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2021-11-28

不確実性に耐える/『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環解説、まんが水谷緑


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
統合失調症の内なる世界
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環

 ・不確実性に耐える

『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄
『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄
『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家
・『群衆の智慧』ジェームズ・スロウィッキー
『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン

虐待と精神障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

「自分自身を知る」とは「自分はこういう人間だった、わかった!」という理解ではありません。自分自身もまた「汲み尽くすことのできない他者」として理解することです。対話実践とはその意味で、自分自身との対話でもあるのです。

【『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環〈さいとう・たまき〉解説、まんが水谷緑〈みずたに・みどり〉(医学書院、2021年)以下同】

 オープンダイアローグを通して斎藤自身が変わった。結局、統合失調症患者を媒介にして参加者全員が変わるところに「オープン」の意味があるのだろう。「変わる」と言っても決して大袈裟なことではない。今まで言えなかった何かや、見えなかった自分に気づけばそれでいいのだ。

 オープンダイアローグでは途中でリフレクティングを行う。これは一旦対話を中断して、専門家同士が目の前で対話の内容を検討するというもの。この時、見えないカーテンで仕切られているとの自覚で、当事者とは目も合わせてはいけない。また、当たり前だが否定的な意見は言わない。

 結果的に私たちがしてきたことは、「そんなことあるわけがない」と反論するわけでもなく、「そうですよねぇ」と同調するわけでもなく、ただ、「私はそういう経験をしたことがないからよくわかりません」という基本姿勢で、「どういう経験か知りたいので、もっと教えてくれませんか」と尋ね続けたことだと思います。
 そのように聞いていくと本人は、みんながわかるような言葉を自分で絞り出して説明するわけです。おそらく、他人にわかってもらうように説明するという過程のなかに、ちょっとこれは自分でもおかしいかなとか、自発的に気づくきっかけがあったのかもしれません。人から言われて気づかされるのではなくて、自分から矛盾や不整合に気づいて修正していくと、結果的に正常化が起こってくるということかもしれないなとは思いました。

 漫画で描かれているのは完全な妄想性障害である。旦那が浮気をしていると思い込んで、やや狂乱気味の女性だ。何度もオープンダイアローグを重ねて、「もう駄目かも」と斎藤があきらめかけた時、彼女は一変した。

 この人の訴えを「妄想」と呼ぶ医師もいるかもしれません。妄想というと、きっちり構築された理屈みたいに聞こえますが、実は妄想の背景にあるのは、怒りや悲しみなどの強い「感情」なんですね。だから感情の部分に隙間ができると、妄想の内容もだんだん変わってくる。それをこのケースでは痛感しました。

 いやいや妄想ですよ。それも完全な。ここで常識人は意味の罠に囚(とら)われる。「妄想の原因は何か?」「妄想の意味は何か?」と。あるいは単なる脳のバグかもしれない。

「オープンダイアローグの7原則」の6番目に「不確実性に耐える」とある。この一言は重い。だがよく考えてみよう。生きるとは「不確実性に耐える」ことだ。紀貫之〈きのつらゆき〉は「明日知らぬ 我が身と思へど 暮れぬ間の 今日は人こそ かなしかりけれ」と詠んだ。従兄弟の紀友則〈きのとものり〉が亡くなったことを嘆いた歌だ。一寸先は闇である。その不確実性に分け入り、切り拓いてゆくのが人の一生なのだろう。

【変えようとしないからこそ変化が起こる】――この逆説こそが、オープンダイアローグの第1の柱です。オープンダイアローグでは、治療や解決を目指しません。対話の目的は、対話それ自体。対話を継続することが目的です。(中略)
 ただひたすら対話のための対話を続けていく。できれば対話を深めたり広げたりして、とにかく続いていくことを大事にする。そうすると、一種の副産物、【“オマケ”として、勝手に変化(≒改善、治癒)が起こってしまう。】これは一見回り道のように見えるかもしれませんが、私の経験をもとにして考えると、結局はいちばんの最短コースになっていることが多いんですね。
 裏返して癒えば「対話というものは続いてさえいればなんとかなるものだ」――これがオープンダイアローグの肝だと私は思っています。これはこの言葉どおり捉えていただいてかまいません。対話を続けてさえいればなんとかなる。続かなくなったらヤバいかも、ということです。

 ここまで指摘されてオープンダイアローグが集合知であることに気づく。ヒトという群れが言葉を介してつながる姿が鮮やかに見える。「個体発生は系統発生を繰り返す」という反復説が正しいなら、胎内で魚からヒトにまで進化した赤ん坊が、言葉を操るようになるまで3年ほど要することを見逃せない。つまり大脳ができても言葉のなかった人類の時代があったに違いない。

 まだ成り立てのほやほやだった人類は、限りなく動物に近い存在だった。言葉のない時代の方がコミュニケーションは円滑であったと想像する。社会性動物の真価は群れにあるのだ。それゆえ群れの中で上手く動けない者は淘汰されたことだろう。そして人類の多くは統合失調症であった(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ)。右脳と左脳を統合したのは言葉と論理だ。理窟で抑えきれない情動は狂気となって滴り、迸(ほとばし)る。

 たぶん言葉が脳を豊かにし、そして脳にブレーキをかけている。更に文字が言葉を強力に支える。歴史も文明も言葉から生まれた。だが果たして現在の我々の生き方が本当に人間らしいのだろうか? やや疑問である。

精神医療の新しい可能性/『オープンダイアローグとは何か』斎藤環


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『累犯障害者 獄の中の不条理』山本譲司
『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫
統合失調症の内なる世界

 ・精神医療の新しい可能性

『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環、水谷緑まんが
『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄
『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄
『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家
・『群衆の智慧』ジェームズ・スロウィッキー
『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン

虐待と精神障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 どれほど精神療法志向の医師でも、統合失調症だけは薬物療法が必須であると考えています。かつて反精神医学運動のなかで、薬物投与や行動制限をしない治療の試みが何度かなされ、ことごとく挫折に終わっているという苦い記憶もあります。統合失調症だけは薬を用いなければ治らない。それどころか、かつて早発性痴呆と呼ばれたように、放置すれば進行して荒廃状態に陥ってしまう。これは精神医学において専門家なら誰もが合意する数少ないハード・ファクトのひとつです。少なくとも、そう信じられています。

【『オープンダイアローグとは何か』斎藤環〈さいとう・たまき〉著、訳(医学書院、2015年)以下同】

 オープンダイアローグとはフィンランドで行われている統合失調症の治療法である。「開かれた対話」を家族と関係者で行う。斎藤は精神科医の本音を赤裸々に綴っている。私は過去に5~6人の統合失調症患者と接する機会があったが、やはり同様に考えていた。ギョッとさせられる言動や行動が多いためだ。妄想は想像の領域を軽々と超える。突拍子もない支離滅裂な話に「うん、うん。そうか――」と耳を傾けることは意外としんどい。もっとはっきり言うと「治そう」という意欲すら湧いてこない。できれば何とかしてくれ、時間よ。と嵐が通り過ぎるのを待つ心境に近い。

 自殺を防ぐためだと思われるが強い薬が処方されることも多い。一日に30~40錠もの薬を服用している人もいた。服薬後は頭がボーッとして何もできなくなる。当然、仕事もできない。

【映画に登場する病院スタッフたちが語る内容は、実に驚くべきものでした】。
 この治療法を導入した結果、西ラップランド地方において、統合失調症の入院治療期間は平均19日間短縮されました。薬物を含む通常の治療を受けた統合失調症患者群との比較において、この治療では、服薬を必要とした患者は全体の35%、2年間の予後調査で82%は症状の再発がないか、ごく軽微なものにとどまり(対照群では50%)、障害者手当を受給していたのは23%(対照群では57%)、再発率は24%(対照群では71%)に抑えられていたというのです。そう、なんとこの治療法には、すでにかなりのエビデンス(医学的根拠)の蓄積があったのです。

 これは革命といっていいだろう。私は予(かね)てから左脳と右脳の統合に支障がある病気と考えてきたが、情報の紐づけが混乱している状態と考えた方がよさそうだ。対話は言葉で行われる。しかし言葉だけではない。情緒が意味や位置をくっきりと浮かび上がらせるのだ。我々はちょっとした目の動きや何気ない動作から様々な情報を受け取る。ひょっとすると体温や体臭まで感じ取っているかもしれない。

 尚、斎藤が購入した映画は現在、You Tubeで公開されている。


 オープンダイアローグとは、これまで長い歴史のなかで蓄積されてきた、【家族療法、精神療法、グループセラピー、ケースワークといった多領域にわたる知見や奥義を統合した治療法なのです】。

 やや西洋かぶれ気味で鼻白む。なぜなら、ほぼ同じことを20年以上も前から、べてるの家が実践してきたからだ。本書の中では申しわけ程度に紹介されているが、べてるの家を無視してきた日本の精神医療が炙り出された恰好だ。

 余談になるが、表紙を飾る冨谷悦子〈ふかや・えつこ〉のエッチング(「無題(19)」2007年)が目を引く。個と群れの絶妙なバランス感覚が際立っている。

2021-01-05

「自己」という幻想/『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク


『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン
『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ

 ・「自己」という幻想

「自己とは、内側にある安定した核だ」と昔から固く信じられてきたが、それは科学的事実からかけ離れた幻想である。「ここが人格や自己意識を生み出す源だ」と言える特定の脳内領域やニューロンは存在しない。実のところ、やつれ顔のシュールマンは、「自己とは、我が研究チームが自由に造り替えられるものです」と言うこともできたのだ。実験結果を見れば、どの患者にも普遍の核など存在しないことは明らかだ。自己とは、そのときどきの脳の状態のことなのだ。脳の特定の箇所に電気を少々流すだけで、人は別の誰かになってしまう。

【『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク:赤根洋子〈あかね・ようこ〉訳(文藝春秋、2020年)】

 著者が言う「脳の状態」を石川九楊〈いしかわ・きゅうよう〉風に表現すれば「スタイル」となる(『書く 言葉・文字・書』石川九楊)。つまり我々は自分が好む反応を定式化することで「自己」という産物を創造しているのだろう。それは文字通り「型」(スタイル)といってよい。

