2015-03-30

アルゴリズムとは/『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ


『宇宙を復号(デコード)する 量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』チャールズ・サイフェ

 ・サインとシンボル
 ・アルゴリズムとは

『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド
情報とアルゴリズム

 アルゴリズムは、ひとつの有効な手続き、すなわち、有限個の別個のステップで何かをおこなうすべである。

【『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ:林大〈はやし・まさる〉訳(早川書房、2001年/ハヤカワ文庫、2012年)以下同】

 古代の人類を思い浮かべてみよう。狩り、農耕、石器(道具)の作り方などにアルゴリズムを見て取れる。学びとは「アルゴリズムの共有」を意味したと考えてもよさそうだ。デイヴィッド・バーリンスキは古代中国に始まる官僚を「複雑なアルゴリズムを実行してきた社会組織以外の何物でもない」と指摘する。戦争やスポーツにおける戦略もアルゴリズムである。経済が上手くゆかないのはアルゴリズムが見出されていないためか。

 今世紀になってはじめて、アルゴリズムという概念の全貌が意識されるようになった。この仕事は、60年以上前、4人の数理論理学者によっておこなわれた。その4人とは、繊細で謎めいたクルト・ゲーデル、教会どころか大聖堂にも劣らずがっしりとして堂々としているアロンゾ・チャーチ、モリス・ラフェル・コーエンと同じくニューヨーク市立大学に葬られているエミル・ポスト、そして、もちろん、20世紀の後半に不安に満ちた目をさまよわせているかのような、風変わりでまったく独創的なA・M・テューリングだ。

 アインシュタインの相対性理論とゲーデルの不完全性定理は世界の見方を完全に引っくり返した。哲学は過去の遺物と化した。キリスト教も色褪せた。二つの理論は現代における常識の最上位に位置する。絶対なるものは崩壊した。

 ドイツはユダヤ人を迫害することで知性を流出して第二次世界大戦に敗れた。その知性を受け入れたアメリカが勝利を収めたのは当然であった。日本も当時、原爆製造に着手していたがウランがなかった。ゼロ戦をつくるほどの技術力はあったものの、全体観に立つ指導者がいなかった。


 解読不可能と思われていたエニグマの息の根を止めたのがチューリングだった。大戦の中で科学は次々と大輪の花を咲かせた。これが歴史の真実である。戦争に勝利したアメリカはドイツから技術や人を盗み取って、戦後の発展を遂げた(『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』菅原出)。

ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)ノイマン・ゲーデル・チューリング (筑摩選書)

『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

2015-03-28

高橋昌一郎、デイヴィッド・マレル、下田ひとみ、他


 2冊挫折、3冊読了。

ケガレ』波平恵美子〈なみひら・えみこ〉(東京堂出版、1985年/講談社学術文庫、2009年)/「穢(けが)れ」(不浄)思想についてまとめて読もうと思ったのだが、モチベーション低下により挫ける。穢れ→差別→いじめ→進化科学という順序で一応考えてはいたのだが。書籍のピックアップはしてあるので、やる気が出たら再挑戦する。

仁義なき世界経済の不都合な真実』三橋貴明、渡邉哲也(ビジネス社、2014年)/軽い。二人は共に元2ちゃんねらーである。さしずめ旧交を温めたといったところか。渡邉の著作との重複が目立つ。

 23冊目『勝海舟とキリスト教』下田ひとみ〈しもだ・ひとみ〉(作品社、2010年)/こいつあ、いかさまだ。勝海舟ならきっとそう言うに違いない。言葉づかいから察するに下田はクリスチャンだろう。クリスチャンが書いたキリスト教礼賛本を、よくもまあ作品社が刊行したものだ。『勝海舟の嫁 クララの明治日記』(上下)の解説本みたいな代物で、73ページという小品となっている。息子の嫁に白人をもらうくらいだから、当然、勝はキリスト教に対して一定の理解はあったことだろう。終盤ではキリスト教への傾倒ぶりを露骨に紹介し、あたかもクリスチャンになったかのような脚色が施されている。典型的な宗教プロパガンダ作品だ。

 24冊目『ランボー3/怒りのアフガン』デイヴィッド・マレル:沢川進訳(ハヤカワ文庫、1988年)/再読。読まなけりゃよかった。確かに巧い。でもなー、トラウトマン大佐にここまで尽くすこたあないだろーよ。ランボーの動機が見えず、漫画のような安っぽい展開となっている。ランボーはアフガニスタン人と一緒にソ連軍と戦うわけだが、さすがのマレルも冷戦崩壊後、アメリカがアフガニスタンと戦争をすることは予見できなかったようだ。イスラム教の描き方も実に巧い。

