2010-07-15

自由のない国と信頼のない家族/『グラーグ57』トム・ロブ・スミス


『チャイルド44』トム・ロブ・スミス
・『子供たちは森に消えた』ロバート・カレン

・自由のない国と信頼のない家族

『グラーグ ソ連集中収容所の歴史』アン・アプロボーム
・『エージェント6』トム・ロブ・スミス
・『偽りの楽園』トム・ロブ・スミス

 チト苦しい。ストーリーが破天荒すぎて、あちこちに無理がある。「初めに事件ありき」といった印象を受けた。

チャイルド44』の続編である。それだけで期待は膨らむ。異様なまでに。過度な期待はおのずから厳しい眼差しとなる。傑作の後の駄作を許さないのは当然だ。

 それでも「読ませる」のだから、トム・ロブ・スミスの筆力は凄い。

 自殺も自殺未遂も鬱病(うつびょう)も――人生を終わらせたいと口に出すことさえ――国家に対する誹謗(ひぼう)中傷と見なされる。より高度に発達した社会には自殺もまた存在しえないものなのだ。殺人同様。

【『グラーグ57』トム・ロブ・スミス:田口俊樹訳(新潮文庫、2009年)以下同】

 ソ連は何も変わっていなかった。理想と現実とは懸け離れ、その距離を嘘で埋めていた。社会主義国はバラ色でなくてはならない。たとえ現実が灰色であったとしても、人々は「バラ色です」と答えることを強いられた。

 前作同様、家族がモチーフになっている。レオ・デミドフは二人姉妹の子を養子に迎えたが、姉のゾーヤはレオを憎んでいた。

 ゾーヤはいまだにレオを保護者と認めていなかった。両親を死に追いやったレオを今でも赦(ゆる)していなかった。レオのほうも自分を父と呼ぶことはなかった。

 レオがゾーヤの両親を殺したわけではなかったが、幼子の目にはそのように映った。自由のない国と信頼のない家族。二重の苦しみをレオはどう克服するのかが読みどころだ。

 突然ソ連に変化が生じた。フルシチョフがスターリンを批判したのだ。

 彼らが今耳にしているのは国家を批判することばだった。スターリンを批判することばだった。ラーザリはいまだかつてこのような形でこのようなことばが語られるのを聞いたことがなかった。恋人同士のあいだでさえ囁かれることのないことばだった。寝棚の囚人同士が囁き合うことさえ。そんなことばが彼らの指導者の口から語られたのだ。それも党大会で報告されたのだ。それらは書き取られ、印刷され、装丁され、こうしてこの国のさいはての地にまでたどり着いた。

 この収容所が「グラーグ57」だった。ここから荒唐無稽な筋運びとなる。既に家出をしたゾーヤは悪党の一味に加わり、ハンガリー動乱の扇動を行うといったもの。

 レオは前作と比べると明らかに老いが目立っている。本書ではレオという主人公の人物造形が凡人と超人の間で揺れており、それが物語を中途半端なものにしている。ゾーヤの落ちぶれようも救いがなく、全体のトーンが暗く明暗のアクセントを欠いている。

 このシリーズは三部作で完結する予定らしいが、次の作品はじっくりと時間をかけて再び傑作をものにして欲しい。

2010-07-07

ミステリ界に光を放つ超大型新星/『チャイルド44』トム・ロブ・スミス


 ・ミステリ界に光を放つ超大型新星

『子供たちは森に消えた』ロバート・カレン
『グラーグ57』トム・ロブ・スミス
・『エージェント6』トム・ロブ・スミス
・『偽りの楽園』トム・ロブ・スミス

ミステリ&SF

 老練なプロットと引き締まった文体から、トム・ロブ・スミスが20代の若者であることを想像するのは難しい。作品の舞台となったロシアでは発売禁止になっている。つまり、ロシアの現実が描かれているものと考えてよいだろう。

