2010-11-11

妊娠中絶に反対するアメリカのキリスト教原理主義者/『守護者(キーパー)』グレッグ・ルッカ


 ・妊娠中絶に反対するアメリカのキリスト教原理主義者

『奪回者』グレッグ・ルッカ
『耽溺者(ジャンキー)』グレッグ・ルッカ

 アメリカでは堕胎を行う産婦人科医が毎年のように殺されている、と何度か書いてきた。その辺の情況を描いたミステリはないかと探して見つけたのが本書である。

 予想以上に面白かった。警句の余韻をはらんだ文章も中々お見事。関口苑生の「解説」を呼んでびっくりしたのだが、グレッグ・ルッカは26歳でこの作品を書き上げたという。トム・ロブ・スミスもそうだが、ミステリ界には若い書き手の台頭が見受けられる。

 書き出しはこうだ──

 そうしてやりたいのはやまやまだったが、わたしは、男の鼻を折らなかった。

【『守護者(キーパー)』グレッグ・ルッカ:古沢嘉通〈ふるさわ・よしみち〉訳(講談社文庫、1999年)以下同】

 暴力をコントロールする意思。主人公のアティカスはボディガードを生業(なりわい)としていた。彼はフリーランスだった。自分の職業を「パーソナル・セキュリティー・エージェント」と称した。

 物語はアティカスが恋人と産婦人科を訪れ、中絶を決意するところから始まる。病院の周囲を中絶反対派の人々がプラカードを林立させて取り巻いていた。

 やかまし男がメガフォンを掲げ、話しはじめた。
「諸君に殺人について話そう」男はいった。
 デモ隊はざわめいた。
「またしても殺人が、さらなる血塗られた殺人がおこなわれている」男はいった。「おびただしい死体、ちぎれ、引き裂かれた死体が彼らのゴミ箱を、大型ゴミ容器を、シンクを埋めている。冷たい金属、鋭い金属、あの子たちの感じるこのうえもなく冷たく、このうえもなく鋭いもの、母から引き離され、安全とぬくもりとふるさとから引き離されて二度めに感じるものがそれなのだ」

 中絶反対派のリーダーは長広舌を振るった。そして彼の言葉は全てが正しかった。戦争の大義名分と同じように。世間の耳目を糊塗する言動は、暴力にまぶされたシュガーパウダーだった。そして正しい言葉が暴力性を先鋭化してゆくのだ。正義によって狂信が増幅されることを見逃してはなるまい。

 言葉の限界は言葉の弱みでもある。整合性のある言葉は脳を支配する。考え込んでしまえば負けだ。即座に応答することができなければ、脳はコントロールされる。広告・占い・宗教・政治においても同じ手法がまかり通っている。

 アティカスは知性と直観を兼ね備えた人物だった。婦人科の女性医師が彼に警護を依頼した。

 この職業のいやなところをいわざるをえない。冷徹なる真実の部分。「あなたを完璧に守ることはできない。だれにもできない。だれかがあなたを本気で殺したいと願い、そいつらに忍耐心と半分でも脳味噌があり、多少の金があったなら、その仕事をやりとげるだろう。10年かかるかもしれないが、やりとげるはずだ。どんなに徹底的にセキュリティに気をつけても、どれだけおおぜいのボディーガードがいても、どんなに金をかけても、防ぐことはできない。カナダのユーコン準州みたいな僻地(へきち)に引っ越しても、本気であなたを殺したいと望んでいるなら、追ってきて、なんとか方法を見つけるはずだ。絶対の保護みたいなものはありえない」

 プロフェッショナルはできることとできないことを弁えている。そしてできることについては知り尽くしている。

 どんな世界にも原理主義者は存在する。彼らは原理に人間を合わせる。プロクルステスのベッドのように。原理主義は人間を手段化する。原理でがんじがらめにすれば自爆テロも可能となる。

 トリックスターとして描かれているブリジットの人物造形も巧みだ。減らず口を叩く警官もグッド。ただ、地味な展開と受け止めるか、リアリティを追求しているとするかで好みが分かれそうだ。マイクル・Z・リューインが好きな人にはオススメできる。

