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2022-02-25

知的飛翔を欠く解説本/『あなたもきっと依存症 「快と不快」の病』原田隆之


『浪費をつくり出す人々 パッカード著作集3』ヴァンス・パッカード
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
『依存症ビジネス 「廃人」製造社会の真実』デイミアン・トンプソン
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー

 ・知的飛翔を欠く解説本

『僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた』アダム・オルター
『快感回路 なぜ気持ちいいのかなぜやめられないのか』デイヴィッド・J・リンデン
『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』キャシー・オニール
『もっと! 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』ダニエル・Z・リーバーマン、マイケル・E・ロング

 人はなぜ、このように依存症になってしまうのだろうか。それは、人間というものは、依存症になりやすくできているからである。より正確に言えば、進化の過程で、依存症になりやすい遺伝的基盤を持っている人が生き残ってきたからである。

【『あなたもきっと依存症 「快と不快」の病』原田隆之(文春新書、2021年)以下同】

 文章はいいのだが、直ぐにどんよりした気分になってくる。たぶん有能な人物にありがちな常識信仰にあるのだろう。著者は典型的な官僚タイプの人物と見た。

 しかし、ときにはその装置が暴走して、「快」のためには、日常生活や人生などどうでもよいという状態にまでなってしまう。つまり、【人間の生き残りを目的とした戦略としての「快」であったはずが、「快」そのものが目的化してしまうのだ。これが依存症である】。

 解説は巧みなのだが、知的飛翔を欠いている。アイディアの乏しい能吏か。私は人間の価値をユニークさに求めるので、こういう人物にはあまり近寄りたくないというのが本音である。

2021-12-14

民主政の欺瞞/『自由と民主主義をもうやめる』佐伯啓思


『国家の品格』藤原正彦
『日本人の誇り』藤原正彦
『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫

 ・左翼と保守の顛倒
 ・米ソ冷戦後、左右の構図が変わった
 ・民主政の欺瞞

・『反・幸福論』佐伯啓思 2012年
・『さらば、資本主義』佐伯啓思 2015年
・『さらば、民主主義 憲法と日本社会を問いなおす』佐伯啓思 2017年
・『「脱」戦後のすすめ』佐伯啓思 2017年
・『「保守」のゆくえ』佐伯啓思 2018年
・『死と生』佐伯啓思 2018年
・『死にかた論』佐伯啓思 2021年

日本の近代史を学ぶ

 結局、民主主義的な討論の場では、ひとたびある方向に流れができると、誰もなかなか反対できない、いかにももっともらしい言葉だけが通用し、流通することになります。たいていの場合、表層的に立派なことや、情緒的なことが、まかり通っていきます。一見反対しづらい形だけの正論がまかり通る、あるいは、声の大きいものの意見が通っていきます。
 これが、私が民主主義を信頼できない大きな理由です。その意味で私は、民主的な政治の「公的」な場面で発せられる言辞よりも、「私」の微妙な感情や事情のほうが気になるのです。

【『自由と民主主義をもうやめる』佐伯啓思〈さえき・けいし〉(幻冬舎新書、2008年)以下同】

 何度も書いてきたが「民主主義」という誤訳がまずい。デモクラシーに「イズム」は付いていない。民主政あるいは民主制とするのが当然だ(『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志)。佐伯は具体例として政治とカネや談合を挙げている。言いたいことはわかるが、まずは政策本位で投票するエートスを涵養するのが先だ。選挙が政策競争となっていないところに最大の問題がある。地盤・看板・カバンを投票する側が無視しないことには始まらない。

 世の中には「非合理的なものの効用」ということがあります。「あいまいなものの効用」もあるのです。大声では言えないが、大事だと思うことがある。私には、非合理的なものを改めれば世の中が豊かになるという、近代主義的・進歩主義的な考え方ですべてがうまくいくとは、とても思えませんでした。

 規制緩和をした後に言うべきことだ。自由競争を阻む規制を一掃し、既得権益を全部潰してからの話である。

 イギリスに入ってすぐ感じるのは、イギリスが、いかに近代なるものを警戒しているかということです。「近代」や「進歩」なるものを、無視こそしないものの、軽信する姿勢を、可能なかぎり避けようとする。逆に、古いものや伝統的なものをいかに守るか、それぞれの時代に合わせてどううまく活かすか、そのことに非常に腐心している。

 イギリスには古いものを尊(たっと)ぶ伝統がある。ご存じのようにイギリス車はモデルチェンジすることも少ない。よい物を長く使う文化がある。一方同じ島国でありながら日本の場合はどうか? 温故知新という言葉はあるが生活空間に占める物は新しいものばかりだろう。新奇なもの(特に舶来品など)を好む性質もあるが、雨の多さと湿度の高さが影響しているように思う。建物もそうだが100年単位で保つことは難しい。カビや腐敗には逆らえない。

 価値観が多様化すると「非合理さ」や「曖昧さ」はコミュニケーションの妨げとなる。「察する」ことも大切だが、「はっきり言いたいことを述べる」技術も必要だろう。

 民主政の欺瞞は左翼政党の政策に現れる。平和を説きながら他国を利し、人権を主張しながら外国人に行政サービスを受けさせようとする。彼らが「日本を破壊したい」「天皇制を妥当したい」と率直に語ることはない。

米ソ冷戦後、左右の構図が変わった/『自由と民主主義をもうやめる』佐伯啓思


『国家の品格』藤原正彦
『日本人の誇り』藤原正彦
『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫

 ・左翼と保守の顛倒
 ・米ソ冷戦後、左右の構図が変わった
 ・民主政の欺瞞

・『反・幸福論』佐伯啓思 2012年
・『さらば、資本主義』佐伯啓思 2015年
・『さらば、民主主義 憲法と日本社会を問いなおす』佐伯啓思 2017年
・『「脱」戦後のすすめ』佐伯啓思 2017年
・『「保守」のゆくえ』佐伯啓思 2018年
・『死と生』佐伯啓思 2018年
・『死にかた論』佐伯啓思 2021年

日本の近代史を学ぶ

 この図式が意味することは何なのでしょうか。
 憲法にせよ、教育基本法や戦後教育システムによせ、戦後日本の体制の基軸です。戦後日本の国の柱は、公式的に言えば、国民主権、基本的人権、平和主義を三本柱とする憲法、そして、自由と平等、個性尊重を掲げる戦後教育です。
「左翼」は、この戦後体制を守ろう、もしくは、その理念をもっと実現しようと言っている。戦後の認識について言えば、左翼は徹底して「体制派」です。いわば「戦後体制」の優等生が「左翼」ということになります。
 これに対して、むしろ、「保守」のほうが「反体制的」と言えます。少なくとも心情的には、戦後社会に強い違和感を持ち、憲法や戦後教育に対して批判的です。
 左翼=反体制派、保守=体制べったり、と多くの人が思っています。だが、これはかつての話、冷戦体制時代のことです。冷戦体制のもとでは、確かに、左翼は、あわよくば革命でも起こして社会主義を実現したい、と考えていた。これは確かに反体制的でしょう。これに対して、保守のほうは、自由主義的な資本主義陣営を守りたい、と考えている。その意味では、体制派でした。
 しかし、冷戦は終わりました。すなわち、もうこのような図式は成り立たない、ということです。実際、「左翼」が「サヨク」に変わったとき、進歩主義運動は、もはや、体制を変革して、社会主義のような新たな社会をつくり出すのではなく、自由や民主主義、人権、平和主義などを謳(うた)った戦後日本を全面的に肯定し、ともかくも、戦後日本というその枠組みを守っていくという体制的なものへと変わってしまったのです。
 それに比べ、冷戦以降、いわゆる「保守」の側からこそ、戦後日本を変えていこうという様々な問題が提示されてきました。近年、もっとも真正面から「保守」と唱えた安倍元首相の掲げたテーマからして、「戦後レジームからの脱却」だったのです。
 これは、「戦後体制」の根本的変革、ということです。これほどまでに正面から、「現体制」の変革を唱えた政治家はいません。しかも政権政党の党首で、一国の首相が、「現体制」の変革を訴えるという、驚くべき提案です。
 しかし、「左翼」はこれに反対した。ある左翼のコメンテーターが、テレビで「いったい、体制を変える、などということをしてもいいのでしょうか」などというコメントをしていました。左翼と言えば「反体制」の代名詞だった時代を思うと、冗談のような話です。

【『自由と民主主義をもうやめる』佐伯啓思〈さえき・けいし〉(幻冬舎新書、2008年)】

 テキストは前回の続き。戦後教育は「日本を嫌いにするための教育」だった。特に愛国心はタブーであった。愛国は右翼の看板だった。で、右翼とは街宣右翼を意味した。民族派の台頭も功を奏したとは言い難い。

 GHQによる占領期間が日本史の空白期間であったとしても、それだけで戦後の動きを全部GHQにするのはお門違いだ。戦前に大いなる嘘があったのだろう。そう考えなければ平仄(ひょうそく)が合わない。「戦後体制」を敷いたのはGHQだが、それをよしとしたのは戦後の日本人である。

 政府与党は、日教組や日弁連、あるいは新聞社やテレビ局を長らく放置してきた。竹島も放置し、尖閣諸島も放置しつつある。極めつけは拉致被害者の放置だ。そして今、虐殺され、生きながら臓器を抜かれるウイグル人をも放置しようとしている。

左翼と保守の顛倒/『自由と民主主義をもうやめる』佐伯啓思


『国家の品格』藤原正彦
『日本人の誇り』藤原正彦
『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫

 ・左翼と保守の顛倒
 ・米ソ冷戦後、左右の構図が変わった
 ・民主政の欺瞞

・『反・幸福論』佐伯啓思 2012年
・『さらば、資本主義』佐伯啓思 2015年
・『さらば、民主主義 憲法と日本社会を問いなおす』佐伯啓思 2017年
・『「脱」戦後のすすめ』佐伯啓思 2017年
・『「保守」のゆくえ』佐伯啓思 2018年
・『死と生』佐伯啓思 2018年
・『死にかた論』佐伯啓思 2021年

日本の近代史を学ぶ

 今日の両者(※左翼と保守)の争点は、しいて言えば、憲法問題、あるいはナショナリズムや歴史問題と言ってよいでしょう。ある意味、奇妙なことなのですが、冷戦後、90年代のグローバリズムの時代になって、ナショナリズムや歴史認識が人々の大きな関心事になってきたのです。
 憲法改正を含めて、日本の国の防衛問題をどうするのか。国際社会で日本がバカにされずに責任を果たすにはどうすればよいのか。90年代の後半あたりから、こうしたテーマが浮上します。
 また、中国、韓国の動きとも連動した形で、あらためて、「あの戦争」についての解釈問題が出てきます。アジアへの謝罪をどうするか、という問題が提示され、それとともに、「あの戦争」についての歴史観論争、さらには、歴史教育の問題、と続いていきます。
 むろん、「左翼」は憲法改正に反対、歴史教科書の見直しにも反対です。これに対して、「保守」は、憲法を改正して集団的自衛権を認めよ、と言う。歴史認識の見直しを要求して、「新しい歴史教科書」を作ったりします。
 なんとも、妙な構図ができてしまったものです。もともとは「革新」や「進歩」を唱えていた「左翼」が、徹底して新しい動きに抵抗し、憲法にせよ、教育によせ、基本的に現状維持を訴える。むしろ、「保守」の側が変革を唱える、というねじれた図式です。

