7年)に血盟団事件五・一五事件が起こる。昭和維新の激流は二・二六事件へと至るが、天皇という巌(いわお)の前に水しぶきとなって弾けた。

「警備」が必要になったというのも、もともと、決起部隊が、政府を消滅させ、東京を占領したからではないのか。かかる事態に対処するために警備が必要になったというのに、ことを起こしたご当人が、その警備役を買って出るというのだから、放火魔に火の用心をさせるようなものだ。
 もっと重大なことはこれだ。
 かくまで、ありうべからざる事態に直面して、軍首脳が、これは不思議だとは思わないことである。
 軍首脳のほとんどは、「反乱軍」をそのまま正規軍にくみ入れるなんて、そんなベラボーな、と思うかわりに、これは名案だとばかりにとびついた。いきりたっている決行部隊を正規軍の指揮下に入れれば、気もやすまって、もうあばれないだろう、というのである。
 いずれにせよ、なんでこんなベラボーといっても足りないことが起きたのか。その合法的根拠は、いったい、どこにあるのか。
 それは、戦時警備令による。
「戦時警備令」によって、決行部隊は、「合法的」に警備隊の一部に編入された。
 歩兵第三連隊長の渋谷大佐もこれを許可し、決行部隊の側でも、ヤレヤレこれで官軍になれたワイとよろこんだ。
 ここに、われわれは、「日本人の法意識」を、端的にみる思いがする。
 決行部隊は、日本政府を潰滅させ、東京を軍事力で占領した。
 これが合法的であるはずはない。決行部隊は、大日本帝国の法律を蹂躙(じゅうりん)した。これは、たいへんな日本帝国にたいする挑戦である。しかし、彼らのイデオロギーからすれば、国家の法律なんかよりも、「尊王」「討奸」の大義のほうがずっと重いのである。
 でも彼らの行為は非合法である。
 だれだってわかる。
 まして、陛下の軍隊を勝手に動かした。
 これは軍人的センスからいえば、非合法のなかでも、最大の非合法である。ほかのどんな非合法が許せても、この非合法だけは、断じて許すことはできない。大逆罪以上の大罪なのである。
 決行部隊は、すでにこの大罪をおかしている。
 これは、大日本帝国の法に対する真っ向からの挑戦である。
 欧米的センスからすると、彼らの行為は、大日本帝国そのものの否定ということにほかならない。
 いや、天皇の地位の否定とも解釈されかねない。いや、ほとんど確実に、このように解釈されることであろう。

 彼らは尊皇・討奸を掲げながら天皇に弓を引いた。二・二六事件を知った天皇は激怒した。自ら賊を討ちにゆこうとされた。青年将校らに同情的だった軍首脳は慌てふためいた。

 当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によって伺える。

Wikipedia

 国民の人気ほど当てにならないものはない。民草はいともたやすく風になびく。助命嘆願運動に責任があったとは思えない。時代の暗がりの中でヒーローと錯覚しただけの話だろう。

 日本人の致命的な曖昧さは今日に至っても変わることがない。例えば朝日新聞の慰安婦捏造記事だ。日本人の信頼を地に落とし、どれほど国益を毀損したか測り知れない。木村伊量〈きむら・ただかず〉社長の辞任などで到底収まる話ではない。しかも英語版では執拗に「従軍慰安婦」の記事を配信し続けたのだ。発行停止処分にするべきだった。

 また慰安婦に関して言えば、外務省の誰が「comfort woman」と訳したのか? この語訳が国際理解を得られるはずもない。翻訳した者を投獄するのが当然だろう。

 尖閣諸島問題も同様で日中国交回復(1972年)の際、田中角栄首相は日本の領土であることをはっきりと言わなかったことに端を発している。自民党の首相は内弁慶ばかりで外国へゆくと相手の顔色を窺うの常だ。

 官僚は江戸時代であれば侍である。国益を損なうようなことがあれば切腹するのが当然だという意識を持つべきだ。

 昭和維新の余韻は宮城事件(1945年終戦前日)にまでつながった。



二・二六事件前夜の正確な情況/『重光・東郷とその時代』岡崎久彦

2020-03-30

勝者敗因を秘め、敗者勝因を蔵す/『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦

 ・勝者敗因を秘め、敗者勝因を蔵す

『戦争と平和の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 勝者敗因を秘め、敗者勝因を蔵(ぞう)す。
 勝った戦争にも敗(ま)けたかもしれない敗因が秘められている。敗けた戦争にも再思三考(さいしさんこう)すれば勝てたとの可能性もある。
 これを探求して発見することにこそ勝利の秘訣(ひけつ)がある。成功の鍵(かぎ)がある。行き詰まり打開の解答がある。これが歴史の要諦(ようてい)である。(まえがき)

【『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹〈こむろ・なおき〉(講談社、2000年/講談社+α文庫、2001年)以下同】

 21世紀の日中戦争はもはや時間の問題である。マーケットはチャイナウイルス・ショックの惨状を呈しており、4月に底を打ったとしても実体経済に及ぼす影響は計り知れない。既にアメリカでは資金ショートした企業が出た模様。既に東京オリンピックの延期が決定されたが、国民全員が納得せざるを得なくなるほど株価は下落することだろう。そして追い込まれた格好の中国が国内の民主化を抑え込む形で外に向かって暴発するに違いない。

 小室直樹は学問の人であった。自分の知識を惜し気(げ)もなく若い学生に与え、後進の育成に努めた。赤貧洗うが如き生活が長く続いた。あまりの不如意に胸を痛めた編集者が小室に本を書かせた。こうしてやっと人並みの生活を送れるようになった。日本という国には昔から有為な人材を活用できない欠点がある。小室がもっと長生きしたならば中国が目をつけたことと私は想像する。

 日本はアメリカの物量に敗(ま)けたのではない。たとえば、ミッドウェー海戦において、日本は物量的に圧倒的に優勢だった。それでも日本は敗けた。ソロモン消耗戦においても、アメリカの物量に圧倒されないで、勝つチャンスはいくらでもあった。
「勝機(しょうき/勝つチャンス)あれども飛機(ひき/飛行機)なし」などと、日本軍部は、勝てない理由を飛行機不足のせいにしたが、この当時、ソロモン海域(ウォーターズ)における日本の飛行機数はアメリカに比べて、必ずしもそれほど不足してはいなかった。
 アメリカの物量に敗けた。これは、敗戦責任を逃れるための軍部の口実にすぎない。
 あの戦争は、無謀な戦争だったのか、それとも無謀な戦争ではなかったのか。答えをひとことでいうと、やはり、あの戦争は無謀きわまりない戦争だった。
 しかし、無謀とは、小さな日本が巨大なアメリカに立ち向かったということではない。腐朽官僚(ロトン・ビューロクラシー)に支配されたまま、戦争という生死の冒険に突入したこと。それが無謀だったのである。
 明治に始まった日本の官僚制度は、時とともに制度疲労が進み、ついに腐朽(ふきゅう)して、機能しなくなった。軍事官僚制も例外ではない。いや、軍事官僚制こそが、腐朽して動きがとれなくなった。典型的なロトン・ビューロクラシーであった。
 そんな軍部のままに戦争に突入したのは、たしかに無謀だった。その意味で、あの戦争は「無謀」だったのである。

 大東亜戦争の敗因が腐朽官僚にあったとすれば、戦後の日本は「敗者敗因を重ねる」有り様になってはいないだろうか。特に税の不平等が極めつけである。官僚は省益のために働き、天下りを目指して働いている。巨大な白蟻といってよい。日本のエリートがエゴイズムに傾くのは教育に問題があるのだろう。やはり東大が癌だ。

 侍(さむらい)は官僚であった。語源の「侍(さぶら)ふ」は服従する意だ。責任を問われれば切腹を命じられた。個人的には主従の関係性を重んじるところに武士道の限界があると思う。主君が道に背けば大いに諌め、時に斬り捨てることがあってもいいだろう。

 日本は談合社会であり腐敗しやすい体質を抱えている。特に戦後長く続いた自民党の一党支配は政治家を堕落させた。金券腐敗は田中角栄の時代に極まった。そんな政治家に仕えている官僚が腐敗せずにいることは難しい。政官の後を追うように業も落ちぶれたのはバブル崩壊後のこと。日本からノブレス・オブリージュは消えた。

 国防を真剣に考えることのない国民によって国家は脆弱の度を増す。この国の国民は隣国からミサイルが飛んできても平和憲法にしがみついて安閑と過ごしている。日中戦争は必至と考えるが、負けるような気がしてきた。

呪術の本質は「神を操ること」/『日本人のためのイスラム原論』小室直樹


・『国民のための経済原論1 バブル大復活編』小室直樹 1993年
・『国民のための経済原論2 アメリカ併合編』小室直樹 1993年
・『小室直樹の中国原論』小室直樹 1996年
『小室直樹の資本主義原論』小室直樹 1997年
『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹 1997年
・『日本人のための経済原論』小室直樹 1998年
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹 2000年
『日本人のための憲法原論』小室直樹 2001年
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹 2001年

