2021-10-09

小林秀雄は「非常時」という言葉を嫌った/『生きること生かされること 兄 小林秀雄の心情』高見澤潤子


『小林秀雄全作品 25 人間の建設』小林秀雄
・『兄小林秀雄との対話 人生について』高見沢潤子
・『兄 小林秀雄』高見澤潤子

 ・小林秀雄は「非常時」という言葉を嫌った

・『続 生きること生かされること 兄 小林秀雄の真実』高見澤潤子
・『永遠(とこしえ)のふたり 夫・田河水泡と兄・小林秀雄』高見澤潤子
・『生きることは愛すること 兄 小林秀雄の実践哲学』高見澤潤子
・『人間の老い方死に方 兄小林秀雄の足跡』高見澤潤子

 今日は個人主義思想はもう流行(はや)らないのださうですが、流行らなくなっても、人間いかに生くべきかは各自の工夫を要する事に変りはあるまい。  (文学と自分

 此の言葉は、昭和15年、戦争のはじまる前の年に書いた「文学と自分」という作品の中の言葉である。此の言葉の最初の「今日」というのは、その頃、国家総動員とか非常時体制とかものものしくいわれた時代のことである。個人のことなど考えてはいけない。すべて日本国家のために、軍部の命令通りに、動かなければいけないという時代だったから、「個人主義など流行らない」といったのである。しかし兄は、個人の大切さを知っていた。人間は一人一人ちがうのだから、一人一人ちがった歩みをするのが本当の生き方だというのである。兄は非常時という言葉も嫌っていたが、国民精神総動員などといって文士も国家の政策のために尽力するようにといわれても、文士は文学を一生けんめいやり、いい作品を創るだけだ、といっていた。

【『生きること生かされること 兄 小林秀雄の心情』高見澤潤子〈たかみざわ・じゅんこ〉(海竜社、1987年)】

 非常事態、はある。例えば災害は火急の事態だ。しかし災害が収まれば被災者の生活が始まる。戦争は非常時の最たるものだが、国民が織り成すのは日常生活である。つまり戦争状態が日常と化すのだ。小林の嫌悪はよくわかる。「非常時」という言葉は国民に犠牲を強いる時に使われるのだ。「非常時だから我慢せよ」というわけだ。

 2019年12月から始まったコロナ禍騒動も「非常時」で覆われている。法的根拠もないまま、国民にマスクや外出規制を強要するのは独裁国家と変わりがない。唯々諾々と従う国民の心理にあるのは「非常時だから仕方がない」との諦めだ。資本力の弱い飲食店は次々と倒れ、二百三高地状態となっている。政府の無策を思えば、切羽詰まった行動を起こす店主が現れても不思議ではない。

 小林が戦時中の言論について「反省なぞしない」と言い切ったのは、自己批判を繰り返す左翼への嘲笑でもあったのだろう(小林秀雄の戦争肯定/『国民の歴史』西尾幹二)。

 ラジオ番組で「(小林秀雄の)どこがいいんでしょうね? 読んでもさっぱりわからない」と佐藤優が語ったのを聴いて、「小林秀雄は読むべきだ」と直感した。私の勘は滅多に外れることがない。

 

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