 一人の男の再生物語であり、男の半生はスターリン体制下のソ連とピッタリ重なっていた。

 主人公のレオ・デミドフは国家保安省(※KGBの前身)の優秀な捜査官だった。それは、彼が「人民の敵」であることを意味していた。逮捕した相手からこんなことを言われたこともあった――

「私はこの国を憎んでなどいないよ。憎んでいるのはむしろきみのほうだ。この国の人々を憎んでいるのは。そうでなければどうしてこんなに多くの人たちを逮捕したりなどできる?」

【『チャイルド44』トム・ロブ・スミス:田口俊樹訳(新潮文庫、2008年)以下同】

 異常な世界で評価されるためにはロボットと化す他なかった。それにしても旧ソ連の実態は酷い。同僚はありとあらゆる手段を駆使して足を引っ張り、賞罰が明らかでなければ怠け放題だ。階級闘争が階級内闘争を生み、無限の連鎖となって社会の至るところにストレスを与えていた。

 ある事件をきっかけにして、レオ・デミドフは体制に疑問を抱くようになる。健全な懐疑は真理の扉を開く。ソ連は寸足らずの衣服を国民に与え、「手足を縮めるよう」命令を下していた。寒い国だから手足を縮めるのはお手の物だ。

 国は詩人を必要とはしていない。哲学者も宗教家も必要としていない。国が必要としているのは、寸法と量が計れる生産性。ストップウォッチで計測できる成功だ。

 有罪となって死ぬことはもう避けられない。この社会のシステムはどんな逸脱も誤謬(ごびゅう)も認めていないからだ。見せかけの効率。それはここでは真実よりはるかに重要なものなのだ。

 唯物論は人間をモノとして扱う。マルクスは国家を暴力的に転覆することを高らかに宣言した。思想はどの思想も正義のマントを羽織っている。思想が暴力を肯定すると、人間の情動にブレーキが掛らなくなる。ソ連では至るところで拷問が行われた。ある時は容疑者に対して、そしてまたある時は罪なき市民に対して。共産主義は国民を恐怖で支配する体制だった。

 レオは同僚の讒言(ざんげん)によって田舎の警察署へ左遷させられる。警察署の上司は彼を煙たがった。長年連れ添った妻との関係も上手くいっていなかった。そんなある日のこと、幼児の虐殺死体が発見される。レオは一人で調査を開始した。同じ手口の犯行が別の場所でも行われていた。間違いなく連続猟奇犯の仕業だった。

 自由のない国で、しかも犯罪の事実を隠蔽(いんぺい)する社会主義国で、どのようにして正義を実現するか――これが本書のモチーフになっている。

 誰かのために立ち上がることは、取りも直さずその誰かの運命の裏地に自分の運命を縫いつけることだ。

 立ち上がれば、もう座り直すことはできなかった。あとは前に進むか、殺されるかという選択肢しか残されていない。レオは立ち上がった。殺された44人の子供達の家族のために。

 冒頭のエピソードがラストで花火のように爆発する。並大抵の衝撃ではない。登場人物は皆が皆、ソ連という政治システムの犠牲者だったのだ。トム・ロブ・スミスはシステム化された暴力を描き出すことで、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』的なミステリを創出している。

 ロバート・ラドラム亡き後のミステリ界を照らす、超大型新星の登場だ。

  

2010-06-23

「生きる意味」を問うなかれ/『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル

 ・「生きる意味」を問うなかれ

『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

必読書リスト その二

 アウシュヴィッツを生き延びた男は実に静かで穏やかだった。彼は地獄で何を感じ、絶望の果てに何を見出したのか? 本書にはその一端が述べられている。

 5月後半の課題図書。前半は『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』であった。やはりこの二冊はセットで読むべきだろう。

 ナチス強制収容所でフランクルが悟ったのは、生の意味を問う観点を劇的に転換することであった――

 ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。【人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している】からです。【私たちは問われている存在なのです】。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。【生きること自体】、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。

【『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル:山田邦男、松田美佳訳(春秋社、1993年)以下同】