 人は身口意(しんくい)の三業(さんごう)を繰り返すことで自我を形成する。すなわち自我とはパターンに過ぎない。私は「小野さんらしい」と言われることが多い。特に目上の人物と喧嘩をする際に私の個性は最大限発揮される。そうした行為は私が自ら選んで行われるものだ。時折失敗することもあるが気にしない。じっと黙っているわけにはいかないからだ。

 悪しき性格は劣等感によって作られる。負の感情が正常な判断を失わさせる。その意味で恨みや妬みが一番厄介な感情だと思う。

「自己」が幻想であれば誰かから馬鹿にされても怒る必要はない。たまたまその時の「脳の状態」が馬鹿にされたのだから。

2020-12-20

統合失調症の内なる世界


 ・統合失調症の内なる世界

『オープンダイアローグとは何か』斎藤環
『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』斎藤環解説、まんが水谷緑
『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄
『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄
『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家

 ツイートの日付をクリックすればスレッド表示となる。認知(受信)の歪みは誰にでも起こり得る。意識は繊細な糸でできており、右脳と左脳の統合が崩れると五感情報の整合性がとれなくなるのだろう。




「少しでもいい影響が広がりますよ...」、@M_hytk09 さんからのスレッド - まとめbotのすまとめ

2019-03-03

タンパク質と鉄分を摂り、糖質を控える/『うつ消しごはん タンパク質と鉄をたっぷり摂れば心と体はみるみる軽くなる!』藤川徳美


『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン
『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
『コレステロール 嘘とプロパガンダ』ミッシェル・ド・ロルジュリル
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク

 ・タンパク質と鉄分を摂り、糖質を控える

『心と体を強くする! メガビタミン健康法』藤川徳美
『小麦は食べるな!』ウイリアム・デイビス
『シリコンバレー式自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー
『医者が教える食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』牧田善二
『医者が教える食事術2 実践バイブル 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方70』牧田善二
『DNA再起動 人生を変える最高の食事法』シャロン・モアレム
『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹
『食事で治す心の病 心・脳・栄養――新しい医学の潮流』大沢博
『オーソモレキュラー医学入門』エイブラハム・ホッファー、アンドリュー・W・ソウル
・『自律神経どこでもリセット! ずぼらヨガ』崎田ミナ、福永伴子監修

「増やす編」のトップバッターはタンパク質を含む食品です。タンパク質の英語 Protein (プロテイン)は、ギリシャ語の「第一となるもの」に由来しています。いってみれば、生命活動の第一人者、まずもって増やす必要がある栄養素です。

【『うつ消しごはん タンパク質と鉄をたっぷり摂れば心と体はみるみる軽くなる!』藤川徳美〈ふじかわ・とくみ〉(方丈社、2018年)以下同】

 厚生労働省は22日、65歳以上の高齢者が1日に摂取するたんぱく質の目標量を引き上げる食品摂取基準に関する報告書案を示した。「フレイル」(虚弱)の発症予防を目的とした場合、65歳以上の高齢者は体重1キログラム当たり少なくとも1グラム以上のたんぱく質の摂取が望ましいとした。体重50キログラムの人ならば1日50グラム以上となる(日本経済新聞電子版 2019年2月22日)。

 たまたまプロテインに興味を持ち、あれこれ情報収集している時に見つけた書籍である。私の場合、今のところうつ病とは無縁である。基本的に精神的な落ち込みを感じることがほぼない。元々幼い頃から自己評価がそれほど高くないので軽んじられたところで「ま、仕方ないか」という程度に受け止めている。更に多少の修羅場をくぐり抜けてきたこともあり少々の苦労なら「これくらいはどうにでもなる」という心の余裕がある。ついでに言っておくと私には「寂しい」という感情が欠落している。30代で6人の後輩を喪った時に涙が涸(か)れ果ててしまった。

 そんな私ですら読んでいるのだから、うつ病あるいは気質のある人は直ちに実践するべきだ。食生活を変えるだけで精神疾患を乗り越えられるとすればこんな安上がりな方法はない。

 必須アミノ酸は、9種類のうち一つでも必要量に満たないものがあると、もっとも少ないアミノ酸に準じた量しかタンパク質がつくられません。偏って多量に摂取したアミノ酸は、すべて無駄になってしまうのです。
 このしくみは「桶の理論」として知られています。


 タンパク質はアミノ酸でできている。「桶の理論」は初耳であった。このように食事のバランスを具体的に指摘されると実に説得力がある。以下のアミノ酸スコアを冷蔵庫に貼っておくとよい。


 日本女性が鉄不足になる原因は食生活です。土壌のミネラルが減少したため、農作物から摂れる鉄分も減少してしまいました。
 一方、他国の女性、特に欧米の女性は日本女性のような鉄不足はありません。欧米では、鉄分を含む肉を日本人の3倍ほど食べます。また、欧米を中心とした50カ国以上の国では、小麦粉にあらかじめ鉄が添加されるなどの鉄補給対策がなされています。その理由は、1940年代に鉄欠乏性貧血が多く発症し、その対応に困ったという時代があったのです。この対策のおかげで、鉄不足の頻度は減少したということです。
 米国、英国、カナダ、トルコ、タイ、スリランカなどの国々で、同様の鉄不足対策がとられており、メキシコではとうもろこし粉、モロッコでは塩、フィリピンでは米、中国ではしょう油、東南アジア諸国ではナンプラーに、鉄が添加されています。

 そこはかとなく陰謀の臭(にお)いが漂ってくる。やがて訪れる高齢化社会の問題が介護であることを有吉佐和子が指摘したのは1972年のことであった(『恍惚の人』新潮社)。女性解放を謳(うた)ったウーマンリブ運動(1960年代後半から1970年代前半)をバックアップし資金提供したのはロックフェラー財団である。その目的は納税者を増やすことと、子供の教育を母親の手から学校に奪い家族を破壊することであった。これはアーロン・ルッソ監督が直接聞いた話として公言している。

 女性のための鉄分対策すら行おうとしない国家は何らかの意志で人口減少を目指しているのだろう。日本は食品に関する規制が甘くマーガリンやショートニングに含まれるトランス脂肪酸も野放し状態である。「我が家はバターだから大丈夫」というのは通用しない。飲食店や菓子類に含まれるマーガリンを避けることは不可能だ。

 よくよく振り返ってみよう。この国は自殺、交通事故死、拉致被害を漫然と見過ごし、古きよき会社制度を破壊して短期間で低賃金労働者という階層をつくることに成功した。主要上場企業の株式は外国資本に買い漁られ、会社は株主のものとなり、社長がべら棒な報酬をせしめ、従業員と家族は蔑(ないがし)ろにされてしまった。

 家族や会社内の関係性が断絶された頃から人権の名の下にステレオタイプの正義が先進国で声高に叫ばれるようになった。このポリティカル・コレクトネスを西尾幹二は「衛生思想」であり「消毒の思想」と喝破している(『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』2007年)。

 国家が国民を守る時代は終わった。自ら知恵を尽くして我が身を守れ。

2019-02-28

「ブードゥー教の呪いで人が死ぬ」ことは科学的に立証されている/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン


 ・精神疾患は本当に脳の病気なのか?
 ・「ブードゥー教の呪いで人が死ぬ」ことは科学的に立証されている
 ・相関関係=因果関係ではない

『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス
『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
『コレステロール 嘘とプロパガンダ』ミッシェル・ド・ロルジュリル
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『うつ消しごはん タンパク質と鉄をたっぷり摂れば心と体はみるみる軽くなる!』藤川徳美
『心と体を強くする! メガビタミン健康法』藤川徳美
『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹
『食事で治す心の病 心・脳・栄養――新しい医学の潮流』大沢博
『オーソモレキュラー医学入門』エイブラハム・ホッファー、アンドリュー・W・ソウル
『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク

必読書リスト その二

 生理的変化の原因として、心理社会的要因も重要であることを認めない人は、次のような例をどう説明するのか。ユダヤ教徒(あるいはイスラム教徒)たちは豚肉を食べることが禁じられている。敬虔なユダヤ教徒(あるいはイスラム教徒)が知らずに豚肉を食べ、何時間もたってから、それがなんと禁じられている豚肉だったと知らされると、身体に激しい異変が生じるという。また、「ブードゥー教の呪いで人が死ぬ」ことも、立証されている。ハーバード大学の著名な生理学者ウォルター・キャノンがこれを研究し、のちにジョンズ・ホプキンズ大学の心理生物学者のカート・リクターも調査した。ブードゥー教の信仰が行われている国では、いたって健康な人でさえ、呪いが自分にかけられたことを知ると、衰弱して死に至るということが実際に起きる。

【『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン:功刀浩〈くぬぎ・ひろし〉監訳、中塚公子訳(みすず書房、2008年/新装版、2018年)】

 これは脳機能によるものと個人的に考えている。多分、「これ以上生きてはいけない」というスイッチが遺伝子レベルで入ってしまうのだろう。時に思想が人を殺すという例証である。

「文をもって化す」ことで同じ物語が共有される。それが死に至る場合もあることは武士の切腹を思えば不思議なことではない。ただ呪いと恥の違いがあるだけだ。どちらも物理的な実体があるわけではなく、ユヴァル・ノア・ハラリ流に言えば「虚構」である。もっとわかりやすい例を挙げよう。

 99年12月、タンクローリーが交差点で軽トラックと激突する交通事故が起こった。軽トラックは大破し、乗っている人が出てこなかったことからタンクローリー運転手は死亡事故を起こしたと思い込み、動転して約200メートル離れた鉄塔に上ってそこから飛び降り自殺した。しかし、実際には軽トラックの運転手に怪我はなく、無免許運転だったためその発覚を恐れて車外に出てこなかっただけのことだった。(※後に事故のショックによる急性ストレス反応の発病が認められ労災認定された)

