・『人生の短さについて』セネカ:茂手木元蔵訳
・『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵訳
・ストア派の思想は個の中で完結
・必読書リスト その五
「なぜ多くの逆境が善き人に生じるのですか」。善き者には悪は何一つ生じえない。正反対のもの同士は混ざらないからである。それはちょうど、かくも多数の河川が、上空から落下した、かくも多量の雨水が、鉱泉のかくも多大な成分が、海の味を変えないどころか、薄めすらしないのと同じである。同様に、逆境の攻撃は勇者の精神を背(そむ)かせはしない。同じ姿勢を保ち、生じ来(きた)るいっさいを己の色に変える。いかなる外部の事象よりも協力だからである。それらを感じないというのではない。打ち克つのだ。そして、いつまでも、平穏に穏やかに、襲いかかるもの抗して屹立(きつりつ)し、あらゆる逆境を鍛錬とみなす。しかし、いかなる男子が、高潔な行為へと一度その意を定めた者ならば、正義の労苦を熱望しつつ、危険のともなう任務を志願せずにいられようか。
【『怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也〈かねとし・たくや〉訳(岩波文庫、2008年/『怒りについて 他一篇』茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳、岩波文庫、1980年)】
旧訳と併せて読むのが正しい。茂手木訳には「神慮について」が、兼利訳には「摂理について」と「賢者の恒心について」が収められている。甲乙つけがたい翻訳だ。
ストア派の思想は個の中で完結している。時代や社会がどうあれ、問われるのは己の生き方だ。否、「あり方」というべきか。人の悩みや葛藤は往々にして比較と競争から生まれる。そこに社会的動物の所以(ゆえん)もあるのだろう。
他人にどう見られるかよりも、自分がどうあるかを問う。集団の中で生きれば様々な問題を他人のせいにしたくなるのは人情だが、「あいつが悪い、こいつが悪い」と言ったところで、そこにあるのは「変わらぬ自分の姿」だ。他人をコントロールすることは難しい。自分で自分を動かす方が賢明だ。
セネカの言葉はあたかも鹿野武一〈かの・ぶいち〉を語っているかのようである(『石原吉郎詩文集』石原吉郎)。酷寒の地シベリアに抑留されながらも自分の人生を決して手放すことのなかった稀有な人物だ。私はどんな功成り名を遂げた有名人よりも鹿野の生き様に憧れる。
西洋哲学はおしなべて思弁に傾く嫌いがあるが、セネカの言葉には決意の奔流ともいうべき勢いが溢れ、2500年を経ても留(とど)まるところを知らない。
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