 タイトルは「守護者」となっているが、文中に「灯台守(キーパー)」と出てくる。きっと「人間性の光」を象徴したのだろう。「神の光」ではなく。

 キリスト教原理主義者は生まれてくる子供達を守るために殺人をも正当化する。歴史を振り返ってもキリスト教の正義は血と暴力に満ちている。彼らは「神の怒り」を実行する者と化す。だからこそアメリカ先住民を殺戮し、黒人を奴隷にした上で虫けらみたいに殺害できたのだろう。

 世界の宗教人口の比率は、キリスト教35%、イスラム教19%、ヒンドゥー教14%、仏教6%となっている。差別的な宗教が世界にはびこっている内は平和が訪れることはないだろう。


9歳少女に中絶手術、医師を大司教が「破門」…ブラジル
映画『ジーザス・キャンプ アメリカを動かすキリスト教原理主義』
フェミニズムへのしなやかな眼差し/『フランス版 愛の公開状 妻に捧げる十九章』ジョルジュ・ヴォランスキー
無神論者/『世界の[宗教と戦争]講座 生き方の原理が異なると、なぜ争いを生むのか』井沢元彦

2010-10-16

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン


『複雑系 科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち』M・ミッチェル・ワールドロップ
『新ネットワーク思考 世界のしくみを読み解く』アルバート=ラズロ・バラバシ
『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』マーク・ブキャナン
『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』マルコム・グラッドウェル

 ・歴史を貫く物理法則
 ・歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?
 ・政治とは破滅と嫌悪との間の選択
 ・地震はまとまって起こる

必読書リスト その三

 歴史とは物語である。より多くの人々に影響を与えた出来事を恣意的につなぎ、現代へと至る道筋を解き明かす記述である。で、誰が書くのか? それが問題だ。

 歴史を綴るのは権力者の役目である。それは権力を正当化する目的で行われる。だから都合の悪い事柄は隠蔽(いんぺい)されてしまう。削除、割愛、塗りつぶし……。歴史は常に修正され、書き換えられる。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 果たして歴史が人を生むのか、それとも人が歴史をつくるのか? このテーマに複雑系をもって立ち向かったのが本書である。

 では第一次世界大戦を見てみよう。

 1914年6月28日午前11時、サラエボ。夏のよく晴れた日だった。二人の乗客を乗せた一台の車の運転手が、間違った角で曲った。車は期せずして大通りを離れ、抜け道のない路地で止まった。混雑した埃(ほこり)まみれの通りを走っているときには、それはよくある間違いだった。しかし、この日この運転手が犯した間違いは、何億という人々の命を奪い、そして世界の歴史を大きく変えることとなる。
 その車は、ボスニアに住む19歳のセルビア人学生、ガブリロ・プリンツィプの真正面で止まった。セルビア人テロリスト集団「ブラック・ハンド」の一員だったプリンツィプは、自分の身に起こった幸運を信じることができなかった。彼は歩を進め、車に近づいた。そしてポケットから小さな拳銃を取り出し、狙いを定めた。そして引き金を二度引いた。それから30分経たないうちに、車に乗っていたオーストリア=ハンガリー帝国の皇子フランツ・フェルディナンドと、その妻ソフィーは死んだ。それから数時間のうちに、ヨーロッパの政治地図は崩壊しはじめた。

【『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン:水谷淳〈みずたに・じゅん〉訳(ハヤカワ文庫、2009年/早川書房、2003年『歴史の方程式 科学は大事件を予知できるか』改題)以下同】

 一つの偶然と別の偶然とが出合って悲劇に至る。こうして第一次世界大戦が勃発する。1発の銃弾が1000万人の戦死者と800万人の行方不明者を生んだ。

 物事の因果関係はいつでも好き勝手に決められている。不幸や不運が続くとその原因を名前の画数や家の方角に求める人もいる。あるいは日頃の行いや何かの祟(たた)り、はたまた天罰・仏罰・神の怒り。