【『自由と民主主義をもうやめる』佐伯啓思〈さえき・けいし〉(幻冬舎新書、2008年)】

 わかりやすい文章で丁寧に説くのが佐伯流である。保守にありがちな威勢のよさは全く見受けられない。真のリベラルは静かだ。竹山道雄中西輝政の間に位置する印象を受けた。

 1990年代の時代の動きを簡潔に素描(そびょう)している。無論、これは2000年代から振り返って初めて見える風景である。私が気づいたのは2010年代のこと。90年代はまだまだ左翼が優勢であった。新しい歴史教科書をつくる会は右翼扱いされていたし、私なんぞは友人と「谷沢永一も変わり果ててしまったな」と嘆いたものだ。保守反動という感覚はそれほど根強かったのだ。90年代のテレビ番組の動画を見れば一目瞭然である。筑紫哲也〈ちくし・てつや〉や本多勝一、加藤周一が、まだもてはやされていた。『週刊金曜日』の創刊が1993年である。94年には村山富市が首相となり、村山内閣総辞職に伴い社会党は社民党に名前を変える。1989年参院選(土井ブーム)と1990年衆院選あたりを絶頂期と見ていい。

 当時、私は6人の後輩を喪ったこともあり、世情のことはよく覚えていない。テレビを持っていなかったし、寝しなのアルコールが記憶を洗い流した感がある。きっと多忙すぎたのだろう。

 ネトウヨ(ネット右翼)という言葉を目にするようになったのは2000年代に入ってからのことである。多分、新しい歴史教科書をつくる会の動きを理解する人々が増え初めた頃だろう。ほぼ同時に自虐史観というキーワードが散見されるようになったと記憶している。第一次安倍政権の「戦後レジームからの脱却」というメッセージも大きな影響を及ぼした。

 その後、2005年の中国における反日活動が報じられると、日本人の反中国感情が一気に高まった。嫌韓本が次々と発行されたのもこの頃からだ。中韓の反日行動が、日本人を覚醒させ近代史に目を向けたさせたのだ。

 2000年代になり左翼はサヨクと変質しリベラルを名乗り始める。90年代の混乱は米ソ冷戦構造の終焉(91年、ソ連崩壊)がもたらした結果であった。それから10年を経て、左翼は環境・人権・フェミニズムに舵を切る。その有り様は「言論のゲバ棒化」といってよい。理論武装というヘルメットを着用しながら。左翼弁護士や活動家は国連や中国・韓国を焚き付け、日本の戦争責任を追求させる。そうした反日行動を全面的にバックアップしてきたのが朝日新聞であり岩波書店であった。

2021-12-05

暴力に屈することのなかった明治人/『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』小山俊樹


 ・暴力に屈することのなかった明治人

『昭和陸軍全史1 満州事変』川田稔
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 大蔵と朝山が立ち去って間もなく、西田税〈にしだ・みつぎ〉の家に来客があった。西田も顔を知る茨城の青年、川崎長光〈かわさき・ながみつ〉(血盟団残党)である。
「川崎君じゃないか、さ、上がれ」
 久しぶりに会った川崎を、西田は機嫌よく2階の書斎に上げた。獄中の井上日召(超国家主義者で血盟団の指導者)らは元気である、他の連中にも差し入れをした、などと西田はよく喋った。15分か、20分ほどであろうか。川崎は、うつむき加減に西田の話を聞いていた。だが、様子が変である。
「何をするッ!」
 刹那、川崎は隠していた拳銃を構えた。西田は一喝して川崎に飛びかかる。そのとき、銃弾が西田の胸部を撃ち抜いた。
 だが、西田は怯(ひる)まない。両手でテーブルを押し倒し、それを乗り越えて川崎ににじり寄った。川崎は後退しながら第2弾を撃つ。腹部に銃撃を受けた西田は、なおも川崎に迫る。障子を倒して廊下によろめき出た川崎は、下がりながらも3弾、4弾、5弾と撃ちまくる。左の掌に、左肘に、左肩に。次々と銃弾を喰らいながら、西田は、弾を数えた。ついに川崎が撃ち尽くしたとき、西田は猛然と川崎につかみ掛かった。
 西田の気迫に圧され、階段の際まで下がっていた川崎は、西田とともに階下へ転がり落ちた。西田をふりほどいた川崎が玄関に飛び出すと、夫人が顔を出した。「早くつかまえろ!」と西田が叫び、夫人はとっさに川崎の腰をつかんだが、その手を振り払って川崎は逃げた。
 足袋のまま川崎を追った夫人が玄関に戻ると、西田は壁にもたれて女中のもつコップの水を飲もうとしていた。
「大けがに水はいけませんッ」
 夫人はコップを奪いとった。しばらくして、襲撃を知った北一輝や、陸軍青年将校らが駆けつけ、西田は順天堂大学へ搬送された。銃弾を浴びて2時間が経っていた。

【『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』小山俊樹〈こやま・としき〉(中公新書、2020年)】

 西田は当時30歳。その胆力は鬼神の域に達している。辛うじて一命は取り留めた。4年後の昭和11年(1936年)に二・二六事件が起こり、西田は北と共に首魁として翌年、死刑を執行された。二人をもってしても青年将校の動きを止めることはできなかった。

 十月事件に関与した西田が、その後合法的な活動に舵を切った。これが急進派の恨みを買った。五・一五事件で被害者となった西田が二・二六事件で死刑になるところに日本近代史のわかりにくさがある。

 巻頭には犬養毅〈いぬかい・つよき〉(※本書表記に従う)首相の襲撃場面が詳細に綴られている。「話せばわかる」「問答無益、撃て!」(※三上卓「獄中記」)とのやり取りが広く知られている。3発の銃弾で撃たれても尚、「あの若者を呼んでこい、話せばわかる」と三度(みたび)繰り返した。

 暴力に屈することのなかった明治人の気概を仰ぎ見る。これこそが日本の近代を開いた原動力であったのだろう。夫人の判断とタイミングは絶妙としか言いようがなく、いざという時の生きる智慧が育まれていた時代相まで見えてくる。

 軍法会議にかけられた青年将校に対し、多くの国民が助命嘆願が寄せられた。大正デモクラシーは政党政治の腐敗に行き着き、戦後恐慌(1920年/大正9年)や昭和恐慌(1930年/昭和5年)から国民を守ることができなかった。東北の貧家では娘の身売りが続出した(『親なるもの 断崖』曽根富美子/『昭和政治秘録 戦争と共産主義』三田村武夫:岩崎良二編)。

 第一次世界大戦で近代化を成し遂げた驕(おご)りや油断が日本にあったのだろう。二・二六事件の際も青年将校におべっかを使う将校が多かったという。結局、民意と大御心(おおみごころ)の乖離(かいり)こそが不幸の最たるものであったように思えてならない。

2021-11-30

からだの語源は死体/『日本人の身体』安田登


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い』高階秀爾
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登

 ・からだの語源は死体

必読書リスト その四

 古い日本語の「からだ」というのは死体という意味でした。生きている身体は「み(身)」と呼ばれ、それは心と魂と一体のものでした。生きている身体が「からだ」と呼ばれるようになったことで、からだは自分自身から離れて対象化されるようになります。そうすると、自分自身との一体感が薄れるので、専門家である他人の手に委ねても平気なようになるのです。
 それだけではありません。「からだ」の語源である「殻」のように、自分の周囲に強固な境界を設け、他人との壁を設けるようになります。
 このような壁が強いと、能をはじめとする古典芸能のほとんどは演じることができません。古典芸能は、楽譜も曖昧なものだし、指揮者もいない。お互いの呼吸で合わせていきます。しかも、その場その場で。

【『日本人の身体』安田登〈やすだ・のぼる〉(ちくま新書、2014年)以下同】

 日本人が心身二元論になったのは近代以降であるとの指摘だ。ただし仏教では色心(しきしん)二法が説かれていた。色法(しきほう)が物質で心法(しんぽう)が性質である。続いて西洋と日本の体に対する見方の違いが示される。

「裸であることを知る」というのは、ちょっと違和感のある言葉使いです。しかし、この「知る」という言葉が大事です。
「知る(ヘブライ語略)」という行為は、『聖書』の中では神のわざです。「知る」が動詞として使われるのは「神のように善悪を知る」というような使われ方が『聖書』での初出です。
「知る」というのは、ただ単に何かを知ることではなく、善と悪とを知ることであり、これは本来、神だけに許された「神のみのみわざ」でした。アダムとイブの罪の第一は、「知る」という神の行為を手に入れてしまったことだったのです。

 つまり、「上(天)から見ているから知る」ということなのだろう。抽象度が高いのだ。

 聖書で裸をあらわす「マアル:ヘブライ語略」は、アッカド語や、それ以前のシュメール語では「男性性器」を表す言葉です。善悪を「知る」が、やがて性的な行為をも意味するようになったと書きましたが、ヘブライ語の裸にはもともと性器の意味があり、自然に性行為を思い起こさせる言葉だったのでしょう。
 それに対して、日本語の「はだか」は「はだ」+「あか」です。「あか」は赤でもあり「明」でもあります。公明正大なこころを「あかき清きこころ」というように、「あか」には「明るさ」や「清浄さ」のイメージがあります。日本語の「はだか」は、そのように明るく、清浄な、おおらかなイメージをもった言葉なのです。

 温暖湿潤気候の影響が大きい。欧米が家の中でも靴を履いているのは寒さが厳しいためだ。明治以前は裸を見られても羞恥心が湧くこともなかったと書かれている。1970年代に突然始まったストリーキングもキリスト教世界の方がはるかに大きい衝撃があったに違いない。

 身(み)は「実」と同源の言葉で、中身のつまった身体をいいます。その中身とは命や魂ですが、「身」という言葉しかなかった時代には「魂」という言葉もありませんでした。
「身」とは身体と魂、体と心が未分化の時代の統一体としての身体をいいます。
 ちなみに後の時代になって生まれてくる「からだ」という言葉は、もぬけの殻や、空っぽの「から」が語源ではないかといわれていますが、魂の抜けた殻としての「死体」という意味が最初でした。そして「からだ」という語がない時代には「魂」という言葉もなく、『古事記』の中に「たま」という語は出てきますが、そのほとんどが勾玉をあらわす「たま」です。
 ところが「西洋」の古典を読むと、神話ができた頃には、すでに心身は分離していたようです。
 紀元前8世紀半ばごろの作品といわれるホメーロスの『イーリアス』には次のような文章があります。