 牛馬のように働かされ、虫けらみたいに殺される世界に「生きる意味」など存在しなかった。ひょっとしたら、「死ぬ意味」すらなかったかもしれない。それでも彼等は生きていた。生きる意味がゼロを超えマイナスに落ち込んだ時、「問い」はメタ化し異なる次元へ至ったのだ。問う人は「問われる存在」と変貌した。今日を生きることは、今日に答えることとなった。この瞬間にフランクルは死を超越したといっていいだろう。

 私たちはさまざまなやり方で、人生を意味のあるものにできます。活動することによって、また愛することによって、そして最後に苦悩することによってです。苦悩することによってというのは、たとえ、さまざまな人生の可能性が制約を受け、行動と愛によって価値を実現することができなくなっても、そうした制約に対してどのような態度をとり、どうふるまうか、そうした制約をうけた苦悩をどう引き受けるか、こうしたすべての点で、価値を実現することがまだできるからです。

「どうふるまうか」――そこに自由があった。「ふるまう自由」があったのだ。ベトナムの戦争捕虜として2714日を耐えぬき、英雄的に生還したアメリカ海軍副将ジェイムズ・B・ストックデールの体験もそれを雄弁に物語っている――

・死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル

 恵まれた環境に自由があるのではない。自由は足下(そっか)にあるのだ。

 ですから、私たちは、どんな場合でも、自分の身に起こる運命を自分なりに形成することができます。「なにかを行うこと、なにかに耐えることのどちらかで高められない事態はない」とゲーテはいっています。【それが可能なら運命を変える、それが不可避なら進んで運命を引き受ける、そのどちらかなのです】。

 どんな苛酷な運命に遭遇しても選択肢は二つ残されていることをフランクルは教えている。運命を蹴飛ばすか背負うかのどちらかだ。

 逆境の中でそう思うことは難しい。行き詰まった時に人間の本性は噴水のように現れるものだ。いざとなったら見苦しい態度をとることも決して珍しくはない。

 食べるものも満足になく、シャワーを浴びることもままならず、仲間が次々と殺される中で、フランクルはこれほどの高みにたどり着いた。その事実に激しく胸を打たれる。

【苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです】。人生に重い意味を与えているのは、この世で人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのです。  けれども、人生に重みを与えているのは、【ひとりひとりの人生が一回きりだ】ということだけではありません。一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、【人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせている】のです。その一回きりの要求が実現されなかった、いずれにしても実現されなかった時間は、失われたのです。

 生そのものに意味があったのだ。生きることそれ自体が祝福であった。これがフランクルの悟りである。生の灯(ともしび)が消えかかる中でつかみ取った不動の確信であった。生と死は渾然一体となって分かち難く結びついた。生きることは、瞬間瞬間に死ぬことでもあったのだ。生も死も輝きながら自分を照らしていた。

 絶体絶命の危地にあっても尚、我々は「人生にイエス」と言うことが可能なのだ。フランクルは人類の可能性を広げた。心の底からそう思う。




自殺は悪ではない/『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑

2010-06-16

極限状況を観察する視点/『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
・『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子

 ・ナチスはありとあらゆる人間性を破壊した
 ・極限状況を観察する視点
 ・生きるためなら屍肉も貪る

『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎
『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ
『命がけの証言』清水ともみ

必読書リスト その二

 20世紀を代表する一冊といっていいだろう。「戦争の世紀」に何がどう行われたか。そして戦争をどう生き抜いたかが記されている。

 20代で初めて本書を読んだ時から、私の胸の内側には「ナチス」という文字が刻印された。激しい憎悪が炎となって燃え盛った。「できることなら、ナチスの連中を同じ目に遭わせてやりたい」と歯ぎしりをした。こうして暴力は光のように反射して拡散する。果たしてジプシーや障害者、そして連合軍兵士やユダヤ人に対して向けられたナチスの憎悪と、私の憎悪とにいかほどの差異があるだろうか?