【『自殺のコスト』雨宮処凛〈あまみや・かりん〉(太田出版、2002年)】

 この運転手は勘違いによって死んだわけだ。嘲笑ってしまえばそれまでである。よくよく考えてみよう。思想・哲学・宗教は勘違いを体系化したものだろう。飛行機はおろかロケットや人工衛星が飛び交う時代になっても「天にまします我らの父」を見た人はいない。にもかかわらずそんな物語を信じている人々が世界には20億人以上もいるのである。脳とは五感情報を統合して虚構(=勘違い)を作り出す装置なのだろう。

 もう一つ紹介しよう。

 エピジェネティック効果や母性効果の不思議について、ニューヨークの世界貿易センターとワシントン近郊で起きた9.11テロ後の数か月のことを眺めてみよう。このころ、後期流産の件数は跳ね上がった――カリフォルニア州で調べた数字だが。この現象を、強いストレスがかかった一部の妊婦は自己管理がおろそかになったからだ、と説明するのは簡単だ。しかし、流産が増えたのは男の胎児ばかりだったという事実はどう説明すればいいのだろう。
 カリフォルニア州では2001年の10月と11月に、男児の流産率が25パーセントも増加した。母親のエピジェネティックな構造の、あるいは遺伝子的な構造の何かが、胎内にいるのは男の子だと感じとり、流産を誘発したのではないだろうか。
 そう推測することはできても、真実については皆目わからない。たしかに、生まれる前も生まれたあとも、女児より男児のほうが死亡しやすい。飢餓が発生したときも、男の子から先に死ぬ。これは人類が進化させてきた、危機のときに始動する自動資源保護システムのようなものなのかもしれない。多数の女性と少数の強い男性という人口構成集団のほうが、その逆よりも生存と種の保存が確実だろうから。(1995年の阪神大震災後も同様の傾向が出ている)

【『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス:矢野真千子訳(NHK出版、2007年)】

 私は「自殺」だと考える。母親の体を通して伝わるストレスを胎児は「戦争」と認識したのだろう。男児であればゆくゆく兵士となるのは確実だ。兵士とは国家のために死ぬ存在である。どうせ生まれても死ぬ運命にあるのならば、さっさと死んで無駄な養育コストを回避することが親のためになる。もっと言ってしまえば、生まれて生きるほどの価値もない世界だから胎児は自ら死ぬのだろう。

「それは、あんたが勝手に思い描いた物語だろう?」――その通り。この世は人の数だけ物語が存在する摩訶不思議な世界なのだ。



『ガン食事療法全書』マックス・ゲルソン
『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家

2018-10-18

「精神障害の診断と統計マニュアル」は児童虐待の役に立っていない/『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク


『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ

 ・「精神障害の診断と統計マニュアル」は児童虐待の役に立っていない

『うつ消しごはん タンパク質と鉄をたっぷり摂れば心と体はみるみる軽くなる!』藤川徳美
『心と体を強くする! メガビタミン健康法』藤川徳美
『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹
『食事で治す心の病 心・脳・栄養――新しい医学の潮流』大沢博
『オーソモレキュラー医学入門』エイブラハム・ホッファー、アンドリュー・W・ソウル
『パワー・オブ・エイト 最新科学でわかった「意識」が起こす奇跡』リン・マクタガート
『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍

『精神疾患の診断・統計マニュアル』の主要な診断のそれぞれには作業グループがあって、新しい版のための改訂を提案する責務を負っていた。私はこのフィールドトライアルの結果を、自分の所属する『精神疾患の診断・統計マニュアル』第4版のPTSD作業グループに示し、私たちは、対人的なトラウマ犠牲者のための、新たなトラウマ診断を作ることを決議(賛成19票、反対2票)した。「他に特定不能の極度のストレス障害」、略して「複雑性PTSD」だ。それから私たちは、1994年5月の第4版の刊行を待ち焦がれた。ところが、じつに意外にも、私たちの作業グループが圧倒的多数で承認した診断は、最終的にでき上がった本には載らなかった。しかも、私たちの一人として、事前に意見を求められることはなかった。
 この診断が除外されたのは、なんとも不幸だった。多数の患者が正確な診断を受けられず、臨床家や研究者が彼らのための適切な治療法を科学的に開発できないということだからだ。存在しない疾患のための治療法など、開発しようがない。現在、診断がないために、セラピストは深刻なジレンマに直面している。虐待や裏切り、ネグレクトの影響に対処している人々を、うつ病、あるいは、パニック障害、双極性障害、境界性パーソナリティ障害などと診断せざるをえないとき、いったいどう治療すればいいのか。そうした診断は、彼らが取り組んでいる問題を対象としたものではないのだから。
 養育者による虐待やネグレクトの結果は、ハリケーンや交通事故の影響よりもはるかに頻繁に見られ、複雑だ。それにもかかわらず、私たちの診断システムの在り方を決める意思決定者たちは、そのような事実を認めないという判断を下した。それ以来、『精神疾患のための診断・統計マニュアル』は20年の歳月と四度の改訂を経たというのに、今日に至るまでこの手引きとそれに基づくシステム全体は、児童虐待と児童ネグレクトの犠牲者の役に立っていない。1980年にPTSDの診断が導入される前は、帰還兵たちの苦境が無視されていたのと、まさに同じ状況だ。

【『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳、杉山登志郎〈すぎやま・としろう〉解説(紀伊國屋書店、2016年)】

 これは買いだ。4000円を超える値段だが600ページのボリュームを考えれば良心的な価格といえるだろう。表紙はアンリ・マティスの『ジャズ』より「イカルス」。センスがいい。

 一冊の本には起伏があり、読む速度の変化がリズムを作る。ところが本書は最初から上り坂で中盤に至っても下りが現れない。読み手の噛む力が相当試される。まだ読み終えていないのだが、どうしても記録しておかねばならない情報が出てきたので紹介しておこう。

 一般的には「精神障害の診断と統計マニュアル」と表記され、DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)と省略されることが多い。既に第5版(DSM-5)となっているが、第4版(DSM-IV、1994年)の編集委員長を務めたアラン・フランセスがDSM-5を徹底的に批判している。

精神医学のバイブルが新たな患者を生み出す/『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス

 既に何度も書いた通り、現代医学は裁判と酷似しており、過去の判例に基づいて判決の相場観が決められる。また臨床という個人的経験の限界を自覚する医師は少ない。製薬会社のロビー活動により厳密なデータ収集も難しい。二重盲検を経れば確実かといえば決してそんなことはない。治療を巡る因果関係が科学的に導かれると思ったら大間違いだ。

 精神疾患に関する六法全書や経典ともいうべき存在が「精神障害の診断と統計マニュアル」である。そのマニュアルがデタラメだとすれば、医師が処方する様々な薬は必ず深刻な副作用を伴い、広範な被害を及ぼすに違いない。それが社会の表面に浮かび上がってこないのは相手が精神疾患患者であるからだ。極論を述べればDSMが患者を薬の捨場(すてば)にしている可能性すらある。

 簡単な事実を申し上げよう。薬の種類とDSMの版を重ねるに連れて精神疾患は増えている。もちろん社会の複雑性が人々の心理に何らかの影響を落としていることは確かだろう。しかしながら、ちょっとした落ち込みや落ち着きのなさに名前をつけて病気に格上げしたのも彼らなのだ。

 個人的には精神医学を科学だとは考えていない。人の心がそんなに簡単にわかってたまるかってえんだ。その辺にいる医者だって科学とは無縁である。人の体を少しばかりいじって薬を処方するだけの仕事だ。

 先日、武田邦彦が言っていた。「故障した自動車を修理に出して、もし直せなかったら修理会社は料金を請求するでしょうか? もちろんしません。では、どうして病院は体の修理ができなくても料金を請求するのか。ここに現代医学の根本的な問題がある」(趣意)と。

 医師は現代の宗教家である。誰もが医師の言葉を鵜呑みにし、ありがたがり、言いなりになる。処方される薬は聖水だ。そして巨額のカネが医学界と医療産業を潤すのだ。

【追記】10月19日

 尚、著者を中心とするグループがDSM-5に「発達性トラウマ障害」を盛り込むよう勧告したが敢えなく却下された。この件(くだり)については264~266、274~277ページに詳細がある。100万人もの患者を無視してDSMは製薬会社の営業マンとなりつつあるのだろう。


2017-11-09

自分の手に病を取り戻す営み/『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳
『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄
『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄
『ベリー オーディナリー ピープル とても普通の人たち 北海道 浦川べてるの家から』四宮鉄男

 ・自分の手に病を取り戻す営み

『石原吉郎詩文集』石原吉郎

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

「当事者研究」とは何か

 浦河で「当事者研究」という活動がはじまったのは、2001年2月のことである。きっかけは、統合失調症を抱えながら、“爆発”を繰り返す河崎寛くんとの出会いだった。入院していながら親に寿司の差し入れや新しいゲームソフトの購入を要求し、断られたことへの腹いせで病院の公衆電話を壊して落ち込む彼に、「一緒に“河崎寛”とのつきあい方と“爆発”の研究をしないか」と持ちかけた。「やりたいです!」と言った彼の目の輝きが今も忘れられない。
「研究」という言葉の何が彼の絶望的な思いを奮い立たせ、今日までの一連の研究活動を成り立たせてきたのだろう。その問いを別のメンバーにすると、「自分を見つめるとか、反省するとか言うよりも、『研究』と言うとなにかワクワクする感じがする。冒険心がくすぐられる」と答えてくれた。
「研究」のためには、「実験」が欠かせない。そして、その成果を検証する機会と、それを実際の生活に応用する技術も必要になってくる。その意味で統合失調症などの症状を抱える当事者の日常とはじつに数多くの「問い」に満ちた実験場であり、当事者研究で大切なことは、この「問う」という営みを獲得することにある。(向谷地生良〈むかいやち・いくよし〉)

【『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家(医学書院、2005年)以下同】

「精神科や心療内科ほどデタラメな仕事はない」――精神疾患となった十数人を見てきてた私の結論である。とにかく医師に何の見識もなく、ただ症状に薬を当てはめるだけの作業だ。これほど気楽な稼業もない。患者が通院先を変更すると薬の種類がガラリと変わることも珍しくない。しかも病状によっては数十種類の薬が処方される。エリオット・S・ヴァレンスタイン著『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』を読んで私の所感は確信となった。

