2009-01-13

脳は神秘を好む/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース


『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 ・脳は神秘を好む
 ・言語概念連合野と宗教体験
 ・神は神経経路から現れる
 ・人工知能がトップダウン方式であるのに対し、動物の神経回路はボトムアップ方式

『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン
『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書 その五

 宗教的な神秘体験が側頭葉で起こっていることは、既に多くの脳科学本で指摘されている。てんかん患者と似た状態らしい。LSDを服用すると同様の体験ができるとも言われている。トリップ、旅、「そうだあの世へ逝こう」JR。

 いずれにせよ、人間という動物は「不思議」が大好きだ。これに異論を挟む者はあるまい。不思議は不可思議の略語で、大辞泉にはこうある――

1.どうしてなのか、普通では考えも想像もできないこと。説明のつかないこと。また、そのさま。
2.仏語。人間の認識・理解を越えていること。人知の遠く及ばないこと。
3.非常識なこと。とっぴなこと。また、そのさま。
4.怪しいこと。不審に思うこと。また、そのさま。

 4が凄いよね。ストレンジ(strange)ですな。思議とは「あれこれ思いはかること。考えをめぐらすこと」。つまり、「想像を絶する」物語や世界に我々は憧れ、魅了されてしまうのだ。というわけで早速、説明責任という言葉を私の辞書から削除することにしよう(笑)。

 西洋において宗教的な神秘体験は「神との邂逅(かいこう)」として現れることが多い。多分(←テキトー)。日本では「神がかり」と称される。お稲荷さんにはまると「狐憑き」。本当にピョンピョン跳ねるそうだよ。洋の東西に共通するということは、人間の本質に根差している証左といえよう。では、そこにどのような回路があるのか――

 われわれは、宗教的な神秘体験、儀式、脳科学についての膨大なデータの山をふるいにかけて、重要なものだけを選び出した。パズルの要領でこれらのピースを組み合わせているうちに、徐々に意味のあるパターンが見えてきて、やがて、一つの仮説が形成された。それが、「宗教的な神秘体験は、その最も深い部分において、ヒトの生物学的構造と密接に関係している」という仮説だった。別の言い方をするなら、「ヒトがスピリチュアリティーを追求せずにいられないのは、生物学的にそのような構造になっているからではないか」ということだ。

【『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎監訳、木村俊雄訳(PHP研究所、2003年)】

 つまり、「脳がそのような仕組みになっている」ってことだ。ってこたあ、脳そのものが神秘的と言わざるを得ない。脳は“物語としての神話”を求める。起承転結の「転」には不思議な展開が不可欠だ。モチーフは「奇蹟的な逆転」だ。

 そう考えると不思議とは希望の異名なのかも知れない。古来、人間は行き詰まるたびに起死回生を信じて、時には信じるあまり側頭葉をピコピコと点滅させ、“生の行き詰まり”を打開してきたのだろう。

 一つだけはっきりしているのは、古本屋という商売には何の神秘も存在しないことだ。



自我は秘密を求める/『伝説のトレーダー集団 タートル流投資の魔術』カーティス・フェイス
江原啓之はヒンドゥー教的カルト/『スピリチュアリズム』苫米地英人
必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
脳は宇宙であり、宇宙は脳である/『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』デイヴィッド・イーグルマン
宗教学者の不勉強/『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
人間は世界を幻のように見る/『歴史的意識について』竹山道雄
カーゴカルト=積荷崇拝/『「偶然」の統計学』デイヴィッド・J・ハンド

2009-01-10

長寿は“価値”から“リスク”へと変貌を遂げた/『恍惚の人』有吉佐和子


 ・長寿は“価値”から“リスク”へと変貌を遂げた

『認知症の人の心の中はどうなっているのか?』佐藤眞一
『アルツハイマー病は治る 早期から始める認知症治療』ミヒャエル・ネールス

 初版は1972年6月新潮社刊。昭和47年である。老人介護に先鞭をつけた記念碑的作品。高度経済成長の真っ只中で書かれている。

 日本は敗戦後、朝鮮特需(1950-1952、55)によって経済的な復興の第一段階を遂げた。で、日米安保が1960年に締結される。ま、先に餌をもらった格好だわな。ベトナム戦争が1959年から始まっているので、アメリカとしては是が非でも日本を反共の砦にする必要があった。そして日本経済はバラ色に輝いた。これが高度経済成長だ。1973年からバブルが弾ける1991年までは「安定成長期」と呼ばれている。ってことはだ、東京オリンピック(1964)や大阪万博(1970)は、アメリカからのボーナスだった可能性が高い。

