・『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
・新しい用語と新しいルールには要注意
ポストトゥルースという概念は、真実が翳りつつあることに悩む者たちの後悔の感覚から生まれた。あからさまな賛同者でない者にとっても、この現象は少なくともあるひとつの観点を前提としている。それは、今日の政治の場において事実や真実が危機に瀕しているという考えだ。
【『ポストトゥルース』リー・マッキンタイア:大橋完太郎監訳、居村匠、大崎智史、西橋卓也訳(人文書院、2020年)以下同】
この手の目新しい用語を作成しているのは左翼と見ていいだろう。胸が悪くなるという点において「ポリティカル・コレクトネス」の向こうを張るレベルである。一応調べてみた。
ポスト事実の政治(英: post-factual politics)とは、政策の詳細や客観的な事実より個人的信条や感情へのアピールが重視され、世論が形成される政治文化である。(Wikipedia)
事実を軽視する社会。直訳すると「脱・真実」。(コトバンク)
ポストトゥルースは客観的な事実よりも感情や個人的な信条によって表されたものの方が影響力を持ってしまう状況を指します。(データのじかん)
政治が分極化する一方で、インターネットメディアの発達によって、それぞれの支持勢力は自らにとって都合のよい情報ばかりを受け入れるようになり、既存のマスメディアや異なる意見には耳を傾けなくなる市民の分断こそが、ポスト・トゥルースの政治の根本に潜む問題点(NIRA総合研究開発機構)
思弁に傾いた言葉に吐き気を覚える。理窟をこねくり回すのが好きで好きで仕方がないのだろう。ポスト・トゥルース(私は中黒を使用)はトランプ批判の文脈で使用される言葉であることを初めて知った。しかしながら、「フェイクニュース」という用語を広めたのも彼ではなかったか?
「ポストトゥルース(post-truth)」という現象が一躍大衆の注意を引いたのは2016年11月、オックスフォード大学出版局辞典部門がこの単語を2016年の今年の一語にノミネートしたことに始まる。単語の使用が2015年に2000パーセントという急激な上昇を見せたことを考えると、明白な結果に思える。リストに残ったほかの候補には「オルタナ右翼(alt-right)」や「ブレグジット主義者(Brexiteer)」などもあり、この年の政治的な状況がはっきりと示されていた。
「オルタナ右翼」も覚えておくべきキーワードである。左翼の巧妙さが際立っている。「ネトウヨ」よりもはるかに説得力がある。
私は新聞も購読していないし、テレビも所有していないので世事に疎(うと)い。というよりは世事に興味がない。個人的にはヒラリーやバイデンよりもトランプに好感を抱いていた。当然ではあるがSNSを通じて知る情報はトランプに好意的なものが多い。北朝鮮の日本人拉致に関するトランプの姿勢には惻隠の情を感じたが、それをそのまま鵜呑みにするほど私も若くはない。一つひとつの行為や発言には当然政治的なメッセージが込められていることだろう。
ポスト・トゥルースはSNSの嘘に振り回される愚かな大衆という図で描かれているが、「信頼を失ったメディア」の問題がすっぽりと抜け落ちている。大衆を操作するメディアの力が失われた焦りが「ポスト・トゥルース」なる言葉を生ましめたのだろう。
しかも日本の場合、敗戦後は独立国としての振る舞いは許されず、自国を守ることすら禁じられた経緯がある。新聞やテレビがジャーナリズムとして機能したことはほぼなかった。記者クラブ制度は新聞社が官庁の出先機関となったことを雄弁に物語っている。新聞は社会の木鐸(ぼくたく)ではない。単なる売り物だ。売上の半分を広告収入が占める。
大衆はメディアの嘘を見破った。そして今度はSNSの嘘に騙されるかもしれないが、それはそれで構わない。騙される相手が変わっただけのことだ。エスタブリッシュメントが恐れているのは暴動だ。
メディアが凋落すると同時に、ビッグテックがそれに代わった。Googleは突然、検閲を強化し中国共産党のように振る舞いはじめた。FacebookやTwitterがトランプ大統領を追いやったことが契機となった。大統領選挙に対する完全な政治的干渉であった。
ポスト・トゥルースを得々と語るような手合いを信じてはならぬ。脱炭素化やSDGsも同様だ。ルールメーカーはいつだって白人なのだ。
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