・『究極の身体(からだ)』高岡英夫
・『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『心をひらく体のレッスン フェルデンクライスの自己開発法』モーシェ・フェルデンクライス
・『運動能力は筋肉ではなく骨が9割 THE内発動』川嶋佑
・『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一
・『大野一雄 稽古の言葉』大野一雄著、大野一雄舞踏研究所編
・つながる武術
・『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
・『気分爽快!身体革命 だれもが身体のプロフェッショナルになれる!』伊藤昇、飛龍会編
・『月刊「秘伝」特別編集 天才・伊藤昇と伊藤式胴体トレーニング「胴体力」入門』月刊「秘伝」編集部編
・『火の呼吸!』小山一夫、安田拡了構成
・『新正体法入門 一瞬でゆがみが取れる矯正の方程式』佐々木繁光監修、橋本馨
・『仙骨姿勢講座 仙骨の“コツ”はすべてに通ず』吉田始史
・『ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法システマ・ブリージング』北川貴英
・身体革命
それは自分自身という「身体」そのものが、外からの情報の受信装置であり、自己表現する発信装置そのものだからです。
そういった「身体」に対して、情報としての刺激を与え、その刺激を知覚していくことが「身体能力の開発」であり、受信発信装置としての精度を高めることです。つまり、そういった情報器官としての「身体」ということを認識し開発していくことで、情報の収集量や発信量を増やし、質的にも高めていくことが出来るのです(「武」で言えば、「聽勁=人と触れ合うことで意識の変化を察知する」他)。
それを【「身体を脳化する」】と呼んでいます。
そして、「武」の戦いは一人で成立するものではありません。最低一人の相手が必ずいなければなりません。そこから言えば、【「人間関係」】を学ぶということです。
そこには自分の自己主張としての意見と、それに対する受け取り側の意見が、攻防という形で明確にあります。
その攻防という形式から、攻防の目に見えた形を憶えるのではありません。攻防を支える「自分の考え方」や「自分の感情の起伏」「自分が固執しているもの」といった、自分自身そのものを「身体運動」が浮き彫りにします。そこがポイントです。
【『武学入門 武術は身体を脳化する』日野晃(BABジャパン出版局、2000年/新装改訂版、2015年)】
あの竹内敏晴が序文を寄せている。これだけで信頼に足るというものだ。ところがまだまだ甘かった。初見良昭〈はつみ・まさあき〉や伊藤昇にまで会わせてくれたのだ。人を知ることは人生の至福である。私にとっては運命の書となった。『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』が「開かれた武術」で、本書は「つながる武術」と位置づけてよい。
日野晃は独覚(どっかく/縁覚〈えんがく〉)の人である。スポーツと化した現在の空手や柔道に飽き足らず、古文書に直接当たり、試行錯誤を繰り返しながら日本武術を手繰り寄せた。その日野が「最強」と慕う人物が武神館宗家〈ぶじんかんそうけ〉・初見良昭である。
・武神館宗家初見良昭師 - 日野武道研究所
初見はどこにでもいそうなジイサンにしか見えない。全く武張ったところがなく、口調ものんびりと穏やかである。しかし逆にそこが恐ろしい。事が起こった時には平然と相手を殺せる人間なのだろう。必要とあらばどんなことでもやってのける落ち着きに満ちている。
天才伊藤が「初見宗家の重心はどこにあるのでしょうね?」と訊ね、日野が「見えない」と答える(『天才・伊藤昇と伊藤式胴体トレーニング 「胴体力」入門』月刊『秘伝』編集部)。見る人が見ればそれほどの超人なのだ。
「武」の字義は「夫(そ)れ文に、止戈(しか)を武と為す」(『春秋左氏伝』)とある。長らく「戈(ほこ)を止める」と読まれてきたが、実は「止」の字は趾(あしあと)の形(第19回 人の形から生まれた文字〔4〕 体の部分~手と足(3) | 親子で学ぼう!漢字の成り立ち)で元々は「進む」という意味があった。「歩」の上半分も「止」である。
会意。戈と止とを組み合わせた形。止は趾(あしあと)の形で、甲骨文字の字形は之(ゆく)と同じで、行く、進むの意味がある。戈を持って進む形が武で、それは戈を執って戦うときの歩きかたであるから、“いさましい、たけし、つよい” の意味となる。また戈を持って進む“もののふ、武士”の意味に用いる。
【『常用字解』白川静(平凡社、2012年)】
詳細については劉暢の論文『「武」の字形研究:武道・武術文化研究の基礎付け』(PDF)が詳しい。尚、検索して知ったのだがスガシカオの本名は「菅止戈男」で父親は「止める」の意味で名付けたようだ。
元来の武とは進み取りゆく姿であったに違いない。それが江戸時代という太平の世になると武士道に変貌した。行為としての武を抑制し理念・理想に置き換えたのだ。ただし「死ぬこと」をテーマに据えた武士道(『葉隠』)が形而上に向かうことは決してなかった。
日野の哲学でいえば「往(い)なす」場合は「止める」義になる。つまり平時には往(い)なし、戦時には攻めるのが武の本義であろう。
尚、「脳化」との表現はあまり好ましくはない。「神経化」とすべきだろう。
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