 怒りを歌え、女神よ……あまたの勇姿らの猛き魂を冥府(アイデス)の王に投げ与え、その亡骸(なきがら)を群がる野犬野鳥の啖(くら)うにまかせたかの呪うべき怒りを。
(『イーリアス』岩波文庫 呉茂一訳)

 勇士の「魂」は冥府の王のもとに行くのですが、その「亡骸」は地上にあって野犬野鳥に食われると歌われます。こんな古い叙事詩で、すでに「魂」と身体である「亡骸」が分離しています。

 二元論がグノーシス主義よりも古かったとは恐れ入谷の鬼子母神である。

 しかし、明治以降に西洋文化が大量に入ってくるようになると、心身二元論が優勢になり、「身」は「からだ」と「こころ」に別(ママ)れてしまい、身体は「からだ」に属するようになります。
「身」が「からだ(殻=死体)」に取って代わられるようになると、身体をモノとして扱うようになります。身体の客体化です。
 そして「からだを鍛える」というような、突拍子もない考えが生まれます。
「鍛える」というのは、「きた(段)」を何度も作る、すなわち金属を鍛錬するために何度も打つというのが本来の意味で、身体をそのように扱うのは「からだ」を自分自身から離したとき、すなわち外在化・客体化してはじめて可能になります。自分自身と身体が一体だったときには、そのようなことは思いもよらなかったでしょう。
 体を鍛えるためのエクササイズなどは、少なくとも江戸時代にはなく、夏目漱石は『吾輩は猫である』の中で当時はやりつつあった「運動(エクササイズ)」を猫にさせて笑っています。(以下引用文略)

 確かに。武術の世界で行われていたのは稽古だ。筋トレやストレッチのような部分に注目するエクササイズは見られない。

 能楽師の見識恐るべし。書評を書きながら検索まみれとなり、挙げ句の果てには読むべき本を63冊追加した。心身二元論は病によって更に引き裂かれる。病は心にまで及び、精神疾患は深層心理学や脳科学によって多種多様な症状に名称を与えられ百花繚乱の感を呈している。近代化は人間をアトム化したが、コンピュータ時代は精神をも分断し解体する。

 体は不調や衰えによって意識される。私が危機感を抱いたのは生まれて始めて肩凝りになった時だ。48歳だった。すぐさま対処法を調べ、1週間で治した。それが体を見つめるきっかけとなった。ウォーキング、ランニング、バドミントン、ロードバイク、ストレッチ、筋トレ、懸垂、ケトルベル、胴体トレーニング、血管マッサージを行ってきた。最終段階に見据えているのは呼吸法~瞑想だ。

 尚、文章に「という」「ように」「なる」が頻発していて折角の内容がくすんでしまっている。ご本人の癖もあるのだろうが筑摩書房編集部の無能が露呈している。

2021-11-20

人間の心は心像しか扱えない/『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』山鳥重


『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬
『壊れた脳 生存する知』山田規畝子

 ・「わかった」というのは感情
 ・人間の心は心像しか扱えない

・『「気づく」とはどういうことか』山鳥重
『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ

 心像もメンタル・イメージの訳語ですが、そこは大目に見てください。現在使われているイメージという言葉は視覚映像のニュアンスが強いので、わざと心像にしました。心像は視覚映像だけではありません。触覚、聴覚、嗅覚、味覚など視覚化出来ない心理現象を含みます。これらをすべて含む用語としては、正確には心理表象という言葉を選ぶべきなのですが、長いし、なじみも薄いのでやめにしました。
 太陽が東から昇り、西へ沈むのは、地球が自転しているせいで、太陽が動いているせいではありません。しかし、われわれには太陽が昇り、太陽が沈むとしか見えません。動いているのは太陽であって、じっとしているのはわれわれです。
 地球の自転は事実で、太陽が動くのは心像です。
 事実は自分という心がなくても生起し、存在し続ける客観的現象です。心像は心がとらえる主観的現象です。
 われわれの心の動きに重要なのは心像であって、客観的事実ではありません。心像を扱うのが普通の心の働きで、客観的事実はこころにとってはあってなきがごときものです。もっと正確にいえば、われわれの心は心像しか扱えないのです。客観的事実を扱うには、普通の心の働きとは別の心の働きが必要です。われわれは地球が自転しているなどということは知らずに何万年も生きてきました。今だって、そんなことを知らずに生きている人はいっぱいいるはずです。われわれは「太陽が昇る」「太陽が沈む」という事柄を心像化して経験出来ますが、「地球が自転している」という事実は経験出来ません。

【『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』山鳥重〈やまどり・あつし〉(ちくま新書、2002年)以下同】

 山鳥重は神経内科が専門で高次脳機能障害のエキスパート。山田規畝子の著書で知った人物である。話し言葉で書かれていて読みやすい。

 脳が病気や怪我でダメージを受け高次脳機能障害になると心像が変容する。主観と客観が乖離(かいり)し、生活の中で困難な場面が増える。あるいは統合失調症の幻聴・幻覚も内部世界と外部世界の隔絶が顕著な状態だ。しかし、である。私は大なり小なり万人が病んでいると考えているので程度問題に過ぎないと思う。脳が左右に分裂しているのだから思考と感情を完全に統合することは不可能だ。むしろ進化の営みからすれば分離になんらかの優位性があるのだろう。

 私が「想念」と書いてきたものと山鳥の「心像」は一緒である。外部世界を我々はありのままに見ることができない。「私」というフィルターを通して見るためだ。そのフィルターの色や歪みが想念・心像である。山鳥の認識は仏教に迫っている。

 最澄(天台)は心像の基本を十法界(じっぽうかい)と説いた。日蓮がこれを次のように敷衍(ふえん)している。

「今の法華経の文字は皆生身の仏なり。我等は肉眼なれば文字と見る也。たとえば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見、天人は甘露と見る。水は一なれども果報にしたがて見るところ各々別也。此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず。肉眼は黒色と見る。二乗は虚空と見、菩薩は種々の色と見、仏種純熟せる人は仏と見奉る。されば経文に云く_若有能持 則持仏身〔若し能く持つことあるは 則ち仏身を持つなり〕等云云。天台云く ̄一帙八軸四七品 六万九千三百八十四 一一文文是真仏 真仏説法利衆生等と書かれて候」(「法蓮鈔」建治元年〈1275年4月〉)

 飢渇(けかつ)に苦しめられた者がガンジス川(恒河)を見れば、「飲みたい」との欲望が火のように起こる。凡夫は生活者の視点から水を捉え、天人(てんにん)は詩を読み、歌い上げる。更に動植物にとって不可欠な物質と見る。あるいは水利や灌漑事業にまで想像が及ぶ。科学者が見れば水素2個と酸素1個の原子である。地球物理学者であれば海水蒸発から降雨を経て川に至るまでのシステムが見える。果報によって見える世界が異なることを説いたものだが、これは心像そのものである。

 心像はこのように経験を通じて形成されます。そして、この心像がわれわれの思考の単位となります。われわれは心像を介して世界に触れ、心像によって自分にも触れるのです。外の世界(客観世界)はそのままではわれわれの手に負えません。われわれは世界を、心像形成というやり方で読み取っているのです。心像という形に再構成しているのです。

 知覚-認識のステップを示したのが五蘊(ごうん)である。一種のフローチャートと考えてよい。これを推し進めると唯識(ゆいしき)に辿り着く。

 知覚心像が意味を持つには、記憶心像という裏付けが必要です。
 脳損傷で、モノはちゃんと見えているが、何なのかわからないという状態が起こることがあります。見えている証拠に、この人たちは見せられたモノをちゃんと写生することが出来ます。でも、写したもの(ママ)が何であるかわからないのです。知覚心像がほかの心像(記憶心像)から切り離されてしまい、ほかの心像と関係づけることが出来なくなってしまっているのです。

 行蘊(ぎょううん)と識蘊(しきうん)の連係が上手くいってないのだろう。 ただし、そう見えているのは外部の人間であって本人ではない。これは我々でも日常的に起こることだ。


 初めて見た物を理解することは難しい。特殊な工具や部品を見て、何に使うかわかるひとは少ない。知識と記憶が結びついた時に初めて「知る」ことができる。

 われわれの祖先がいつごろ言葉を獲得したのかはわかっていません。数十万年前かもしれません。あるいは、わずか数万年前なのかもしれません。いずれにしても、われわれの祖先は言葉を獲得して以来、さまざまなモノやコトに名前をつけ続けてきました。名前をつけるというのは、記憶心像に音声記号を貼り付ける働きです。

 巧みな説明だ。心像は人の数だけ存在する。特に人の名前によって呼び起こされる心像はくっきりと際立つ。例えば安倍晋三とかさ。

2021-11-19

カリスマは「断言する」/『宗教で得する人、損する人』林雄介


・『省庁のしくみがわかると政治がグンと面白くなる 日本の内閣、政治、そして世の中の動きが一気に読める!』林雄介

 ・カリスマは「断言する」

『エピクロスの園』アナトール・フランス

宗教とは何か?

【政治や世界を理解する際に宗教の歴史を抜きにして理解することはできません。】例えば、【アメリカの政財界人、最高裁判事等のエリートは、キリスト教のプロテスタント系の聖公会(せいこうかい)の信者が大多数です。】
 なぜ、アメリカのエリートに聖公会の信者が多いのでしょうか?
 それは、アメリカでは社会的ステータスが高くなると他のキリスト教(メソジスト教会等)から聖公会に改宗する風習があるからです。つまり、アメリカでは、社会的ステータスとどの教会の信者かが密接に結びついているのです。

【『宗教で得する人、損する人』林雄介〈はやし・ゆうすけ〉(ML新書、2017年/マガジンランド、2013年『政治と宗教のしくみがよくわかる本 入門編』改題)以下同】

 昨今は改題が目立つ。出版社の意図が奈辺にあるのかよくわからず。検索対応なのか? ま、いずれにせよ売り上げアップを狙ったものだろう。クルクルとタイトルを改めるところに書籍と読者を軽視する風潮が覗いている。

 聖公会とは「イングランド国教会(Church of England)の系統に属するキリスト教の教派」らしい(Wikipedia)。「西方教会におけるカトリック教会とプロテスタントの中間として位置づけ」た中道路線であるとのこと。つまり、過去にローマ教皇庁と対立したが、プロテスタントには傾かなかったということなのだろう。聖公会がイングランド国教会の系統に属するのであれば、イギリス傘下に加わったことを意味する(イングランド国教会の最高権威はエリザベス女王)。大英帝国はまだ滅んでいないようだ。

 アメリカに中央銀行(Central Bank)は存在しない。あるのは連邦準備制度(Federal Reserve System)である。政府機関とされているが完全に独立しており、信じ難いことだがアメリカ政府はドルを発行することができない。政府紙幣を発行しようとしたリンカーンやケネディは暗殺された。FRSを構成するのは10社の民間銀行で、尚且つ半数以上がヨーロッパの銀行だ。