 日本人の大半が豊かさを満喫し、丸善石油が「オー・モーレツ!」というテレビCMを流し、三波晴夫が「こんにちは」と歌い、水前寺清子は「三百六十五歩のマーチ」でひたすら前に進むことが幸せだと宣言した。フム、行進曲だよ。遅れたら大変だ。

 そんなイケイケドンドンの風潮の中で、有吉佐和子はやがて訪れる高齢化問題を見据えた。

 主人公の昭子の言葉遣いや、杉並区に住んでいる設定を考えると、当時の山の手中流階級一家といったところだろう。以下に紹介するのは、昭子と老人福祉指導主事とのやり取り――

「それに分って頂きたいんです。私は仕事をもっていますし、夜中に何度も起されるのは翌日の仕事に差しつかえますし、世間は女の仕事に対して理解が有りませんけど、そんなものじゃないってことは貴女(あなた)なら分って頂けますね」
「それは分りますけど、お年寄りの身になって考えれば、家庭の中で若いひとと暮す晩年が一番幸福ですからね。お仕事をお持ちだということは私も分りますが、老人を抱えたら誰かが犠牲になることは、どうも仕方がないですね。私たちだって、やがては老人になるのですから」

【『恍惚の人』有吉佐和子(新潮社、1972年/新潮文庫、1982年)】

「老人を抱えたら誰かが犠牲になる」――これが介護の本質だ。これこそが答えなのだ。介護保険が導入された2000年4月以降も変わらぬ実態だ。

 北イラクのシャニダール洞窟で発掘されたネアンデルタール人(※約20万〜3万年前)の化石は、右腕が萎縮する病気でありながらも比較的高齢(35〜40歳)だった。このことから、仲間によって助けられている可能性が指摘されている(『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠)。つまり、介護だ。「人間とは“ケアする動物”である」という見方もある(『死生観を問いなおす』広井良典)。

 そうでありながらもコミュニティが崩壊し、人間が分断される社会が出現してしまった。これこそ、政治が持つ致命的な欠陥のなせる業(わざ)であろう。歪(いびつ)な社会は、歪な政治を裏に返した姿だ。

 今年の4月から介護報酬が引き上げられる。果たして全体で3%のアップがどの程度の効果を生むことやら。「焼け石に雀の涙」となりそうな気がする。多分、有吉佐和子が書いた現実は変わらない。介護は女性の手に押しやられ、ストレスまみれになった挙げ句、家庭は崩壊し、社会のあらゆる部分にダメージを与えることとなる。高齢者がお荷物扱いされるとすれば、我々はお荷物になる人生を歩んでいることになる。



電気を知る/『バーニング・ワイヤー』ジェフリー・ディーヴァー

2009-01-06

苦楽を分かち合えぬ人間は「わらくず同然」/『妻として母としての幸せ』藤原てい


 ・苦楽を分かち合えぬ人間は「わらくず同然」

『夫の悪夢』藤原美子

 講演を編んだもの。これは聴いてみたかった。既に長女の藤原咲子さんが『母への詫び状 新田次郎、藤原ていの娘に生まれて』(山と渓谷社、2005年)で明らかにしているが、ていさんは既に認知症である。藤原正彦(次男)の『祖国とは国語』でも、記憶が薄れゆく姿が描かれていた。

 満州からの壮絶な引き上げ体験(『流れる星は生きている』)が、単純明快な哲学となってほとばしっている。

 この人生を生きていくうえに、人様の喜びを素直に手を取り合って喜び合うことのできない人生、人様の悲しみを悲しんでやることのできない人生、それはわらくず同然だと私は思います。生きていく甲斐のない人生だと思います。

【『妻として母としての幸せ』藤原てい(聖教新聞社、1982年)】

 わかりやすい言葉には、鞭のような厳しさが込められている。死線をくぐり抜けた者だけが知る真実に彩られている。問いかけではなく断定。「生きる姿勢」は考えるものではなく、先人である大人が指し示すべきものだ。小気味いいほどの確信こそ、藤原ていの魅力だ。

「わかる」とは、「分ける」の謂いである。「はっきりした言葉」が善悪を分けるのだろう。