・『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
・なにかを信じることにはまったく意味がない
・『つかめないもの』ジョーン・トリフソン
・『オープン・シークレット』トニー・パーソンズ
・『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
・『今、永遠であること』フランシス・ルシール
・『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
・悟りとは
信じられないかもしれないけど、なにかを信じることにはまったく意味がない。信じるというのは単に信じるってこと。それだけ。
でも僕らが生きている世界では、信じることにとてつもなく大きな価値が置かれているように見える。だから、信じていることの催眠にかかっている人がほとんどだとしても特に不思議はない。
信じるのは別に悪いことじゃない。ただ、あるということの単純さと信じることはまったくどんな関係もないというだけだ。だから、あるということの単純さを見つけだすために、つまり自由を探すために、なにかを信じてそれにしがみつくとしたら、それは誤った戦略だし間違いなく失敗する。
信じるのは悪いことじゃないとは言っても、自分が信じていることに執着すると、あるということの単純さがはっきりとは見えなくなる。
なにを信じていてもそれは単なる思考が観念で、真実と取り違えられているだけだ。どんな思考も観念も真実とは違う。そこに誤りがある。
【『これのこと』ジョーイ・ロット:古閑博丈〈こが・ひろたけ〉訳(ブイツーソリューション、2015年)】
古閑博丈が精力的に翻訳を行っている。少し考えれば当たり前のことだが悟り本にはいわゆる個性というものがない。例外はブッダとクリシュナムルティくらいだろう。自我という大地を破れば意識は虚空に解き放たれる。個性とは地に咲くものだ。ただし文に滲み出る何かがある。それが気になるのは私が悟っていないためなのだが(笑)。
実際は「わからない」からこそ信じるのである。地球が丸いことを「信じている」人はいない。事実は「知る」だけであり、「理解」すれば信じる必要はない。
「私は何も信じない」とクリシュナムルティは語った。この一言に込められたのは「神と自己の否定」であろう。「神と自己」という概念が世界を二元に分け隔てる。非二元(ノンデュアリティ)と言おうがワンネス(一元性・単一性)と呼ぼうが結局は「私」という軛(くびき)から自由になるかどうかである。
法然・親鸞・日蓮は信を説いた。ここに鎌倉仏教の限界があるように思われる。信は眼を塞(ふさ)ぎ智慧に至ることがない。どのように理を尽くしたところで信をもって慧(え)に代えることはできず不確実性や偶然性に翻弄される。悟りとはありのままの現実を直視することであり、何かを信じて未来を待望する精神はその欲望によって明晰さを失う。諸法無我を思えば信を支える基底が自我であることを見抜ける。
何かを信じる人々は常に争い合っている。他を貶(おとし)め自らを持ち上げることに躍起な姿は悟りから程遠い。無上道であればこそ争いから離れることが可能となる。
初期仏教の悟り重視を軽んじたのが後期仏教(大乗)であった。彼らは個人の悟りを「小乗」と嘲(あざけ)った。ま、悟りを無視すれば多数を収める乗り物が作れるのは当然だ。乗り物の行き先は知らないが。そして自分たちの弱みを押し隠すために精緻な理論を築いた。
ジョーイ・ロット
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