・『森のように生きる 森に身をゆだね、感じる力を取り戻す』山田博
・『植物はそこまで知っている 感覚に満ちた世界に生きる植物たち』ダニエル・チャモヴィッツ
・根を通して助け合う植物=森という社会
・『宮脇昭、果てなき闘い 魂の森を行け』一志治夫
・必読書リスト その三
ここで一つの疑問が生じる。木の根は地中をやみくもに広がり、仲間の根に偶然出会ったときにだけ結ばれて、栄養の交換をしたり、コミュニティのようなものをつくったりするのだろうか? もしそうなら、森のなかの助け合い精神は――それはそれで生態系にとって有益であることには変わりないのだが――“偶然の産物”ということになる。
しかし、自然はそれほど単純ではないと、たとえばトリノ大学のマッシモ・マッフェイが学術誌《マックスプランクフォルシュンク》(2007年3月号、65ページ)で証明している。それによると、樹木に限らず植物というものは、自分の根とほかの種類の植物の根、また同じ種類の植物であっても自分の根とほかの根をしっかりと区別しているらしい。
では、樹木はなぜ、そんなふうに社会をつくるのだろう? どうして、自分と同じ種類だけでなく、ときにはライバルにも栄養を分け合うのだろう? その理由は、人間社会と同じく、協力することで生きやすくなることにある。木が1本しかなければ森はできない。森がなければ風や天候の変化から自分を守ることもできない。バランスのとれた環境もつくれない。
逆に、たくさんの木が手を組んで生態系をつくりだせば、暑さや寒さに抵抗しやすくなり、たくさんの水を蓄え、空気を適度に湿らせることができる。木にとってとても棲みやすい環境ができ、長年生長を続けられるようになる。だからこそ、コミュニティを死守しなければならない。1本1本が自分のことばかり考えていたら、多くの木が大木になる前に朽ちていく。死んでしまう木が増えれば、森の木々はまばらになり、強風が吹き込みやすくなる。倒れる木も増える。そうなると夏の日差しが直接差し込むので土壌(どじょう)も乾燥してしまう。誰にとってもいいことはない。
森林社会にとっては、どの木も例外なく貴重な存在で、死んでもらっては困る。だからこそ、病気で弱っている仲間に栄養を分け、その回復をサポートする。数年後には立場が逆転し、かつては健康だった木がほかの木の手助けを必要としているかもしれない。
【『樹木たちの知られざる生活 森林管理官が聴いた森の声』ペーター・ヴォールレーベン:長谷川圭訳(早川書房、2017年/ハヤカワ文庫、2018年/原書は2015年)】
地上の「見える世界」では太陽光を巡って熾烈な争いを繰り広げる木々が、見えない地中では協力し合っているというのだから驚きだ。人間社会はといえば陰で足の引っ張り合いをするのが常だ。「支え合う」関係性は1990年代のリストラ(整理解雇)や派遣法改正(2004年)などを通して完全に廃(すた)れてしまった。
世界的ベストセラーとなっているのも頷ける。本書を読むと樹木を見る目が一変する。彼らは意志する存在なのだ。人間の都合で植えられた街路樹や学校・公園などの木はやはり可哀想だ。日本の場合、森林といえばほぼ山を意味するが、里山文化を受け継いでゆくことが正しいと思う(新しい里山文化の創出に向けて - 全国町村会)。
皆で森を育くめば、再び支え合う社会が構築できるかもしれない。そんな希望が湧いてくる一書である。
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