・『破獄』吉村昭
・ヴァン・リード「生麦事件は自業自得」
・『生麦事件』吉村昭
生麦事件の資料を収集している間に、二人の特異な人物が浮び上るのを感じた。
一人は、事件当時、アメリカ領事館の書記生をしていたアメリカ人ヴァン・リードである。
島津久光の行列が、高輪の薩摩藩下屋敷を出立し、品川宿、川崎宿を過ぎ、先導組が鶴見村の橋にかかった時、前方から茶色い馬に乗ってやってくる外国人が見えた。ヴァン・リードである。
先導組の藩士たちは激しい憎悪の眼をむけたが、ヴァン・リードは行列が近づくのを見て馬から降り、馬を街道から畠の中に引き入れた。
さらに先導組が進んでくると、かれは羽毛のついた青い帽子を脱ぎ、さらに帽子を胸にあてて片膝を突いた。先払いが近づき、かれは頭をさげた。
それは、大名行列に対して畏敬の念をしめすもので、先導組の藩士たちは、横眼で見ながら通りすぎた。
ヴァン・リードは、つづいてやってきた行列の本隊と後続組にも同じ姿勢をとりつづけ、何事もなく行列は過ぎ、かれは再び馬に乗って川崎方面にむかった。
この行為について、後に外務大臣となる林董〈はやし・ただす〉は、
「予が知れるヴァンリードと云ふ米人は、日本語を解し、頗る日本通を以て自任したるが、リチャードソン等よりも前に島津の行列に逢ひ、直に下馬して馬の口を執り、道の傍に停り駕の通る時脱帽して敬礼し、何事なく江戸に到着したる後、リチャードソンの生麦事件を聞き、日本の風を知らずして倨傲無礼の為めに殃(わざはひ)を被りたるは、是れ自業自得なりと予に語れり」
という談話を残している。
【『史実を歩く』吉村昭(文春新書、1998年/文春文庫、2008年)】
吉村昭が苦手である。読み終えた作品は『破獄』一冊のみ。たぶん5~6冊ほど手に取ったが数十ページも読むことができなかった。私にとっては相性の悪い作家だが、冒頭の“「破獄」の史実調査”で引き込まれた。淡々と綴られた文章が鈍い銀色を放っていた。人と人との不思議な邂逅(かいこう)をモノクロ写真のように描いている。敢えて色彩を落とすところにこの人の味がある。
生麦という地名がまだ残っていることを一昨年知った。横浜市内をクルマで走っていた時に経路案内の標識に「生麦」と出てきたのだ。思わず「生麦!」と大きな声に出した。同乗していた若者に「これは生麦事件の生麦だよね」と訊いたら、「そういうのわかんないんスけど」で終わった。ま、「早口言葉ですか?」と言わなかっただけまだいい。
生麦事件は日本文化を理解しない西洋人が犯した非礼が発端となっている。
個人的には4人のイギリス人に対して1名殺害、2名重症、1名逃亡という結果はだらしがないように思う。で、当時から文化的な衝突であったことはよく知られていた。
また当時の『ニューヨーク・タイムズ』は「この事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない。」と評している。(中略)
事件直後に現場に駆けつけたウィリス医師はリチャードソンの遺体の惨状に心を痛め、戦争をも辞すべきでないとする強硬論を持ちながらも、一方で兄への手紙にこう書いている。「誇り高い日本人にとって、最も凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるに違いありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」
【Wikipedia】
生麦事件は翌年(文久3年/1863年)薩英戦争に発展する。同年、長州藩が下関戦争を起こしている。ここで歴史が予想しない方向に跳ねた。薩摩藩とイギリスが気脈を通じ最先端技術が入ってくるのである。幕府は生麦事件の賠償金10万ポンド(44万ドル=27万両)と下関戦争の賠償金(300万ドルのうち150万ドル=94万両)を支払わされた。当時の10万ポンドは現在の200億円に相当する。つまり幕府は800億円強の負債を抱え込んだことになる。これが幕府崩壊のボディブローとして決定的なダメージを残した(『お金で読み解く明治維新』大村大次郎、2018年)。
150年後、尖閣諸島周辺で中国公船が領海侵犯を100日以上続けても、我々は日々報じられるニュースの一つとしてしか感じられなくなってしまった。
生麦事件は私が生まれるちょうど100年前の出来事である。
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