2010-06-23

「生きる意味」を問うなかれ/『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル

 ・「生きる意味」を問うなかれ

『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

必読書リスト その二

 アウシュヴィッツを生き延びた男は実に静かで穏やかだった。彼は地獄で何を感じ、絶望の果てに何を見出したのか? 本書にはその一端が述べられている。

 5月後半の課題図書。前半は『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』であった。やはりこの二冊はセットで読むべきだろう。

 ナチス強制収容所でフランクルが悟ったのは、生の意味を問う観点を劇的に転換することであった――

 ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。【人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している】からです。【私たちは問われている存在なのです】。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。【生きること自体】、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。

【『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル:山田邦男、松田美佳訳(春秋社、1993年)以下同】

 牛馬のように働かされ、虫けらみたいに殺される世界に「生きる意味」など存在しなかった。ひょっとしたら、「死ぬ意味」すらなかったかもしれない。それでも彼等は生きていた。生きる意味がゼロを超えマイナスに落ち込んだ時、「問い」はメタ化し異なる次元へ至ったのだ。問う人は「問われる存在」と変貌した。今日を生きることは、今日に答えることとなった。この瞬間にフランクルは死を超越したといっていいだろう。

 私たちはさまざまなやり方で、人生を意味のあるものにできます。活動することによって、また愛することによって、そして最後に苦悩することによってです。苦悩することによってというのは、たとえ、さまざまな人生の可能性が制約を受け、行動と愛によって価値を実現することができなくなっても、そうした制約に対してどのような態度をとり、どうふるまうか、そうした制約をうけた苦悩をどう引き受けるか、こうしたすべての点で、価値を実現することがまだできるからです。

「どうふるまうか」――そこに自由があった。「ふるまう自由」があったのだ。ベトナムの戦争捕虜として2714日を耐えぬき、英雄的に生還したアメリカ海軍副将ジェイムズ・B・ストックデールの体験もそれを雄弁に物語っている――

・死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル

 恵まれた環境に自由があるのではない。自由は足下(そっか)にあるのだ。

 ですから、私たちは、どんな場合でも、自分の身に起こる運命を自分なりに形成することができます。「なにかを行うこと、なにかに耐えることのどちらかで高められない事態はない」とゲーテはいっています。【それが可能なら運命を変える、それが不可避なら進んで運命を引き受ける、そのどちらかなのです】。

 どんな苛酷な運命に遭遇しても選択肢は二つ残されていることをフランクルは教えている。運命を蹴飛ばすか背負うかのどちらかだ。

 逆境の中でそう思うことは難しい。行き詰まった時に人間の本性は噴水のように現れるものだ。いざとなったら見苦しい態度をとることも決して珍しくはない。

 食べるものも満足になく、シャワーを浴びることもままならず、仲間が次々と殺される中で、フランクルはこれほどの高みにたどり着いた。その事実に激しく胸を打たれる。

【苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです】。人生に重い意味を与えているのは、この世で人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのです。  けれども、人生に重みを与えているのは、【ひとりひとりの人生が一回きりだ】ということだけではありません。一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、【人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせている】のです。その一回きりの要求が実現されなかった、いずれにしても実現されなかった時間は、失われたのです。

 生そのものに意味があったのだ。生きることそれ自体が祝福であった。これがフランクルの悟りである。生の灯(ともしび)が消えかかる中でつかみ取った不動の確信であった。生と死は渾然一体となって分かち難く結びついた。生きることは、瞬間瞬間に死ぬことでもあったのだ。生も死も輝きながら自分を照らしていた。

 絶体絶命の危地にあっても尚、我々は「人生にイエス」と言うことが可能なのだ。フランクルは人類の可能性を広げた。心の底からそう思う。




自殺は悪ではない/『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑

2010-06-16

極限状況を観察する視点/『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル


『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
・『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子

 ・ナチスはありとあらゆる人間性を破壊した
 ・極限状況を観察する視点
 ・生きるためなら屍肉も貪る

『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎
『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ
『命がけの証言』清水ともみ

必読書リスト その二

 20世紀を代表する一冊といっていいだろう。「戦争の世紀」に何がどう行われたか。そして戦争をどう生き抜いたかが記されている。

 20代で初めて本書を読んだ時から、私の胸の内側には「ナチス」という文字が刻印された。激しい憎悪が炎となって燃え盛った。「できることなら、ナチスの連中を同じ目に遭わせてやりたい」と歯ぎしりをした。こうして暴力は光のように反射して拡散する。果たしてジプシーや障害者、そして連合軍兵士やユダヤ人に対して向けられたナチスの憎悪と、私の憎悪とにいかほどの差異があるだろうか?