人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 第一次世界大戦を起こしたのは運転手と考えることも可能だ。あるいは皇子のサラエボ行きを決定した人物や学生テロリストの両親とも考えられるし、サラエボの道路事情によるものだったのかもしれない。

「歴史とは偉人たちの伝記である」と初めて言ったのは、イギリスの有名な歴史学者トーマス・カーライルである。そのように考える歴史学者にとって、第二次世界大戦を引き起こしたのはアドルフ・ヒトラーであり、冷戦を終わらせたのはミハイル・ゴルバチョフであり、インドの独立を勝ち取ったのはマハトマ・ガンジーである。これが、歴史の「偉人理論」だ。この考え方は、特別な人間は歴史の本流の外に位置し、「その偉大さの力で」自分の意志を歴史に刻みこむ、というものである。
 このような歴史解釈の方法は、過去をある意味単純にとらえているために、確かに説得力をもっている。もしヒトラーの邪悪さが第二次世界大戦の根本原因だというなら、我々はなぜそれが起こり、誰に責任を押しつけたらよいかを知ることができる。もし誰かがヒトラーを赤ん坊のうちに絞め殺していたとしたら、戦争は起こらず、数え切れない命が救われていたかもしれない。このような見方を取れば、歴史は単純なものであり、歴史学者は、何人かの主役たちの行動を追いかけ、他のことを無視してしまえばいいことになる。
 しかし多くの歴史学者はそうは考えておらず、このような考え方は歴史の動きを異様な形で模倣(もほう)したにすぎないととらえている。アクトン卿は1863年に次のように記している。「歴史に対する見方のなかで、個人の性格に対する興味以上に、誤りと偏見を生み出すものはない」。カーもまた、歴史の「偉人理論」を、「子供じみたもの」で「歴史に対する施策の初歩的段階」に特徴的なものだとして斥けている。

 共産主義をカール・マルクスの「創作物」と決めつけてしまうのは、その起源と特徴を分析することより安易であり、ボルシェビキ革命の原因をニコライ2世の愚かさやダッチメタルに帰してしまうことは、その深遠な社会的原因を探ることより安易である。そして今世紀の二度の大戦をウィルヘルム2世やヒトラーの個人的邪悪さの結果としてしまうのは、その原因を国際関係システムの根深い崩壊に求めるよりも安易なことである。

 カーは、歴史において真に重要な力は社会的な動きの力であり、たとえそれが個人によって引き起こされたものであっても、それが大勢の人間を巻き込むからこそ重要なのだと考えていた。彼は、「歴史はかなりの程度、数の問題だ」と結論づけている。

 歴史がパーソナルな要素に還元できるとすれば、その他大勢の人類はビリヤードの球である。こうして歴史はビリヤード台の上に収まる──わけがない(笑)。

 1+1は2であるが、3になることだってある。例えば1.4+1.3がそうだ。幸福+不幸=ゼロではないし、太陽+ブラックホール=二つの星とはならない。多分。

 このような事実から歴史学者がどんな教訓を引き出したとしても、その個人にとっての意味はかなりあいまいだ。世界が臨界状態のような形に組織化されているとしたら、どんなに小さな力でも恐ろしい影響を与えられるからだ。我々の社会や文化のネットワークでは、孤立した行為というものは存在しえない。我々の世界は、わずかな行為でさえ大きく増幅され記憶されるような形に、(我々によってではなく)自然の力によって設計されているからだ。すると、個人が力をもったとしても、その力の性質は、個人の力の及ばない現実の状況に左右されることになる。もし個人個人の行動が最終的に大きな結果を及ぼすとしたら、それらの結果はほぼ完全に予測不可能なものとなるはずだ。

 臨界状態とは高圧状態における沸点のことで、ここではエネルギーが貯まってバランスが崩れそうな情況を表している。砂粒を一つひとつ積み上げてゆくと、どこかで雪崩(なだれ)現象が起こる。雪崩が起こる一つ手前が臨界状態だ。この実験についても本書で紹介されている。

 つまりこうだ。多くの人々に蓄えられたエネルギーが、一つの出来事をきっかけにして特定の方向へ社会が傾く。これが歴史の正体だ。山火事は火だけでは起こらない。乾燥した空気と風の為せる業(わざ)でもある。