 ・呪術の本質は「神を操ること」

・『イスラーム国の衝撃』池内恵
『イスラム教の論理』飯山陽

 このモーセとの対話にかぎらず、古代イスラエルの神はなかなか自分の名前を明かそうとしない。
 たとえば、アブラハムの子孫のヤコブに対してもそうだった。
 ヤコブというのは、イスラエル民族の直接の先祖とされる男なのだが、この人物のところにある夜、神が現われて彼と格闘をする。
 結局、ヤコブが神を負かしてしまうのだが、このとき彼が神に「どうかあなたの名前を教えてください」と尋(たず)ねるのである。
 すると神は、
「なぜわたしの名前を知りたいのだ」
 と言ったきり、本当の名前を教えなかったとある(「創世記」三二)。
 なぜ、神はモーセにもヤコブにも、自分の名前を教えなかったのか。
 また、なぜ神は十戒の中で「あなたの神、主(しゅ)の名をみだりに唱(とな)えてはならない」と命令したのか。
 それは呪術(じゅじゅつ)につながるからだ。
 マックス・ウェーバーは当時のエジプトにおいて、「もしもひとが神の名を知って正しく呼ぶなら神が従(したが)うという信仰」(『古代ユダヤ教』内田芳明訳)があったことを指摘している。
 つまり、神の本名(この場合、ヤハウェ)を呼び、そこで願い事をする。そうすれば、神は人間の願いをかなえてくれるというわけだ。
 呪術の本質は、神をして人間に従わせるということにある。
 その目的をかなえるために、神の名前を呼ぶ、あるいは火を焚(た)く、生贄(いけにえ)を差し出す、呪文を唱えるなどの方法が古来“開発”されてきた。
 こうした呪術を知っている人のことを、普通は呪術者とか魔術師と呼ぶわけだが、実は古代宗教の神官(しんかん)というのも、みな呪術者のようなものである。

【『日本人のためのイスラム原論』小室直樹〈こむろ・なおき〉(集英社インターナショナル、2002年)以下同】

 密教の特徴は呪術性にあると私は考える。鎌倉仏教はむしろ日本密教と呼ぶのが正確だろう(ただし禅宗は除く)。祈祷(呪法)・曼荼羅(絵像、木像)・人格神の3点セットが共通している。

 呪術の本質が「神を操ること」と喝破した慧眼には恐れ入った。私は長らく祈りと悟りについて思索してきたが「祈りが一種の取り引き」であり、欲望から離れることを教えたブッダに背く行為であることは理解できた。それが「神を操ること」であるならば人は神の上位に立ってしまう。仏教でいえば「法(真理)を操ること」になるのだ。

 こうした呪術は古代エジプトだけにあったわけでは、もちろんない。
「宗教のあるところ、かならず呪術あり」と言ったほうがいいくらいだ。
 人間というのはわがままだから、とうにかして自分の都合のいいように物事を動かしたがる。だからこそ、呪術がはびこり、大きな力を持つようになるというわけだ。
 そこで、心ある宗教者ならこうした呪術を何とか追放しようと試みる。
 たとえば仏教においてもそうである。
 仏教は本来「法前仏後」(ほうぜんぶつご)の構造を持つのだから、釈迦(しゃか)といえども、この世の法則を動かすことはできない。
 したがって、仏を操る呪術が出てくる余地はないのだが、その代わりに超能力は存在する。  仏教ではそれを「五神通」(ごじんつう)と呼ぶ。(中略)
 こうした神通力は釈迦自身も持っていたのだが、釈迦はけっして神通力の開発を奨励(しょうれい)しなかった。
 というのも、超能力は修行を深めていけば、自然に備(そな)わるものであって、それを目的に修行するのは本末転倒(ほんまつてんとう)になるからである。神通力ほしさに修行するなど、外道(げどう)の行なうことであるというのが仏教のスタンスであった。
「であった」と過去形でなぜ書いたかといえば、こうした釈迦の精神は仏教の普及とともに失(うしな)われていったからである。
 ことに決定的だったのは大乗(だいじょう)仏教の成立である。
 すでに述べてきたように、仏教は本来、修行によって救済を得るというのがその本旨(ほんし)であった。だから、悟りを得ようとすれば、いきおい出家をしてサンガに入ることが求められたわけである。
 だが、仏教が広がるにつれて、多数の在家信者(ざいけしんじゃ)が生まれてくると、そうは言っていられなくなった。出家しなくても、悟りを得る方法はないのかという要求が高まったのである。
 そこで生まれたのが大乗仏教であったわけだが、仏教の大衆化は否応(いやおう)なく呪術の発達を促(うなが)した。護摩(ごま)を焚(た)き、あるいは呪(じゅ)を唱(とな)えることで仏(ほとけ)や菩薩(ぼさつ)を動かし、自分の願いをかなえようとする方法が開発されるに至(いた)ったのである。
 また、仏教を各地に普及させるため、超能力も積極的に使われるようになった。中国で仏教が広まったきっかけも、インドからきた浮図(ふと/仏教僧)が驚くべき超能力を使ったからに他ならない。

 日本に仏教が伝わった時は超能力ではなく医学が使われた。私はブッダを思慕する者ではあるが仏教徒ではない。戒律と修行が悟りにつながるとは到底思えないのが大きな理由だ。ブッダに近侍(きんじ)したアーナンダ(阿難)が悟りを開いたのはブッダ死後のことである。

 悟りには段階がある(『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃)。しかしながら預流果(よるか)に至った人すら私は出会ったことがない(『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ)。仏教徒を名乗るのであれば、せめて悟ったか悟っていないのかをはっきりと表明すべきだろう。

 繰り返されるマントラ(真言)は輪廻そのものにすら見える。

2020-03-15

「シナ」と「中国」の区別/『封印の昭和史 [戦後五〇年]自虐の終焉』小室直樹、渡部昇一


・『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹
『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『税高くして民滅び、国亡ぶ』渡部昇一

 ・「シナ」と「中国」の区別

『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
・『世紀末・戦争の構造 国際法知らずの日本人へ』小室直樹
・『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
・『新世紀への英知 われわれは、何を考え何をなすべきか』渡部昇一、谷沢永一、小室直樹

〔付記〕

 対談の中で、「シナ」と「中国」は区別して用いた。中国は中華人民共和国や中華民国の略称としてのみ正当と言うべきであり、地理的、文化的概念としては用いることはできない。地理的概念、あるいは古代以来の文化的概念を指す場合は、「シナ」(英語のチャイナ)を用いることが正当であると、私は考える。中国という言葉の背景には、外国を夷狄戎蛮(いてきじゅうばん)と見なし、自らを高いものとする外国蔑視がある。
 また、コリアという擁護は、現在の北朝鮮、大韓民国の双方を含んで呼ぶ場合や、朝鮮半島を地理的概念として呼ぶ場合に用いている。
渡部昇一


【『封印の昭和史 [戦後五〇年]自虐の終焉』小室直樹〈こむろ・なおき〉、渡部昇一〈わたなべ・しょういち〉(徳間書店、1995年)】

 かつて石原慎太郎が「三国人」(2000年)とか「シナ」(2012年)とか言って問題にされたことがある。この発言をヘイトスピーチの嚆矢(こうし)とする人もいる。私自身、報道を真に受けて問題だと考えていた。本書を読むまでは。冒頭の付記で日本を取り巻く言論情況が一瞬にして理解できた。ちょっと考えてみれば誰でも気づくことだが「東シナ海」や「支那そば」に差別意識は全くない。「支那(しな)とは、中国またはその一部の地域に対して用いられる地理的呼称、あるいは王朝・政権の名を超えた通史的な呼称の一つである。日本では、江戸時代中期から第二次世界大戦末期まで広く用いられていた」(Wikipedia)。

 中華思想によれば朝廷に帰順しない民族は東夷(とうい)・北狄(ほくてき)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)と呼ばれ、禽獣(きんじゅう)と同じ扱いを受ける(四夷)。つまり我々が中国と呼ぶことは日本人を東夷と貶(おとし)めていることに通じる。

都市革命から枢軸文明が生まれた/『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲

 現在左翼が糾弾するヘイトスピーチは在特会(在日特権を許さない市民の会)が始めたものだ。彼らはコリアンタウンで「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「朝鮮人首吊レ毒飲メ飛ビ降リロ」などと書いたプラカードを掲げ、「殺せ、殺せ!」と街宣活動を行った。



「不逞鮮人を死ぬまで追い込め」「朝鮮人をガス室に送り込め」「朝鮮人なんて人間じゃないぞ」…今日の新大久保・嫌韓デモで飛び交った醜悪なシュプレヒコールをあえて記す。許さないためにも。

「ばーかばーか」「あっかんべー」とはデモのコーラーが用いていた表現です。この他、「ウジ虫」「ゴキブリ」「殺せ殺せ」「死ね」「不逞朝鮮 人を死ぬまで追い込むぞ」「ガス室に朝鮮人を叩き込め」「ぶさいく」「クサレマンコ」等の聞く(読む)に堪えない表現が多数用いられています。

