2014-05-15

「物質-情報当量」/『リサイクル幻想』武田邦彦


合理的思考の教科書
・「物質-情報当量」

『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司

 ・情報とアルゴリズム

 電話が発明されてからすでに100年以上経っていますが、「電話帳と電話線と電話交換機」という「物質」の組合せには、それまでの通信手段と比べれば、膨大な「情報量」が含まれています。電話という「物質」が伝えることのできる情報量と、のろしや飛脚という「物質」のそれとはけた違いで、伝達の効率という点で、電話という「物質」は「情報」のかたまりといっていいわけです。仮に、電話で伝えるのと同量の情報をのろしや飛脚で伝えるとしたら、どれだけの火を起こし、どれだけの人間が往復しなければならないか、想像してみるといいでしょう。
 つまり、人間の活動を支えるものは、決して「物質とエネルギー」だけではなく、情報も、それらの活動を数倍にする価値を付与しているということがわかります。これを「物質-情報当量」と呼びます。「当量」とは、質的に異なってはいるけれども人間の活動に同じ効果を与えるものを、同一尺度で比較するための単位です。

【『リサイクル幻想』武田邦彦(文春新書、2000年)以下同】

 2000年にこれを書いていたのだから凄い。因みに今検索してみたが物質-情報当量でも情報当量でもヒットするページが見当たらない。本書を「必読書」としたのも、ひとえにこの件(くだり)が書かれているからだ。

「物質-情報当量」を使って、循環型社会を整理してみます。
 1972年から1998年までの間では、鉄1トンに対して10ギガビット、つまり鉄1トンが社会に与える影響と情報10ギガビットが同じであることがわかります。この26年間で、鉄の生産は伸びていませんが、日本社会全体の経済規模は情報分野の進展で増大しています。ごくおおざっぱにいえば、増大分の情報ビット数とそれを鉄に置き換えた場合の重量とをイコールすれば、右のような当量関係が得られるのです。鉄1トンが10ギガビットに当たるというのは、集積回路の集積度が現在より少し上がって10ギガビットになった場合、その小さな1チップが鉄1トンと同等の効果を社会に与えるということを意味してします。1チップを仮に10グラムとすると、物質の使用量は10万分の1になり、物質と文化の関係に革新的な変化を与えるでしょう。
 すでに情報革命が始まり、明確にこのような傾向が現われています。たとえば、銀行の窓口業務の多くは無人の現金出納機になりました。無人化は経費節減や人件費抑制のためと捉えられがちですが、環境面からみると、今まで数人がかりで多くの伝票や計算書類を要し処理していたことを、たった一つの機械で、しかも数倍の処理能力をもってこなすのだから、これも「物質-情報当量」による物質削減の効果です。
 じっくり目をこらせば、こうした例は数限りないくらいあります。現代日本はそれによって高い活動力を保っているとも考えられます。しかしながら、依然として経済成長率やGDPの計算では、物質生産を基準に計算が行われています。そのために、物質の生産が落ち込むと不景気になったという判断が下されますが、現実はすでにビットが物質のキログラムに代わりつつあるのです。
 ビットは人間生活に対して格段に効率が高いので、同じ当量での社会的負担が少なく(つまり物質やエネルギーを消費せず)、結果的にGDPの伸びには反映されていないといえます。GDPの計算方法が古いということ自体はさして問題ではありませんが、GDPが上がらないので「景気を回復させるためには物質生産量を上げなければならない」という結論になるのは問題です。

「現実はすでにビットが物質のキログラムに代わりつつある」ということは情報=物質なのだ。これについては『インフォメーション 情報技術の人類史』(ジェイムズ・グリック)の書評で触れる予定だ。地球環境や資源の限界性を思えば、生産量よりも「物質-情報当量」を上昇させることが望ましい。

 科学者の武田がGDPにまで目を配っているのに政治が無視するのはなぜか? 生産量至上主義が経団連を中心とする業界にとって都合がいいからとしか考えられない。そして官僚が天下りをすることで社会資本を寡占する(『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』響堂雪乃)。

 私たち人間はなぜ百獣の王ライオンよりも強いのでしょうか? 筋骨隆々として運動神経も人間とは比べものにならないけれど、人間に捕らわれて檻の中にいること自体、理解できないのがライオンです。弱い筋肉と鈍い運動神経しかもっていないのに、人間がライオンを支配できているのは、「知恵」つまり「情報の力」に他ならないのです。
 情報は力であり、物質でもあります。それならば、これまで物質を中心として構築されてきたこの世界を、ビットを中心に組み立て直せばよい。ビットの技術は、地球の資源や環境が破壊される前に、私たち人類にもたらされた贈り物なのかもしれません。

 情報とは知恵なのだ。棒や斧という情報が動物に向けられた時、槍や弓矢という知恵の形となったに違いない。つまり知恵の本質は情報の組み換えにあるのだろう。人類の脳内で行われるシナプス結合が他の動物を圧倒したのだ。そしてシナプス結合は人と人とのつながりを生み、社会を育んだ。そこでは当然、物と情報が交換される。このようにして人類は文明を形成してきた。

「これまで物質を中心として構築されてきたこの世界を、ビットを中心に組み立て直せばよい」――実に痺れる言葉ではないか。どのような情報を得るかで人生は変わる。何を見て、何を聞いて、何を読むか。インターネットの出現によってその選択肢は無限に拡大した。その分だけ自分の選択に責任の重みが増している。また情報は受け取っただけでは死んでいる。それを自分らしく発信することが大切だ。

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