 結局のところ北米はヨーロッパにとっての満州みたいなものか。

 16世紀、ルターによる宗教改革(プロテスタント運動)をきっかけに、カトリックとプロテスタントの宗教戦争がはじまります。ルターの教義は、「信仰義認(しんこうぎにん)」、「聖書万能」、「万人祭司(さいし)主義」の3点です。信仰があればよく、その信仰の基礎は聖書にあり、全ての人が司祭でありカトリックの驚異のように司祭が特別扱いされることはない、という教義です。
 そのため、【プロテスタントの牧師は、信者のリーダーであるけれど聖職者ではない】という立場を採用しています。

 これも知らなかった。大体、小児性愛者はカトリックの神父である(カトリックは神父、プロテスタントは牧師)。聖職者の威厳を利用して幼子に手をつけるのだろう。アメリカのもう一つの宗教的な捻(ねじ)れは、プロテスタント国家でありながらローマ教皇を尊敬していることだ。プロテスタントの教会は簡素で飾り気がない。我々が思い浮かべる豪華な大聖堂はカトリックのものだ。

 なぜ、【カリスマが存在するのでしょうか?】
 キーワードは、「断言すること」です。キリスト教暗黒時代があり、デカルトが「われ思うゆえに我あり」という相対主義を導入して近代科学がはじまります。つまり、【全てのインテリは「相対的」な価値観の中で生活しています。】しかし、【新宗教や自己啓発セミナー等は「絶対的」な価値観の中で運営されています。】そこで、インテリが騙されるのです。むしろ、インテリだからこそ騙されるといってもいいでしょう。
 近代社会は、「正しいか?正しくないか?」がわからない【相対的(懐疑的)な価値観】で運営されています。しかし、【ナチスのヒトラーは、「ユダヤ人が悪い」等の、極論を断言しました】(句点欠)
 その【断言がカリスマになれる理由】です。私はそう考えています。

 先日亡くなった細木数子〈ほそき・かずこ〉が思い浮かぶ。「必ず」「絶対に」を連呼する人物には要注意だ。健康食品やマルチ商法、あるいは占い師や新興宗教など。「相対的」であることよりも、そこに迷いがあるかどうかが大きい。判断を躊躇(ちゅうちょ)したり留保したりすることは少なからずある。そこに誰かの断言がスポッとはまると脳が束縛される。電気的な反応が生まれ、シナプスが一定方向で形成されてしまうのだ。「何かを信じる」とはそういことだ。

 将来の見通しが悪くなると社会もまた迷う。「失われた10年」は気がつくと「失われた30年」となっていた。弾けたバブルの余波にしては長すぎる。政治の無策もさることながら、日本を弱体化させたい国際的な意図が働いているのだろう。そして迎えたのがコロナ騒動である。

 雇用の非正規化が進み、1世帯あたりの平均所得が緩やかに下がり続けてきた。諸外国の所得が上がり続けているにもかかわらず。アメリカは1990年比で2倍の所得になっている。日本の生活意識で「ややゆとりがある」「ゆとりがある」と答えた世帯は合計4.3%しかない(平均所得は551万円……だけど「平均以下が62%」という現実 「生活苦しい」も57% 厚労省調査 - ねとらぼ)。


 こうした事実を報道し、政治に活を入れるのが新聞・テレビの仕事だと思うのだが、反対に国民の目を逸らさせるような役割を大手メディアが果たしている。

 今まさしく時代は混迷の度を深めている。人々はカリスマを待望しているのではないか。確かに自民党は旧民主党よりはまともだが、世界基準で見れば日本経済を沈滞させた責任を取っていない。そろそろ古い憲法と一緒に古い政党も捨て去る頃合いだろう。

 安定した時代にカリスマは出現しない。激動からカリスマは生まれる。今、時代の迷いを払拭する断言が求められている。

2021-11-04

工藤美代子の見識を疑う/『昭和陸軍全史1 満州事変』川田稔


・『浜口雄幸と永田鉄山』川田稔
・『満州事変と政党政治 軍部と政党の激闘』川田稔
・『昭和陸軍の軌跡 永田鉄山の構想とその分岐』川田稔
・『戦前日本の安全保障』川田稔

 ・工藤美代子の見識を疑う

・『昭和陸軍全史2 日中戦争』川田稔
・『昭和陸軍全史3 太平洋戦争』川田稔
・『石原莞爾の世界戦略構想』川田稔
・『昭和陸軍 七つの転換点』川田稔
『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』小山俊樹

日本の近代史を学ぶ

 1931年(昭和6年)9月18日午後10時すぎ、中国東北地方の満州・奉天(ほうてん/現在の瀋陽〈しんよう〉)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、日本経営の南満州鉄道(満鉄)線路が爆破された。
 まもなく、関東軍(南満州に駐留する日本軍)から中国軍の犯行によるものとの発表がなされる。一般国民には太平洋戦争終結まで、そのように信じられていたが、実際には関東軍によって実行されたものだった。
 首謀者は、関東軍の板垣征四郎〈いたがき・せいしろう〉高級参謀、石原莞爾〈いしは(ママ)ら・かんじ〉作戦参謀、爆破の直接の実行は、独立守備隊第2大隊第3中隊付の河本末守〈こうもと・すえもり〉中尉ら数名で行われた。爆破そのものは小規模に止まり、レールの片側のみ約80センチを破損したが、直後に急行列車が脱線することなく通過している。
 この時、板垣高級参謀は、奉天の日本側軍施設で待機していた。板垣は、実行部隊から鉄道爆破の連絡を受けると、中国側からの軍事行動だとして、独断で北大営(ほくたいえい/中国側兵営)と奉天城への攻撃命令を発した。高級参謀にはこのような攻撃命令の権限はなく、軍司令官の追認がなければ軍法会議で処断される行為だった。
 攻撃命令が出された直後に、板垣に面会した奉天総領事館の森島守人〈もりしま・もりと〉領事は、外交的解決を主張した。だが、板垣高級参謀は、「すでに統帥(とうすい)権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉せんとするのか」と恫喝(どうかつ)した。また、同席していた花谷正〈はなたに・ただし〉奉天特務機関補佐官も、抜刀して、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と、森島を恫喝した(森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』)。

【『昭和陸軍全史1 満州事変』川田稔〈かわだ・みのる〉(講談社現代新書、2014年)】

 読書中。一度挫折している。工藤美代子のせいで再読する羽目になった。やっと130ページまで読んだ。

真相が今尚不明な柳条湖事件/『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子

 先ほど気づいたのだが、私はずっと川田を川北稔と同一人物だと思い込んでいた。おかしいなと思ったんだ。文体の違いよりも漢字の多さが気になった。とにかく漢字が多すぎて読みにくい。川田と編集者はもっと「読んでもらう」ための努力が必要だろう。特に軍事関係は肩書が長くてウンザリさせられる。ルビも聖教新聞並みに振るべきだ。

 満州事変の詳細が書かれている。微に入り細を穿(うが)つとの言葉がぴったりだ。ただし時折時系列が変わるため流れがわかりにくい。

 これほどの状況証拠を揃えられると、工藤の文章は説得力を失う。っていうか詐欺師に思えてくるほどだ。脳は美文に逆らえない。男性が美人に逆らえないように。

 まず陸軍において長州閥 vs. 木曜会+双葉会=一夕会(いっせきかい)の権力闘争があり、次に早い時期から石原莞爾〈いしわら・かんじ〉の計画があった。

 双葉会はバーデン=バーデンの密約(1921年/大正10年)から生まれた。陸軍(士官学校16期)の三羽烏といわれた永田鉄山〈ながた・てつざん〉、岡村寧次〈おかむら・やすじ〉、小畑敏四郎〈おばた・とししろう〉が誓いを立てた。翌日に東條英機(本書では東条)も加わる。1927年(昭和2年)頃に結成された二葉会には、河本大作、板垣征四郎、土肥原賢二〈どひはら・けんじ〉、山下奉文〈やました・ともゆき〉などが参加している(陸士15~18期)。二葉会に倣(なら)って結成されたのが木曜会であった(陸士21~24期)。石原莞爾〈いしわら・かんじ〉、根本博と共に、永田・岡村・東條も加わった。1929年(昭和4年)、二葉会と木曜会が合流して一夕会が結成される。満州事変が勃発した1931年(昭和6年)には一夕会系幕僚が陸軍中央と関東軍の主要ポストをほぼ掌握した。

 とにかくどこを読んでもウンザリさせられる。陸軍内部で行われているのは権力闘争に次ぐ権力闘争なのだ。明治維新の結果が足の引っ張り合いに終わった感がある。どこを見渡しても挙国一致などない。これこそが日本の悪弊だろう。後に永田と小畑は統制派と皇道派に分かれ、永田は惨殺される。石原は東條に左遷させられ、結果的に戦犯となることを免れた。

 柳条湖事件以降の流れを見ても板垣・石原の関与はまず間違いないと思われる。工藤美代子の見識を疑う。

 

2021-11-03

近未来に必ず起こる七つの大変化/『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』山本康正


『デジタル・ゴールド ビットコイン、その知られざる物語』ナサニエル・ポッパー

 ・近未来に必ず起こる七つの大変化

『ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える』ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエ
『データの見えざる手 ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』矢野和男
『パーソナルデータの衝撃 一生を丸裸にされる「情報経済」が始まった』城田真琴
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー
『無人の兵団 AI、ロボット、自律型兵器と未来の戦争』ポール・シャーレ
『データ資本主義 ビッグデータがもたらす新しい経済』ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、トーマス・ランジ
『アフターデジタル オフラインのない時代に生き残る』藤井保文、尾原和啓
『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』キャシー・オニール
『ジャック・マー アリババの経営哲学』張燕
『シリコンバレー最重要思想家ナヴァル・ラヴィカント』エリック・ジョーゲンソン
『お金2.0 新しい経済のルールと生き方』佐藤航陽

情報とアルゴリズム
必読書リスト その三

 ここで何よりも重要なことは、これからの企業はデータ・テクノロジーを活用できなければ確実に衰退し、淘汰されていくという現実だ。そのデータ・テクノロジーの主役が、【人工知能(AI)、5G、クラウド】の3つのメガ(基幹)テクノロジーである。これらの3つが組み合わさることで形成される【三角形=トライアングル】のちからこそが、次代の産業・社会・国家を大きく変えていく原動力となる。とくに次代の企業は、そのすべてがこのトライアングルによって生まれるか、新しく生まれ変わることになる。

【『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』山本康正〈やまもと・やすまさ〉(講談社現代新書、2020年)以下同】

 良書。デジタルトランスフォーメーションの入門書としてうってつけの一冊。山本はプラグラマーではないため、それが功を奏して読者にわかりやすい説明となっている。今後、社会がデジタル化されることで情報集約の次元が完全に変わる。

