・安楽死と臨死体験を巡る議論
・身体感覚の喪失体験/『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』酒木保
・臨死体験
10日の深夜から意識がもどってきたが、それと共に苦痛が来た。それは怒涛といってよかった。それに襲われると、眼の前も頭の中も、真赤になった。血の色である。私はふんづけられ、くちゃくちゃにまるめられ、ひきちぎられ、たたきつけられ、うなり声をあげた。その極限で意識はもうろうとなり、幻影じみたものをたびたび眺め、そして昏睡した。また意識がもどってきて、私をふみくだく。私の胸からつき出しているドレンの管に、私が、うっ、と言うたびに血がふき出しているらしい。私は胸の中にたまっている血が喉へつきあげてくるのがわかるが、咳をすることが全く苦しくてできない。そして、熟練したおばさんが私の胸をかるくおしながら血を吐かせる。おばさんが隣のおばさんに、囁くように言う声が、眼を閉じてうめいている私の耳にとてつもなく大きく聞える。
――血がとまらないのよ、ドレンの管へびゅっびゅっと、ほら、こんなに、こんなにたまってしまって。
そして痛みの極みに達した時、私はすうっと飛びはじめたのを感じたのだ。いまにして思えば、これは多分幻覚だろうと思うのだが、私は、その時、私の姿をはっきり見た。私がこなごなに割れて、燃えつきた黒いかたまりになって、果てしない空間を、とてつもない速さで飛んでいくのである。私は地球を離れたと感じていた。ガガーリンは、地球は青かった、という言葉を人間の歴史に刻んだ。私は空間を飛びながら、ああ、おれの地球はあたたかだった、と思っていた。ほんとにあたたかい星である地球の大地、そこから私は離れて、いまとても寒い、と思った。とてもつめたい。いっそうつめたいところへ飛んでいく。そして私の前方は無限の宇宙空間であり、うす青い色からしだいに濃い青へ、そして黒々とした色へとつづいていた。そうだ、このまま飛びつづけてあそこへおちこんだ時、あの手術室のマスクの中で、突然、何もなくなってしまったように、おれは、パタッとなくなってしまうのだ。こうやっていって、そしてパタと。これが死なんだ、と私ははっきり思った。
その時、私はもう自分の苦痛すら感じ得ないもうろうたる状態にあったらしい。
――そうか、こんなぐあいなのだな、苦しくて苦しくて、というのはあるところまでで、そして、そこを越えるとこんなふうにぼうっとしてきて、そして飛びはじめて、飛びつづけて、あの青黒く果てしもない空間の中でパタと、と私は思った。
そうか、かつて、手術を受けても死んだ人たちは、いまのおれと同じここまで来て、そして、ここから先へ、あの黒い空間の淵へ行ったんだな、そうか、こんなぐあいだったのか。それが、死だったのか。
そこから不意に私は、全く強引に、荒々しくつれもどされた。私は全然知らなかったが、レントゲンの器械をおして技師が入ってきていたのだ。私の、手術直後の内部の状態を正確に見るために、深夜、ベッドの上で写真をとるのである。これは、私をひきもどす人間の手だった。私の襟をしっかりつかみ、彼は少しばかり私を起こしたらしい。しかし、私は、肉と皮をばりばりはがれるような痛みで悲鳴をあげた。それはどうも声になっていないらしかった。斜めに起こされた私の背中にかたい大きな板がさしこまれ、そして、写真をうつされると、私はもとのようにねかされた。私はもうあのつめたい空間にはいなかった。地球の上で、ベッドの上で、身動き一つできずにうなっていた。私はまた苦痛にひきちぎられていた。(中略)
しかし、そこを体験し、くぐったために、私は、私が予想していたものとはちがった、新しい事実にぶつかることとなったのである。
その第一は、これまで述べてきたように、たとえ幻影であろうと何であろうと、私は死の影を見、それを具体的に感じ得た、ということだ。苦痛の果ての死を具体的に考える一つの手がかりを私は得た、ということだ。つまり、苦痛というものも、その極限に達しはじめると、私は苦痛を感ずる能力を失っていったのだ。それは苦痛というものとは別の次元であるように感じた。つまり、苦痛に襲われている間は、私はまぎれもない一個の生命体としてその生の状況を苦しんでいたのだ。そのような状態に追いつめられている傷ついた生そのものを苦しんでいたのである。
そこを過ぎると死との間の中間帯の次元が現れる。そこでは苦痛を感じ反応し、さまざまの信号を脳が発する能力はしだいに弱まり、あいまいになってしまう。そこに入っていった時、私は、あたたかい地球から離れてしまった、と思ったのである。このまま行けば、いっそう私自身も周囲の空間もつめたくなり、そして、そのきわみに、一切が突然なくなってしまう世界がある、と思ったのである。なるほどこういうものだったのか、というぐあいに私が思った、そのことが鮮明に残っている。