 私の手元にあるのは旧版で、冒頭には70ページ近い「解説」がある。要はナチスの非道ぶりを紹介しているわけだが、読者を特定の方向へリードしようとする意図が明らかで、先入観を植えつける内容になっている。しかもこの解説は署名がないので、訳者が書いたのか出版社サイドが書いたのかもわからない。「お前は神なのか?」と言いたくなるような代物だ。

 例えばこう――

 グラブナーと彼の助手たちは、何かの口実を設けてはたびたび収容所の訊問を行い、もしそれが男の場合には睾丸を針で刺し、女の場合には膣の中に燃えている坐薬を押し込んだのである。(アウシュヴィッツ収容所)

【『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾〈しもやま・とくじ〉訳(みすず書房、1956年/新版、1985年/池田香代子訳、2002年)以下同】

 文章に独特の臭みがあるので多分、霜山徳爾が書いたのだろう。大体、翻訳者なのだからこっちがそう思い込んだとしても罪にはなるまい。

 我々はともすると、戦争や政治を道徳的次元から問うことがしばしばある。しかし厳密に考えるならば、道徳は個人の行為を問題にするのであって、戦争や政治という利害調整と道徳とは本来まったく関係がない。多数の人々を殺傷しておきながら、ジュネーブ条約もへったくれもない。

 食べるものも満足に与えられず、暴力にさらされると、人間はどのように変わり果てるのだろうか?

 最初は囚人は、たとえば彼がどこかのグループの懲罰訓練を見ねばならぬために点呼召集を命令された時、思わず目をそらしたものだった。また彼はサディズム的にいじめられる人間を見ることが、たとえば何時間も糞尿の上に立ったり寝たりさせられ、しかも鞭によって必要なテンポをとらせられる同僚を見ることに耐えられなかったのである。しかし数日たち、数週間たつうちに、すでに彼は異なってくる。(中略)その少年は足に合う靴が収容所になかったためはだしで何時間も雪の上に点呼で立たされ、その後も戸外労働をさせられて、いまや彼の足指が凍傷にかかってしまったので、軍医が死んで黒くなった足指をピンセットで附根から引き抜くのであるが、それを彼は静かに見ているのである。この瞬間、眺めているわれわれは、嫌悪、戦慄、同情、昂奮、これらすべてをもはや感じることができないのである。【苦悩する者】、【病む者】、【死につつある者】、【死者】──【これらすべては数週の収容所生活の後には当り前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである】。

 無気力は「心の死」である。日常的に暴力にさらされると人は痛みに対して鈍感になり、他人の痛みに心を動かさなくなるというのだ。これほど恐ろしいことはない。生存本能を最も深い部分で支えているのは「恐怖」である。強制収容所の人々は確実に死につつあった。

 これを逆から読めば、生の本質は「ものごとを感じ取る力」にあるといえよう。すなわち感受性である。感受して応答するのが生きることなのだ。ゴムまりのように軽やかに弾んでいなければ生きるに値する人生を歩んでいるとはいえない。

 アウシュヴィッツは一つの概念だった。

 概念とは言語世界である。思考は言語世界から離れることができない。そして概念は世界を構築する。この時、アウシュヴィッツの外側の世界は存在しない。世界は階層化する。同じ囚人であっても、カポーと呼ばれる囚人の見張り役になって特典を与えられた者も存在した。過酷な情況は鑿(のみ)となって人々の本質を彫像のように現した。生きるか死ぬかという瀬戸際に置かれた人間は丸裸にされる――

 人間が強制収容所において、外的のみならず、その内的生活においても陥って行くあらゆる原始性にも拘わらず、たとえ稀ではあれ著しい【内面化への傾向】があったということが述べられねばならない。元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、ある場合には、その比較的繊細な感情素質にも拘わらず、収容所生活のかくも困難な外的状況を苦痛であるにせよ彼らの精神生活にとってそれほど破壊的には体験しなかった。なぜならば彼らにとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。【かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである】。

 生きる権利すら奪われた地獄にあっても、「内なる世界」が存在したというのだ。アウシュヴィッツにはこれほどの希望が存在した。人の心はかくも巨大であった。

 ヴィクトール・E・フランクルの偉大さは、強制収容所において「心理学者としての視点」を失わなかったところにある。つまり、劣悪な環境を一歩高い視点から見下ろすことができたのだ。「観察する自分」はアウシュヴィッツから離れていた。これは一種の解脱と見ることができる。