 熱した天ぷら油は発火する可能性もあるし、冷める可能性もある。次のステップを決めるのは熱量なのだ。

 とすると19歳のテロリストが不在であっても第一次世界大戦は起こっていたであろうし、大量虐殺は一人の首謀者が行ったものではなく、大衆の怒りや暴力性に起因したものと考えられる。

 すべての歴史的事柄に対する「説明」は、必ずそれが起こった【後で】なされるものだということは、心に留めておく必要がある。

 人生における選択行為も全く同様で、トーマス・ギロビッチが心理的メカニズムを解き明かしている。

 宇宙は量子ゆらぎから生まれた。そして自由意志の正体は脳神経の電気信号のゆらぎであるとされている。物理的存在は超ひもの振動=ゆらぎによる現象なのだ。

 ゆらぎが方向性を形成すると世界は変わる。人類の歴史は戦争と平和の間でゆらいでいる。



「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一
コジェーヴ「語られたり書かれたりした記憶なしでは実在的歴史はない」
歴史とは何か/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
歴史とは「文体(スタイル)の積畳である」/『漢字がつくった東アジア』石川九楊
エントロピーを解明したボルツマン/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー
歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘
読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
若きパルチザンからの鮮烈なメッセージ/『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
無意味と有意味/『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド
『ヒトラーの経済政策 世界恐慌からの奇跡的な復興』武田知弘

2010-09-07

父の権威、主人の権威、指導者の権威、裁判官の権威/『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ


『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス

 ・父の権威、主人の権威、指導者の権威、裁判官の権威

『マインド・コントロール』岡田尊司

権威を知るための書籍
必読書リスト その五

 学問の本質は「謎を解く」ことにある。「なぜ世界はこうなっているのか?」という疑問に対し、より多くの人々が納得のゆく“新しい物語”を示すことこそ学問の王道であろう。もっと具体的にいえば、脳内の情報空間がすっきりと整理され、より合理的になることを意味する。

 ロジックの力業(ちからわざ)が凄い。「権威という犯人を追いつめる本格推理小説」として読むことも可能だ。

 スタンレー・ミルグラムの『服従の心理』を読んだ人は必読である。本書は政治哲学なので、より抽象度が高い。一読しただけで自分が天才になったかのような錯覚を与えてくれる(笑)。

 フランソワ・レテの緒言が長文で、尚かつ本文中に山ほど脚注があるが、いずれも功を奏していて、思索のアクセントになっている。

 権威は必ず服従を伴い、つねに服従を要求する。にもかかわらず、それは強制や説得とは相容れない。なぜなら、強制と説得はともに権威を無用にするからである。世界史におけるこの特異な時代状況のもとで、権威は他と明確に区別された独自のものとなる。(「緒言」フランソワ・レテ)

【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ:今村真介訳(法政大学出版局、2010年)以下同】

 ポイントその一──権威(オーソリティ)は権力(パワー)ではない。相手が自発的に従うのが権威である。

 本書は1942年にドイツ占領下で書き上げられたという。コジェーヴはロシアで生まれ、ドイツ、フランスへと移住している。一方、ミルグラムがアイヒマン実験を行ったのは1963年で、『服従の心理』を著したのが1974年のこと。

 奇妙なことだが、権威の問題と概念はこまでほとんど研究されてこなかった。権威の移転や権威の生成に関する諸問題ばかりが人々の関心を集めてきたが、この現象の本質自体が関心を引くことは稀であった。にもかかわらず、権威としての権威が何であるかを知ることなしに政治権力や国家の構造そのものを論じることは明らかに不可能である。したがって、暫定的にではあれ権威の概念の研究は不可欠であり、この研究は国家の問題の研究全体に先行しなくてはならない。

 ミルグラムは人間心理に光を当てたが、コジェーヴが見つめていたのは国家であった。要は国家というシステムがどのようにプログラミングされているかを明らかにしようと試みたのだ。そのアルゴリズムとして権威が生成されているのだろう。