日刊ベリタ : 記事 : 新大久保でまたもや在特会デモ  2月9日、「良い韓国人も 悪い韓国人も どちらも殺せ」のプラカード掲げ

 百田尚樹は桜井誠の選挙演説を「カッコいいね」と称えた。竹田恒泰は「(在特会の主張は)部分的には正しいことも言っている」とテレビで語った。彼らの性根が垣間見えた瞬間である。

 新しい歴史教科書をつくる会が結成される2年前に週刊文春編『徹底追及 「言葉狩り」と差別』(文藝春秋、1994年)が出た。『週刊金曜日』の創刊が1993年である。失われた20年はリベラルな雰囲気に包まれた時代であった。折しも1986年に施行された男女雇用機会均等法によって看護婦・スチュワーデス・保母さんが禁句となった。そういえば径書房〈こみちしょぼう〉編『『ちびくろサンボ』絶版を考える』(径書房、1990年)を読んだのもこの頃だ。ダッコちゃん人形が製造停止(1988年)となり、カルピスのマークも使用停止(1990年)に追い込まれた(黒人差別をなくす会)。

 平等を極限まで推し進めて古い伝統や文化を破壊するのが左翼の手口である。「言葉狩り」に異を唱えた書籍は他にもあったが、まだまだ左派系作家の影響が大きかった。現在でも『「徘徊」使いません 当事者の声踏まえ、見直しの動き』(朝日新聞デジタル、2018年3月24日)といった記事からも明らかなように一部の声を居丈高に拡大して言葉狩りを行っている。

 戦時中の「シナ人」という言葉に差別感情があったのは確かだろう。だが、「中国」という言葉が中華民国(現在の台湾)と中華人民共和国の違いすら見えなくし、第二次世界大戦後に建国された中華人民共和国があたかも戦勝国の一員であったかのような錯覚を抱かせる現状を思えば、我々はもっと歴史に忠実であるべきだ。青少年に反日教育を施す中国や韓国に遠慮するのは実に馬鹿げた行為だ。

2019-07-28

チャーチルを冷やかした辻政信はラオスで殺害された/『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編


 ・チャーチルを冷やかした辻政信はラオスで殺害された

『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『新・悪の論理』倉前盛通
『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通
『自然観と科学思想 文明の根底を成すもの』倉前盛通
『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通
『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通

小室●だから、イギリス軍というのは、日本軍だけに関しては口惜しがって怒るわけね、そうでしょう。

倉前●シンガポールで、英国軍10万人、日本軍3万人で、3万の軍隊に10万の軍隊が降伏したんだから。今までの英国の歴史ではそういうことはあり得ないですよね。それで、それをチャーチルは『第二次大戦回顧録』に、10万の英国軍が3万の日本軍に降伏したと書いていないですよ。それを辻政信が言わんでもいいのに、おまえさんの回顧録には、10万のイギリス軍が3万の日本軍に降伏したことが書いていないじゃないか、とひやかしの手紙を出したんです。それでチャーチルが怒ったそうです、ものすごく。
 そのときに辻政信と同期生の特務機関長だった人が、おまえ、いらんことをするな、イギリスはこわいんだぞ、何されるかわからんぞ、イギリスは何十年後でも仕返しするんだからと忠告したそうですが、辻政信は、そんなこと大丈夫だと言っていましたら、案の定、ラオスで行方不明になったでしょう。あれはそういうことからすると、イギリスの特務機関に殺されたんだとその筋の人は言っている。イギリスという国は必ず仕返しをする。その辻政信と同期だった人も、わしはイギリスがやったと思っとる、それはチャーチルをひやかしたからだ、と言っています。

小室●イギリスは普通、相手が何百倍だって勝つんだから。ところが、日本軍に関しては何分の一かの日本軍に……。

倉前●負けて降参しちゃった(笑)。

【『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編(世界戦略研究所、1985年)】

 ハイレベルな床屋談義といった内容である。大東亜戦争の戦略ミスに関しては驚くほど見解が一致している。

 多分読み返すことはないと思うが、本書によって倉前盛通を知ったのは大きな収穫であった。あの小室直樹が「先生」と呼ぶのだからその学識に間違いはなかろう。

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倉前 盛通 小室 直樹 世界戦略研究所
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2019-06-07

小室直樹に予言されていた私/『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹


『評伝 小室直樹』村上篤直

 ・小室直樹に予言されていた私

『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹

 さて、以上の分析によって、私たちが直面している校内暴力・家庭内暴力の何たるかを、いっそう明確に分かっていただけたと思う。それは新左翼や行動右翼、構造的汚職犯罪人、そして戦前の軍事官僚や戦後の高級官僚、エリート・ビジネスマンなどに連なる一大アノミー症候群の一つの峰であって、それ自身で存在するものではない。(中略)
 では、前人未到の程度にまで激甚化した暴力は、今後どこへ行く。かかる暴力を生み出したアノミーは、どこまで昂進する――それを考えるには、差し当って、若者がもう一度イデオロギーを取り戻した時が、一つのメルクマールとなろう。
 この2~3年、日本のイデオロギー状況は、大転換をみせた。左翼イデオロギーが、人びとの間で、完全に魅力を失ってしまったのである。それとともに、従来は左翼イデオロギーに出口を求めてきた若者のアノミーは、行き場を失い、無イデオロギーの暴力に結集することになった。
 これが、校内暴力・家庭内暴力だ。校内暴力・家庭内暴力が、この2~3年、急速に猖獗をきわめるようになった理由も、まさにここにある。
 しかし、若者は理想を求める。永年、イデオロギー無き状態に放置されていることはできない。イデオロギーこそは、若者にとって、生活必需品の一つなのだ。
 では、イデオロギー無き現代の若者に、再びイデオロギーが帰ってくるとすれば、それはどんなものだろうか。
 そこで最後の予言。
 それはおそらく、三島由紀夫であろう。マルキシズムが再び青年の心をとらえることはできない。在来の右翼思想は、すっかり古色蒼然たるものになってしまったし、虚妄の戦後デモクラシーに惹力はない。
 が、より根本的理由は、右の思想のいずれもが、戦後日本の基礎となった、急性(アキュート)アノミーとの対決を回避しているからである。
 この急性アノミーは、敗戦と天皇の人間宣言によって発生したものであったが、三島由紀夫のみが自著『英霊の声』(ママ)において、これとの対決をみごとになしとげた。

【『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹(太陽企画出版、1982年)】

 この箇所は『評伝 小室直樹』で知った。私が三島由紀夫に辿り着いたのは一昨年のことである。つまり36年前の予言が的中したわけだ。恐るべき慧眼(けいがん)と言わざるを得ない。

 アノミーとはエミール・デュルケームが用いた社会学的概念で通常は「無規範」と訳されるが小室は「無連帯」とした。ヒトが社会的動物であれば無連帯は孤独や不安を醸成する。元々は敗戦~天皇陛下の人間宣言が日本に国家的規模の集団アノミーを発生させた。その真空領域にマルクス主義が侵入し、新興宗教が蔓延(はびこ)った。小室が指摘する校内暴力・家庭内暴力が芽生えたのは私の世代(1963年生まれ)である。北海道で一番最初に校内暴力が報道されたのは私の中学で、教員に暴力を振るったのは私の友人であった。

 当時、我々の世代は三無主義(無責任・無関心・無感動)とか新人類などと呼ばれた。バブル景気が弾けるとフリーターはニートや引きこもりとなり、援助交際から一転して自傷行為が目立ち始めた。就職氷河期に遭遇した「失われた世代」(団塊ジュニアとも。1971-1974年生まれ)が抱いた社会不信も後々深刻なダメージとなって社会を毀損した。

 新しい歴史教科書をつくる会(1996年)や小林よしのり作『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』などを中心とする近代史の見直しを背景に、東日本大震災(2011年)で国内には再び尊皇のエトス(気風)が復活した。問題は令和となったこれからである。

 三島由紀夫の問題意識は現在の日本をも射抜いている。憲法改正の機会を失ったと判断した三島は自衛隊員に呼びかけてクーデターを目論んだ。ところが二・二六事件の頃とは違って日本は高度成長を遂げていた。義務教育ではアメリカがデモクラシーを与えてくれたと教えていた。三島は割腹自決を遂げることで不朽の存在となった。明年は三島の死からちょうど半世紀となる。三島の演説は今もなお私の魂を振動させる。



時間の連続性/『決定版 三島由紀夫全集36 評論11』三島由紀夫

2019-05-05

型破りな天才/『評伝 小室直樹』村上篤直


 卒業が近づくにつれて、進路指導が始まる。
 二人きりの職員室で、小林(貞治)と向かい合って、小室はいった。
「大学へ行かねいし」
「大学へ行かないでどうするんだ」
磐梯山(ばんだいさん)の麓に庵(いおり)を結んで、三顧の礼をもって首相に迎えられるまで動かないつもりだし」
(中略)
 小林は、ちょっと聞いてみたくなった。
「一応、聞くが、もしお前に頼みに来たとして、首相になって何をするのだ」
「新憲法を数年間停止して独裁政治をやるし。この憲法では日本中がテンヤワンヤになってしまうし。そして会津に大学を創って小林先生を学長に任命するつもりだし」