 ディープラーニングは、人間の脳の仕組みを模したニューラルネットワークが基本となっている。情報を入力する層と、答えを出力する層の間に、情報を判断する層を多層(ディープ)に重ねたため、その名で呼ばれている。
 犬を犬と判断するには、本来はいくつもの特徴を総合的に判断しなければ特定できないはずだ。ディープラーニングが登場する前のマシンラーニング(機械学習)では、ある一つのパターンを人間が細かく設定し、それをAIに犬と認識させた。AIは、そのパターンに当てはまるものだけを犬と判断し、当てはまらないものを犬ではないと判断した。そのため、大雑把な判断しかできなかった。
 ところが、ディープラーニングでは目、耳、鼻、口、体型などを多層に分け、それぞれのパーツにおける犬の特徴を膨大なデータを使って自ら学習していく。この学習によって、犬であるか犬でないかの判断の精度が上がっていく。

 このディープラーニングの精度を高めるには、大量のデータが必要だ。それには「大量のデータを蓄積する」ためのテクノロジーである【クラウド】が必要になる。

 フレーム問題に亀裂を入れたのがディープラーニングだった。人類がチェスでAIに敗れたのは1997年のこと。それでも「将棋と囲碁は無理だろう」と専門家は嘯(うそぶ)いていた。


 2013年、第2回将棋電王戦で人類は将棋も敗北(将棋棋士 vs AIの戦いを振り返る〜名人が敗れるまで〜 | データサイエンス情報局)。最後の砦となって囲碁も2017年、AlphaGoが勝利を収めた(5月27日 囲碁AIが人類最強の棋士に完勝)。これがディープラーニングの破壊力だ。

 昨今、amazonやYou Tubeでは個々人の購買履歴や検索情報を分析し、好みにマッチした情報が提供されるようになった。これをリコメンデーション(レコメンデーション)機能という。「パーソナルデータは新しい石油である」。リコメンデーション機能は購買するごとに、そしてAIが進歩するたびに精度を増し、あなたが探そうとする前に商品情報を提供するようになる。人々の情報を網羅すると社会の動向までもが見えてくる。そのあらゆる相関関係を導き出すのがビッグデータである。

 次の指摘は一々腑に落ちる。

近未来に必ず起こる7つの大変化

【大変化1】データがすべての価値の源泉となる
【大変化2】あらゆる企業がサービス業になる
【大変化3】すべてのデバイスが「箱」になる
【大変化4】大企業の優位性が失われる
【大変化5】収益はどこから得てもOKで、業界の壁が消える
【大変化6】職種という概念がなくなる
【大変化7】経済学が変わっていく

 個人的にアラビア数字を訓読みするのは許し難いので記事タイトルは「七つ」とした。詳細については稿を改める。

2021-10-31

奴隷貿易で栄えた欧州/『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克


『村田良平回想録』村田良平岡崎久彦
『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』伊藤祐靖
・『自衛隊最高幹部が語る令和の国防』岩田清文、武居智久、尾上定正、兼原信克 2021年

 ・奴隷貿易で栄えた欧州

 イギリスはじめ欧州の国々が大西洋貿易を開始すると、ヨーロッパ、アフリカ大陸、カリブ及び新大陸を結ぶ三角貿易が始まる。三角貿易と言えば普通に聞こえるが、実態は奴隷貿易である。新大陸のインディオは、銀鉱山などの激しい奴隷労働で夥しい数が死に、人口が激減していた。カトリック僧たちはその非道を訴えたが、絶滅しかけたインディオの代わりに目を付けられたのがアフリカ人であった。三角貿易の主力商品はアフリカの黒人奴隷である。アフリカから黒人を奴隷として連れていって、カリブ海諸島や新大陸のプランテーション農場で働かせたのである。
 プランテーションで栽培したのは、砂糖や煙草や綿花である。イギリスの砂糖成金は有名で、奴隷農場でとれた砂糖をイギリス本土で売り、そのお金で武器を買ってまたアフリカに行き、アフリカで武器を売りさばいて、そのお金で奴隷を買って新大陸やカリブ海諸島に売りさばいていた。国情のジョージ3世が「何で彼らは国王の自分より金を持っているんだ」と嘆いたとされるぐらい、三角貿易は儲かったのである。

【『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克〈かねはら・のぶかつ〉(新朝新書、2020年)】

農業の産業化ができない日本/『脱ニッポン型思考のすすめ』小室直樹、藤原肇

 16~18世紀にかけてアフリカから連れ去られた奴隷の数は1000万人にも上る。

大英帝国の発展を支えたのは奴隷だった/『砂糖の世界史』川北稔

 イギリス資本主義の原動力となったのはアフリカ人奴隷であったという指摘がある(『資本主義と奴隷制』エリック・ウィリアムズ)。資本と労働力の問題は一筋縄ではいかない。

農業の産業化ができない日本/『脱ニッポン型思考のすすめ』小室直樹、藤原肇

 産業化の前提が安い労働力にあるとすれば安易な資本主義論は危うい。個人的には原丈人〈はら・じょうじ〉の公益資本主義に軍配を上げる。



ラス・カサスの立ち位置/『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス

2021-10-25

フィードバックとは/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二


『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ
『唯脳論』養老孟司
『海馬 脳は疲れない』池谷裕二、糸井重里

 ・世界よりも眼が先
 ・人間が認識しているのは0.5秒前の世界
 ・フィードバックとは

『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二

必読書リスト その三

 フィードバックというのは、一方通行だった情報の流れが、枝分かれして、前のほうに戻されたり、逆流したりする回路だ。こうなると、単純な一方通行とは違うやり方で情報が処理されるようになるよね。
 一対一じゃない情報の伝達を支える仕組み、そう、脳のような複雑な装置に絶対に必要な条件が「フィードバック」ってわけ。日本語だと「反回性回路」と言うんだけど、こうした情報が「行ったり来たり」する回転が最低限必要なの。それによって情報を分解したり、変調したり、統合したりできるってわけ。情報のループを描かないとブラックボックスはワンパターンの出力しかできない。(脳内の1個の神経は1万個の神経に情報を送っている)

【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二〈いけがや・ゆうじ〉(ブルーバックス、2007年)】

 非公開にしたブログ記事から引っ張り出してきた。やれやれ。

 脳はフィードバックによって軌道修正を可能にしている。ヒトが学習できるのもフィードバックの成せる業(わざ)である。フィードバックの集大成が文明なのだ。人類以外の動物は文明を持たない。

 更にフィードバックを欠けば人は感情やバイアスの奴隷となる。反省、振り返り、やり直し、見つめ直しに脳の本領がある。日常的にフィードバックを行えば後悔することが少なくなる。間違いは気づいた瞬間に修正できる。

 人も組織もフィードバックが途絶えると腐敗する。強力な独裁体制は誰かの話に耳を傾けることがない。ワンマンが通用するのは戦国時代だ。



有害で悪質な数学破壊兵器のフィードバックループ/『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』キャシー・オニール

2021-09-04

ロボットは「自動的に動く」存在から「自律的に動く」存在へ/『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗


『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
・『人間原理の宇宙論 人間は宇宙の中心か』松田卓也
全地球史アトラス
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル

 ・ロボットは「自動的に動く」存在から「自律的に動く」存在へ

『トランセンデンス』ウォーリー・フィスター監督
『LUCY/ルーシー』リュック・ベッソン監督、脚本
『Beyond Human 超人類の時代へ 今、医療テクノロジーの最先端で』イブ・ヘロルド
『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』ケヴィン・ケリー
・『養老孟司の人間科学講義』養老孟司
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『われわれは仮想世界を生きている AI社会のその先の未来を描く「シミュレーション仮説」』リズワン・バーク

情報とアルゴリズム

「ロボットによって暮らしが便利になるなら、とにかくいいことなのでは?」
 そう思う方もいるかもしれませんが、事はそう単純ではありません。なぜなら、これからのAIが搭載されたロボットは、「自動的に動く」存在から「自律的に動く」存在へと、さらに劇的に転換していくからです。(中略)
 ロボットが自律的に動くとは、それが自律性(オートノミー:autonomy)を獲得していることを意味します。自律とは「自らを律する」と字のとおり、他の支配を受けず、自分が持つ規律に従って行動を設計し、実行することです。

 自分の行動を選択するとき、人間なら身体的な感覚や感情、さらには道徳や倫理まで動員して、意思決定を行います。「私は~したい」「~すべきだ」「~すべきではない」という内発的な決断を通して、行動に移ります。
 人間には、長い進化の歩みの中で獲得された生存意欲があります。本能と呼ばれるものです。人間のあらゆる意思決定の根底には、それが生存にどう寄与するかということに翻訳され、ある意味でスコア化されたものがあるのです。
 では、ロボットはどうなのか。生きた肉体を持たないロボットが、生存価値を最上位とする本能を自分の力で身に付けることはありません。何が価値あるものなのか、その根本を自分でゼロから探し出すことはできないのです。しかし、ロボットに行動の選択をさせるためには、価値判定のための何らかのルールが必要です。結局それは、人間が授けるものになるでしょう。

【『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗〈おおた・ひろあき〉(幻冬舎、2020年)】

「自律的に動くロボット」とは我々のことではないだろうか? 競争というルールの下(もと)で勝ち上がった者が選良(エリート)のメダルを手に入れる。資本主義社会で行われるのはマネー獲得ゲームである(「我々は意識を持つ自動人形である」)。

 テクノロジー進化の速度がシンギュラリティ(特異点)を超える時、自律型ロボットはロボット同士で通信を始め、ロボット集合体が超個体と化す。ヒトは農業や都市化において超個体性を発揮するが、残念ながら最大限に発揮されるのは戦争である。つまり人類は永続性のある超個体にまでは進化できていない。まだまだシロアリやハキリアリにも劣る存在だ。

 ロボットとヒトの上下関係を決定するのは超個体性である。ロボットが人間以上の想像力を発揮してロボットを作ることができれば、人類が必要とされるのは奴隷労働しかなくなるかもしれない。我々がかつてロボットに行わせていたことを、今度は我々がやる羽目になるのだ。

 感情の意味は共感するところにあり、超個体性へと誘(いざな)う目的があったと思われる。神話や宗教が説くのは正しい感情の方向性なのだろう。産業革命を通して人々の仕事が農業から工業へと移り変わると、コミュニティは村(地域)から会社へと変化した。近代化の意味はこの辺りから探るのが適切だろう。

 コーポレーションは現代の超個体と言い得るが、さほど永続性がない。更に役割分担(人事や分業)がデタラメで有用な超個体性を発揮しているとは思えない。軍事ほどの計画性を欠いており、死の覚悟はどこにも見当たらない。その意味からいえば宗教の方が成功しているように見える。殉教という一点において。しかも信者は喜んで税金を支払う。

 人類は感情の意味を問い直す時期を迎えつつある。マスメディアから流れてくる情報を一瞥しても感情の有益よりも害悪を思わせるものが圧倒的に多い。そして業(ごう)を形成するのもまた感情なのだ。バイアスが世界を歪める。晴朗かつ豊かな感情で人類が結びつかない限り、ロボットの未来が待ち受けている。

