仏教の実践は梵行(ぼんぎょう)と呼ばれます。それは清浄(しょうじょう)な行であり、「三学」(さんがく)をその内容としております。三学とは戒・定・慧(かい・じょう・え)の学び、実践です。仏道の根本である「八正道」(はっしょうどう)にほかなりません。すなわち正見(しょうけん)・正思(しょうじ)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)という中正の道、一語で言えば「中道」です。「戒」は正語・正業・正命の道に、「定」は正精進・正念・正定の道に、「慧」は正見・正思の道に相当します。
仏教には、このような三学、八正道という生活全体にかかわる重要な実践があり、その八正道を含む三十七菩提分法(さんじゅうしちぼだいぶんぽう)という法、実践の体系もあります。そしてまた、坐を中心とした「止観」(しかん)と呼ばれる瞑想の修習(しゅじゅう)、実践があります。
止観とは、すなわち止の修習と観の修習です。「止」(śamatha サマタ)は、諸煩悩を寂止(じゃくし)させる心の修習、またはその静まりをいいます。「定」の因であり、心が一点に集中する心一境性(しんいっきょうしょう)を本質とします。それに対して「観」(vipaśyanā ヴィパッサナー)は、三界(さんがい)における身心(しんじん)の相(無常〈むじょう〉・苦〈く〉・無我〈むが〉)を観察し、道(どう)・果(か)・涅槃にいたる智慧の修習、またはその智慧をいいます。苦の生滅を知る智慧、「慧」の因であり、知る慧を本質とします。たとえば、釈尊はつぎのように説いておられます。
「あらゆる行は無常なり、と 智慧をもって観るときに
かれは苦を厭(いと)い離れる これ清浄(しょうじょう)にいたる道なり」(『法句』277)
「あらゆる行は苦なり、と 智慧をもって観るときに
かれは苦を厭い離れる これ清浄にいたる道なり」(『法句』278)
「あらゆる法は無我なり、と 智慧をもって観るときに
かれは苦を厭い離れる これ清浄にいたる道なり」(『法句』279)
と。
これは「観」という「清浄にいたる道」を示されたものです。智慧によって諸行(しょぎょう)の無常、苦を見るとき、また諸法の無我を見るとき、苦を離れる。苦は苦でなくなる。生死(しょうじ)という輪廻の苦は、すなわち輪転の苦のない涅槃である、と言われたものです。苦は苦であり、苦でない、というのです。
この観は『大念処経』に説かれる最上の実践であり、智慧でもあります。
【『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良〈かたやま・いちろう〉(大法輪閣、2012年)】
文章に臭みがあり、いかにも坊さんっぽい。片山は駒澤大学教授で精力的にパーリ語仏典を翻訳している人物だ。
「智慧をもって観る」とはクリシュナムルティが説く「ありのままに見る」行為でもある。「観察者は、同時に観察されるものだ。そこに正気があり全体があり、神聖なものとともに、愛がある」(『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ)。
・瞑想とは何か/『クリシュナムルティの瞑想録 自由への飛翔』J・クリシュナムルティ
・瞑想は偉大な芸術/『瞑想』J・クリシュナムルティ
・現代人は木を見つめることができない/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
・クリシュナムルティの悟りと諸法実相/『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ
片山は曹洞宗(そうとうしゅう)寺院の住職を務めているようだ。悪臭の原因がわかった。パーリ語経典の禅宗的解釈によるものだ。つまりブッダの言葉を利用する根性がどこかにある。宗教の「宗」の字は中心・根本の意である。片山は根本がズレている。
パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ―『大念処経』を読む
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・止観/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ
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