【『評伝 小室直樹』村上篤直〈むらかみ・あつなお〉(ミネルヴァ書房、2018年)以下同】

 小室直樹は小学校低学年にして辞書・漢籍の類いまで読み漁り、学校でも神童振りを発揮していた。幼い頃に父が逝去。女手ひとつで育てられるがその母親も中学生の時に亡くなる。親友の渡部恒三〈わたなべ・こうぞう〉を始めとする支援者が現れ、小室は学業を成し遂げることができた。

 高校時代にあっては数学・物理で教師を凌(しの)ぐほどの知識を有していた。実際に教えることもあったという。そんな小室が唯一人信頼するのが小林先生だった。若き天才の野望は常人とスケールが違った。そして小室の魂には会津人の恨みと敗戦の屈辱が刻み込まれていた。

 進学した京都大学で弁論部が結成される。小室も勇んで馳せ参じた。

 所定の時間となると、内田の司会のもと、各自、自己紹介をした。
 小室の番となった。
「小室直樹です。理学部1回生。物理学科志望です。高校は会津高校です。日本は戦争には勝っていたが、原子爆弾で敗けました。だから、湯川さんの研究室に入って原子力を研究し、もっとすごい原爆をつくって“アメリカ征伐”に行く。そのために京都大学に来ました」
 これには皆、驚いた。その上、小室は続けてマルクス批判もした。
 小室の自己紹介を聞きながら真砂泰輔(まさごたいすけ)は「ごっついのがおるなぁ」と感心した。
 他の参加者も同じ思いだった。

 小室は終生、型破りの人であった。天才は枠に収まらない。世間の常識を軽々と超えるところに天才の個性が輝く。奇抜な人物ではあったが学問の基本にはどこまでも忠実で国際的に通用する方法論を示し続けた。

 もしも小室があと20年遅れて生まれたならば、アメリカか中国が三顧の礼をもって迎えたに違いない。

 良書であるがフォントの大きさと改行の多さを思えば4800円はチト高い。

評伝 小室直樹(上):学問と酒と猫を愛した過激な天才
村上篤直
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評伝 小室直樹(下):現実はやがて私に追いつくであろう
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2018-11-22

伊藤博文の慧眼~憲法と天皇/『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹
『小室直樹の資本主義原論』小室直樹

 ・いわゆる従軍慰安婦問題を焚き付けた朝日ジャーナル
 ・従軍慰安婦は破格の高給だった
 ・伊藤博文の慧眼~憲法と天皇

『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
『戦争と平和の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠
『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹
『日本人のための憲法原論』小室直樹

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 ヨーロッパにおける憲法政治(立憲政治)の基礎には宗教という基軸がある。基軸としての宗教が深く人心に浸潤(しんじゅん)し、人心が宗教に帰一(きいつ)している。だから、立憲政治はうまくゆく。
 それなのに日本ではどうか。どの宗教もその力は微弱であって、どれも立憲政治の基軸として機能しうるものはない。さすがに、維新元勲の一人たる伊藤博文の慧眼(けいがん)、立憲政治(民本主義〈デモクラシー〉政治)の本質を見抜いていたのである。

【『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹〈こむろ・なおき〉(クレスト社、1996年ワック出版、2005年/WAC BUNKO、2018年)以下同】

 伊藤博文がイギリスに留学した期間はわずか半年足らずである(渡航は片道3~4ヶ月を要した)。しかも22歳という若さであった。時代が人を作り、人が時代を作る。明治維新が現代人を魅了してやまないのは綺羅星の如く人材が躍り出たダイナミズムに理由がある。伊藤は松陰門下では下っ端と見られがちだが、高杉晋作や久坂玄瑞が生きていれば上手く運んだかといえば決してそんなことはないだろう。大物であればこそ邪魔な存在になった可能性もある。確実なことは伊藤なくして日本の憲法制定はありあり得なかったという事実である。

 絶対契約という考え方は、啓典(けいてん)宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)に由来する。啓典宗教における契約は、本来、神と人間との契約である。ゆえに、その契約(命令)は絶対である。(中略)
 仏教においては、仏との契約という考え方はない。ありえない。はじめに「法」があって、この「法」を悟った者が仏となる。この考え方を「法前仏後」という。「法」は仏といえども如何(いかん)ともできない。はじめに「法」ありき。
 啓典宗教においては、法(戒律、規範、法律、すすんでは、社会法則、自然法則、超自然法則)もまた、神の創造による。神の意志によって作られたものである。仏教的表現を用いれば、「神前法後」。だからこそ、神の意志によって契約が結ばれる。すなわち、絶対者との契約があり、これによって法が作られるのである。(中略)
 儒教にも、聖人との契約という考え方はない。ありえない。聖人孔子でさえも、「述(の)べて作(つく)らず、信じて古(いにしえ)を好む」(述而〈じゅつじ〉 第七)とあるように、道(規範、倫理)の創造者ではない。(中略)
 ゆえに、絶対契約としての統治契約たる憲法は、啓典宗教の他の宗教のもとでは成立しえない、と言えよう。(中略)
 憲法が成立しうるためにはタテの絶対契約(神との契約)が、ヨコの絶対契約(人と人との間の契約)に転換されなければならない。西方キリスト教諸国においては、資本主義発生期に、この転換が行なわれた。資本主義における契約は、対等な両当事者の間の合意に基づくヨコの契約(人と人との間の契約)であるが絶対である。統治契約たる憲法もこれと同じ。

 旧植民地でデモクラティックな憲法が機能しないのは「神」という画竜点睛を欠いたためだ。形だけを真似ても憲法は機能しない。伊藤博文は「立憲政治の前提として宗教なからざるべからず」(憲法草案審議 明治21年〈1888年〉)と気づいた。

 しかし、日本に宗教は無い。どの宗教も、立憲政治の基軸とはなりえないのである。「深ク人心ニ浸潤(シンジュン)シテ、人心此(コレ)ニ帰一(キイツ)セリ」(同右)というようにはなっていないからである。
 では、伊藤をはじめとする日本の指導者はどうしたのか。皇室(天皇)をもって、立憲政治の基軸とすることにしたのであった。
「我国(ワガクニ)ニ基軸トスヘキハ、独リ皇室アルノミ」(同右)
 かくて、皇室(天皇)は、「ヨーロッパ文化1000年にわたる『基軸』をなして来たキリスト教の精神的【代用品】」とされることになった(同右)のである。立憲政治のためのキリスト教の代用品――。これが、大日本帝国における天皇の役割であった。
 この驚くべき(いくら驚いても足りない)方法に対して、すぐさま疑問が出てくるであろう。
 そんなことが可能か。天皇がキリスト教的神に成るなんていうことが本当に可能なのか。

 天皇陛下を現人神(あらひとがみ)にしたのは何と憲法制定のためであった。小室は天皇が庶民からの支持を得ていない事実を示し、伊藤の狙いがどれほど困難に満ちたものであったかを解説する。

 まだ白人帝国主義真っ盛りの時代である。有色人種は劣った存在とされていた。日本の望みは不平等条約の撤廃と関税自主権を取り戻すことであった。そのためには文明国であることを証明しなければならない。これが立憲政治に賭けた伊藤の思いであった。

 当時の日本人は世界といえばシナ(清国)~インドまでの認識しかなかった。清(シン)は眠れる獅子としてアヘン戦争以降はヨーロッパ諸国も手をつけていなかった。その大国清に日本は戦争で勝った(1894-95年〈明治27-28年〉)。

 奇蹟である。何が宗教を作るか。奇蹟である。日本国民は「天皇は神である」ということの意味をやっと理解した。

 1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された大日本帝国憲法に魂が入った。

 日英同盟が結ばれるのは1902年(明治35年)のことである。不平等条約は改正され、日露戦争(1904-05年〈明治37-38年〉)を経てやっと日本は半植民地状態を脱して立を果たす。ここにおいて明治維新の目的は達成されたのだ。



封建制は近代化へのステップ/『世界のしくみが見える 世界史講義』茂木誠

2018-11-21

従軍慰安婦は破格の高給だった/『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹
『小室直樹の資本主義原論』小室直樹

 ・いわゆる従軍慰安婦問題を焚き付けた朝日ジャーナル
 ・従軍慰安婦は破格の高給だった
 ・伊藤博文の慧眼~憲法と天皇

『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
『戦争と平和の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠
『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹
『日本人のための憲法原論』小室直樹

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 近年の歴代内閣がやってきたことはただ一つ、「謝罪外交」であった。政治はすべて官僚の言いなり。周辺国のご機嫌(きげん)を伺(うかが)いながら、平身低頭ひたすら政権の維持だけに努めてきた。
 鳩山由紀夫(はとやまゆきお)、邦夫(くにお)兄弟、菅直人(かんなおと/元厚相)らが平成8年の秋に発足させた新党「民主党」に至っては、元従軍慰安婦への深い反省と謝罪を党の基本政策として掲げている。彼らが基本政策の第一として掲げる「民主党の歴史認識」とは、以下のとおりである。
「日本社会は何よりも、アジアの人々に対する植民地支配と侵略戦争に対する明瞭な責任を果たさずに今日を迎えている。21世紀に向け、アジアと世界の人々の信頼を取り戻すため、アジアの国々の多様な歴史を認識することを基本に、過去の戦争によって引き起こされた元従軍慰安婦などの問題に対する深い反省と謝罪を明確にする」
 いったい、彼らは「謝罪」の意味が分かっているのだろうか。