 ソーシャルワーカーの向谷地生良〈むかいやち・いくよし〉はべてるの家を設立した一人でそのユニークさが異彩を放つ。浦河べてるの家は労働・生活・ケアを共有する精神障碍者のコミュニティである。自治を病状の寛解に結びつけた稀有な試みで、「先進的な取り組みがなされており、世界中から毎年2500人以上の研究者・見学者が訪れる」(Wikipedia)。

“「問う」という営みを獲得すること”は自分の手に病を取り戻す営みである。被害者意識にとらわれた浅い疑問であれば病院や医師あるいは薬物に依存することを避けられない。深刻な悩みを抱えた者同士であれば現実的な対応が可能となる。当事者研究は精神疾患を抱える者が自らの足で立ち上がろうとする行為であり、病院の無力さを郵便に物語っている。では具体的にご覧いただこう。

 今回、べてるしあわせ研究所では、経験者10名(男性2名、女性8名)による「摂食障害研究班」を立ち上げ議論を重ねた。その結果浮かび上がってきたのが、「どうしたら摂食障害になれるか」という視点であった。
 いままで、「いかに治すか」に腐心しながらも結果として食べ吐きに走り、罪悪感に苛まれてきた経験者たちにとって、「どうしたらなれるか」という視点は大いに受け、議論も盛り上がった。

 べてるを特徴づけているのはこの「センス」である。ユーモアは現実を笑い飛ばす精神の力から生まれる。エリート官僚が発想の転換を苦手とするのは彼らの精神が貧しいからだ。

 浦河ではみんなが自己病名をつけているので、ぼくも自分の苦労に合わせて「統合“質”調症・難治性月末金欠型」と名づけた。
 この“質”というのは「質屋」の質からとった。ぼくが浦河に来ていちばん最初にデイケアの仲間に聞いたのが「浦河って質屋はあるんですか?」だったのが、すっかり有名になってしまった。

 いかなる名医であってもこれほど秀逸な病名は思い浮かばないだろう。いつも金欠病の彼は借金の仕方をレクチャーする。マイナスをプラスに捉え直すのがべてる流だ。幼い子をもつ親御さんに是非とも読んで欲しい所以である。

 幻聴さんにジャックされる人とされない人の違いについて、仲間同士の議論のなかから出た意見を★2にまとめてみた。
 幻聴ジャックに苦しむ人は、左欄のような状態に陥っている人たちであるというのが、わたしたちの経験から出た結論である。このような話し合いができるところに、幻聴さんレスキュー隊の存在意義がある。(※以下左欄のみ)

【ジャックされる人】
 自分に自信がない人
 つけこまれるスキがある人
 幻聴とのなれあい状態……依存
 自分に無関心
 いつも自分を責める
 理解者がいない
 人間関係が悪い
 自分を大事にできない
 淋しさや孤独感が強い
 対処方法を知らない
 自分が嫌い

 幻聴は統合失調症に顕著な症状であるが、他人の意見に左右されやすい人も参考になるのではないか。ま、私からすればテレビを見て泣いたり笑ったりしているような人々はテレビに心をジャックされたも同然で、知らぬ間に価値観までテレビに毒される。

 この項目の反対ならよいのかというと決してそうではあるまい。精神が統合された状態は中庸を目指す。

 べてるが精神疾患を笑いと研究にまで高めた功績は大きい。多数のイラストも実に素晴らしい。文章がこなれているのは編集をした医学書院の白石正明の功績だろう。

2016-09-05

当事者研究/『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳
『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄

 ・当事者研究

『ベリー オーディナリー ピープル とても普通の人たち 北海道 浦川べてるの家から』四宮鉄男
『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト

 そうした事業や活動を通して、べてるの家は数ある精神障害者グループのなかでも際だつ異彩の集団として全国に知られるようになった。それは彼らが毎年開催する「幻覚妄想大会」といった人目を引くイベントや、「そのままでいい」という標語に象徴される一見自由奔放な生き方、「当事者研究」や「SST」などとよばれるミーティングの独自性や数の多さのせいだけではない。精神疾患の当事者として日々抱えなければならないあらゆる困難や問題を、彼ら自身の立場から捉え直そうとする「当事者性」を一貫して追い求め、その当事者性を見失わないためのさまざまなくふうを積み重ねてきたからだ。そこで彼らが見据えようとしたのは、日々山のような問題をかかえ、際限のないぶつかりあいと話しあいをくり返すなかで実感される、苦労の多い当たり前の人間としての当事者のあり方だった。精神障害者である前に、まず人間であろうとした当事者性だったのである。彼らは人間が人間であるがゆえにかかえる問題を精神障害に代弁させることなく、自らに引き受けようとしたのであり、問題だらけであることをやめようとしなかったがために、そこに浮かびあがる人間の姿をたいせつにしようとしたのである。

【『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄(みすず書房、2010年)】

 まずは当事者研究をご覧いただこう。






 間延びした北海道弁が懐かしい。肯定・受容・傾聴・共感が直ちに見て取れる。確かなコミュニケーションが成立している。むしろ健常者コミュニティの異常性が浮かび上がってくるほどだ。

 当事者研究は自分の障碍(しょうがい)を客観視することで自ら立つことを目的としているのだろう。学者や医者に研究を任せていれば、実験モルモットのような存在になってしまう。当事者には専門家が気づかない「日常の現実」が見える。精神障碍を治療すべき病状と捉えるのではなくして、長く付き合わねばならぬ特性と受け止めれば、具体的な対処の仕方も明らかになる。現実を克服しようと力めば力むほど苦しくなる。それは我々も同じだ。

 社会が高度にシステム化されると人間の姿が見えなくなる(『遺言 桶川ストーカー殺人事件の深層』清水潔)。我々は能力や役割でしか評価されない。しかも労働力というレベルで見れば、いつでも取り換え可能な存在となった。そんな「社会の不毛さ」が指摘されたのは高度成長期であった。やがて数年間のバブル景気を経て、日本経済は「失われた20年」に喘ぐ。一億総中流は完膚なきまでに破壊され、働いても貧困から脱出できない人々が現れる。果たして彼らは人間扱いをされているのだろうか?

 精神障碍の世界に新風を巻き起こしたべてるの家に事件が起こる。あろうことか殺人事件だった。入院患者が見舞い客に刺殺されたのだ。犯人もまた統合失調症であった。事件の詳細、マスコミのクズぶり、そして葬儀の模様が描かれている。べてるの精神は殺人事件をも受容した。被害者の親御さんの言葉が心に突き刺さる。

2016-09-03

精神障碍者の自立/『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『新版 分裂病と人類』中井久夫
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳

 ・精神障碍者の自立

『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄
『ベリー オーディナリー ピープル とても普通の人たち 北海道 浦川べてるの家から』四宮鉄男
『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト

 けれど、これがべてるの転機となる。
 先の見えない苦労がつづくなかで、いやもうそんな苦労を10年もつづけてきたところで、彼らは知らず知らずのうちにそれなりの力を身につけていた。泥沼のなかで、それでも萌え出ようとする芽が彼らのなかには生まれはじめていた。沈黙の10年の間、べてるの問題だらけの人たちは、ただ漫然と暮らしていたわけではない。ぶつかりあいと出会いをくり返しながら、そこにはいつしかゆるやかで不確かで気まぐれでありながら、肌身で感じることのできるひとつの「場」が作り出されていたのである。それはけっして強固な連帯に支えられた場でも、明晰な理念に支えられた場でもなかった。規則や取り決めや上下関係によって規定されたわざとらしい場でもなかった。ただ弱いものが弱さをきずなとして結びついた場だったのである。それはこの世のなかでもっとも力の弱い、富と地位と権力からいちばん遠く離れたところにいる人びとが作り出す、およそ世俗的な価値と力を欠いた人間どうしのつながりだった。
 けれどそこでは、だれが決めたわけでもなく、まためざしたわけでもなく、はじめから変わることなく貫き通されてきたひとつの原則があった。それは、けっして「だれも排除しない」という原則である。落ちこぼれをつくらないという生き方である。そもそも彼らのなかでは排除ということばが意味をなさない。彼らはすでに幾重にも、幾たびもこの社会から排除され落ちこぼれてきた人びとだったのだから。おたがいにもうこれ以上落ちこぼれようがない人びとの集まりが、弱さをきずなにつながり、けっして排除することなくまた排除されることもない人間関係を生きてきたとき、そこにあらわれたのは無窮の平等性ともいえる人間関係だった。そのかぎりない平等性を実現した「けっして排除しない」という関係性こそが、べてるの場をつくり、べてるの力の源泉になっていた。その力が、昆布内職打ち切り事件のさなかで発揮されようとしていた。

【『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄(みすず書房、2002年)以下同】

 後輩から勧められて読んだ一冊。べてるの家の名前は知っていたが、「どうせキリスト教だろ?」との先入観があった。斉藤道雄はガラスのように透明な文体で微妙な揺れや綾(あや)を丹念に綴る。本書で第24回講談社ノンフィクション賞を受賞した。

「三度の飯よりミーティング」がべてるの家のモットーである。彼らは話し合う。どんなことでも。生活を共にする彼らの言葉は生々しい。企業で行われる会議のような見せかけは一切ない。読み進むうちにハッと気づくのは「社会が機能している」事実である。私は政治に関しては民主政よりも貴族政を支持するが、組織や集団には民主的な議論が不可欠であることは言うまでもない。1990年代から正規雇用が綻(ほころ)び始め、格差が拡大した。普通のサラリーマンがあっという間にホームレスとなり、女子中高生が給食費や修学旅行費を納めるために売春行為に及んだ。親の遺体を放置したまま年金を受け取る家族や、生活保護の不正受給がニュースとなる裏側で、社会保障が切り詰められていった。弱者が切り捨てられるのは社会が機能していない証拠である。

 学級崩壊やブラック企業という言葉が示すのは集団のリスク化であろう。そして社会はおろか家族すら機能不全を起こしている。バラバラになってしまった人々が健全な社会を取り戻すことは可能だろうか? そんな疑問の答えがここにある。

