・祖父の教え
・『春宵十話』岡潔
・『風蘭』岡潔
・『紫の火花』岡潔
・『春風夏雨』岡潔
・『人間の建設』小林秀雄、岡潔
文一郎の教えはただ一つ、
「他人(ひと)を先にして、自分をあとにせよ」
であった。これは、前述したように私財をなげうって村のために尽くした文一郎の言葉だけに、幼い潔の胸にも非常な説得力を持って響いたことだろう。そして文一郎は、この唯一の戒律を潔がきちんと守っているかどうか、遠くから見守ったのであった。戒律というのは自ら進んで守らなければ意味がない。だから「遠くから見守る」ということが非常に大切だったのである。
そして潔もその教えを徹底的に守り抜いたようである。潔は一時期、八重の自分に対する無条件でひたむきな愛情を利己的な愛情であると言って非難したことがあったというが、それは、母親がわが子を愛するのも「他人(ひと)を先にする」ことに反していると潔が思ってしまったからであった。つまり、文一郎の教えはそれほど徹底していたのである。
【『天上の歌 岡潔の生涯』帯金充利〈おびがね・みつとし〉(新泉社、2003年)】
数学の天才が情緒を説くに至ったのは幼少時に受けた影響が大きいためか。岡潔は自らの随筆でも幼い日の思い出を実に生き生きと書いている。
私が私淑(ししゅく)するクリシュナムルティ(1895年生まれ)や竹山道雄(1903年生まれ)とほぼ同世代である(岡は1901年生まれ)。岡潔の著作は当たり外れがあるのだが2~3冊は必読書に入れる予定である。その強いメッセージ性と仏教性が数学者から放たれる意外性に不思議な感興を覚える。
この世代は前半生を戦争と共に過ごした人々である。祖父の文一郎はたぶん明治以前の生まれだろう。「他人(ひと)を先にして、自分をあとにせよ」との教えは維新後の混乱から導かれたものではなかったか。まだ情報化社会ではなかったがゆえに、人伝(ひとづて)に流れる情報は生々しく社会を動かしたことと想像する。
「他人に譲る」行為は心の余裕によって為(な)されるものである。自分しか見えていない人間には実践することができない。また譲る行為そのものが「競争を拒む」精神に彩られている。「どうぞ」と譲る一言に心の豊かさが凝結している。
岡文一郎は「橋本市古佐田の丸山公園には、岡博士の祖父・文一郎氏の碑があります。文一郎氏は〝橋本のまちは高野街道と大和街道が交差する交通・文化の要衝〟として、当時、高野口町妙寺にあった伊都郡役所を橋本に移設した人物」(佐藤さん講演 | 高野山麓 橋本新聞)。また同ページによれば。「大人になった岡博士は、数学界の3大難問が解けたのは“祖父の徹底したこの教育があったから”と述懐している」とも。
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