そこにはもう、ただ一つのことを除いては、どのような人間感情も存在しなかった。おれはいま、燃えつきようとする一個の物体だ、と私は思い、そして私の親しい人々に対しても、また私自身についてすら、喜んだり悲しんだりするすべての感情はもはや消滅していた。これはいまにして思えば全く予想しないことであった。親しい多くの人々と別れて、淋しいとかつらいとか悲しいとか、そういった感情はここにくると、もう存在しなかったのである。
ただ一つだけ、最後まで残っていた感情がある。それは、何とも言えない無念な思いであった。こうやってついに生命に別れを告げるのか、という確認と同時に、かつて人間であり、ただ一度の生を生きたというその証拠を、自分がこうしてパタッと消えるとしても、やはりつづいていくであろう人間の歴史の上に、たとえどんなかすかな爪あととしてでも刻むことなくして飛び去らなくてはならないという無念さであった。
これは意外だった。自分なりに精いっはい生きてきたつもりだったのに最後にそんなものが残るとは夢にも思わなかった。どうせ死んだらどんな人間もみな同じだ、と思ったりする人も世の中にほあるが、一回きりの生命というものは、一回きりの名において、最後のどたん場で、私を責めたのである。このことについては、これが出発点となって、それ以後私はその内容をさぐっていくようになるのであるが、それは第3章で追究していくことにする。ただ私なりの考えの一端を書いておくと、どうせ一度きりのいのちだ、どう生きようと自由だ、という考え方は、それはそれで、私は別にどう干渉するつもりもないが、生のまさに終えんとするそのどたん場で、はじめて愕然(がくぜん)として、言い知れぬ無念な思いを抱いて死に突入するほど、凝縮された絶望はほかにあるまいと思えるのである。(『生命の大陸 生と死の文学的考察』小林勝〈こばやし・まさる〉、三省堂新書、1969年)
【『死 私のアンソロジー7』松田道雄編集解説(筑摩書房、1972年)】
抜き書きの3分の1ほどを紹介する。それでも引用の範疇(はんちゅう)を超えているが(笑)。
「安楽死と臨死体験を巡る議論」を参照してもらえばわかるように、私は2001年の時点では「生命は三世にわたって永遠の存在である」との認識に立っていた。天台三諦論の中諦が永遠に続くと信じていたのだ。
梵網経で説かれる六十二見(外道の邪見)に常見と断見がある。我(アートマン)が死後も続くと考えるのが常見で、死ねば終わりと思うのが断見である。
キリスト教世界には「パスカルの賭け」という有名な詭弁がある。だったらさっさと死ねよ、と言いたくなる。
生命とか我とか言ったところで所詮「意識」の問題であろう。私は死とは眠りのようなものだと考える。眠りに落ちた瞬間、意識は消える。「夢はどうなんだ?」という声が出そうだが、夢は半覚醒状態で意識が彷徨(さまよ)っているのだろう。ま、幽霊みたいなもんだ。脳が完全に休まれば夢は見ない。
小林勝の体験――というよりは覚醒後に構成された体験で、バラバラの脳内情報を夢としてストーリーを付与するのと似ている――は劇的で実に面白い。だからこそ鵜呑みにするべきではないのだ。「科学者は、体験談を証拠とはみなさない」(『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー)。
若い頃にエリザベス・キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間 死とその過程について』(1971年)も読んだが、私が納得できたのは当時の信念と共鳴したためだ。今となっては読む気も起こらない。
私は数人の後輩を喪っているが、もちろん彼らは私の胸の中で生きている。父も亡くしたが、やはり胸の中で生きている。疎遠になった友人以上に生き生きと生きている。願わくは死後も生命が続いてどこかで再会したいとは思う。だが思うだけだ。決してそれを信じることはない。いるのだったら化けてでもいいから出てきて欲しい。
臨死体験は脳内現象である。脳を離れた臨死体験はあり得ないのだ。例えば天井から自分の体を見下ろしたとか、病院内で行ったことのない場所の物を言い当てたりするような事例が報告されているが、それは幽体離脱を証明するものではなく千里眼によるものと考える。ま、私にとっては千里眼よりも眼前の物が見える方がはるかに不思議であるが。
記憶は脳に保管されている。時折過去世を思い出した子供の話があるが、脳は別物だから記憶が引き継がれるわけがない。それが事実であるとすれば認知症や記憶喪失などの説明がつかなくなる。それに過去世を思い出したから何だと言うのだ? 来世を予測できるのならばまだしも、昨日を思い出すのと五十歩百歩ではないか。
来世があろうとなかろうと死ねば今世(こんぜ)の終わりである。人は今世に生きるべきであり、更に言えば現在只今を生きるべきである。死後の世界については無記の態度が正しい。
生命の大陸―生と死の文学的考察 (1969年) (三省堂新書)
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小林 勝
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