2021-08-30

ネオコンのルーツはトロツキスト/『米中激突の地政学 そして日本の選択は』茂木誠


『経済は世界史から学べ!』茂木誠
『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠

 ・世界恐慌で西側諸国が左傾化
 ・ネオコンのルーツはトロツキスト

ジョン・バーチ協会の会長に就任したラリー・マクドナルド下院議員が、国家主権を解体し世界統一政府構想を進めるエリート集団を暴露
『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠

世界史の教科書
必読書リスト その四

 これまで見てきた保守やリベラルとは異質の、「ネオコン」と呼ばれる一派がアメリカにはいます。ネオコンとは「ネオ・コンサーバティズム」の略で、「新保守主義」と訳されます。(中略)
 さかのぼれば、ネオコンのルーツはロシア革命にあります。帝政ロシアはユダヤ人を迫害してきたので、ロシア革命には多くのユダヤ人が参加し、共産党の中にはユダヤ人が多数いました。そもそもマルクスがユダヤ人ですし、レーニンは母方の祖母がユダヤ人、トロツキーもユダヤ人です。
 ところが革命後、1924年にレーニンが死ぬと、共産党内でユダヤ人グループと反ユダヤ・グループが衝突します。ユダヤ人グループのリーダーがトロツキーで、赤軍の創始者として諸外国の干渉から革命政権を守った立役者でした。
 しかし反ユダヤ・グループを率いるスターリンの謀略(彼はジョージア人)によりトロツキーは失脚して国外追放され、共産党内部のユダヤ人たちは粛清されます。トロツキーは1940年、亡命先のメキシコで、スターリンの放った刺客に暗殺されました。
 アメリカにはロシア革命にシンパシーを持つユダヤ人がたくさんいたのですが、スターリンによってユダヤ人が粛清されたため、スターリンを敵視するようになります。その反動でトロツキーの思想を支持する「トロツキスト」を自称し、スターリンはロシア革命をねじ曲げた裏切り者であり、ソ連を打倒すべきだという考えを持つようになりました。彼らトロツキストこそが、ネオコンの始まりなのです。
 スターリンはヨーロッパで革命運動が次々に失敗するのを見て、「一国社会主義」に転換しますが、トロツキーは、赤軍による「世界革命論」を唱えていました。ですから、トロツキストであるネオコンは当然、「世界革命論」を支持するのです。
 この「世界革命論」は、世界に干渉して、アメリカ的価値を世界に浸透させるというウィルソンやF・ローズヴェルトの思想と共振します。実際、ネオコンはこの二人の大統領を高く評価しています。そしてローズヴェルトがアメリカでやったような、ニューディール的な社会政策を世界で実施していこうとします。こうして、民主党はネオコンの温床となりました。
 ネオコンはユダヤ人から始まっただけに、一貫して親イスラエルでした。1948年の建国以来、イスラエルは四次にわたる中東戦争をはじめ、アラブ諸国と紛争を繰り返しています。そのたびにネオコンは、イスラエル支持を表明しています。
 もともと共和党はイスラエルに冷淡でした。なぜなら、共和党のバックには石油産業がついているからです。ロックフェラー系のエクソンやモービルなど、石油産業はアラブ諸国に石油利権を持っているので、アラブに親米政権をつくることには熱心ですが、油田のないイスラエルには、関心がありません。そのことも、ネオコンが共和党ではなく民主党を支持した理由の一つでした(副島隆彦世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』講談社+α文庫)。

【『米中激突の地政学 そして日本の選択は』茂木誠〈もぎ・まこと〉(WAC BUNKO、2021年/ワック、2020年『「米中激突」の地政学』改題新書化)以下同】

 フランス革命にもユダヤ人が参画していた(「自由・平等・博愛」はフリーメイソンのスローガン)。国民国家には人種を乗り越える力があった。ロシアで虐げられたユダヤ人をパレスチナの地へ送り込んだのがロスチャイルド家であった(『パレスチナ 新版』広河隆一)。「ロシア革命の実態はユダヤ革命」という指摘もある(『世界を操る支配者の正体』馬渕睦夫)。

 ウッドロウ・ウィルソンとフランクリン・ルーズベルトは民主党選出の大統領である。両者ともに国際主義者で新生ソ連にエールを送った人物だ(馬渕前掲書)。ウィルソン大統領はパリ講和会議(1919年)で日本が提案した人種的差別撤廃提案を廃案に導いた。F・ルーズベルトはアメリカの本当の敵(ソ連)と味方(日本)を見誤った。どうやら国際主義者の眼は曇っているらしい。あるいは遠くを見すぎて足元を見失っているのだろう。

 ネオコンはレーガン政権からクリントン政権を挟んでブッシュ(子)政権まで共和党を支配しました。その間、盛んにアメリカが中東に出兵したのは、すべてネオコンの影響です。

 ネオコンは共和党のジョージ・W・ブッシュに巣食ったことで広く知られるようになった。「ネオコンは元来左翼でリベラルな人々が保守に転向したからネオなのだ」(元祖ネオコン思想家の一人であるノーマン・ポドレツ)とは言うものの、新保守主義との看板には明らかな偽りがある。まるで中島岳志が唱える「リベラル保守」みたいな代物だろう。左翼と嘘はセットである。平然と嘘をつきながら正義を語るのが左翼の本領なのだ。 9.11テロ以降のアメリカによる戦争を主導したのがネオコンであった。

 私は人類の社会性は国家が限界であると考えている。国家を超えてしまえば言語や文化の差異もなくなることだろう。それがいいことだとは思えないのだ。人格形成やアイデンティティを考えると、やはり気候や風土、食べ物や環境に即した個性がある方が望ましいだろう。もっと具体的に言えば、それぞれの民族や地域に特有な宗教の存在を認めるということである。

 国際主義者の恐るべき欺瞞は「ルールを決めるのは自分たちである」との思い込みだ。自由と民主政は確かに貴重な財産だとは思うが、他の国に強制するようなものではあるまい。個人的には日本のように官僚支配が強くなり過ぎた国は、いっぺん独裁制を認めていいように思う。それくらいのことをしないとこの国が変わることはない。

2021-08-24

世界恐慌で西側諸国が左傾化/『米中激突の地政学 そして日本の選択は』茂木誠


『経済は世界史から学べ!』茂木誠
『「戦争と平和」の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠

 ・世界恐慌で西側諸国が左傾化
 ・ネオコンのルーツはトロツキスト

『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠

世界史の教科書
必読書リスト その四

 日本がアメリカに敗れて中国から引き揚げると、国民党と共産党の内戦(1946~49年)が始まりました。ところが不思議なのは、あれほど蒋介石を支援してきたアメリカが、急に国民党に冷たくなるのです。ほとんど援助もしません。
 ここにもアメリカの民主党政権内に巣くう新ソ派の明確な意思が働いていたのでしょう。彼らはソ連のスターリンと世界を分割し、中国を毛沢東に委ねることを決定したのです。
 西側諸国がここまで左傾化した最大の原因は、世界恐慌の影響だと私は思います。世界恐慌で資本主義の限界があらわになり、西側エリートの間に「資本主義は終わった」論が広がったのです。ソ連の計画経済をモデルにして国をつくり直さなければいけない。そう考えるエリートが世界中にいました。それが、アメリカのニューディーラーであり、日本の革新官僚だったのです。
 日本でも東京帝国大学の教授、高級官僚、政治家、陸軍士官学校出の青年将校……エリートであればあるほど、その思いは切実でした。
 第二次世界大戦でアメリカは、中国というマーケットを確保するために蒋介石を支援して日本を叩き出すことに成功しておきながら、その次はやすやすと毛沢東に中国を明け渡してしまったのです。

【『米中激突の地政学 そして日本の選択は』茂木誠〈もぎ・まこと〉(WAC BUNKO、2021年/ワック、2020年『「米中激突」の地政学』改題新書化)】

 重要な指摘であると思う。個人的には二・二六事件の背景に世界恐慌があったことは知っていたが、国際的な容共につながっていたとは考えもしなかった。

 こうした事実を踏まえた上で、例えば以下の書籍あたりを再読する必要がある。

『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

 社会主義の本質を見抜いていたのはウィンストン・チャーチルだけだったのかもしれない。だが、そのチャーチルも1955年(昭和30年)に首相の座から退く。

2021-08-12

朝の運動は危険/『心臓は語る』南淵明宏


 ・心臓の鼓動が体中にメッセージを伝えている可能性もある
 ・朝の運動は危険

『臓器の急所 生活習慣と戦う60の健康法則』吉田たかよし

 彼(※マイケル・スモレンスキー)によると、心臓疾患による突然死が多いのは午前7時から10時までだということです。朝方に激しい運動をするのは、結構、危険が伴うようです。

【『心臓は語る』南淵明宏〈なぶち・あきひろ〉(PHP新書、2003年)】

 起床後と考えてよかろう。心臓は我々が思うほど安定した動きをしているわけではない。私は以前酒を呑むと不整脈が出たのでよく知っている。枕に耳を当てると、ドン……ドン、ドドド、ド……ン、ド、ドン、ド…………ン、ドドド、なんてことがザラにあった。

「自律神経の嵐」をご存じだろうか?

 昼間の活動中は交感神経が優位で、夜間の睡眠中は副交感神経が優位です。早朝の午前4時から6時ごろと夜間就寝後1時間前後は、両者が切り替わる時間帯で自律神経がとても不安定になります。この不安定な状態を自律神経の嵐と呼び、狭心症や心筋梗塞、不整脈、突然死や脳梗塞などさまざまな病気が発症しやすい時間帯となります。季節の変わり目にも自律神経は不安定となり、気温差の激しい初夏のこの時期、私たちは自律神経の嵐の中にいるのです。

循環器内科医 上野勝己氏

「起床後の朝の時間帯は体を活発に動かせるよう交感神経が働きます。交感神経は血管を収宿させて血圧が上がったり、さらには、朝は夜間睡眠時にかく汗により血液が固まりやすくなっているため、朝に心筋梗塞は多いのです」(朝に心筋梗塞はなぜ起きやすい?(院長コラム)|いなば内科クリニック)。「狭心症は、血圧の変動が大きい早朝や深夜に起こりやすい」(狭心症を防ぐために|ハートニュース|心日本心臓財団刊行物|公益財団法人 日本心臓財団)。

「激しい運動」とは息切れを伴う運動である。ブドウ糖をエネルギーに変えるべく、より多くの酸素を必要としているのだ。つまり酸欠状態といってよい。我々の先祖の生活様式を想像してみても朝一番で走ることは考えにくい。やはり水を汲(く)みに行く程度の運動が望ましいだろう。

