・鏡餅は正月の花
・奇妙な中国礼賛
花に飾りの意味があるとすれば、正月の花の代表は鏡餅ではあるまいか。玄関の間、または屋内の最も大切な場所に、裏白(うらじろ)、楪(ゆずりは)を敷き、葉付蜜柑(はつきみかん)を戴(いただ)いて鎮座まします。一説に鏡餅のモチは望月のモチともいう。そして色は雪白(ゆきしろ)。ということは、一つに月・雪・花を兼ねていることになる。これを花の中の花といわず、何といおう。
【『季語百話 花をひろう』高橋睦郎〈たかはし・むつお〉(中公新書、2011年)以下同】
上古は餅鏡(もちいかがみ)と呼んだらしい。鏡は銅製神鏡を擬したものと高橋は推測する。
銅製神鏡。 pic.twitter.com/LZuxWNvLAK
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 1
世界は瞳に映っている。そこに欠けた己(おのれ)の姿を浮かべるのが鏡である。ひょっとすると神仏に供(そな)える水にも鏡の役割があったのかもしれない。
鏡は太陽を映すことから神体とされた。いにしえの人々がそこに神の視線を感じたことは決しておかしなことではない。視覚世界を構成するのは可視光線の反射であるからだ。光があるから世界は「見えるもの」として現前する。
鏡餅に神を映し、自分を映し、改まった気持ちで元旦を迎える。改(あらた)が新(あらた)に通じる。
一日の計は晨(あした)にあり、一年の計は春にあり、一生の計は勤にあり、一家の計は身にあり(『月令広義』〈げつりょうこうぎ〉馮應京〈ひょう・おうきょう〉)。晨とは朝のこと。これが転じて「一年の計は元旦にあり」となる。四計というが読みは「はかりごと」。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 1
江戸時代の儒学者・安井息軒は「三計とは何ぞ。一日(いちじつ)の計は朝(あした)にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり」としている。巧みな翻案といえるが原典の方が香り高い。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 1
現代では「はかりごと」に謀の字の印象が強いが計、量、測、図、諮がある。他にも課、画、擬、議、権、衡、商、称、諏、度、評、猷、略、料、忖、揆、鈞、銓などがある。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 1
孫子の兵法は計篇から始まる。「之(これ)を経(はか)るに五事を以てし、之を校(くら)ぶるに計を以てして、其の情を索(もと)む」と。「ご利用は計画的に」という金貸しの宣伝は真理を衝いている。ゆえに多くの人が騙されるのだろう。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 1
・計篇/『新訂 孫子』金谷治訳注
そんな鏡餅を「花」と見立てたところに興趣が香る。穏やかな気候に恵まれた日本は自然を生活に取り込み、共生してきた。その日本人が惜しげもなく自然を破壊していることに著者は警鐘を鳴らす。
季語は私たちが日本人であること、いや人間であること、生物の一員であることの、最後の砦(とりで)であるかもしれない。
都会だと四季の変化も乏しい。花は売り物だし、落ち葉はゴミとして扱われる。スーパーへ行けば季節外れの野菜や果物も売られている。そして風が匂わない。自然から学んできた智慧が失われれば、不自然な生き方しかできなくなる。
高橋に倣(なら)えば季節の風習の最後の砦は正月とお盆だろう。クリマスなんぞは一過性のイベントにすぎない。一月睦月(むつき)の由来は親族一同が集って宴をする「睦(むつ)び月」とされる。仲睦(むつ)まじく楽しみ合う場所から社会は成り立つのだろう。
そういう意味から申せばインターネットは修羅場に近い。仲のよい人々同士が集う場に棲み分けするのが望ましい。というわけで、本年も宜しくお願い申し上げます。
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