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『砂糖の世界史』川北稔
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結社〜協会・講・組合・サロン・党・サークル・団・アソシエーション・会・ソサエティ
・人間のもっとも原初的な社会は母子社会
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『世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界』川北稔
人間は、孤独では生きていけない動物だといわれる。人間は集団のなかで生まれ、集団のなかで死んでいくのである。人間のもっとも原初的な社会は、母とその子どもからなる母子社会であり、母子関係を中心として家族・親族・氏族のような血縁関係がつくられた。数百万年は続いたと思われる人類の狩猟・採集時代は、血縁の原理がもっとも優越していた時代であったろう。(中略)
血縁と地縁は、人間を結びつけるもっとも古い二代紐帯原理であるが、これら血縁・地縁に劣らず古くから存在する紐帯原理は、共通の利害や感心に基づく「約束」の原理であった。このような一定の「約束」のもとにつくられる集団は、利益集団ないしは結社(association)と呼ばれた。結社は人類史上新石器時代、あるいは原始農耕の出現と相前後してあらわれたものといわれており、一般の予想よりかなり古い歴史をもっている。(「刊行にあたって」綾部恒雄)
【『結社のイギリス史 クラブから帝国まで』綾部恒雄〈あやべ・つねお〉監修、川北稔〈かわきた・みのる〉編(山川出版社、2005年)】
現代では「孤独」を心理的に捉える傾向が強いが、むしろ社会行動的に考えるべきだ。要は群れとしての有機的な結合を欠くところに孤独が立ち現れてくるのである。我々のDNAには「誰かのために役立つこと」を幸福と感じるメカニズムが埋め込まれている。利他の精神ではない。ただそういう生命の仕組みなのだ。誰からも必要とされなくなれば生きてゆくことは難しい。なぜなら「生きる理由」がないためだ。
ヒンドゥー社会には
アーシュラマ(住期)という概念があり、人生の節目を四段階に分ける。学生期・家住期・林住期・遊行期とあるが、林住期の後に遊行期と来るところがミソである。山林で瞑想を深めた後に再び市中を遊行(ゆぎょう)するのである。悟りを社会に展開する営みが群れと決して断絶していない。仏教もまた同様で必ず都市部周辺にサンガは形成される。なぜなら人里離れた山奥で修行すれば托鉢(たくはつ)が不可能となるからだ。仏教が都市宗教と呼ばれる所以(ゆえん)である。
台湾原住民では族の下の部落を「社」と呼んだ(
alangの訳か)。例えば
霧社事件に合流したのはマヘボ社、ボアルン社、. ホーゴー社、ロードフ社、タロワン社、スーク社などである。「中国で,ある神格的シンボルを中核として団結した集合体をさす。「社」という語は,大地の生産力を神格化したものを意味しているが,実際には,その土地に生えている大木や石をシンボルとして設定した」(
コトバンク)。社稷の社を思え(
Weblio辞書)。「やしろ」(神を祀ってある建物)と訓読みすれば腑に落ちる。
「かつてsocietyということばは、たいへん翻訳の難しいことばであった。それは、第一に、societyに相当することばが日本語になかったからなのである。相当することばがなかったということは、その背景に、societyに対応するような現実が日本になかった、ということである」(『
翻訳語成立事情』柳父章)。移動の自由がなければ社会は創出されない。村=世間の時代が長く続いたということなのだろう。それを打ち破ったのもまた明治維新であった。
ありあまる自由を享受する我々が次々と結社を行わないのはなぜか? 利益がマネーに限定しているためか。
NPO的な視点や価値観が必要な気がする。