・『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六
・『将棋の子』大崎善生
・『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編
・『聖(さとし)の青春』大崎善生
・『一葉の写真』先崎学
・『フフフの歩』先崎学
・『先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学
・羽生世代の真実
・『山手線内回りのゲリラ 先崎学の浮いたり沈んだり』先崎学
・『証言 羽生世代』大川慎太郎
はっきり書くが、私は四段になった時、嬉しさはほとんどなかった。一所懸命に勉強を続けていれば、必ず通過できるステップに過ぎないと考えていた。むしろ、佐藤、森内に先に昇段されていた口惜しさで一杯だった。
他人のことだから分らないが、おそらく私以外の奴も同じだったろう。郷田はちょっと苦労したから違うかもしれないが、他の4人(※羽生、森内、佐藤、先崎)にとって、四段というのは登らなければいけない岩場の中のちょっとした難所ぐらいにしか思っていなかった。
かといって名人が目標だったわけではない。7冠王でもない。金でも地位でもない。世俗的なものではなかったのである。
こいつらだけには負けたくない。それが若きころの我々のすべてだった。もっといえば、こいつらにさえ勝てれば日本一になれるという気持もあったかもしれない。
それだけ認めた相手だから、打ち負かすためには自分を磨くしかない。生半可な付け焼き刃ではない、しっかりとした地力をつける必要があった。互いに強烈に意識しあい、そして自らを高めあったことで今の私たちがあるのである。
ひとつそこで問題なのは、まわりから見ると今の我々は仲が良さそうに見えることである。だからこの記者の方のような感覚を持つ人がいるのかもしれない。だが決して我々は親友というわけではないのである。
【『まわり将棋は技術だ 先崎学の浮いたり沈んだり2』先崎学〈せんざき・まなぶ〉(文藝春秋、2003年)以下同】
普段は面白おかしい文章を書く先崎が本気の反論を認(したた)めている。彼を怒らせたのは将棋専門誌の記事だった。ジャーナリストという人種は所詮外野である。プレイヤーの苦闘よりも、わかりやすい戦績や順位に興味が向く。特に顕著なのはスポーツ紙で、アスリートに巣食う寄生虫が時に選手生命を左右することもある。例えば大リーグ移籍を発表した際の野茂バッシングなど。ダニはダニらしく鳴かずに寄生していればいいのだ。
上記テキストは『週刊文春』の翌週号に続く。
羽生、森内、佐藤、そして不肖先崎。我々は勝負の世界のトップを争う人間としては仲が良い。すくなくとも互いに嫌悪感はない。
このことを考える時は、まず皆さんが将棋(あるいは他のゲーム)において最高の友人とはどのような人間かということを考えて頂きたい。
答えは単純。気持よく将棋が指せることと、自分が負かした時にいかに気持いいか、あるいはいかに相手が口惜しがってくれるかということだ。
これが最高の棋友の条件である。他は、地位も私生活も関係がない。これだけあればよい。それがゲームを通じた友人のよいところなのだ。
まず我々は、奨励会のころ、あるいはもっと前から、お互いのことを完全に認めあった。前回書いたように、こいつらを負かすことが常に目標であり続け、それを果たせば日本一になれると思って修業して来たのである。
だから、我々の関係というのは、あくまでも棋友である。そして最高の棋友である。将棋の盤上以外で何を考えようが、何をしようが、どうでもよい。そういう付き合いを心がけてきた。仲が良く見えるとしたら、そういう部分に綺麗なこころがあるからだろう。
傍(はた)から眺めているだけではわからぬ世界があるのだ。想像力や惻隠の情が働かなくなれば合理で割り切る不毛な砂の世界が現れるだろう。
思春期の、男として一番悶々とする遊びたい盛りに、我々は将棋を勉強し続けた。それもこれも互いに負けたくない一心があったからだ。
競争世界に殉じる。それが我々の青春だった。
もちろん楽しいことばかりではない。せつない気持になる時もあった。だが分ってくれる人は皮肉なことにライバルしかいなかった。よく皆で遊んだ。仲も良かった。旅行も行った。
将棋というのは良い相手がいないと良い棋譜もできないし、充実した時間を過ごせない。そういう理屈を子供のころから持つことができたのは、信じられないくらいにそれぞれにとって幸運なことだったろう。
何かに打ち込むことは別の何かを犠牲にすることでもある。厳しい世界であるほど犠牲にするものは大きい。少年時代から親元を離れることは修行に等しい。最高峰に吹く強靭な風や身を苛(さいな)むような寒さは、そこへ辿り着いた者にしかわからない。しかもエベレスト同様、死屍累々の世界なのだ。
得た何かと失った何かを天秤(てんびん)にかけるのは凡人の習いである。迷いなく己(おの)が道を選ぶのが一流の証拠なのだ。