 なにか仕事はないものか、倒れたり入院したりする仲間でもできることはないだろうか。メンバーは向谷地(むかいやち)さんとともに、道内の各所にある精神障害者の作業所も見学にいった。そこでさまざまなことを学んだが、帰るとまた延々と話しあいをくり返すばかりだった。そうした話のどこで、いつ、だれがいい出したのだろうか。ひとつのアイデアがミーティングに集う人びとのこころのなかに輝きはじめていた。
「どうだ、商売しないか」
 内職ではなく、自分たちで昆布を仕入れ、売ってみよう。
「そうだ、金もうけをするべ!」
 このひとことが、みんなの心を捉えていった。精神障害者であろうがなかろうが、金もうけと聞いて浮き立たないものはいない。人にいわれてするのではなく、内職なんかではなく、自分たちで働いて売って金もうけに挑戦してみよう。1袋5円の昆布詰めをいくらやっても仕事はきついし先は見えない。おなじ苦労をするなら、仕入れも販売も自分たちでやって商売した方がよほど納得できる。そうだ、やってみよう……。

 ケンちゃんが出入り業者と喧嘩をする。昆布詰めの内職は打ち切られた。そして彼らは自分の足で立つことを決意する。「精神障碍者の自立」と書くことはたやすい。だがその現実は決して甘くはない。本書に書かれてはいない苦労もたくさんあったことだろう。彼らは小規模共同作業所「浦河べてる」を設立した(※現在は社会福祉法人)。

 社会はコミュニケーションによって機能する。何でも話し合える組織は発展する。問題を隠蔽(いんぺい)し、陰で不平不満を吐き出すところから組織は腐ってゆく。斉藤道雄がべてるの家に見出したのは「悩む力」であった。我々は悩むことを回避し、誰かに責任を押しつけることで問題解決を図る。困っている人々は多いが本気で悩んでいる人は少ない。悩む度合いに心の深さが現れる。そして悩まずして知恵が出ることはない。

 家族に統合失調症患者がいる方はDVDも参照するといいだろう。



2016-07-29

製薬会社による病気喧伝(疾患喧伝)/『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ


『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン
『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス

 ・製薬会社による病気喧伝(疾患喧伝)

『依存症ビジネス 「廃人」製造社会の真実』デイミアン・トンプソン
『快感回路 なぜ気持ちいいのかなぜやめられないのか』デイヴィッド・J・リンデン
『もっと! 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』ダニエル・Z・リーバーマン、マイケル・E・ロング
『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン
『土と内臓 微生物がつくる世界』デイビッド・モントゴメリー、アン・ビクレー
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『うつ消しごはん タンパク質と鉄をたっぷり摂れば心と体はみるみる軽くなる!』藤川徳美

身体革命

 19世紀後半、新しい症状をヒステリーの貯蔵庫へと追加する手順は、次のように進められた。少数の興味深い症例をもとに、医者が公表して議論を重ね、病的な行動を体系化する。新聞や学術誌などがその医学的な新発見を記事にする。一般女性が無意識にその行動を表して、助けを求めはじめる。それから、医者や患者がいわゆる「病気の取り決め」をし、それによって患者の行動に関する互いの認識を作り上げていく。この取り決めにおいて医者は、症状が正当な疾病分類に当てはまるかどうかを科学的に検証する。一方、患者の増加に伴い、メディアがふたたびこれを報じ、その正当性がさらに確立されるという文化的なフィードバックが繰り返されるようになる。そして、この反復のあとに、拒食や足の麻痺などの新しいヒステリー症状が広く受け入れられるようになるわけだ。

【『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ:阿部宏美訳(紀伊國屋書店、2013年)】

 人類史を振り返ると文明がダイナミックに移り変わる時期があった。伊東俊太郎は人類革命(二足歩行、言語の発明、道具の製作)・農業革命・都市革命・精神革命(枢軸時代)・科学革命(産業革命、活版印刷〈=情報革命〉を含む)と分けた(PDF「環境問題と科学文明」伊東俊太郎)。

 社会のあり方や一人ひとりのライフスタイルは緩やかに変わり続ける。例えば農業革命によって農産物の保存が可能となり、「富」の創出によって戦争が開始されたとの指摘もある。また近代以降は金融・メディアの発達、通信・移動のスピード化、目まぐるしい電化製品の誕生など、変化の潮流が激しい。

 いつの時代も世の中の変化についてゆけない人や、社会に違和感を覚える人は存在する。精神医学のグローバル化が地域性や文化に基づく要因を否定し、アメリカ単独の価値観が疾患を特定するに至った。情報は脳のシナプス構造をも変えてしまう。「昔々、製薬会社は病気を治療する薬を売り込んでいました。今日では、しばしば正反対です。彼らは薬に合わせた病気を売り込みます」(マーシャ・エンジェル)。始めに病気喧伝(疾患喧伝とも〈PDF「特集 双極スペクトラムを巡って 双極性障害と疾患喧伝(diseasemongering)」井原裕〉)ありきで症状はどうあれ、投薬・服薬が目的と化す。

 病気喧伝(疾患喧伝)は孔子の「名を正す」とは正反対に向かう。名づけること・命名することで人々の不安を搦(から)め捕る戦略といってよい。うつ病・PTSD・自律神経失調症・パニック障害・ADHD(注意欠陥多動性障害)・発達障害などが出回るようになったのは、ここ20~30年のことだ。本書では具体的に摂食障害が取り上げられている。

 尚、ADHD(注意欠陥多動性障害)については「作られた病である」(ADHDは作られた病であることを「ADHDの父」が死ぬ前に認める)との怪情報がネット上に出回っているが、「『ADHDの父』が言いたかったのは、『診断基準の甘さ』『薬の過剰投与』であって、『ADHDが架空のもの』ってことじゃない」(「ADHDは作られた病である」という記事について)との指摘もある。英語原文は「セカオワ深瀬の精神病(発達障害ADHD)は病気でない?」で紹介されている。「ADHDに関する論争」に書かれていないので眉唾情報だろう。PDF「精神医療改善の為の要望書」も参照せよ。

 例えばうつ病という疾患が設定されると、その上下左右に位置する症状もうつ病に引き寄せられる。我々は名づけることのできない不安状態を忌避する。うつ病と認定されれば処方箋があると錯覚する。

 DSM-IVの作成から小児の障害は、注意欠陥障害3倍、自閉症20倍、双極性障害20倍となった(DSMの功罪 小児の障害が20倍!)。医学は医療をやめて病気創出に余念がない。



現実の虚構化/『コレステロール 嘘とプロパガンダ』ミッシェル・ド・ロルジュリル

2016-07-26

精神医学のバイブルが新たな患者を生み出す/『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス


『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 ・精神医学のバイブルが新たな患者を生み出す

『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
『うつ消しごはん タンパク質と鉄をたっぷり摂れば心と体はみるみる軽くなる!』藤川徳美
『心と体を強くする! メガビタミン健康法』藤川徳美
『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹
『食事で治す心の病 心・脳・栄養――新しい医学の潮流』大沢博
『オーソモレキュラー医学入門』エイブラハム・ホッファー、アンドリュー・W・ソウル
『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク

 DSMとは「精神障害の診断と統計マニュアル(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)」の略だ。それも当然なのだが、1980年まで、DSMは目立たないちっぽけな本で、たいして注目されていなかったし、読まれてもいなかった。そこへ突然、DSM-III(スリー)が現れた――この分厚い本はすみやかに文化の象徴となり、息の長いベストセラーになり、精神医学の「バイブル」としてむやみな崇拝の対象になった。
 DSMは正常と精神疾患のあいだに決定的な境界線を引くものであるため、社会にとってきわめて大きな意味を持つものになっており、人々の生活に計り知れない影響を与える幾多の重要な事柄を左右している――たとえば、だれが健康でだれが病気だと見なされるのか、どんな治療が提供されるのか、だれがその金を払うのか、だれが障害者手当を受給するのか、だれに精神衛生や学校や職業などに関したサービスを受ける資格があるのか、だれが就職できるのか、養子をもらえるのか、飛行機を操縦できるのか、生命保険に加入できるのか、人殺しは犯罪者なのかそれとも精神障害者なのか、訴訟で損害賠償をどれだけ認めるのかといった事柄であり、ほかにもまだまだたくさんある。
 定期的に改訂されるDSM(DMS-IIIR、DSM- IV)に20年間にわたってかかわってきた私は、落とし穴をしっており、改訂につきまとうリスクを警戒していた。これに対して私の友人たちは新参者であり、DSM-5の作成に自分らが果たす役割に興奮していた。

【『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス:大野裕〈おおの・ゆたか〉監修、青木創〈あおき・はじめ〉訳(講談社、2013年)以下同】

 アレン・フランセスはDSM-IV(1994年)の編集委員長を務めた人物である。DSMの第5版は単なる更新ではなかった。それは製薬会社からのリクエストに応じる新たな症状の創造であった。聖書が罪を定めるようにDSM-5が病気を決めるというわけだ。病気が増えれば薬は売れる。

 DSM-IVでは小さな誤りも許されないことを私は承知していた。DSMは度を越して重要になりすぎ、それ自身のためにも、社会のためにもなっていなかった。ささいに思える変更であっても、甚大な災いをもたらしかねない。そしていまや、DSM-5がまさに大きな誤りを犯そうとしているように思えた。友人たちがあまりにも無分別に後押ししていた疾患は、のべ何千万もの新たな「患者」を生み出すものだった。じゅうぶんに正常な人々がDSM-5の広すぎる診断の網にとらわれるのが私には想像できたし、多くの人々が必要なものにともすれば危険な副作用のある薬の影響にされされる恐れがあった。製薬企業も、お得意の病気作りに新しい格好のターゲットをどう利用してやろうかと、舌なめずりをしているはずだった。

 DSM-5は製薬会社にとって打ち出の小槌となった。

 DSM-IIIでは主要な診断名の有病率が著しく高く報告されるようになり、過剰診断を促していると批判されたため、DSM-IVでは7割以上の診断基準に「著しい苦痛または社会的、職業的、その他の領域での機能の障害を引き起こしている」という項目を追加した。しかし、その後も主要な製薬会社は強力なマーケティングを展開し、アメリカでは精神障害の罹患率が毎年上昇し続け、注意欠陥多動性障害が3倍、自閉症が20倍、子供の双極性障害が40倍、双極性障害は2倍となり。伴って処方箋医薬品による死亡が違法薬物によるものを超えることとなった。