 私の手元にあるのは旧版で、冒頭には70ページ近い「解説」がある。要はナチスの非道ぶりを紹介しているわけだが、読者を特定の方向へリードしようとする意図が明らかで、先入観を植えつける内容になっている。しかもこの解説は署名がないので、訳者が書いたのか出版社サイドが書いたのかもわからない。「お前は神なのか?」と言いたくなるような代物だ。

 例えばこう――

 グラブナーと彼の助手たちは、何かの口実を設けてはたびたび収容所の訊問を行い、もしそれが男の場合には睾丸を針で刺し、女の場合には膣の中に燃えている坐薬を押し込んだのである。(アウシュヴィッツ収容所)

【『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾〈しもやま・とくじ〉訳(みすず書房、1956年/新版、1985年/池田香代子訳、2002年)以下同】

 文章に独特の臭みがあるので多分、霜山徳爾が書いたのだろう。大体、翻訳者なのだからこっちがそう思い込んだとしても罪にはなるまい。

 我々はともすると、戦争や政治を道徳的次元から問うことがしばしばある。しかし厳密に考えるならば、道徳は個人の行為を問題にするのであって、戦争や政治という利害調整と道徳とは本来まったく関係がない。多数の人々を殺傷しておきながら、ジュネーブ条約もへったくれもない。

 食べるものも満足に与えられず、暴力にさらされると、人間はどのように変わり果てるのだろうか?

 最初は囚人は、たとえば彼がどこかのグループの懲罰訓練を見ねばならぬために点呼召集を命令された時、思わず目をそらしたものだった。また彼はサディズム的にいじめられる人間を見ることが、たとえば何時間も糞尿の上に立ったり寝たりさせられ、しかも鞭によって必要なテンポをとらせられる同僚を見ることに耐えられなかったのである。しかし数日たち、数週間たつうちに、すでに彼は異なってくる。(中略)その少年は足に合う靴が収容所になかったためはだしで何時間も雪の上に点呼で立たされ、その後も戸外労働をさせられて、いまや彼の足指が凍傷にかかってしまったので、軍医が死んで黒くなった足指をピンセットで附根から引き抜くのであるが、それを彼は静かに見ているのである。この瞬間、眺めているわれわれは、嫌悪、戦慄、同情、昂奮、これらすべてをもはや感じることができないのである。【苦悩する者】、【病む者】、【死につつある者】、【死者】──【これらすべては数週の収容所生活の後には当り前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである】。

 無気力は「心の死」である。日常的に暴力にさらされると人は痛みに対して鈍感になり、他人の痛みに心を動かさなくなるというのだ。これほど恐ろしいことはない。生存本能を最も深い部分で支えているのは「恐怖」である。強制収容所の人々は確実に死につつあった。

 これを逆から読めば、生の本質は「ものごとを感じ取る力」にあるといえよう。すなわち感受性である。感受して応答するのが生きることなのだ。ゴムまりのように軽やかに弾んでいなければ生きるに値する人生を歩んでいるとはいえない。

 アウシュヴィッツは一つの概念だった。

 概念とは言語世界である。思考は言語世界から離れることができない。そして概念は世界を構築する。この時、アウシュヴィッツの外側の世界は存在しない。世界は階層化する。同じ囚人であっても、カポーと呼ばれる囚人の見張り役になって特典を与えられた者も存在した。過酷な情況は鑿(のみ)となって人々の本質を彫像のように現した。生きるか死ぬかという瀬戸際に置かれた人間は丸裸にされる――

 人間が強制収容所において、外的のみならず、その内的生活においても陥って行くあらゆる原始性にも拘わらず、たとえ稀ではあれ著しい【内面化への傾向】があったということが述べられねばならない。元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な外的状況を苦痛であるにせよ彼らの精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜならば彼らにとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。【かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである】。

 生きる権利すら奪われた地獄にあっても、「内なる世界」が存在したというのだ。アウシュヴィッツにはこれほどの希望が存在した。人の心はかくも巨大であった。

 ヴィクトール・E・フランクルの偉大さは、強制収容所において「心理学者としての視点」を失わなかったところにある。つまり、劣悪な環境を一歩高い視点から見下ろすことができたのだ。「観察する自分」はアウシュヴィッツから離れていた。これは一種の解脱と見ることができる。