【『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹〈こむろ・なおき〉(クレスト社、1996年ワック出版、2005年/WAC BUNKO、2018年)以下同】

 これまた自分の不明を恥じるばかりである。鳩山兄弟は鳩山一郎の孫である。敗戦から1ヶ月後の9月15日付朝日新聞は鳩山一郎の「“正義は力なり”を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであらう」という談話を掲載した。更に17日付で米兵の犯罪を批判する記事を載せた。これがGHQの逆鱗に触れ、朝日新聞は48時間の発行停止処分を受ける。これ以降、朝日新聞はGHQに額(ぬか)づく言論機関に成り下がった。鳩山は間もなく首相になる身でありながら公職追放となる。その鳩山の孫が東京裁判史観に毒されているのだから空いた口が塞がらない。

 本論に先立って、従軍慰安婦問題などの教科書問題がマスコミに現われ、決着がつけられるときのパターンを見ておこう。

 そのパターンとは――。
 反日的日本人が騒ぐ→マスコミが騒ぎを拡大する→これを奇貨(きか)として外国が干渉してくる→日本政府が内政干渉に屈する
 いつでもいつも、このパターンになって、定着してしまったのである。パターンが定着し、模型化したことだけ見ても、裏には必ず計画性のあることが見えてくるであろう。
 いくら戦慄しても足りないほどの恐ろしいことは、これが、「反日史観が新たに製造され人々に定着するプロセス」(藤岡信勝「反日史観はこうしてつくられる」――『サンサーラ』平成8年11月号)だからである。

 これは武田邦彦も常に指摘している。売国奴ならぬ亡国奴といってよい。反天皇制を正面から説くのではなく、裏から手を回して体制転覆を目論む左翼的な謀略である。




 貧富の差が激しいとどうなるか。自発的に「慰安婦」になる人びとが出現する。当時、売春は合法であったし、「慰安婦」は儲かる商売だった。『関東軍女子特殊軍属服務規程』によると、「女子特殊軍属」すなわち慰安婦の月給は、信じがたいことに800円であった。当時の巡査の初任給が45円、陸海軍の大将の月給が550円だから、破格の高給である。3年間、働けば、警察官が一生働いても買えない家が60軒近くも買えた(当時、500円あれば家が買えた)。

 無論、慰安婦が一律に高給取りだったとは思わないが、それでも性奴隷(セックス・スレイブ)でなかったことは明らかだろう。朝鮮半島にはキーセンという芸者のような文化もあった。

 それにしても70年以上も昔の戦争犯罪を糾弾されてオロオロする政府は日本以外に存在するのだろうか? イギリスが旧植民に謝罪したことは一度もない。アメリカに至っては原爆投下も謝っていないし、ベトナム戦争についても同様だ。日本と同じく第二次世界大戦で敗れたドイツは全てをナチスのせいにして国民の罪は棚上げしている。

 日本に対する歴史戦の手引きをする左翼勢力は国家反逆罪で裁くべきだろう。

いわゆる従軍慰安婦問題を焚き付けた朝日ジャーナル/『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹
『小室直樹の資本主義原論』小室直樹

 ・いわゆる従軍慰安婦問題を焚き付けた朝日ジャーナル
 ・従軍慰安婦は破格の高給だった
 ・伊藤博文の慧眼~憲法と天皇

『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
『戦争と平和の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠
『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹
『日本人のための憲法原論』小室直樹

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 予兆!
 この年(平成元年=1989年)、あたかも昭和天皇が神去(かみさ)りまつるを待ち構えていたかのように、日本破滅の予兆が兆(きざ)したのであった。
 この年、忌(い)まわしき「従軍慰安婦問題」が日本人から持ち出された。この年、「朝日ジャーナル」に、「日本国は朝鮮と朝鮮人に公式陳謝せよ」との意見広告が、半年間にわたって掲載された。はじめは、これほどの大事件に発展すると思った人は鮮(すくな)かったろう。しかし、ここに濫觴(らんしょう)を発した(始まった)「従軍慰安婦問題」は、渓流となり、川となり、河となり、ついに滔々(とうとう)たる大河となって全日本を呑みつくそうとしている。
 誰(たれ)か狂瀾(きょうらん/荒れ狂う波)を既倒(きとう)に廻(めぐ)らす(押し返す)者ぞ。

【『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹〈こむろ・なおき〉(クレスト社、1996年ワック出版、2005年/WAC BUNKO、2018年)以下同】

 小室直樹は合理主義の塊(かたまり)みたいな人物で思想による色付けとは無縁な大学匠である。ただし日本人であれば当たり前だが尊皇の情緒を保持している。小室は官に就くか野(や)に在るかも眼中になかった。ただ学問の王道を歩んだ。無職でありながらも東大で小室ゼミを開講した。門下生には橋爪大三郎〈はしづめ・だいさぶろう〉・宮台真司〈みやだい・しんじ〉・副島隆彦〈そえじま・たかひこ〉・大澤真幸〈おおさわ・まさち〉らがいる。

 1979年12月、それまで清貧な学究生活を送っていた小室は、自宅アパートで研究に没頭し栄養失調で倒れているところを門下生に発見され病院に運ばれた。しばらく入院し身体は回復したが自身で入院費用が払えず、友人知人のカンパで費用を支払い、小室の才能を知る友人の渡部喬一弁護士や山本七平などの勧めで本を出版することにし[15]、光文社の用意したホテルにて『ソビエト帝国の崩壊』の執筆にとりかかった。小室の奇行ぶりには、担当者も少々辟易したようであるが、出来上がった原稿は想像以上の価値があった。1980年、光文社から初の一般向け著作である『ソビエト帝国の崩壊 瀕死のクマが世界であがく』(光文社カッパ、のち文庫)が刊行されベストセラーになり、評論家として認知されるようになる。この本のなかで小室は、ソ連における官僚制、マルクス主義が宗教であり、ユダヤ教に非常に似ていること、1956年のスターリン批判によってソ連国民が急性アノミー(無規制状態)に陥ったことなどをこれまでの学問研究を踏まえて指摘し、またスイスの民間防衛にならい日本も民間防衛を周知させることなどを訴えた。そしてこの本の「予言」通り、1991年にソ連崩壊となる。
『ソビエト帝国の崩壊』の出版から続編『ソビエト帝国の最期 "予定調和説"の恐るべき真実』(1984年、光文社)など十数年間にわたって光文社のカッパビジネス、カッパブックスより27冊の著作が刊行され、光文社にとって小室の著作群はドル箱になった。光文社以外にも徳間書店、文藝春秋、祥伝社などから著作を刊行、こうした著作活動の成功により経済的安定を得ることができた。ベストセラーを書くまでの主な収入は家庭教師で、受験生のほか、大学の研究者(教授など)まで教えていた。

Wikipedia

 その小室が渡部昇一〈わたなべ・しょういち〉、谷沢永一〈たにざわ・えいいち〉らと共に保守論客として立ち上がった。彼らの言論活動が「新しい歴史教科書をつくる会」(1996年)の呼び水となった。

『朝日ジャーナル』の意見広告がいわゆる従軍慰安婦問題の導火線となった事実を私は知らなかった。こういう具体的な事実が大事である。リアルタイムで問題意識を持っていなければ見落としてしまう。因みに1989年の編集長は伊藤正孝1987年4月-1990年5月)である。筑紫哲也〈ちくし・てつや〉の後任だ。『朝日ジャーナル』は1992年、廃刊に追い込まれるが、その衣鉢(いはつ)を継いだのが『週刊金曜日』(1993年創刊)である。本年9月にあろうことか「従軍慰安婦問題」の火付け役をした植村隆が社長に就任した(社長交代について | 週刊金曜日からのおしらせ)。放火魔に火炎放射器を与えるような印象を受けるのは私だけであろうか。

 誇りを失った国家・民族は必ず滅亡する――これ、世界史の鉄則である。この鉄則を知るや知らずや、戦後日本の教育は、日本の歴史を汚辱(おじょく)の歴史であるとし、これに対する誇りを鏖殺(おうさつ)することに狂奔(きょうほん)してきた。
 その狂乱が極限に達したのが、「従軍慰安婦問題」である。

 面倒なことだが従軍慰安婦問題にはカギ括弧や「いわゆる」を付ける必要がある。そうでないと従軍慰安婦という問題の存在を認めることになるからだ。一旦広まった嘘はかくもややこしくなる。反天皇制という思想は理解できる。だが、国家体制転覆のために自分たちの父祖を貶(おとし)める行為が理解に苦しむ。到底日本人の共感を得るとは思えない。それをやってしまうところに左翼の人格的な異常さがある。