Wikipedia

 以下に批判を列挙する。



精神科医・鈴木映二教授による「DSM5の問題」に関する連続ツイート

 平成23年5月にアメリカ精神医学会から発刊された『精神疾患の診断と統計の手引き第5版』(DSM-5))において,「インターネットゲーム障害」が今後研究が進められるべき精神疾患の一つとして新たに提案されました。

PDF:インターネット依存症について

アスペルガーの診断が消えたと話題に 自閉症一本化の恐怖

DSM-5:アメリカ精神科協会出版利益至上主義がもたらした弊害 →精神疾患診断への信頼性危機増大

「DSM-5、聖書ではない」

 要はアメリカ精神医学会が薬を売る目的で嘘をついたということである。今までは「正常」とされたものが、これからは「異常」となる。もちろんあなたも私も。資本主義も共産主義も最終的には「管理~支配」に向かう。『すばらしい新世界』や『一九八四年』が現実となりつつある。



現実の虚構化/『コレステロール 嘘とプロパガンダ』ミッシェル・ド・ロルジュリル

2012-03-03

ネオ=ロゴスの妥当性について/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫


『物語の哲学』野家啓一

 ・狂気を情緒で読み解く試み
 ・ネオ=ロゴスの妥当性について

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳

必読書リスト

 我々が生を自覚するのは死を目の当たりにした時だ。つまり死が生を照射するといってよい。養老孟司〈ようろう・たけし〉が脳のアナロジー(類推)機能は「死の象徴化から始まったのではないか」と鋭く指摘している。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 ま、一言でいってしまえば「生と死の相対性理論」ということになる。

 前の書評にも書いた通り、渡辺哲夫は本書で統合失調症患者の狂気から生の形を探っている。

 歴史は死者によって形成される。歴史は人類の墓標であり、なおかつ道標(どうひょう)でもある。たとえ先祖の墓参りに行かなかったとしても、歴史を無視できる人はいるまい。

 死者たちは生者たちの世界を歴史的に構造化し続ける、死者こそが生者を歴史的存在者たらしめるべく生者を助け支えてくれているのだ、(以下略)

【『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫(筑摩書房、1991年/ちくま学芸文庫、2002年)以下同】

 渡辺は狂気を生と死の間に位置するものと捉えている。そして狂気から発した言葉を「ネオ=ロゴス」と名づけた。

統合失調症患者の内部世界

「あの世で(あの世って死んだ事)子供(B男)が不幸になっています  十二歳中学二年で死にました  私(母親の○○冬子)がころしました
 目が見えません  目玉をくりぬいて脳の中に  くりぬいた目の中から小石をつめ けっかんをめちゃめちゃにして神けいをだめにして 息をたましいできかんしをつめて息ができません  又くりぬいための中に ちゅうしゃきでヨーチンを入れ目がいたくてたまりません  また歯の中にたましいが入ってはがものすごく痛くがまんが出来ません
 又体の中(背中やおなかや手足)の中に石田文子のたましいが入って具合が悪く立っていられない  それをおぼうさんがごういんにおがんで立たしておきます
 又ちゅうかナベに油を入れいっぱいにしてガスの火でわかして一千万度にして三ばいくりぬいた目の中に入れ頭と体の中に入れあつすぎてがまんが出来ません
 又たましいの指でおしりの穴をおさえて便が全然でません又おしっこもおしっこの出る穴をおさえてたましいでおさえて出ません
 又B男のほねをおはかからたましいでぬすんでほねがもえるという薬をつかってほねをおぽしょて ほねをもやしてその為にB男のほねは一本もありません
 又きかんしに石田文子がたましいできかんしをつめて息が出来ません又はなにもたましいでつめて息が出来ません  だから私(冬子)母親のきかんしとB男のきかんしをいれかえて下さい」(※冬子の手記)



「……言葉がトギレトギレになって溶けちゃうんです……言葉が溶けて話せない……聴きとれると語尾が出て心が出てくるんですね、語尾がないとダメダメ……秋子の言葉になおして語尾しっかりさせないと……流れてきて、わたしが言う他人の言葉ですね……わたしの話は死人に近い声でできてるからメチャクチャだって……死人っていうのは、思わないのに言葉が出てくる不思議な人体……言葉が走って出てくるんですね。飛び出してくる、……言葉が自分の性質でないんです。デコボコで、デコボコ言葉、精神のデコボコ……」(※秋子)

 筒井康隆が可愛く見えてくる。通常の概念が揺さぶられ、現実に震動を与える。このような言葉が一部の人々に受け容れられた時に新たな宗教が誕生するのかもしれない。

アジャパー!!」「オヨヨ」「はっぱふみふみ」といった流行語にしても同様だろう。


 デタラメな言葉だとは思う。しかし意味に取りつかれた我々の脳味噌は「言葉を発生させた原因」を思わずにはいられない。渡辺は実に丁寧なアプローチをしている。

 ところが冬子にとっての「たましい」たる「B男」は彼岸に去ってゆかない。あの世もこの世も超絶した強度をもって実態的に現前し続ける。生者を支えるべく歴史の底に沈潜してゆくことがない。つまり、「たましい」は、死者たちの群れから離断された“有るもの”であり続ける。「たましい」は冬子の狂気の世界のなかで、余りにもその存在強度を高めてしまったのである。死者たちの群れに繋ぎとめられない「B男」は、死者たちの群れの“顔”になりようがない。逆に「B男」という「たましい」は、死者たちを圧殺するような強度をもってしまう。「たましい」は、生死を超越して絶対的に孤立している。否、「B男」の「たましい」は、死者たちでなく冬子に融合してしまっている。「B男」は、死者たちの群れを、祖先を、歴史の垂直の軸あるいは歴史の根幹を圧殺し、母たる生者をも“殺害”するほどの“顔”なのである。これはもう“顔”とは呼べまい。「B男」という「たましい」は、死者たちの群れに絶縁された歴史破壊者にほかならない。冬子も「B男」も、こうして本来の死者たちの支えを失っているのである。

 つまり「幽明界(さかい)を異(こと)に」していないわけだ。生と死が淡く溶け合う中に彼女たちは存在する。むしろ存在そのものが溶け出していると言った方が正確かもしれない。

 仏教の諦観は「断念」である。しがらむ念慮を断ち切る(=諦〈あきら〉める=あきらか、つまびらかに観る)ことが本義である。それが欲望という生死(しょうじ)の束縛から「離れる」ことにつながった。現在を十全に生きることは、過去を死なすことでもある。

 他者という言葉は多義的である。私は常識の立場に戻って、この多義性を尊重してゆきたいと思う。
 まず第一に、他者は、ほとんどの他者は、死者である。人類の悠久の歴史のなかで他者を思うとき、この事実は紛れもない。現世は、生者たちは、独力で存立しているのではない。無料無数の死者たちこそ、事物や行為を名づけ、意味分節体制をつくり出し、民族の歴史や民俗を基礎づけ、法律や宗教の起源を教えているのだ。否、教えているという表現は弱過ぎよう。最広義における世界存在の意味分節のすべてが、死者たちの力によって構造的に決定されているのである。言い換えれば、他界は現世の意味であり、死者たちは、生者たちという胎児を生かしめて(ママ)いる胎盤にほかならない。知覚や感覚あるいは実証主義的思考から解放されて、歴史眼をもって見ることが必要である。眼光紙背に徹するように、現世を現世たらしめている現世の背景が見えてくるだろう。
 死者が他者であることに異論の余地はない。それゆえ、他者は、現世の生者を歴史的存在として構造化する力をもつのである。
 第二に、他者は、自己ならざるもの一般として、この現世そのものを意味する。歴史的に意味分節化されたこの現世から言葉を収奪しつつ、また新たな意味分節世界を喚起し形成しつつ、生者各人はこの他者と交流する。この他者は、ひとつの意味分節として、言語のように、言語と似た様式で、差異化され構造化されている。この他者を、それゆえ、以後、言語的分節世界と呼ぶことにしたい。自己ならざるもの一般の世界が言語的分節世界としての他者であるならば、他者は、言葉の働き方に関するわれわれの理解を一歩進めてくれる。
 言うまでもなく、言葉は、各人の脳髄に内臓されているのではない。一瞬一瞬の言語行為は、発語の有無にかかわらず、言語的分節世界という他者から収奪された言葉を通じて遂行される。否、収奪そのものが言語行為なのだ。では、言語的分節世界という他者は、言語集蔵体(ママ)の如きものなのであろうか。もちろん、そうではない。言葉は、言語的分節世界という他者の存立を可能ならしめている死者たちから、彼岸から、言わば贈与されるのである。生者が収奪する言葉は、死者が贈与する言葉にほかならない。この収奪と贈与が成功したとき、言葉は、歴史的に構造化された言葉として力をもつのである。それゆえ、われわれの言葉は、意識的には、主体的に限定された他者の言葉なのであるが、無意識的には、歴史的に限定された死者の言葉なのである。死者の言葉は、悠久の歴史のなかで、死者たちの群れから生者たちへと、一気に、その示差的な全体的体系において、贈与され続ける。それゆえに、言語的分節世界としての他者は歴史的に構造化され続けるのである。

 言語集蔵体とは阿頼耶識(あらやしき/蔵識とも)をイメージした言葉だろう。茂木健一郎が似たことを書いている。

「悲しい」という言葉を使うとき、私たちは、自分が生まれる前の長い歴史の中で、この言葉を綿々と使ってきた日本語を喋る人たちの体験の集積を担っている。「悲しい」という言葉が担っている、思い出すことのできない記憶の中には、戦場での絶叫があったかもしれない、暗がりでのため息があったかもしれない、心の行き違いに対する嘆きがあったかもしれない、そのような、自分たちの祖先の膨大な歴史として仮想するしかない時間の流れが、「悲しい」という言葉一つに込められている。
「悲しい」という言葉一つを発する時、その瞬間に、そのような長い歴史が、私たちの口を通してこの世界に表出する。