 最もよき人々は帰ってこなかった。

 この重い一言を徹底して掘り下げたのがプリーモ・レーヴィだった。



・アドルフ・アイヒマン 忠実な官僚
若きパルチザンからの鮮烈なメッセージ/『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
香月泰男が見たもの/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆
集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ

2010-05-29

小野田寛郎を中傷した野坂昭如/『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月


『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎
『たった一人の30年戦争』小野田寛郎

 ・小野田寛郎を中傷した野坂昭如

・『奇蹟の今上天皇』小室直樹

 ルバング島のジャングルで30年の長きにわたって戦い続けた小野田寛郎は、帰国後メディアから集中砲火を浴びる。小野田は格好の標的となった。物珍しければ何にでも飛びつくのがメディアの習性だ。連中は野良犬のように鼻が利き、野良犬のようにしつこい。

 野坂昭如(のさか・あきゆき)が小野田寛郎を中傷した――

(野坂昭如による“談話筆記”〈『週刊ポスト』8月16日号〉)
 小野田さんはいろいろ偉そうなことをいっているけど、そして偉い面もあるけど、游撃戦にしろ、残置諜報者にしろ、その本分は何も果たしていないじゃないか。
 彼は自分の頭の中に艦船の出入りとか、飛行機のなんとかというものをしっかり納めていたという。それがやがて来たるべき日本の反撃に備える自分の任務だった、というが、じゃ、それを書いてみろといったら、おそらく書けないのではないか。
 横井さんの場合は、「あれは逃亡兵だ、逃げ回った人間だった」という決めつけ方をされていて、小野田さんの場合には「闘った」というふうにいわれている。しかし、状況判断の悪さからいうと、あれは闘ったことにはならない。
 そのことはさておき、彼は、自分の判断が間違っていたために、小塚さんがどうした、島田さんがどうしたとかいっているが、この文章を読んだ範囲においては、その判断の誤りについてほんとうの後悔は何もない。いやしい感じの方が強い。

【『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月〈とい・じゅうがつ〉(新潮社、2005年)以下同】

 私は以前から野坂という人物に嫌悪感を抱いてきた。見るからに薄汚い風体で、妙にヘラヘラしている。本人はニヒルを気取っているつもりだったのだろう。

 多分この記事は、国民の多くが小野田を礼賛することに背を向けるような格好で発信したのだろう。また小野田が陸軍中野学校出身であったことに警戒感を抱いていたのかもしれない。だが野坂は口の軽い男だった。そう。彼はただの酔っ払いなのだ。そして相手が悪かった。

 例えば、この記事の殆どの部分が、憶測と思い込みによって成立している。あらかじめ、自分の頭の中で描いた絵に結論を引き寄せようとしていると言ってもいい。少なくとも野坂は、小野田から直接話を聞いてもいないし、中野学校のことを調べてもいないし、ルバング島へ取材にも行っていない。その意見の殆どの部分は想像と感想の域を出ていない。いわば、言い放し、書き放しといっていい。しかし、そんなものでも活字になってメディアに載れば力が生まれる。なるほど、そうかと思う人間が出てくる。そうやって、ある人間や、ある出来事のイメージがつくられてゆく。
 小野田は、会ったこともない人間やメディアによって空気がつくられ、知らぬ間にそれが既成事実になってゆくような曖昧さといい加減さが許せなかった。それでは、戦前の日本と同じではないか。野坂の記事を読んだ小野田は、「言いたいことがあるなら、黒眼鏡を外して堂々と言え」と激怒したという。

 野坂は明らかに思い上がっていた。スポットライトを浴びた者は逆光で客席が見えなくなる。目に映るのはライトが当たっている自分の周囲だけだ。傲(おご)りという病(やまい)は治し難い。肥大した自我を正当化するために彼等はひたすら前進するのだ。