「従軍慰安婦」問題が全教科書に登場することにあった最大の原因は、この平成5年8月4日、当時の内閣官房長官・河野洋平(こうのようへい)が、まったく根拠がないのに「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」を発表したことに始まる。
 河野長官はこの日、慰安婦の募集について「官憲等は直接、これに加担したこともあったことが明らかになった」と述べ、「心からのお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と公式に謝罪したのである。しかし、「明らかになった」というのはどういう事実なのか、何一つ示されていない。

 こうした、史実さえ確認しない謝罪外交がピークに達したのが、平成7年の夏に繰り広げられた“謝罪祭り”である。この戦後50周年の夏、日本は歴史に残る大失敗をした。半世紀以上も前の戦争を「侵略」であると認め、世界中に「謝罪」してしまったのだ。大東亜戦争は「侵略」ではないから、日本国は「謝罪」しないと主張した政治家は一人としてなく、そう論じた新聞は一紙としてなかった。後世(こうせい)の史家の嘆(なげ)くまいことか。
 細川内閣から、日本政府は何かと言われると(いや、何も言われなくても)、すぐに謝るクセがついてしまった。条件反射的にペコリとする「謝り人形」になってしまった。日本は侵略したから謝ります。日本の歴史は罪の歴史である、日本は過去に悪いことばかりしてきた、だから何がなんでも誤ってしまえ……。
 この無条件謝罪主義が極限に達したのが村山内閣である。

 野(や)に下った自民党が権力を奪取するために多少の行き過ぎには目をつぶったということなのだろう。清濁併せ呑む自民党らしさが良くも悪くも現在の日本を象(かたど)っている。自民党の親中派は媚中派に成り下がって国益を毀損している。たぶん女とカネで籠絡(ろうらく)される政治家が多いのだろう。

 20年以上前に書かれた本だが今こそ読まれるべきである。

2018-10-06

「空気」と「事実」/『日本教の社会学』小室直樹、山本七平


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹

 ・「空気」と「事実」

『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹
『小室直樹の資本主義原論』小室直樹
『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹
『日本人のための憲法原論』小室直樹

必読書リスト その四

山本●つまり、「空気」をつぶす方法というのは一つしかないんです。事実を事実としていうことです。重要なことは、「空気」が規範化されればドグマになるというような前提のもとでいえば、ある場合には事実をいうことが日本教の背教になる。

小室●そこに「空気」の恐ろしさがある。また「事実」と「実情」との連関でいえば、実情というのは「空気」を通してみた事実でなければならないのであって、生(なま)の事実をいったら背教です。

(中略)

小室●ですから、日本人の嘘つきの定義と、欧米人の嘘つきの定義は全然違う。欧米では事実と違うことをいう人が嘘つき。日本でなら「実情」が「事実」と異なる場合には、事実と違うことをいっても嘘つきとはいわれない。これが、日本人が欧米人に誤解される大きなポイント。

【『日本教の社会学』小室直樹〈こむろ・なおき〉、山本七平〈やまもと・しちへい〉(講談社、1981年学研、1985年/ビジネス社、2016年)】

「日本教」は山本七平の造語で、「空気」もまた山本が息を吹き込んだキーワードである(『「空気」の研究』1997年)。

 私は長らく山本七平を嫌悪していた。10代後半で本多勝一を読んだためだ。1980年代といえばまだまだ左翼が猛威を振るっていた頃である。『貧困なる精神』で「菊池寛賞を返す」(『潮』1982年1月号)を読んだ時は「これぞ男の生き方だ」と友人のシンマチにも無理矢理読ませたほどだ。その後、私は『週刊金曜日』を創刊号から購読し、首までどっぷりと戦後教育の毒に浸かりながらいつしか50歳となっていた。四十で惑いの中にいた私が五十で天命を知る由(よし)もない。

 少しばかり変わったのは3.11の震災後、天皇陛下に対する敬愛の念が深まったことである。道産子で皇室に関心を抱く人は少ない。日教組が強いこともあって国歌を歌う機会もほぼ無い。不敬を恐れず申し上げれば、かつての私にとっては先進国の国家元首よりも影の薄い存在だった。それがどうだ。国民へのメッセージを読み上げる陛下のお姿を拝見した途端、心の底から日本人の魂が噴き出した。それは噴火といってもよい激情だった。

 自虐史観に気づいたのはつい4年前のことだ。菅沼光弘の著作が私の迷妄を打ち破った。それから山本七平も読むようになったのだが文章が馴染めず読了できない。文体が粘ついていて虫唾が走る。その点、対談なら読みやすい。

「空気を読めよ」という言葉は漫才ブーム(1980年)の頃に出てきたと記憶する。その後2000年代になって「KY」として復活した時、吃驚仰天した覚えがある。「その場の空気」には脈絡があり、共有される感情が流れている。日本人にとってはそこに「合わせる」のが一種の礼儀と見なされる。

「事実を事実としていうこと」を山本は「水を差す」との一言で表す。確かに「それを言っちゃあおしまいよ」という発言を我々は極度に恐れる。やはり日本人は論理よりも情緒を重んじるためなのか。

 会社の会議であればまだしも、戦争の決定すら空気が支配していたという。日本は外交において「信義を貫けば相手も応える」と思い込んでいて、特にヨーロッパ諸国の権謀術数に振り回された。平沼騏一郎首相は「今回帰結せられたる独ソ不侵略条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」との談話を発表し内閣は総辞職した(1939年)。

 戦前の日本はヒトラーを礼賛する声が多かった。極東という地理的要因も疎外感を生んだのかもしれない。日本の宿敵ソ連と手を組むとは何事かという思いは理解できる。今となってはあまりにもウブな外交認識が嘲笑の的となっているがあながち的外れでもなかった。内閣総辞職からひと月も経たぬうちにドイツとソ連はポーランドを侵攻した。ソ連はポーランドの将校・官僚・聖職者・大学教授を収容所へ送り、半年後に4000人以上を殺戮した。カティンの森事件(1940年)である。ソ連を攻めたドイツが遺体を発見したが、あろうことかソ連は「ドイツによる虐殺だ」として戦後のニュルンベルク裁判でもこれを告発した。戦争に敗れたドイツは強く抗弁することができなかった。ナチスの暗号を解読していたイギリスは真実を知りながらも沈黙を保った。戦勝国としてソ連の嘘に加担したわけである。ソ連が自らの蛮行を認めたのは何と1990年になってからのことである。

 話を戻そう。日本人の言論空間が「空気」に支配されているのであれば、「空気」を薄める努力をするべきだ。「空気」は抑圧として働くので自由な発言が損なわれる。地域活性の鍵を握るのは「若者、馬鹿者、よそ者」と言われるが、固定観念に囚われない人、既成の枠に収まらない人、今までのやり方を知らない人を巧く配置することが望ましい。

 要はリーダーが何でも話し合える雰囲気を作れるかどうかに掛かっている。「場を弁えろ」などという居丈高な姿勢であれば決まりきった結論しか出ない。

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2018-08-27

日本の憲法学が憲法を殺した/『日本人のための憲法原論』小室直樹


『いちばんよくわかる!憲法第9条』西修
『平和の敵 偽りの立憲主義』岩田温
・『だから、改憲するべきである』岩田温

 ・日本の憲法学が憲法を殺した

『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八
『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八
『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』伊藤祐靖

小室直樹
必読書リスト その四

 現在の日本には、さまざまな問題があふれかえっています。
 10年来の不況、財政破綻(はたん)、陰惨(いんさん)な少年犯罪、学級崩壊、自国民を拉致(らち)されても取り返さない政府……実はこうした問題の原因をたどっていくと、すべては憲法に行き着くのです。
 現在日本が一種の機能不全に陥(おちい)って、何もかもうまく行かなくなっているのは、つまり憲法がまともに作動していないからなのです。
 こんなことを言うと、みなさんはびっくりするかもしれませんが、今の日本はすでに民主主義国家ではなくなっています。いや、それどころか近代国家ですらないと言ってもいいほどです。
 憲法という市民社会の柱が失われたために、政治も経済も教育も、そしてモラルまでが総崩れになっている。これが現在の日本なのです。
 では、なぜ日本の憲法がちゃんと作動しなくなったのか。
 その理由は憲法学そのものにあると、私は考えます。
 たしかに大学の法学部に行けば、そこでは憲法の講義が行われています。しかし、その中身はといえば、要するに司法試験や国家公務員試験を受験するためのもの。憲法の条文をどのように解釈すれば、試験に合格できるかが講じられているに過ぎません。こんな無味乾燥(むみかんそう)な「憲法学」に誰が興味を持つでしょう。こんなことで、誰が憲法に関心や理解を示すでしょう。(まえがき)

【『日本人のための憲法原論』小室直樹(集英社インターナショナル、2006年/集英社インターナショナル、2001年『痛快!憲法学 Amazing study of constitutions & democracy』改題、愛蔵版)】