【『脳と仮想』茂木健一郎(新潮社、2004年/新潮文庫、2007年)】

 ここにネオ=ロゴスが立ち上がる。

 言い換えるならば、言語的分節世界という他者から排除され、言葉を主体的に収奪限定する機会を失ってしまった独我者が、自力で創造せんとする新たなる言葉、ネオ=ロゴスこそ独語にほかならない。主体不在の閉鎖回路をめぐり続ける独語に、示差的機能を有する安定した体系を求めるのは不可能であろう。それにもかかわらず、他者から排除された独我者は、恐らくは人間の最奥の衝動のゆえに、ネオ=ロゴスを創出しようとする。もちろんここに意識的な意図やいわゆる無意識的な願望をみることなど論外だろう。もっと深い、狂気に陥った者の人間としての最も原初的かつ原始的な力動が想定されねばなるまい。



 ネオ=ロゴスは、死者を実体的に喚起し創造し“蘇生”させると、返す刀で狂的なる生者を“殺害”するのである。これが先に述べた、ネオ=ロゴスの死相の二重性にほかならない。ネオ=ロゴスは、全く新奇な“死者の言葉”あるいは“死の言葉”であると言っても過言ではない。

 スリリングな論考である。だが狂気に引き摺り込まれているような節(ふし)も窺える。はっきり言って渡辺も茂木も大袈裟だ。無視できないように思ってしまうのは、彼らの文体が心地よいためだ。人は文章を読むのではない。文体を感じるのだ。これが読書の本質である。

 言葉や思考は脳機能の一部にすぎない。すなわち氷山の一角である。渡辺の指摘は幼児の言葉にも当てはまる。そして茂木の言及は幼児の言葉に当てはまらない。

 生の営みを支えているのは思考ではなく感覚だ。我々は日常生活の大半において思考していない。

 どうすればできるかといえば、無意識に任せればできるのです。思考の無意識化をするのです。
 車でいえば、教習所にいたときには、クラッチを踏んでギアをローに入れて……、と、順番に逐次的に学びます。
 けれども、実際の運転はこれでは危ないのです。同時に様々なことをしなくてはなりません。あるとき、それができるようになりますが、それは無意識化されるからです。
 意識というのは気がつくことだと書きましたが、今気がついているところはひとつしかフォーカスを持てないのです。無意識にすれば、心臓と肺が勝手に同時に動きます。
 同時に二つのことをするのはすごく大変です。けれどもそれは、車の運転と同じで慣れです。何度もやっていると、いつの間にかその作業が無意識化されるようになってくるのです。
 無意識化された瞬間に、超並列に一気に変わります。

【『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(PHP研究所、2007年/PHP文庫、2009年)】

 結局、「生きる」とは「反応する」ことなのだ。思考は反応の一部にすぎない。そして実際は感情に左右されている。ヒューリスティクスが誤る原因はここにある。

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他

 意外に思うかもしれないが、本を読んでいる時でさえ我々は無意識なのだ。意識が立ち上がってくるのは違和感を覚えたり、誤りを見つけた場合に限られる。スポーツを行っている時はほぼ完全に無意識だ。プロスポーツ選手がスランプに陥ると「考え始める」。

 渡辺と茂木の反応は私の反応とは異なる。だからこそ面白い。そして学ぶことが多い。

死と狂気 (ちくま学芸文庫)
渡辺 哲夫
筑摩書房
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脳と仮想 (新潮文庫)
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圧縮新聞
物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治
ワクワク教/『未来は、えらべる!』バシャール、本田健

2011-05-21

統合失調症への思想的アプローチ/『異常の構造』木村敏


『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・統合失調症への思想的アプローチ

『時間と自己』木村敏
『新版 分裂病と人類』中井久夫

 統合失調症を思想面から捉え、システムとして読み解こうとしている。文学的情緒からアプローチした渡辺哲夫と正反対といっていいだろう。

 実は読み始めて直ぐ挫折しそうになった。文章が才走り、ツルツルしすぎているためだ。簡単に言えることを、わざわざ小難しくしているような印象を受けた。1973年から版を重ねてきた理由を知りたくて何とか読み通した。

 木村は精神分析の世界に道元や西田哲学を持ち込んだことで名を知られているようだが、あまりよくわからなかった。そもそもユング唯識(ゆいしき)は親和性が高いし、仏を医師に譬(たと)える経文も多いのだから、さほど驚くことでもあるまい。

 心理学は学問の世界で長きにわたって低い位置にあった。現在でも低いかもしれない。まず、この分野が果たして学問たり得るのか? という根本的な問題がある。フロイトを占い師みたいに扱う人も多い。因果関係の特定が困難なこともさることながら、心理療法として考えると「治ればオッケー」みたいなところもある。

 精神疾患のことを昔は精神病と言った。精神異常とも気違いとも言っていた。日本の人権感覚は現在の中国と遜色がなかったと考えてよかろう。たかだか30年ほど前の話だ。

 本書のタイトルは精神異常と、異質なものを排除する社会構造とを掛けたものだ。

 異常とは「常と異なる」ことだ。異常気象など。ところがこの「常」が普段や普通を意味すると、「あいつは普通じゃない。異常だ」となる。つまり、皆と同じではないこと=異常という図式である。昔はまだ「はみ出し者」がドラマの主人公たり得た。ところが社会が高度に情報化されると、極端にドロップアウトを忌避するムードが蔓延した。学校におけるいじめとの関連性もあるかもしれない。

 木村は「合理性」について疑義を示す。

 現代の科学信仰をささえている「自然の合法則性」がこのような虚構にすぎないとしたら、そのうえに基礎をおくいっさいの合理性はみごとな砂上の楼閣だということになってしまう。そのような合理的世界観は、それがいかに自らの堅固さを盲信しようとも、意識の底においてはつねに、みずからの圧殺した自然本来の非合理性の痛恨の声を聞いているに違いない。それだからこそこの合理的世界観は、いっそう必死になって自らの正当性を主張するのである。それはあたかも、主権の簒奪者(さんだつしゃ)が自己の系譜を贋造して神聖化し、その地位を反対にしようとする努力にも似ている。その裏で、彼はつねにみずからの抹殺した先の主権者の亡霊につきまとわれ、報復を恐れてその一族を草の根をわけても根絶しにしようとするだろう。これは、現代の合理主義者会がいっさいの非合理を許そうとしない警戒心と、あまりにも酷似してはいないだろうか。異常と非合理に対して現代社会の示すかくも大きな関心と不安とは、どうやら合理性が自己の犯罪を隠し、自己の支配権の虚構性を糊塗しようとする努力の反面をなしているように思われるのである。
 さまざまな異常の中でも、現代の社会がことに大きな関心と不安を向けているのは「精神の異常」に対してである。「精神の異常」は、けっしてある個人ひとりの中での、その人ひとりにとっての異常としては出現しない。それはつねに、その人とほかの人びととの間の【関係の異常】として、つまり社会的対人関係の異常として現れてくる。

【『異常の構造』木村敏〈きむら・びん〉(講談社現代新書、1973年)以下同】

 権力者が交代すればルールも変わる。なぜなら権力とは「俺がルールだ」という仕組みであるからだ。猿山のボスと内閣の首相は一緒だ。社会的な意味合いとしては何も変わらない。服を着ているかいないかという程度の違いだ。

 木村は持って回った書き方をしているが、要は権力交代時における暴力性を新勢力がどう正当化するかということだろう。あまり無理無体なことをしてしまうと寝首を掻(か)かれる恐れがある。暴力は数の論理だ。基本的には人数に左右される。

 ここから振り下ろされた刀は更に「常識」へと向かう。

 さてこれが、アリストテレスのいう「共通感覚」すなわちコイネー・アイステーシスのおおよその意味である。さきに述べたように、このコイネー・アイステーシスがラテン語に訳されてセンスス・コムーニスとなり、それがやがて「常識」の意味に用いられるようになって、現代のコモン・センスという言葉になった。元来は一個人内部の感覚としてとらえられていた「共通感覚」が、いつどのような経路をへて世間的な「常識」の意味に転じてきたのかについては、ここでは詮索しない(カントの『判断力批判』においては、すでにセンスス・コムーニスの語が常識に近い意味で用いられている)。だがこのようにして意味の転化は生じたにせよ、私たちの用いている「常識」の概念とアリストテレスの「共通感覚」の概念との間には、どこかに隠された深いつながりが残っているはずである。

 孔子は「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」(『論語』)と教えた。これが常識というものだ。だが、「して欲しくないこと」は人によって異なる。善意が仇をなすこともある。結局、常識は概念なのだ。それゆえ常識に囚われた人ほど異常を恐れる。「非常識よね」を連発する。

 私たちはめいめい、自分自身の世界を持っている。私と誰か別の人物とが同じ一つの部屋の中にいる場合にも、私にとってのこの部屋とその人にとってのこの部屋とは、かならずしも同じ部屋ではない。教師と生徒にとって、教室という世界はけっして同一の世界ではないし、侵略者と被侵略者にとって、戦争という世界はまったく違った世界であるはずである。しかし、このように各人がそれぞれ別の世界を有しているというのは、私たちがこの世界に対して単に【認識的】な関係のみをもつ場合にだけいえることである。私たちが【認識的】な態度をやめて【実践的】な態度で世界とのかかわりをもつようになるとき、私たちはそれぞれの自己自身の世界から共通の世界へと歩みよることになる。

 世界は人の数だけ相対化されるのだ、という私の持論と同じことが書かれている。なぜなら、世界を構築ならしめているのは私の五感であって、知覚されたものが世界であるからだ。もう一歩踏み込むと「知覚された情報空間」が世界の正体だ。だから当たり前の話であるが、あなたと私の世界は違う。それどころか昨日の私と今日の私とでも異なる場合があり得るのだ。

 コミュニティは利益を共有する集団であるゆえ、常識やルールで折り合いをつける必要がある。これを我々は「普通」と称している。

 木村のいう「実践的」とは「主体的なコミュニケーション」と言い換えてよい。ところが我が国には「出る杭は打たれる」という精神風土がある。出るのも引っ込むのも異常ってわけだ。1億人で行うムカデ競争。