 最もよき人々は帰ってこなかった。

 この重い一言を徹底して掘り下げたのがプリーモ・レーヴィだった。



・アドルフ・アイヒマン 忠実な官僚
若きパルチザンからの鮮烈なメッセージ/『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
香月泰男が見たもの/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆
集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ

2010-05-29

小野田寛郎を中傷した野坂昭如/『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月


『小野田寛郎 わがルバン島の30年戦争』小野田寛郎
『たった一人の30年戦争』小野田寛郎

 ・小野田寛郎を中傷した野坂昭如

・『奇蹟の今上天皇』小室直樹

 ルバング島のジャングルで30年の長きにわたって戦い続けた小野田寛郎は、帰国後メディアから集中砲火を浴びる。小野田は格好の標的となった。物珍しければ何にでも飛びつくのがメディアの習性だ。連中は野良犬のように鼻が利き、野良犬のようにしつこい。

 野坂昭如(のさか・あきゆき)が小野田寛郎を中傷した――

(野坂昭如による“談話筆記”〈『週刊ポスト』8月16日号〉)
 小野田さんはいろいろ偉そうなことをいっているけど、そして偉い面もあるけど、游撃戦にしろ、残置諜報者にしろ、その本分は何も果たしていないじゃないか。
 彼は自分の頭の中に艦船の出入りとか、飛行機のなんとかというものをしっかり納めていたという。それがやがて来たるべき日本の反撃に備える自分の任務だった、というが、じゃ、それを書いてみろといったら、おそらく書けないのではないか。
 横井さんの場合は、「あれは逃亡兵だ、逃げ回った人間だった」という決めつけ方をされていて、小野田さんの場合には「闘った」というふうにいわれている。しかし、状況判断の悪さからいうと、あれは闘ったことにはならない。
 そのことはさておき、彼は、自分の判断が間違っていたために、小塚さんがどうした、島田さんがどうしたとかいっているが、この文章を読んだ範囲においては、その判断の誤りについてほんとうの後悔は何もない。いやしい感じの方が強い。

【『小野田寛郎の終わらない戦い』戸井十月〈とい・じゅうがつ〉(新潮社、2005年)以下同】

 私は以前から野坂という人物に嫌悪感を抱いてきた。見るからに薄汚い風体で、妙にヘラヘラしている。本人はニヒルを気取っているつもりだったのだろう。

 多分この記事は、国民の多くが小野田を礼賛することに背を向けるような格好で発信したのだろう。また小野田が陸軍中野学校出身であったことに警戒感を抱いていたのかもしれない。だが野坂は口の軽い男だった。そう。彼はただの酔っ払いなのだ。そして相手が悪かった。

 例えば、この記事の殆どの部分が、憶測と思い込みによって成立している。あらかじめ、自分の頭の中で描いた絵に結論を引き寄せようとしていると言ってもいい。少なくとも野坂は、小野田から直接話を聞いてもいないし、中野学校のことを調べてもいないし、ルバング島へ取材にも行っていない。その意見の殆どの部分は想像と感想の域を出ていない。いわば、言い放し、書き放しといっていい。しかし、そんなものでも活字になってメディアに載れば力が生まれる。なるほど、そうかと思う人間が出てくる。そうやって、ある人間や、ある出来事のイメージがつくられてゆく。
 小野田は、会ったこともない人間やメディアによって空気がつくられ、知らぬ間にそれが既成事実になってゆくような曖昧さといい加減さが許せなかった。それでは、戦前の日本と同じではないか。野坂の記事を読んだ小野田は、「言いたいことがあるなら、黒眼鏡を外して堂々と言え」と激怒したという。

 野坂は明らかに思い上がっていた。スポットライトを浴びた者は逆光で客席が見えなくなる。目に映るのはライトが当たっている自分の周囲だけだ。傲(おご)りという病(やまい)は治し難い。肥大した自我を正当化するために彼等はひたすら前進するのだ。

 国のために戦い続けてきた男は見世物にされた。小野田の中で日本のイメージが激しく揺れ動いた。彼が守ろうとした国も国民も既に消え失せていた。小野田は帰国から一年を経ずして長兄次兄のいるブラジルへ移住する。