 その無味乾燥な憲法学を学び教える憲法学者が数年前に平和安全法制関連法案(いわゆる安保関連法案)は「違憲である」と表明した。憲法学の中身は知らないが憲法学者の飯の種であることはわかる。憲法で飯を喰っている以上、憲法を金科玉条と奉(たてまつ)り解釈の違いを訳知り顔で解説し、学問の世界で徒弟関係を構築しているのだろう。もちろん彼らに国家の行く末を案じるような責任感はない。日本の憲法学が憲法を殺したとの指摘はあまりにも重い。

 小室直樹は世の混乱を「憲法がまともに作動していない」ためだと喝破(かっぱ)する。なぜ作動していないのか? まともな日本語じゃないからだよ。元が英語だからおかしな日本語になっているのだ。占領期間中に、しかも多くの人々が公職追放される中でマッカーサーの指示でアメリカ人が作った憲法が作動するわけがない。

「憲法とは、統治の根本規範(法)となる基本的な原理原則に関して定めた法規範をいう(法的意味の憲法)」(Wikipedia)。その根本規範がどのような経緯で作られたかを教えられることもなく、我々日本人は経済成長の中で漫然と憲法を軽んじてきた。私自身、数日前に生まれて初めて憲法全文を読んだ。憲法に対する無関心は大東亜戦争敗北に対する無関心と深く響き合っている。

 憲法の本義を思えばいたずらにテクニカルな文言を盛り込むより、五箇条の御誓文(ごせいもん)を軸として抽象度の高い格調ある文章にするのが望ましい。解釈の余地を多く残した方が安易な憲法改正を防げるだろう。

2016-04-06

戦争は制度である/『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹


・『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹

 ・戦争は文明である
 ・戦争は制度である

『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
・『封印の昭和史 戦後50年自虐の終焉』小室直樹、渡部昇一
・『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は、必ず滅亡する』小室直樹
・『世紀末・戦争の構造 国際法知らずの日本人へ』小室直樹
・『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
・『新世紀への英知 われわれは、何を考え何をなすべきか』渡部昇一、谷沢永一、小室直樹

 国家とか経済とか家とか学校とか、われわれの社会は、多くの制度を生みだした。制度とは、何かの目的を達成するための枠組みである。戦争も同じ制度なのだ。その目的は、国際紛争の解決、ということにある。(中略)
 戦争は高度に【文明】的な【制度】である。この大前提を、ひとりひとりが、しっかりと把握することなくして、われわれの社会から、戦争がなくなることはないだろう。

【『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹(カッパ・ビジネス、1981年/光文社文庫、1990年/ビジネス社、2018年『国民のための戦争と平和』改題)】

 戦争は単なる喧嘩ではない。戦争とは政治であり、外交における一つの手段である。

「戦争は制度である」との指摘は感情の次元では容認しかねる。わかりやすい例を挙げるならスポーツである。スポーツは元々「狩り」を制度化したものだが、チーム同士が戦う競技は極めて戦争と似ている。オリンピックを始めとする国際大会ではチームが国家を代表しており、代理戦争の様相を呈している。それぞれの国民が熱狂する様も戦争とそっくりだ。

 生物学的に見れば「限られた資源を巡る競争」である。ただし軍事力の強大な国家が長く繁栄するわけではない。ローマもモンゴルも滅び、スペイン・オランダ・イギリスは没落し、そして今、アメリカも沈みつつある。

 戦争に勝つ力も必要だが、戦争を避ける英知もまた必要なのだ。

 かつて日本はアメリカから石油の禁輸措置を受け、ABCD包囲網で経済封鎖をされ、戦争に打って出た。石油の備蓄は2年分しかなかった。つまり2年以上戦う構想はなかったと見てよい。その後、蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)を攻略し、石油を獲得するも、米軍によってタンカーの殆どが沈められた。物量もさることながら戦略の時点で既に敗れていた。日本軍の戦没者230万人のうち60%が餓死・戦病死であった。

 敗戦後、日本は安全保障を米軍に委ね、経済発展を遂げる。GHQの占領を通して歴史は途絶え、敗戦を振り返ることなく日本人は働いて働いて働きまくった。負けた戦争を真摯に見つめる政治家も私は見たことがない。天皇陛下の戦争責任よりも重要なことは、エネルギーと食糧の安全保障をどうするかである。1965年には73%であった食料自給率が2014年には39%(カロリーベース)まで落ち込んでいる(※生産額ベースでは64%:農林水産省)。

 選挙権は兵役とセットである。18歳選挙権に関して左翼が「徴兵制導入の布石」だと騒いでいるが、私は正反対の位置から考えるべきだと思う。北朝鮮が日本に向けてミサイルを発射しても、政府や自衛隊は戦争をする構えすら見せない。この事実は軍事的責任の欠如を示すものだ。日本の軍事における責任を担っているのは米軍である。つまりこの国の真の主権者はアメリカだと見なすことができる。そしてアメリカの意図によってこれから憲法改正が行われ、アメリカからの指示によって日本は戦争に巻き込まれるのだろう。


新戦争論―“平和主義者”が戦争を起こす (光文社文庫)
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国民のための戦争と平和
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2016-04-05

戦争は文明である/『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹


・『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹

 ・戦争は文明である
 ・戦争は制度である

『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
・『封印の昭和史 戦後50年自虐の終焉』小室直樹、渡部昇一
『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
・『世紀末・戦争の構造 国際法知らずの日本人へ』小室直樹
『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
・『新世紀への英知 われわれは、何を考え何をなすべきか』渡部昇一、谷沢永一、小室直樹
『戦争と平和の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠

 それゆえ“野蛮な戦争はもうごめんだ”という主張は、自己矛盾をはらんでいる。戦争は野蛮な行為ではないからである。
 第一次大戦と第二次大戦の戦間期に、パシフィズムといわれる運動が、ヨーロッパを席巻(せっけん)したことがあった。パシフィズムとは「平和主義」という意味だ。学生も労働者も野蛮な戦争はもういやだ、絶対に銃はとらないと叫んだ。(中略)
 それでは平和がもたらされたか。歴史は皮肉なことになった。パシフィズムは、世界史上、もっとも悲惨な、もっとも大きな戦争をもたらした。彼らの平和運動は、ヒットラーの揺籃(ようらん/ゆりかご)となったのだ。なぜ、そんな馬鹿なことになったのか。それは、一(いつ)にかかって、全員が、戦争を野蛮な行為と誤解した点にある。
 本質を誤った運動は、たいへんな副作用をもたらす。平和をとなえ、願えば、平和がくるという、心情的な「念力主義」は、役にたたないだけでなく、危険だ。戦争を、人類が生みだした最高の文明として、とらえ直し、論理をそこから再出発させる必要がある。

【『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹(カッパ・ビジネス、1981年/光文社文庫、1990年/ビジネス社、2018年『国民のための戦争と平和』改題)】

 迂闊(うかつ)であった。読書日記に記していなかった。昨年の8月に読了している。小室作品における戦争もの・国家論の筆頭に位置すると考えてよい。

 ひとつ言いわけをさせてもらうと、一方でクリシュナムルティやブッダの初期教典を読みながら、他方で歴史認識の再構築やリアリズムを追求することは離れ業といってよい。クリシュナムルティ流にいえば「分離の過程」そのものである。理想と現実の狭間(はざま)で時折、混乱気味になることもあると思われるが、ご了承願いたい。

 複数の国家が連合する大きな戦争の原因は地球の寒冷化にあると私は考える。この環境史に基づくスケールを超える視点はまだ出てきていない。具体的には食糧とエネルギーを巡る争いであると見なすことができよう。21世紀になった今日においても尚、アメリカの国防戦略は原油を中心に構築されている。中東はその犠牲者である。

 小室の場合は文明史的かつ社会科学的な視点である。ヒトの脳は宇宙を思わせる領域で膨大な情報と精密なシステムから成る。エリック・J・チェイソンは、ヒトの脳よりもはるかに複雑なシステムが「文明化した社会」であると指摘する。これは複雑系科学の創発・自己組織化・相転移などを踏まえると納得できる(『通貨戦争 崩壊への最悪シナリオが動き出した!』ジェームズ・リカーズ、2012年)。

<パシフィズム(平和主義)は、臆病・『卑劣』を意味する>:チャンネル桜・瓦版、朝日廃刊が日本を救う

 日本における平和主義は「文学」といってよい。心情的な物語が合理性を無視する。歴史を振り返れば一目瞭然だが、平和的な国家・民族は必ず侵略され、後に滅んだ。白人の奴隷にされたアフリカ人、突然やってきたヨーロッパ人に虐殺されたインディアン、ユダヤ人を受け入れたパレスチナを見よ。

 江戸時代のミラクルピース(世界史的にも稀な長期的な平和時代)を可能にしたのは鎖国であった。しかし帝国主義の大波が押し寄せ、日本は内を守るため外に向かって打って出ざるを得なくなった。これが日清・日露戦争である。

「戦争は文明である」という事実は少し冷静になれば理解できよう。社会や組織が一つの目的に向かって進む時、集団は必ず軍隊性を帯びる。つまり意思決定に始まり計画立案~目的遂行というシステムが戦争に集約されている。日本が大東亜戦争に敗れたのは最初から最後まで合理性を欠いていたためだ。日清戦争における三国干渉(1895年)が国民の間に強いストレスとなって不満が溜まりに溜まっていた。尊王の精神も裏目に出たと言わざるを得ない。