 まるで詰め将棋のようなスリルに満ちているのだが、やはり白眉は権威を四つのタイプに腑分けした箇所だ──

 さて、我々は権威の【四つのタイプ】(単純で、純粋または要素的なタイプ)を区別することができる。
 α.子供に対する父(または両親一般)の権威。(【ヴァリアント】――年齢の大きい隔たりから生まれる権威――青年に対する老人の権威。伝統と伝統を保持する者たちの権威。死者の権威――遺言。自分の作品に対する「著者」の権威。等々)。

 死者の権威に関する注記。一般に、人間は生前よりも死後においてより多くの権威をもつ。遺言は、まだ存命中の人間が与える命令よりも大きい権威をもっている。約束は、それを交わした相手の死後にいっそう拘束力を発揮する。死んだ父の命令は、父が生前に与えた命令よりもずっとよく尊重される。等々。その理由は、死者に対しては【対抗する】ことが実質的に不可能だからである。したがって、それは定義からして権威をもつ。だが、対抗行為の【不可能性】は、死者の権威に【神的な】(聖なる)正確を与える。死者による権威の行使は、死者にとってはいかなる【危険】もない。ここに、この権威の強みと弱みがある。要するに、それは【神的】権威の特殊なケースである。

 β.奴隷に対する主人の権威。(【ヴァリアント】――平民に対する貴族の権威。民間人に対する軍人の権威。女性に対する男性の権威。敗者に対する勝者の権威。等々。)

 勝者の権威に関する注記。勝者の権威が存在するためには、勝者がまさに勝者であることが敗者によって「承認」されなくてはならない。すなわち、敗者が自分の敗北を「認め」なくてはならない。これは自明である。たとえば、「【戦場では負けなかった】」というドイツのスローガンを見よ。このスローガンによって、1918年の勝者たちの権威はまだ生まれかけのときに破壊されてしまった。この勝者たちは、その勝利をドイツに「承認」させることに失敗したので、いかなる権威ももたなかったのである。したがって、彼らは実力行使に訴えざるをえなかった――その結果は周知の通りである。

 γ.同輩たちに対する指導者(原語略)の権威。(【ヴァリアント】――下級者――従業員、兵士、等々――に対する上級者――現場責任者、将校、等々――の権威。生徒に対する教師の権威。学者、技術者、等々の権威。占い師、預言者、等々の権威。)

 将校の権威に関する注記。この権威は、【混合的】権威の好例である。将校は、兵士に対して行使する【指揮官】の特殊な権威に加えて、およそ軍人が民間人に対してもつ【主人】の権威をも帯びる。また、兵士に対しては、将校は一般に【父】の権威ももっている。最後に、将校は【裁判官】の権威をも体現する。これについてはすぐ次に挙げられている。

 δ.裁判官の権威。(【ヴァリアント】――調停者の権威。監督官、検閲官、等々の権威。聴罪司祭の権威。正義の人または誠実な人の権威。等々。)

 聴罪司祭の権威に関する注記。これまた、【混合的】権威の好例である。聴罪司祭は、【裁判官】の権威に加えて、【父】の権威はもとより、「良心の導き手」の資格において【指導者】の権威も帯びる。だが、彼には【主人】の権威が欠けている。
 正義の人に関する注記。実をいえば、これは裁判官の権威の最も純粋なケースである。なぜなら、厳密な意味での裁判官は、裁判官としての権威――自然発生的な権威――に加えて、役人としての権威――派生的な権威――をも備えているからである。

 そしてここからコジェーヴは「ありうべき全ての権威タイプの完全一覧表」64パターンを示している。燃えたぎる知性は、誰人も知らぬ山頂を目指して突き進む。

 これを権力とは別の意味での「階級圧力」と考えれば、社会のパターンとして当てはめることも可能かもしれない。家族的関係、社会的関係、労働的関係・コミュニティ的関係など。裁判官の権威は神に由来していると思われるが、その断罪的行為は最も強靭な権威といってよいだろう。人々が村八分に従うのも、この権威の強大さを物語っている。主人の権威を欠いていながら、人々をかしずかせるところに裁判官の権威がもつ断罪の力が窺えよう。損得を超越しているのだ。