 軽薄な売れっ子であった野坂に対し、小野田はどんな人物だったのか。以下に小野田自身が書いた手紙を紹介する――

 しばらくして週刊誌から手記連載の申し入れがあり、小野田は、代筆者や編集者たちと共に伊東市の出版社寮に缶詰めになった。その頃、小野田は、励ましの手紙をくれた戦争遺族たちに次のような礼状を送っていた。

 拝啓
 御健勝の御事喜ばしく存じます。
 私 帰還に際してはわざわざ御親切なお祝のお便りを頂き誠に有りがたく存じて居ります。今日、生きて日本に帰り得たことはひとえに亡くなられた戦友のお蔭と国民皆様の努力の賜で何とお礼を申し上げてよいものか言葉もなき次第でございます。
 帰られぬ戦友、帰り得た私、その運命の非情さを考えれば帰還の喜びは一瞬に失せ、思いは再び戦場に還ってしまいます。全く相済まぬ事をいたしました。肉親の皆様方に深くお詫びいたしお叱りを受けて、そのお赦しを願わねばなりません。
 肉親の皆様は終戦後の毎日をさぞおつらくお苦しく続けられたことでしょう。よくお耐え下さいました。
 男一匹の私らとは比べものにならない年月をお送りなされたことでございましょう。よく生き貫いて下さいました。
 今、御遺族の貴方様から御慰め頂きましたがこれは全く逆でございます。お慰め申し上げなければならぬのはこの私でございます。何と申し上げても申し上げきれないのはこの私でございます。本当に申し訳ございません。私の今日が祝福されればされる程、私はますます御詫び申し上げなければならないのです。お願いでございます。私の心をお察し下さってお赦し頂きとうございます。
 お互いに死を誓って戦場に出たとは申せあくまでも死は死、生は生でございます。亡くなられた方は再び生きてかえらず、生き帰ったものは全く倖せなのです。戦争の悲劇、全く言い様のない気持です。今迄生き貫かれた貴方様、尚も強く生き通して下さい。それが私にとって最もうれしくお祝の言葉、お慰めの贈りものでございます。
 私の社会復帰について御心配を頂きますがそんなことは第二第三の問題です。私の第一は遺族の皆様のお赦しを頂くことです。どうぞ御健康に御多幸に一日も早く遺族の苦しみ悲しみから抜け出して下さい。それで私は心から解放されるのでございます。右御詫びかたがた御礼まで。
 昭和49年5月
      海南市  小野田 寛郎

 何がここまで私の心を打つのか。私は戦争という戦争を忌み嫌い、戦争へ行ったことを得々と語る老人に対して、「お前は平然と人を殺し、何の躊躇(ためら)いもなくレイプに加担したような人物だろう。たとえお前がやらなかったとしても、周囲で行われたことを黙認するような卑劣漢だ」と心で罵るような人間なのだ。

 私が嫌悪する戦争、私が嫌悪する時代から、なぜこのような人物が生まれたのか。礼儀や人の振る舞いに着地するのは簡単だ。しかし、そんな皮相的なレベルで30年もサバイバル生活を生き延びることは不可能だ。

 小野田の時計は30年前に止まっていた。人間を人間たらしめていたのが30年前の記憶であったとすれば、30年間に及ぶ社会の変化は人間性を失わせるものだったことになる。

 そしてやはり陸軍中野学校の教育が大きかったことだろう。教育というものは例外なく、国家という枠組みに適応させる目的で施される。しかし中野学校では戦時中にもかかわらず、天皇よりも日本国民を重んじる教育を叩き込んだ。その意味では国家を超越する思想を提示したといえよう。

 小野田寛郎の偉大さは、時代や社会から取り残されたジャングルで人間として生き、人間を貫いたところにある。

2010-05-26

自分は今日リンゴの木を植える


 ・自分は今日リンゴの木を植える

『ルターのりんごの木 格言の起源と戦後ドイツ人のメンタリティ』M・シュレーマン

「どんな時でも人間のなさねばならないことは、
 たとえ世界の終末が明日であっても、
 自分は今日リンゴの木を植える……」

【『第二のチャンス』ゲオルギウ:谷長茂〈たになが・しげる〉訳(筑摩書房、1953年)】


訳書にある 「明白」は単なる誤植/梶山健編『新版 世界名言事典』(1988年)の出典は誤り
ボレアース リンゴの木
言葉を紡ぐ力/『石原吉郎詩文集』石原吉郎

2010-05-23

現代人は木を見つめることができない/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ


『「瞑想」から「明想」へ 真実の自分を発見する旅の終わり』山本清次

 ・現代人は木を見つめることができない
 ・集団行動と個人行動

クリシュナムルティ著作リスト

 文明の進歩は人間を自然から隔絶した。密閉された住居、快適な空調、加工された食品、電線や電波を介したコミュニケーション、情報を伝えるメディア……。文明の進歩は人間を人間からも隔絶してしまったようだ。

