・『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
・『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
・『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
・ナチスはありとあらゆる人間性を破壊した
・極限状況を観察する視点
・生きるためなら屍肉も貪る
・『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
・『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
・『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン
・『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎
・『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ
・『命がけの証言』清水ともみ
・必読書リスト その二
ナチスの強制収容所といえば本書。既に古典の風格がある。20代半ばで読んだが、自分の知らない“世界と歴史”にたじろいだことを、今でもよく覚えている。
相手を虫けら同然と認識してしまえば、人間はどこまでも残酷になれる。
収容者は石を抱かせられ、肥料の中で溺れさせられ、鞭で打たれ、飢えさせられ、去勢され、そして輪姦されたりした。しかしそれだけではなかった。入墨をしている者は薬剤所に報告するように命令された。(中略)その肌に入墨師の技両を発揮したすばらしい彫刻を持っている連中は留置され、それからカポーの一人であるカール・ベイグスの命令による注射で殺されてしまったのである。
この死体は病理部に引き渡され、そこで皮膚をはがされて処分された。処理を終えた人間の皮は司令官の妻イルゼ・ゴッホに下げ渡されたが、彼女はそれでランプの傘やブックカバーや手袋を造った。(※ブッヒェンワルト収容所)
【『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾〈しもやま・とくじ〉訳(みすず書房、1956年/新版、1985年/池田香代子訳、2002年)】
「♪かあ〜さんがぁ〜夜なべぇ〜をして、てぶく〜ろ編んでくれたぁ〜」――で、それは人間の皮でできていたって話だ。こんなリサイクルが許されていいはずがない。
正義というものはわかりやすくなくてはいけない、という私の信条に基づけば、鬼畜の如き所業を為した者には同程度以上の苦痛を与えた上で、死をもって償わせる必要があると考える。
ここで一つ重要な問題が発生する。ナチスドイツが行ったであろう残虐な行為を私が検証できないことだ。つまり、私が殺意を抱いているのは、飽くまでも「書籍から得た情報」によるものであり、この点において、「ゲルマン民族のみが優れているという情報」を鵜呑みにして、ジプシー、身体障害者、ユダヤ人を殺戮したナチスドイツと何ら変わりがない。
つまり、だ。人間という動物は情報次第で、簡単に人を殺すことができるという事実が浮き彫りになる。何と恐ろしいことだろう。
タイトルの『夜と霧』は、「夜陰に乗じ、霧に紛れて人々が連れ去られ消された歴史的暗部を比喩」したものとされている。ところがどっこい、私はそうは読まない。『夜と霧』は情報が遮断された状態のメタファーだと考える。
イスラム文化圏には現在でも「名誉の殺人」という風習が根強く残っている。2007年には、17歳のクルド人少女が家族や親戚の手で殺された動画がネット上にアップされた。少女は衆人環視の中で散々殴る蹴るの暴行を加えられ、大きな石が頭に叩きつけられた。少女の頭部から大量の血が流れ、動かなくなってからも暴行がやむことはなかった。
人間は愚かだ。愚かであるからこそ歴史は繰り返される。カンボジアではポル・ポト政権が、ルワンダではフツ族がそれを証明した。
情報を吟味するためには、強靭な知性と豊かな想像力が不可欠だ。そのために、私は今日も本を手に取ろう。
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