 私たちの当面の課題は、常識からの逸脱、常識の欠落としての精神異常の意味を問うことにあるけれども、これは決して常識の側から異常を眺めてこれを排斥するという方向性をもったものであってはならない。私たちはむしろ、現代社会において大々的におこなわれているそのような排除や差別の根源を問う作業の一環として、常識の立場からひとまず自由になり、常識の側からではなく、むしろ「異常」そのもの側に立ってその構造を明らかにするという作業を遂行しなくてはならない。そしてこのことは、ただ、私たちが日常的に自明のこととみなしている常識に対してあらためて批判の眼を向けることによってのみ可能となるのである。

 この言葉からは力が感じられない。熱意も伝わってこない。論にとどまっていて、言葉をこねくり回しているだけだ。例えば先日起こった癲癇(てんかん)が原因とされている交通事故、古くは日航機逆噴射事故(1982年)、あるいは浅草レッサーパンダ事件(2001年)などの痛ましい事故や事件が実際に起こっている。

『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』佐藤幹夫

 他人に危害を及ぼさないのであればいくら論じてもらっても構わないが、殺傷事件となれば話は別である。

 精神といったところで脳の機能である。精神疾患が直ちに犯罪の構成要因になるとは思わない。逆説的になるが犯罪という異常行為にブレーキが利かないのは脳に問題があるからだと私は考える。

 これは一筋縄ではいかない問題だ。教育が「常識」を押しつけ、鋳型にはめ込んで整形することによって、異形の人間をつくっている可能性もあるからだ。価値観が多様化してくると、社会そのものからストレスを感じる人も増えてゆく。

 昨今増えている自閉傾向が見られる軽度発達障害LDADHDアスペルガー症候群など)も遺伝要因なのか環境要因なのかすら明らかにはなっていない。などと、書いている自分を疑う必要だってあるのだ(笑)。

 最終的には暴力と抑圧に行き着くテーマである。そして病人とどう付き合うかは、自分が病気とどう向き合うかと同じ問題である。


欲望と破壊の衝動/『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ

2009-05-06

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン


 ・精神疾患は本当に脳の病気なのか?
 ・「ブードゥー教の呪いで人が死ぬ」ことは科学的に立証されている
 ・相関関係=因果関係ではない

『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス
『うつ消しごはん タンパク質と鉄をたっぷり摂れば心と体はみるみる軽くなる!』藤川徳美
『心と体を強くする! メガビタミン健康法』藤川徳美
『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹
『食事で治す心の病 心・脳・栄養――新しい医学の潮流』大沢博
『オーソモレキュラー医学入門』エイブラハム・ホッファー、アンドリュー・W・ソウル
『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク

必読書リスト その二

 精神疾患を“脳の病”と仕立てることで、薬物治療に弾みがついた。製薬会社がどのようにして、この「仮説」を「既成事実」に変貌させたかを告発した一書。力作である。

 医薬品業界は巨大な利権である。日本のマーケット規模は6兆円を上回る(2006年)。一方、アメリカは2901億ドルで世界の医薬品市場の45%を占めている。

 日本の大手製薬メーカーが戦争犯罪に加担した事実を鑑みると、製薬会社の存在自体に国家権力の意思が働いていることは確かだと思われる。

 薬というものは元々は毒である。製薬会社が承認申請を提出し、厚生労働省の審議会が審査する。もうね、これだけで何か胡散臭くなってくる。厚生労働省が「よきに計らえ」なんて言ったら、後は広告戦略を練るだけだ。病院においてあるパンフレットの類いを見れば直ぐに気づくことだが、その殆どは製薬会社が作成しているものである。

 国民が監視できるシステムとしなければ、いつまで経っても許認可による薬害が後を絶たないことだろう。薬害エイズや薬害肝炎は、まだ記憶に新しい。

 では、薬品天国のアメリカで、どのようにして精神疾患の薬が認可されるのか――

 相関関係がいかに強くてもそれがそのまま因果関係とならないことを、たいていの人は知っている。ところがこの事実は容易に忘れられる。傘を携えているからといって雨が降るわけではないことを誰でも承知しているのに、脳の中の何らかの生物学的マーカーと精神障害の間に相関関係があることが発見されると、このマーカーを障害の原因だと信じこむという落とし穴に容易にはまってしまう。脳がすべての精神的な経験において中心的役割を担っていることが知られていることがその一つの理由なのだろうが、論理的には、この関係は傘と雨の関係と変わりがない。人の精神状態や経験は脳に影響を与えうるし、逆もありうる。二つの事柄に相関関係があるとき、どちらが原因でどちらが結果であるか、自分でわかっているつもりになってはいけない。「原因」と「影響」が混同されやすい。また、二つのものに因果関係がなくても、大きな相関関係はありうる。たとえば、ほとんどの国で、名前が母音で終わる人は名前が子音で終わる人より、平均でみると、背が低い傾向が見られる。しかし少し考えてみればわかるように、最後の母音子音と背の高さに因果関係を想定すべき道理はない。

【『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン:功刀浩〈くぬぎ・ひろし〉監訳、中塚公子訳(みすず書房、2008年/新装版、2018年)】

 つまり、臨床データの解釈によって新しい物語を創作するってわけだ。これを「使った、直った、効いた」の“三た式思考法”と呼ぶ(安斎育郎著『霊はあるか 科学の視点から』講談社ブルーバックス、2002年)。これがどれほど危険であるかは、少し考えれば誰でもわかる。例えば、腹痛を訴える人に梅干しを与えたとしよう。10人で実験したところ、その内6人が3時間後に腹痛が解消していた。では、梅干しに腹痛を癒やす効力があるといえるだろうか? 言えるわけがない。

 それどころかエリオット・S・ヴァレンスタインによれば、精神疾患患者に化学的なバランスの崩れがあるという確かな証拠は何ひとつなく、統合失調症患者にドーパミン受容体の異常があるという証拠を示した人も誰もいないという。ノルアドレナリンとセロトニンについても同様だ。

 企業が利益を追求する以上、当然、実験段階で「きっと効くだろう」「何らかの変化を起こすに違いない」との予断が働く。そこに一定額以上の予算がつぎ込まれていれば、何が何でも都合のいいデータを探し求めるはずだ。彼等にとって、医師や政治家は同じチームメイトだ。ちょっと目配せすれば、わかってくれる――とまあ、こんな具合なのだろう。

 エリオット・S・ヴァレンスタインは決して投薬治療を否定しているわけではない。患者を置き去りにした製薬業界のあり方を告発しているのだ。私も本書を読むまでは、「精神疾患は“心の病”から“脳の病”になった」とばかり思い込んでいた。多くの人々にそう思い込ませたこと自体、アメリカ製薬メーカーによるマーケティングの勝利だった。情報の力は恐ろしい。我々は何となく信じてしまって、医薬品に依存するようになっているのだ。

 世界には、これほどの悪意がはびこっている。



「三た」式思考法
回帰効果と回帰の誤謬/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
人間の脳はバイアス装置/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
物語に添った恣意的なデータ選択/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
相関関係が因果関係を超える/『ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える』ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエ

2008-10-06

精神疾患は本当に脳の病気なのか?/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン


 ・精神疾患は本当に脳の病気なのか?
 ・「ブードゥー教の呪いで人が死ぬ」ことは科学的に立証されている
 ・相関関係=因果関係ではない

『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
『コレステロール 嘘とプロパガンダ』ミッシェル・ド・ロルジュリル
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『うつ消しごはん タンパク質と鉄をたっぷり摂れば心と体はみるみる軽くなる!』藤川徳美
『心と体を強くする! メガビタミン健康法』藤川徳美
『アルツハイマー病は治る 早期から始める認知症治療』ミヒャエル・ネールス
『アルツハイマー病 真実と終焉 “認知症1150万人”時代の革命的治療プログラム』デール・ブレデセン
『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹
『食事で治す心の病 心・脳・栄養――新しい医学の潮流』大沢博
『オーソモレキュラー医学入門』エイブラハム・ホッファー、アンドリュー・W・ソウル
『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク

必読書リスト その二

「脳の病気」ってえのが、最近の学説だとばかり思い込んでたよ。それを検証したのが本書である。

 米国の精神医学界はその主張を、「母親に責任あり」から「脳に責任あり」に変えたと言われている。精神障害の原因が家庭における初期経験に根ざしていると考えられていたのはさほど昔のことではない。だが現在では、脳の化学的なバランスのくずれが原因であるという考え方が、専門家にも一般の人にも受け入れられるようになっている。現在の通説では、統合失調症の原因は神経伝達物質のドーパミンの過剰、うつ病はセロトニンの不足であり、不安障害やその他の精神障害は、他の神経伝達物質の異常によるものということになる。脳の神経化学的現象が、精神障害の原因であるだけではなく、個性や行動が人によって違うのはなぜかをも説明できると信じられている。20〜30年の間にこのような根本的な変化がいかに生じたのだろうか。得られている証拠とこの理論はつじつまが合うのか。生化学的な説明を行い、薬の投与による治療を推し進めることは、誰の利益になり、この利益はいかに推し進められているのか。精神障害を生化学的に説明し、あらゆる心理学・行動学的問題の対処に薬への依存度を増していくことの長期的に見た意味合いとは何か。本書はこれらの問題に答えようとするものである。

【『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン:功刀浩〈くぬぎ・ひろし〉監訳、中塚公子訳(みすず書房、2008年/新装版、2018年)】

 脳の化学的バランスの問題だとすれば、治療法は投薬ということになる。何を隠そう、この構図を描いたのは薬品メーカーだった。資本にものを言わせて、どのような手段を講じたか。追って紹介する予定である。

 しかしながらエリオット・S・ヴァレンスタインは、決して薬を否定しているわけではない。杜撰なデータを引き合いにして、多くの患者を惑わすなと主張しているのだ。

 精神疾患について書かれた本ではあるが、薬品メーカーによる広告・宣伝戦略が患者を食い物にしている様がよく理解できる。



『ガン食事療法全書』マックス・ゲルソン
『べてるの家の「当事者研究」』浦河べてるの家