 権威が現に存在するのは、それが「承認」されているかぎりにおいてのみである。つまり、「承認」されているかぎり、権威は【現に存在する】。

 人々の「承認」が権威を存在させるとすれば、時代によって権威は移り変わるものと考えられる。一人ひとりが賢明になった暁には、より純粋な権威が確立されることだろう。それが望ましい国家像なのか、あるいは恐怖社会の到来なのかは今のところ判断がつかない。

 人間が社会化せざるを得ない以上、権威を中心にヒエラルキーが構築されることが大前提となる。だが、閉ざされた専門性の世界における権威は、そのまま権力化することだろう。とすると、異種格闘技的な色彩を帯びた権威が望ましいように思う。例えば政治的見識の優れた宗教家や、社会問題を鋭く論じる科学者など。いま流行りの言葉でいえば「越境的」ということになろうか。



物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
忠誠心がもたらす宗教の暗い側面/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

2010-07-15

自由のない国と信頼のない家族/『グラーグ57』トム・ロブ・スミス


『チャイルド44』トム・ロブ・スミス
・『子供たちは森に消えた』ロバート・カレン

・自由のない国と信頼のない家族

『グラーグ ソ連集中収容所の歴史』アン・アプロボーム
・『エージェント6』トム・ロブ・スミス
・『偽りの楽園』トム・ロブ・スミス

 チト苦しい。ストーリーが破天荒すぎて、あちこちに無理がある。「初めに事件ありき」といった印象を受けた。

チャイルド44』の続編である。それだけで期待は膨らむ。異様なまでに。過度な期待はおのずから厳しい眼差しとなる。傑作の後の駄作を許さないのは当然だ。

 それでも「読ませる」のだから、トム・ロブ・スミスの筆力は凄い。

 自殺も自殺未遂も鬱病(うつびょう)も――人生を終わらせたいと口に出すことさえ――国家に対する誹謗(ひぼう)中傷と見なされる。より高度に発達した社会には自殺もまた存在しえないものなのだ。殺人同様。

【『グラーグ57』トム・ロブ・スミス:田口俊樹訳(新潮文庫、2009年)以下同】

 ソ連は何も変わっていなかった。理想と現実とは懸け離れ、その距離を嘘で埋めていた。社会主義国はバラ色でなくてはならない。たとえ現実が灰色であったとしても、人々は「バラ色です」と答えることを強いられた。

 前作同様、家族がモチーフになっている。レオ・デミドフは二人姉妹の子を養子に迎えたが、姉のゾーヤはレオを憎んでいた。

 ゾーヤはいまだにレオを保護者と認めていなかった。両親を死に追いやったレオを今でも赦(ゆる)していなかった。レオのほうも自分を父と呼ぶことはなかった。

 レオがゾーヤの両親を殺したわけではなかったが、幼子の目にはそのように映った。自由のない国と信頼のない家族。二重の苦しみをレオはどう克服するのかが読みどころだ。

 突然ソ連に変化が生じた。フルシチョフがスターリンを批判したのだ。

 彼らが今耳にしているのは国家を批判することばだった。スターリンを批判することばだった。ラーザリはいまだかつてこのような形でこのようなことばが語られるのを聞いたことがなかった。恋人同士のあいだでさえ囁かれることのないことばだった。寝棚の囚人同士が囁き合うことさえ。そんなことばが彼らの指導者の口から語られたのだ。それも党大会で報告されたのだ。それらは書き取られ、印刷され、装丁され、こうしてこの国のさいはての地にまでたどり着いた。

 この収容所が「グラーグ57」だった。ここから荒唐無稽な筋運びとなる。既に家出をしたゾーヤは悪党の一味に加わり、ハンガリー動乱の扇動を行うといったもの。

 レオは前作と比べると明らかに老いが目立っている。本書ではレオという主人公の人物造形が凡人と超人の間で揺れており、それが物語を中途半端なものにしている。ゾーヤの落ちぶれようも救いがなく、全体のトーンが暗く明暗のアクセントを欠いている。