 戦争が文明であるならば、負ける戦争を絶対にしてはならないし、万が一戦争になっても最小限の戦闘で最大限の効果を得る戦略が求められる。相手が攻めてきた時に平和主義は通用しないのだ。


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人種差別というバイアス/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

2014-03-25

失業と破産こそ資本主義の生命/『小室直樹の資本主義原論』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹

 ・失業と破産こそ資本主義の生命

『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹
『日本人のための憲法原論』小室直樹

 生き残った企業は、資本主義市場に相応(ふさわ)しい企業である。生き残った労働者は、資本主義市場に相応しい労働者である。
 いま、「資本主義市場に相応しい」企業を単に「企業」、同じく「資本主義市場に相応しい」労働者を単に「労働者」と呼ぶことにすれば、つぎの命題(文章)が成立する。
【市場は労働者を作る。】
 また、
【市場は企業を作る。】
 では、如何(いか)にして、
【淘汰(とうた)によってである。】
 資本主義は、労働者と企業とから作られる。資本主義のメンバーは、労働者と企業である。労働者と企業とがなければ、資本主義は生成も存続もできない。その労働者と企業とは、市場における淘汰によって作られる。
 市場淘汰こそ資本主義の生命である。
 市場で淘汰された労働者は失業者となる。市場で淘汰された企業は破産する。
 ゆえに、
【失業(者)と破産こそ資本主義の生命である。】
 という命題(文章)が成立するのである。

【『小室直樹の資本主義原論』小室直樹(東洋経済新報社、1997年)】

 これが市場原理である。まったく疑問の余地がない。資本主義経済においては資本の運動がすべてである。資本家からすれば「高く売れるか売れないか」であり、消費者からすれば「買うか買わないか」というだけの世界だ。

 市場で公正な競争が行われ、消費者が賢い選択をすれば、淘汰によってよりよき世界が現れるはずだ。だが現実は異なる。全然よくなっていない。それどころか日本はデフレが20年も続いた。この間の付加価値はどこへ行ってしまったのか?

 わかりやすく極論を述べよう。事業を立ち上げるにはカネが必要だ。企業は銀行などから借金をする。これが「資本」だ。そのカネを事業に投資する。企業は銀行からの借金+労働者の賃金を上回る利益を出さなくてはならない。つまり資本主義は借金で回っているわけだ。それゆえ経済は銀行の金利+αのインフレになるのが自然なのだ。

 にもかかわらず長期間に渡るデフレは進行した。日銀も政府も無能であった。投資先を失った日本のマネーは海外へ向かわざるを得ない。それどころか円高に悲鳴を上げた多くの企業は生産拠点を海外へ移した。雇用までもが流出したのだ。世界各国が金融緩和をしている中で日本だけが躊躇していた。

 世界経済は2007年にサブプライム・ショック、翌2008年にリーマン・ショックに襲われた。これ以降、富の過剰な集中が目立ってくる。インターネットとグローバリゼーションによって資本の移動は一瞬で国境を超える時代となった。多国籍企業はタックス・ヘイブンを経由することで租税を回避する。既にイギリスやアメリカ国内にもタックス・ヘイブンが存在する。

 明らかに公正な競争が行われていない。更に巨大資本を有する連中がマーケットをやすやすと動かす。最大の問題は資本主義を称しておきながら、米ドルが基軸通貨として流通している事実である。だから本来であれば第二次世界大戦以降の資本主義は米ドル資本主義と名づけるべきだ。しかもドルを発効するFRBは中央銀行機能を有しながらも実体は私企業なのだ。通貨発行権を国家の手に取り戻そうとした大統領も何人かいたが全員暗殺されている。

 すなわち米ドル資本主義は資本の運動ではなく、資本家の思惑で動いていると見てよかろう。米ドルの価値が極限まで下がった時が資本主義の終焉と個人的には考えている。



消費を強制される社会/『浪費をつくり出す人々 パッカード著作集3』ヴァンス・パッカード
信用創造の正体は借金/『ほんとうは恐ろしいお金(マネー)のしくみ 日本人はなぜお金持ちになれないのか』大村大次郎

2014-03-16

戦後民主主義は民主主義に非ず/『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹
『小室直樹の資本主義原論』小室直樹
『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹

 ・戦後民主主義は民主主義に非ず

『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹
『日本人のための憲法原論』小室直樹

 戦後民主主義は、占領軍による強制というおよそ民主主義にふさわしくない方法で導入された。この尖鋭な矛盾が、「民主主義」の実質をその正反対のものに転化させた。これを「虚妄(きょもう)の民主主義」と称した人がいたが、「虚妄」などの生易(なまやさ)しいものではない。似而非(えせ)民主主義でもない。少しも似ていないからである。
 もっと悪いことに、日本人は少しも、この民主主義が、その正反対のものになりはてたことに気付いていないのである。また、「民主政治」最悪の衆愚政治に堕落したことを痛感していないのである。
 そのために、「平等」「自由」「人権」「議会」などの意味がとんでもなく誤解され、この誤解が教育の無間地獄をつうじて、おそろしい惨禍(さんか/わざわい)をまきちらしているのである。
 たとえば、「平等」の誤解は、「どの生徒にも同じことをさせる」という結果を生み、受験戦争を最終戦争にした。知的エリートを根絶させ、優者の責任(ノーブレス・オブリージュ)を埋没させて無責任体制を完成させた。「自由」の誤解は、権威と規範を失わせ若者を本能のままに放置する放埒(ほうらつ)となった。「人権」の誤解が殺人少年をのさばらせている。「議会」の誤解が、政治家を役人の傀儡(かいらい)にしている。
 民主主義教育の惨禍(さんか)は、新左翼の無目的殺人、カルト教団の無差別殺人と、とめどもなくエスカレートしていったが、ついに日本の舵(かじ)取りたる官僚制の究極的腐朽(ふきゅう)にいたった。この惨禍を激化しているのが凶悪犯罪の低年齢化である。
 今の日本にとっての急務(イマージェンシー)は、民主主義の真の理解である。

【『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹(青春出版社、1997年)以下同】

「架空デモクラシーは日本を廃人国家へと導く!」との帯が目を惹く。小室直樹の原論シリーズにはハズレがない。合理的かつ科学的である。

 私は民主制を信じていない上、悪しき制度であると考えている。そもそも「民主主義」という言葉自体が誤訳であろう。デモクラシーに「イズム」は付いていないのだから。住民自治程度の単位であれば民主制で構わないと思う。

 一応、選挙の投票と義務教育の学級会やホームルームで行われているのが民主制である。その他ではお目にかかったことがない。ただし民主制とはいえ、自由意志で投票判断することは考えにくい。業界団体や職場、あるいは教団の指示に従って投票しているだけのことだ。学校ではやはり友人の視線を気に掛けながら賛否を決めることだろう。コミュニティとは利益を共有する共同体であるため損得が優先される。政(まつりごと)はもともと祭り事であった。村から追い出されてしまえば祭りに参加することは不可能だ。村八分。

 民主とは名ばかりで、かつて私が主(あるじ)になったのは小学校4~6年生で学級代表を務めた時だけだ(笑)。そう。主には権力が必要なのだ。憲法すら形骸化するこの国で民が主となれるわけがない。

「民主主義」(デモクラシー)は、プラトン、アリストテレスの昔からずっとマイナス・イメージであった。それが、ウイルソン米大統領による第一次世界大戦における対独宣戦布告文にある「この世界をしてデモクラシーが住みよい所にするために」という宣言から、俄然(がぜん)プラス・イメージに転じたのであった。

 デモクラシーを鼓吹した連中も殆どが貴族制を支持していた(『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志)。

 民主主義が華々しい服装で登場したのは20世紀になってからとは知らなかった。以下のページが参考になる。

『民主主義』(8) デモクラシーと進歩主義|Generalstab

 ただしアメリカの説く民主制はアメリカ独自のものでアメリカン・デモクラシーといってよい。学問的にも分けて考えられている。それも当然だ。インディアンを大量虐殺し、黒人奴隷を保有していた連中が説く「民主」なんて誰も信じないに決まっている。

 民主制が群衆の叡智(集合知は群衆の叡智に非ず/『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』 アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン)を意味するなら、議会制を廃止してその都度インターネット国民投票で決めればよいことだ。運営コストも格段に安くなることだろう。

 私は政党政治にも嫌悪感を抱いている。党議拘束で所属議員を縛りつける政党が国民を縛るのは当然であろう。

 議論が成立する人数はどの程度であろうか? 私は20~30人くらいだと思う。だから政治家の数もその程度でよいのではないか? で、参議院は少し人数を増やして50人にすればよい。政党は廃止。賢人会議のようにする。議会はカメラが入り放題。議員は人口構成の世代別に準じて選別する。更に政治家は官僚の人事権を完全に掌握する。このくらいやらないと日本はまともな独立国になれない。官僚ファシズムは権力者の顔が見えない。そこが恐ろしい。

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