 国のために戦い続けてきた男は見世物にされた。小野田の中で日本のイメージが激しく揺れ動いた。彼が守ろうとした国も国民も既に消え失せていた。小野田は帰国から一年を経ずして長兄次兄のいるブラジルへ移住する。

 軽薄な売れっ子であった野坂に対し、小野田はどんな人物だったのか。以下に小野田自身が書いた手紙を紹介する――

 しばらくして週刊誌から手記連載の申し入れがあり、小野田は、代筆者や編集者たちと共に伊東市の出版社寮に缶詰めになった。その頃、小野田は、励ましの手紙をくれた戦争遺族たちに次のような礼状を送っていた。

 拝啓
 御健勝の御事喜ばしく存じます。
 私 帰還に際してはわざわざ御親切なお祝のお便りを頂き誠に有りがたく存じて居ります。今日、生きて日本に帰り得たことはひとえに亡くなられた戦友のお蔭と国民皆様の努力の賜で何とお礼を申し上げてよいものか言葉もなき次第でございます。
 帰られぬ戦友、帰り得た私、その運命の非情さを考えれば帰還の喜びは一瞬に失せ、思いは再び戦場に還ってしまいます。全く相済まぬ事をいたしました。肉親の皆様方に深くお詫びいたしお叱りを受けて、そのお赦しを願わねばなりません。
 肉親の皆様は終戦後の毎日をさぞおつらくお苦しく続けられたことでしょう。よくお耐え下さいました。
 男一匹の私らとは比べものにならない年月をお送りなされたことでございましょう。よく生き貫いて下さいました。
 今、御遺族の貴方様から御慰め頂きましたがこれは全く逆でございます。お慰め申し上げなければならぬのはこの私でございます。何と申し上げても申し上げきれないのはこの私でございます。本当に申し訳ございません。私の今日が祝福されればされる程、私はますます御詫び申し上げなければならないのです。お願いでございます。私の心をお察し下さってお赦し頂きとうございます。
 お互いに死を誓って戦場に出たとは申せあくまでも死は死、生は生でございます。亡くなられた方は再び生きてかえらず、生き帰ったものは全く倖せなのです。戦争の悲劇、全く言い様のない気持です。今迄生き貫かれた貴方様、尚も強く生き通して下さい。それが私にとって最もうれしくお祝の言葉、お慰めの贈りものでございます。
 私の社会復帰について御心配を頂きますがそんなことは第二第三の問題です。私の第一は遺族の皆様のお赦しを頂くことです。どうぞ御健康に御多幸に一日も早く遺族の苦しみ悲しみから抜け出して下さい。それで私は心から解放されるのでございます。右御詫びかたがた御礼まで。
 昭和49年5月
      海南市  小野田 寛郎

 何がここまで私の心を打つのか。私は戦争という戦争を忌み嫌い、戦争へ行ったことを得々と語る老人に対して、「お前は平然と人を殺し、何の躊躇(ためら)いもなくレイプに加担したような人物だろう。たとえお前がやらなかったとしても、周囲で行われたことを黙認するような卑劣漢だ」と心で罵るような人間なのだ。

 私が嫌悪する戦争、私が嫌悪する時代から、なぜこのような人物が生まれたのか。礼儀や人の振る舞いに着地するのは簡単だ。しかし、そんな皮相的なレベルで30年もサバイバル生活を生き延びることは不可能だ。

 小野田の時計は30年前に止まっていた。人間を人間たらしめていたのが30年前の記憶であったとすれば、30年間に及ぶ社会の変化は人間性を失わせるものだったことになる。

 そしてやはり陸軍中野学校の教育が大きかったことだろう。教育というものは例外なく、国家という枠組みに適応させる目的で施される。しかし中野学校では戦時中にもかかわらず、天皇よりも日本国民を重んじる教育を叩き込んだ。その意味では国家を超越する思想を提示したといえよう。

 小野田寛郎の偉大さは、時代や社会から取り残されたジャングルで人間として生き、人間を貫いたところにある。