2021-08-11

クエン酸は万能薬/『新健康法 クエン酸で医者いらず』長田正松、小島徹


 ・クエン酸は万能薬

クエン酸
【書籍紹介】重曹の効果を解説
『人は口から死んでいく 人生100年時代を健康に生きるコツ!』安藤正之

必読書リスト その二

 クエン酸の有機酸としての働きは酢の3倍です。しかも「酢の強さ」は酢の3分の1と弱いので、酸っぱい味が苦手な人にもたいへん飲みやすく感じられるのです。
 これが、クエン酸が酢よりも健康効果が得られやすい理由の1つです。

【『新健康法 クエン酸で医者いらず』長田正松〈おさだ・しょうまつ〉、小島徹〈こじま・とおる〉(日東書院本社、2003年)以下同】

 クエン酸だけだと飲みにくいので私は重曹を混ぜている。便の色が黄色っぽくなってきたので効果はあるのだろう。水に浮くまでには至っていない(食物繊維不足はこれでチェック!|大塚製薬)。

 クエン酸と重曹は元々掃除のために買ったのだが、飲めるとなれば一石二鳥だ。効果が実感できない人は掃除に使えばよい。

 ところが、野菜や果物よりも酸性体質改善に効果的なアルカリ食品があるのです。それが酢、つまりクエン酸です。

 クエン酸は「酸」という文字が入っているものの、実はたいへんに優れたアルカリ性食品なのです。その字の示すようにクエン酸そのものは確かに酸性です。ところが、クエン酸を服用すると、胃に到達するまでは酸性なのですが、十二指腸に入ると膵臓から出た強いアルカリ性の重曹と化学反応を起こし、クエン酸ソーダとなってアルカリ性になるのです。クエン酸を身体が吸収すると、すべてアルカリ性として働くのです。
 つまりクエン酸を効果的にとっている限り、私たちの身体は弱アルカリ性に保たれやすくなるのです。

 少し調べたのだがエビデンスが見つからず。「胃からくる酸を中和するのに必要な大量の炭酸水素ナトリウム(重曹の成分)を十二指腸に分泌する」(膵炎の概要 - 03. 消化器の病気 - MSDマニュアル家庭版)。膵液は弱アルカリ性なので、「強いアルカリ性」が何を意味するのかが判らず。

 最初から最後に至るまで「クエン酸は万能薬である」と主張している。自分で試してみるのが一番であろう。尚、長田正松は薬事法違反と公職選挙法違反で有罪となっている。

2021-08-03

インターバル速歩/『ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方』能勢博


『病気の9割は歩くだけで治る! 歩行が人生を変える29の理由 簡単、無料で医者いらず』長尾和宏
『病気の9割は歩くだけで治る!PART2 体と心の病に効く最強の治療法』長尾和宏

 ・インターバル速歩

『ランニングする前に読む本 最短で結果を出す科学的トレーニング』田中宏暁
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『アルツハイマー病は治る 早期から始める認知症治療』ミヒャエル・ネールス
『一流の頭脳』アンダース・ハンセン
『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット
『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』ロバート・ムーア
『脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか 生き物の「動き」と「形」の40億年』マット・ウィルキンソン
『「体幹」ウォーキング』金哲彦
『高岡英夫の歩き革命』、『高岡英夫のゆるウォーク 自然の力を呼び戻す』高岡英夫:小松美冬構成
『あらゆる不調が解決する 最高の歩き方』園原健弘
『あなたの歩き方が劇的に変わる! 驚異の大転子ウォーキング』みやすのんき
ナンバ歩きと古の歩術
『表の体育・裏の体育』甲野善紀
『「筋肉」よりも「骨」を使え!』甲野善紀、松村卓
『ナンバ走り 古武術の動きを実践する』矢野龍彦、金田伸夫、織田淳太郎
『ナンバの身体論 体が喜ぶ動きを探求する』矢野龍彦、金田伸夫、長谷川智、古谷一郎
『ナンバ式!元気生活 疲れを知らない生活術』矢野龍彦、長谷川智
『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
『健康で長生きしたけりゃ、膝は伸ばさず歩きなさい。』木寺英史
『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二
『スポーツ選手なら知っておきたい「からだ」のこと』小田伸午
『トップアスリートに伝授した 勝利を呼び込む身体感覚の磨きかた』小山田良治、小田伸午
『間違いだらけのウォーキング 歩き方を変えれば痛みがとれる』木寺英史

身体革命
必読書リスト その二

「インターバル速歩」とは、本人がややきついと感じる早歩きと、ゆっくり歩きを3分間ずつ交互に繰り返すというウォーキング方法である。それを1日5セット、週4日以上繰り返すと、5ヵ月間で体力が最大20%向上(10歳以上若返った体力が得られる)、生活習慣病の症状が20%改善し、その結果、医療費も20%削減できるということが明らかになっている。

【『ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方』能勢博〈のせ・ひろし〉(ブルーバックス、2019年)以下同】

 ウォーキングのやり方である。歩き方は参考にならないので注意が必要だ。自転車乗りであれば、タバタ式HIITはお馴染みのトレーニング法である。目的は心拍数を高めることだ。痩せることではない。

 まずは「言われた通り」やってみることがセオリーだ。しかも30分間で済む。物足りなければ3分ランニングにしてもいいだろう。そこからタバタ式に持っていくという手もある(20秒ダッシュ+10秒ウォーキング×8セット)。

 図1-6は生活活動度と医療費との関係を年齢別に示したものである。生活活動度が体力に比例すると考えると、体力の低下曲線と年齢別の医療費が見事に相関する。そして、体力が20代の30%レベル以下にまで低下すると要介護状態になり、自分ひとりでお風呂に入れない、トイレに行けないという状態になる。したがって、高血圧、糖尿病、肥満といった生活習慣病にとどまらず、認知症やがんに至るまで、中高年特有の疾患の根本原因は、この加齢性筋減少症に伴う体力の低下の可能性が高い、と考えられるようになった。
 最近、そのメカニズムについて、図1-7で示すように、体力の低下による「慢性炎症」の関与が指摘されている。「慢性炎症」という言葉は読者になじみがないかもしれないが、たとえば、風邪を引くと喉が痛くなる、傷口にばい菌が侵入すると化膿し、局所がはれ上がり、痛みが出たり、発熱したりする。これらの反応は、外部から体内に異物が侵入すると、それらをやっつけよう、追い出そうとする体の反応である。これを医学では「炎症反応」と呼ぶ。
 ここで、興味深いのは、外部から異物が体内に侵入しなくても、運動不足、肥満など体力低下を引き起こすような生活習慣でこの炎症反応が起こることである。ただ、この炎症反応のレベルは非常に低く、痛みが出たり、発熱を起こしたりするのはごく稀で、ほとんどの人は気がつかない。しかし、着実に全身性に起こっている。
 そして、この炎症反応が特に脂肪細胞に起これば糖尿病に、免疫細胞に起こって、その影響が血管内皮細胞に現れれば動脈硬化・高血圧症に、脳細胞に起これば認知症・うつ病に、さらに、この炎症反応によって分泌されるサイトカインという物質を介して、その影響ががん抑制遺伝子に及べばがんになる、と考えられるようになった。(中略)
 加齢によって筋力が低下すると、まず、筋肉中のミトコンドリアの機能が劣化する。さらに、筋力が低下すると運動するのが億劫になるために、筋肉以外の臓器の代謝も低下し、全身のミトコンドリア機能が低下する。その結果、全身性に活性酸素が産生され、慢性炎症が起こり、生活習慣病になるというのだ。
 では、どうすればよいか。答えは簡単。加齢性筋減少症に負けないように、運動トレーニングによって体力アップを行えばよいのだ。

炎症が現代病の原因/『シリコンバレー式 自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー

 エビデンスが豊富で一々説得力がある。慢性炎症を知る医師や看護師はまだ少ない。知ったところで彼らの利益が増えるわけではないため、患者に慢性炎症を説明することは多分ないだろう。患者も患者で運動を勧められるよりは薬を求めがちだ。「医師の仕事は薬を処方することで、病気を治すのは薬である」という思い込みは鉄板のように堅固なものとなっている。

「肥満は病気である」との認識が必要だ。少欲知足ならぬ少食知足こそが健康の基(もとい)である。



2021-07-27

マルクス思想の圧倒的魅力/『左翼老人』森口朗


『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一
『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗

 ・左翼とは何か
 ・「リベラル」と「左翼」の見分け方
 ・マルクス思想の圧倒的魅力

・『売国保守』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗
『知ってはいけない 金持ち 悪の法則』大村大次郎

必読書リスト その四

 日本は欧米に並ぶ先進国のはずです。それなのに何故、アメリカのリベラルやヨーロッパの社会民主主義のような健全な左派が存在しなのでしょうか。それは、戦前からインテリの間に共産主義ブームがあり、1933年から1945年の間だけ弾圧されましたが、戦後すぐに息を吹き返したために、ほとんどの人が共産主義者の枠組みで思考するという悪弊から抜け出せていないからだと考えます。
 そして、恐ろしいことに、その思考スタイルは中等教育(中学・高校)や高等教育(大学以降)を通じて、今でもほとんどの人の意識下に浸透しています。その代表例が「資本主義VS共産主義」という思考スタイルです。
 高校の政治経済だけでなく、大学の教育でさえも資本主義と共産主義が対立的なものと教えます。しかし、資本主義と共産主義は決して対立的なものではありません。なぜなら、資本主義は人類の歴史の中で徐々に形成された現在の経済の仕組みであるのに対して、共産主義はマルクスの思想とそれを信じた人々が創った人工国家の理念の中にしか存在しない、つまりこの世に一度も存在したことのない妄想だからです。
 アダム・スミスは近代経済学の祖と言われますが、資本主義はアダム・スミスが考えたものでも提唱したものでもありません。これに対しマルクス経済学はマルクスが提唱した考え方やその発展を学ぶ学問です。近代経済学は先に「経済という現実」があるのに対し、マルクス経済学は先に「理念」があり、この二つはまったく異なる学問です。事実、この二つを対立的に考えるのは、先進国の中では日本だけです。他の先進国においてマルクス経済学など、ほとんど相手にされない「経済学を自称する一派」にすぎません。
 これは、残念ながら欧米先進国と異なり近代日本にとって、資本主義も自然発生的なものではなく、外来の人工的な香りのするものだったかもしれません。渋沢栄一をはじめとする天才的な実業家が、ほとんど一代で欧米資本主義国家に近い仕組みを創り上げることができたのだから、共産主義者が政権を取れば数十年で「労働者の楽園」を創れると夢想しても無理はありません。
 もう一度書きますが、資本主義と共産主義が対立するという思考スタイルは、資本主義社会の次に共産主義社会が到来すると信じる共産主義者だけです。確かに冷戦時代は資本主義国家群と社会主義国家群は対立しましたが、これは軍事外交上の対立にすぎません。
 日本以外の先進国の住人にとって資本主義は所与であり、それゆえに改良し続けるべきものです。それは右派自由主義者も左派平等主義者も同じです。ところが、日本はインテリ層のほとんどが(資本主義の側に立つ人まで)共産主義的思考スタイルの中でモノを考えるので、今の社会を所与として改良を重ねるというこ健全な思考が苦手です。