 25冊目『ノイマン・ゲーデル・チューリング』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(筑摩選書、2014年)/つぶやけば必ず返事をくれる高橋先生の新著。面白かった。ただし3本の論文は飛ばした(笑)。天才はまったく新たな分野を創造し、時代を変える。チューリングの暗殺説は知らなかった。高橋の限界シリーズを読んだ人は必読のこと。

2015-03-26

「何が戦だ」/『神無き月十番目の夜』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一

 ・「サンリン」という聖なる場所
 ・「何が戦だ」

『始祖鳥記』飯嶋和一
『黄金旅風』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一
『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

 そのコウが、立ちすくんだまま藤九郎を見ていた。表情を強張らせてはいたが、コウもまたそんな場所で藤九郎に会おうとは思ってもみなかったらしく、ただ戸惑っているのがわかった。
「おれがお前の犬を何匹殺(あや)めたか知っているか」
 藤九郎がいきなりそんなことを言った。
「……いいえ」
 常日頃から心の内で思い続けていたことを、当の藤九郎の口からいきなり聞かされ、思わずそう答えた。
「十と四匹だ。お前が子犬の時から育てた犬を、十四匹もこの手で殺(あや)めた……。
 彦七覚えてるか、宿(やど)の」
「この間の戦で亡くなられたとか……」
「矢を二本、鉄砲弾(だま)を二発もくらわされて……。六さんも喜八っつあんも、亡骸(なきがら)どころか、形見の品さえ何一つ持ち帰れなんだ。
 それに、お前の犬たち……。ここに葬られている犬たちは、何のために死んだんだ? 馬射(うまゆみ)の犬追い物など、単なる遊戯。無益な殺生以外の何でもない。
 何が戦だ。佐竹の御大将も、月居の騎馬頭(がしら)も、誰も信じられん。そもそも城にこもって戦うのは、敵を引きつけておいて、後詰(ごづめ)の援軍がその背後から襲うのを待つためだ。ところが後詰など初めから来やしなかった。彦七や六郎太や喜八は、何のために死んだんだ。あんな須賀川くんだりまで出かけて……。騎馬頭も須賀川城があんな内情だと知っていてもよさそうなものだ。いや、知っていたのかもしれん。城を守らねばならないはずの、二階堂の重臣たちが伊達と内通していた。難儀したのは須賀川城下の民ばかりだ。しまいには、城にたてこもっていた守谷何とかという二階堂の老臣が須賀川の町家に火を放った。
 あんな城など守るに値しなかった。初めから落とされるに決まっていたようなものだ。それを何も知らず、百八十もの月居軍騎馬、足軽が、須賀川までわざわざ出向き、むざむざ討(う)たれた。……何が戦だ。あんなことは畜生もやらん」
 家の中でさえ、とても口にできないことを、なぜかコウには平気で話すことができた。

【『神無き月十番目の夜』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1997年/小学館文庫、2005年)】

 文章の香りが失われるため数字を漢字表記にした。無為な戦がやがて小生瀬(こなませ)の農民一揆につながる。経済の本質はいつの時代も変わらない。戦争をするためには、まず戦費が必要となる。そのために増税が行われ、民の利益が収奪される。

 藤九郎とコウは幼馴染みであった。身分の違いから10歳を越えたあたりから疎遠になっていた。コウは自分が育てた犬を殺す武士に憎悪を抱いていた。だが藤九郎の話に耳を傾け、武士もまた不憫(ふびん)な存在であることを初めて知った。

 実は先日再読した『ランボー/怒りの脱出』に登場するベトナム人ヒロインの名前も「コー」であった。不思議な感慨がひたひたと押し寄せる。

 私はかつて平和主義者であったが、プーラン・デヴィの『女盗賊プーラン』を読んで自分の甘さを思い知らされた。暴力が避けられない時代にあっては自己防衛が必要となる。それ以降、私は武力を部分的に容認したスーザン・ソンタグよりも右側に足位置を定めた。

 環境文明史的に捉えると寒冷期に人類は戦争を行う。作物が取れやすい温暖な地へと人々が移動するためだろう。いずれにせよ自然環境であれ国際環境であれ一定のプレッシャーがのしかかった時に人類の暴力衝動は現実化する。政治家が賢明であれば勝てる戦争しかしないはずだ。現代社会においては経済もまた戦争の様相を帯びている。