 このシリーズは三部作で完結する予定らしいが、次の作品はじっくりと時間をかけて再び傑作をものにして欲しい。

2010-07-07

ミステリ界に光を放つ超大型新星/『チャイルド44』トム・ロブ・スミス


 ・ミステリ界に光を放つ超大型新星

『子供たちは森に消えた』ロバート・カレン
『グラーグ57』トム・ロブ・スミス
・『エージェント6』トム・ロブ・スミス
・『偽りの楽園』トム・ロブ・スミス

ミステリ&SF

 老練なプロットと引き締まった文体から、トム・ロブ・スミスが20代の若者であることを想像するのは難しい。作品の舞台となったロシアでは発売禁止になっている。つまり、ロシアの現実が描かれているものと考えてよいだろう。

 一人の男の再生物語であり、男の半生はスターリン体制下のソ連とピッタリ重なっていた。

 主人公のレオ・デミドフは国家保安省(※KGBの前身)の優秀な捜査官だった。それは、彼が「人民の敵」であることを意味していた。逮捕した相手からこんなことを言われたこともあった――

「私はこの国を憎んでなどいないよ。憎んでいるのはむしろきみのほうだ。この国の人々を憎んでいるのは。そうでなければどうしてこんなに多くの人たちを逮捕したりなどできる?」

【『チャイルド44』トム・ロブ・スミス:田口俊樹訳(新潮文庫、2008年)以下同】

 異常な世界で評価されるためにはロボットと化す他なかった。それにしても旧ソ連の実態は酷い。同僚はありとあらゆる手段を駆使して足を引っ張り、賞罰が明らかでなければ怠け放題だ。階級闘争が階級内闘争を生み、無限の連鎖となって社会の至るところにストレスを与えていた。

 ある事件をきっかけにして、レオ・デミドフは体制に疑問を抱くようになる。健全な懐疑は真理の扉を開く。ソ連は寸足らずの衣服を国民に与え、「手足を縮めるよう」命令を下していた。寒い国だから手足を縮めるのはお手の物だ。

 国は詩人を必要とはしていない。哲学者も宗教家も必要としていない。国が必要としているのは、寸法と量が計れる生産性。ストップウォッチで計測できる成功だ。

 有罪となって死ぬことはもう避けられない。この社会のシステムはどんな逸脱も誤謬(ごびゅう)も認めていないからだ。見せかけの効率。それはここでは真実よりはるかに重要なものなのだ。

 唯物論は人間をモノとして扱う。マルクスは国家を暴力的に転覆することを高らかに宣言した。思想はどの思想も正義のマントを羽織っている。思想が暴力を肯定すると、人間の情動にブレーキが掛らなくなる。ソ連では至るところで拷問が行われた。ある時は容疑者に対して、そしてまたある時は罪なき市民に対して。共産主義は国民を恐怖で支配する体制だった。

 レオは同僚の讒言(ざんげん)によって田舎の警察署へ左遷させられる。警察署の上司は彼を煙たがった。長年連れ添った妻との関係も上手くいっていなかった。そんなある日のこと、幼児の虐殺死体が発見される。レオは一人で調査を開始した。同じ手口の犯行が別の場所でも行われていた。間違いなく連続猟奇犯の仕業だった。

 自由のない国で、しかも犯罪の事実を隠蔽(いんぺい)する社会主義国で、どのようにして正義を実現するか――これが本書のモチーフになっている。

 誰かのために立ち上がることは、取りも直さずその誰かの運命の裏地に自分の運命を縫いつけることだ。

 立ち上がれば、もう座り直すことはできなかった。あとは前に進むか、殺されるかという選択肢しか残されていない。レオは立ち上がった。殺された44人の子供達の家族のために。

 冒頭のエピソードがラストで花火のように爆発する。並大抵の衝撃ではない。登場人物は皆が皆、ソ連という政治システムの犠牲者だったのだ。トム・ロブ・スミスはシステム化された暴力を描き出すことで、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』的なミステリを創出している。

 ロバート・ラドラム亡き後のミステリ界を照らす、超大型新星の登場だ。