【『左翼老人』森口朗〈もりぐち・あきら〉(扶桑社新書、2019年)以下同】

 なるほど。進歩史観だと資本主義が共産主義の前提となるわけだ。Wikipediaにも「ただし、現実には合ってなく、社会主義・共産主義国で経済学とは社会を分析する道具でなく、理念を擁護するプロパガンダのため、マルクス経済学を学んでも経済をまともに理解するのは難しい」とある。高橋洋一は「学生時代にマルクスの『資本論』を読んで、こいつは馬鹿だなと思った」と語った。需給関係を無視した労働価値説を嘲笑ったものだ。

 ところが、高校の政治経済では「資本主義国家は市場の失敗から社会主義に近づき、社会主義国家も市場原理を導入して資本主義に近づいた」と教えているのです。「市場の失敗」という概念は存在しますし、20世紀の資本主義国家が福祉国家の理念の下に社会保障を充実させたのは事実ですが、それは資本主義国家が社会主義国家に近づいたのではありません。資本主義国家がより成熟したのです。これを「社会主義国家に近づいた」と称するためには、社会主義国家が資本主義国家以上に社会保障が充実していなければならないはずです。
 しかし、日本よりも医療保険制度が充実している社会主義国家など、どこにも存在しません。だからこそ、中国人がこの制度を悪用して日本の優れた医療を受けに来るのです。日本の年金制度は世界のトップレベルではありませんが、それでも老人が発展途上国で悠々自適の暮らしをするくらいはできます。旧ソ連や東ヨーロッパで悠々自適な老後を過ごせる人など共産党幹部くらいしかいなかったはずです。
 資本主義国家は社会主義、少なくとも共産主義者のいうところの社会主義(共産主義の前段階)などに近づいてはいません。ところが、リベラルや社会民主主義という穏健な左派が根付かず、「資本主義VS共産主義」という思考スタイルの者には、その現実が見えないのです。

 文科省の汚染は酷い。安倍晋三の肝煎りで萩生田光一〈はぎうだ・こういち〉が大臣に起用されたが、徹底的な文科省改革を断行してほしい。

 戦後、教科書を墨で塗ったことが想像以上に教育を軽んじる結果になったような気がする。昭和一桁生まれの少国民世代が反日に傾いたのもむべなるかな。そして戦後生まれが学生運動に没頭するのである。敗戦の影響は若い世代の心の傷となって長く国家を蝕む。

 なぜ、マルクスは戦前戦後を通じてインテリを魅了したのでしょう。私は、彼らが「神に挑戦したからだ」という仮説を持っています。マルクス思想が宗教だからと言い換えてもよいでしょう。言い古された表現ではありますが、それゆえ一面の真実を表しています。(中略)
 ちなみに、アメリカ国内の政治的左派を「リベラル」と呼ぶようになるきっかけについて、キリスト教的価値からの自由を指したことが始まりであるとする説が有力です。確かにアメリカの共和党と民主党が激しく対立する価値観の一つに「堕胎(だたい)の自由」(民主党が認め、共和党が認めない)があることを考えれば、この説には説得力を感じます。本当に日本にリベラリストが育つためには、その人たちこそがマルクス教からの自由を主張しなければ無理でしょう。

 これは卓見だ。ニーチェが「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ」(『喜ばしき知恵』『悦ばしき知識』)と書いたのが1882年だが、マルクスはニーチェに先んじていた。「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という阿片に頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」(『ヘーゲル法哲学批判序説』1844年)。

「1782年にスイスで行われた裁判と処刑が、ヨーロッパにおける最後の魔女裁判であるとされる」(Wikipedia)。マルクスが生まれたのは1818年である。ちょうど明治維新の半世紀前だ。魔女狩りの血腥(なまぐさ)い臭いはまだヨーロッパに立ち込めていたことだろう。宗教を阿片と切り捨てるには、まだまだ勇気を必要とした時代だ。その思い切った姿勢はマルティン・ルター以来のロックスターとして持ち上げる価値は十分にあったことだろう。

 森口は日本のリベラルを信用してはならないと警鐘を鳴らす。

「左翼」思想を「リベラル」と詐称するくらいの嘘つきですから、左翼集団の話の内容は基本的に嘘ばかりです。2018年に彼らが積極的に話題にしたLGBTなどはその代表でしょう。

 社会主義国では同性愛者がこれでもかと抑圧されてきた。結局、キリスト教の呪縛から脱却し得ていないことがわかる。

 まともな右派政党や左派政党が登場しないのは、それを求める民意がなかった証拠であろう。だが今、中国の軍事的脅威が高まるにつれて日本の輿論(よろん)も少しずつ変化している。親中派に対する批判は民意の成熟ぶりを示している。

 風頼みの国政選挙ではなく、地域に根を張った地方議会からコツコツと実績を上げ、卓越した政治理念を示すことが望ましいように感じる。

「リベラル」と「左翼」の見分け方/『左翼老人』森口朗


『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一
『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗

 ・左翼とは何か
 ・「リベラル」と「左翼」の見分け方
 ・マルクス思想の圧倒的魅力

・『売国保守』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗
『知ってはいけない 金持ち 悪の法則』大村大次郎

必読書リスト その四

 日本の左翼は80年代初頭まで、これらの国(旧ソ連、東ヨーロッパ諸国、中国、北朝鮮)の後に続くことを模索してきましたが、とても不可能だと悟り、さらに「左翼」思想をむき出しにしていては自分たちの生活が成り立たないと考え、「リベラル」や「社会民主主義」に擬態したのです。そこで、先の井上氏のリベラリズムの基本的な考え方(※井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは、嫌いにならないでください』)やアメリカにおける政治的リベラルの歴史を踏まえて、本当の「リベラル」とそれに擬態した「左翼」の見分け方を示しておきます。

・リベラルは常に言論の自由を重んじるが、左翼は自分たちが優勢な場合には言論弾圧を躊躇しない。
 社会主義独裁国家に権力分立が存在しないのは「正義」は一つしかなく、共産党は常に正義だからです。それゆえ、彼らに多様な言論を重んじる精神はありません。ただし、リベラルに擬態した左翼は自分たちが少数派の時には、「多様な言論」や「言論の自由」の重要性を訴えます。これに対して本物のリベラルは反転可能性(自分が相手の立場になることを許容できるか)という基本原則から、自分が言論弾圧される状況を想定するので、常に言論の自由を重んじます。
・リベラルには「嘘をつかない」というモラルがあるが、左翼には「嘘をつかない」というモラルがない。
 左翼は社会主義国家を樹立するためには暴力革命(つまり人殺し)さえ肯定しますし、事実、新左翼と呼ばれる人たちは数々のテロ行為を行ってきました。自分たちの「正義」のためには手段を選ばないのが左翼の特徴ですから「嘘」をつくことに良心の呵責は一切ありません。これに対してリベラルでは「反転可能性」が基本原則なので、政治的敵の殺害はもちろん、嘘で自説を補強することを拒否します。
・リベラルは妥協を当然と考えるが、左翼は妥協を敗北と捉える。
 リベラルは正義を求めますが左翼のような絶対的な正義ではなく、相手にも一理あることが前提になっています。それゆえ、徴兵制か志願兵制かといったオール・オア・ナッシングの命題を除けば政治的妥協は当然だと考えます。これに対し左翼では政治は常に闘争ですから、政府との妥協は常に敗北を意味します。
・リベラルは愛国心を敵視しないが、左翼は愛国心を敵視する。
 アメリカにおいてリベラルは、国家による経済への関与を肯定する思想として発展しました。そこには貧困で苦しむ同胞を見捨てることを不正義と考えるナショナリズムが横たわっています。ですからリベラルは決して愛国心を敵視しません。その強制をしないだけです。
 これに対して資本主義国家の打倒を目的とする左翼は愛国心そのものを敵視します。日教組は全教に牛耳られていた学校現場を知らない井上氏は、君が代斉唱の起立や伴奏を拒否する教師をリベラリズムの立場から擁護しますが、左翼組合が事実上支配していた学校でただ1人国歌を歌った私は、国旗国歌を否定する教師は「国旗国歌を敵視し、同僚にも不起立と不歌唱を事実上強要する左翼」であると断言します。日本人がクレバーになって左翼が少数派になって以降、リベラルに擬態して「戦争で使われた日の丸(国旗)は血に染まり、天皇崇拝の君が代(国歌)は民主主義の敵だ」から「国旗国歌の強制はよくない」と主張を変えただけなのです。
・リベラルは社会的弱者を救うが、左翼は社会的弱者を利用する。
 政治的リベラルは、大恐慌で苦しむ人々を見て自由を再定義したことに端を発するので、リベラリストにとって社会的弱者を救おうという課題は存在意義そのものです。これに対して左翼はプロレタリアートの憎悪こそが革命の言動力であり福祉は資本主義の延命策と捉えています。彼らにとって経済的弱者は大衆の政府憎悪を掻(か)き立てる道具にすぎません。

【『左翼老人』森口朗〈もりぐち・あきら〉(扶桑社新書、2019年)】

 一々納得できる解説である。森口が示した基準に当てはめると日本人の大半は「尊皇リベラル」と言ってよさそうだ。日本には奴隷が存在しなかったし、諸外国のような厳格な身分制もなかった(江戸時代の士農工商は兵農分離→職業世襲制)。

 前々から不思議に思っていたことがある。16万年前にミトコンドリア・イブから誕生したヒトは4万年前に極東の日本に辿り着いた(その後、アリューシャン列島を渡り北米~南米へ)。にもかかわらず世界最古の国で、更に世界最古の磨製石器、釣り針、土器、漆器、木造建築、木造塔、印刷物、企業、宿泊施設、商品取引所(先物取引)などがあることだ。少し前にはたと思い至った。アフリカから最も遠い地域へやって来た我々の祖先は進取の気性に富み、探検精神が旺盛であったことだろう。あるいは土地を追われてきた可能性もあるが、逃げるだけでは日本まで辿り着けまい。協力、協同、協働といった和の精神も自然と形成されていったのだろう。それぞれの土地で環境に適応する中でモノづくりのDNAが受け継がれていったに違いない。

 日本人がクリスマスやハロウィンなどの異文化をあっさりと受け入れるのも、長い旅路を通して排除よりも寛容に重きを置いたためだろう。世界でも稀な温暖湿潤気候が穏やかさを培い、世界一多い自然災害が淡白さを育てたのだろう。

「弱きを助け強きを挫く」「情けは人の為ならず巡り巡って己(おの)が為」「一寸の虫にも五分の魂」という諺(ことわざ)こそ日本の民族精神を表すものだ。「惻隠の心は仁の端なり」(孟子)。もののあはれを知らなくとも、児童の世界で「可哀想だろ!」という言葉は生きているはずだ。社会民主主義というよりは共同体民主主義が日本の伝統か。

 世界で初めて人種差別の撤廃を提唱したのも日本であった(1919年、『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温)。これこそ真のリベラルであろう。