「自然との正しい関係とは、実際は何を意味するのでしょう?」という質問にクリシュナムルティが答えた一部を紹介しよう――

 私たちはけっして木を見つめません。あるいは見つめるとしても、それはその木陰に坐るとか、あるいはそれを切り倒して木材にするといった利用のためです。言い換えれば、私たちは功利的な目的のために木を見つめるということです。私たちは、自分自身を投影せずに、あるいは自分に都合のいいように利用しようとする気持ちなしに木を見つめることがけっしてないのです。まさにそのように、私たちは大地とその産物を扱うのです。大地への何の愛もなく、あるのはただその利用だけです。もし人が本当に大地を愛していたら、大地の恵みを節約して使うよう心がけることでしょう。つまり、もし私たちが自分と大地との関係を理解するつもりなら、大地の恵みを自分がどう使っているか、充分気をつけて見てみるべきなのです。自然との関係を理解することは、自分と隣人、妻、子供たちとの関係を理解することと同じくらい困難なことなのです。が、私たちはそれを一考してみようとしません。坐って星や月や木々を見つめようとしません。私たちは、社会的、政治的活動であまりにも忙しいのです。明らかに、これらの活動は自分自身からの逃避であり、そして自然を崇めることもまた自分自身からの逃避なのです。私たちは常に自然を、逃避の場として、あるいは功利的目的のために利用しており、けっして立ち止まって、大地あるいはその事物を愛することがありません。自分たちの衣食住のために利用しようとするだけで、けっして色鮮やかな田野をを見て楽しむことがないのです。私たちは、自分の手で土地を耕すことを嫌がります──自分の手で働くことを恥じるのです。しかし、自分の手で大地を扱うとき、何かとてつもないことが起こります。が、この仕事は下層階級(カースト)によってのみおこなわれます。われわれ上流階級は、自分自身の手を使うには偉すぎるというわけです! それゆえ私たちは自然との関係を喪失したのです。(プーナ、1948年10月17日)

【『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1993年)】

 木を見る。比較することなくただ木を見つめる。葉や花に捉われることなく全体を、木の存在そのものを見る。そこに「生の脈動」がある。人が木を見つめ、木が人を見返す。ここに関係性が生まれる。私も木も世界の一部だ。そして世界は私と木との間に存在している。私は木だ。私は木と共に【在る】。

 そんなふうに物事を見ることは殆どない。「見慣れる」ことで我々は何かを見失っているのだろう。「見える」のが当たり前と思い込んでいるから、「生きる」ことも当たり前となってしまう。このようにして二度と訪れることのない一瞬一瞬を我々はのんべんだらりと過ごしているのだ。

「明日、視力が失われる」となれば、我々の目は開くことだろう。「余命、3ヶ月です」と診断されれば、我々は真剣に生きるのだろう。

 生きるとは食べることでもある。生は他の生き物の死に支えられている。生には動かし難い依存性が伴う。そして食べることは残酷なことでもある――

・『豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日』黒田恭史

 美味しい肉に舌鼓を打つ時、屠(ほふ)られた動物の叫び声が我々の耳に届くことはない。欲望はあらゆるものを飲み込む。動物に課された理不尽な運命は易々(やすやす)と咀嚼(そしゃく)される。我々が気にするのは値段だけだ。家畜が屠殺(とさつ)される瞬間に思いを馳せることもない。

 文明は死を隠蔽(いんぺい)する。そして死を見つめることのない生は享楽的になってゆく。社会は経済性や功利主義に覆われる。

 生は交換することができない。資本主義経済はあらゆるものを交換可能な商品にした。現代人の価値観は「商品価値」に毒されている。出自や学歴、技術や才能で人間を評価するのは、人間が商品となってしまったためだ。だからこそ我々は「労働力」と化しているのだ。

「あの花を見よ」とクリシュナムルティは言う。花が見えなければ、自分の心も見えない。集中するのではなく、注意深く見つめる。「見る」が「観る」へと昇華した瞬間に世界は変容するのだろう。



人間の脳はバイアス装置/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
八正道と止観/『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良
観照が創造とむすびつく/『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治