 クリントン大統領が「冷戦は終わった。真の勝者はドイツと日本だ」と語った。そして存在価値が低下したCIAは日本をターゲットに経済戦争を仕掛けた。これがバブル崩壊のシナリオだった。自公政権は国富をアメリカに奪われ続けた。その期間は20年以上にも及んだ。民主党政権もこの状況をひっくり返すことができなかった。

 愚かな指導者は国民から財はおろか命まで奪う。消費税増税もその一環である。奪われることに鈍感な国民は必ず政治家の選択を誤る。藤九郎が吐き捨てるように語った「何が戦だ」の言葉の重みを思う。

 

「サンリン」という聖なる場所/『神無き月十番目の夜』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一

 ・「サンリン」という聖なる場所
 ・「何が戦だ」

『始祖鳥記』飯嶋和一
『黄金旅風』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一
『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

 それにしても一村亡所とはいったい何事がこの小生瀬で起こったものか。地方役人を殺生したとか竹右衛門が言っていたが、そんなことは想像もつかないことだった。
 嘉衛門は岡田竹右衛門から依頼をうけた、小生瀬の人々が隠れ潜んだはずの場所に心当たりがないわけではなかった。嘉衛門の住む比藤村がそうであるように、地侍を中心とした一揆衆の自治の名残りをとどめている地には、「サンリン」あるいは「カノハタ」などと呼ぶ奇妙な空間がある。「サンリン」は文字どおり山林であったり、池や淵を含む周辺の一帯だったりするのだが、そこは古来から聖なる場所とされ、そこで不浄をはたらくことは何人にも許されない。反面、たとえ罪を犯した者がその「サンリン」に逃げ込んだ場合でも、その地に捕り方が踏み込んでその者をひっ捕らえたり、成敗したりは一切許されない。領主であってもその地には簡単には手出しできない。そういう奇妙な不文律に支配された場所がある。嘉衛門の心当たりは、このすぐ近くに、「サンリン」があるはずだというところからきていた。一日探索してみても、あるはずの残り300を超える屍が見当たらないということは、それらの者たちが隠れ潜んで討たれた場所があるはずだった。

【『神無き月十番目の夜』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1997年/小学館文庫、2005年)】

 刊行直後に買ったのだが「読むのは後回し」と決めていた。もちろん怖かったからだ。江戸初頭に記された古文書の記録から飯嶋和一は真実を炙(あぶ)り出す。300人にも及ぶ老若男女が殺戮された事件である。

「好きな小説家は?」と訊かれれば、私は迷うことなく宮城谷昌光と飯嶋和一の名を挙げる。続いて福永武彦。

 私は歴史が浅い北海道で育ったこともあり、「サンリン」(山林)や「カノハタ」(火の畑)なる言葉は初耳であった。「聖なる場所」といえばスピリチュアルだが、一種の緩衝地帯であったのだろう。法律が100%完璧ということはあり得ない。とすれば、こうした場所は人々の智慧から生まれたものと考えられる。

 現代社会におけるいじめ、パワハラ、ストーカー行為には逃げ場がない。だからあっさりと殺したり殺されたりするのだろう。そして移動のスピードがコミュニティを崩壊させた。死んだコミュニティでは衆人環視が機能しない。「人の目」こそが最初の犯罪抑止となる。人の目を恐れなければ欲望は自律的に走り出す。

 やはり「うるさい近所のおじさん、おばさん」が必要なのだ。コミュニティの崩壊は、子供たちを見つめ、そして見守る眼差しが社会から失われたことを意味する。

 民俗学的価値があると思い、この箇所を書き出しておく。

 尚、「世界大百科事典 第2版」にはこうある。

 山と林,樹木の多く生えている山。山林に入り,不自由を耐えて仏道の修行に励むことを〈山林斗藪(とそう)〉といったが,山林は聖地であり,アジールとしての性格を持っていた。平安末期から中世を通じて,領主の非法,横暴に抵抗して逃散(ちようさん)する百姓たちは,〈山林に交わる〉〈山野に交わる〉といって実際に山林にこもっており,山林は逃亡する下人・所従の駆け入る場でもあった。戦国時代になると〈延命寺へ山林申候〉〈悪党以下,山林と号して走り入る〉〈女山林〉などのように,〈山林〉という語それ自体が,アジール的な寺院へ駆けこむ行為を意味するようになるとともに,百姓たちが家や田畠に篠(ささ)を懸け,そこを〈山林不入の地と号し〉,領主が立ち入れないようにしたことから見て,アジールとしての性格を持つ寺院や聖域そのものも〈山林〉といわれたのである。

2015-03-25

横三角のコード


 これらを辞書登録すればいい。よみは「みぎさんかく」などで差別化する。

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