・「浦島記」
・美しい言葉
「浦島記」と題した随筆から紹介しよう。
私が島の療養所に入園したのは、昭和18年の6月、だから今日まで、およそ15年の島暮らしを続けている訳である。私達入園者の仲間がよく使う言葉の一つに、社会という言葉がある。それはもちろん私達の生活している島も社会の中の一角であることには間違いないのであるが、私達がその言葉を使うとき、私達はいつも活き活きと活動している島の向こうの世界と、消費面だけの生活を続けている療養所という異形の島を、厳然と、或いは、自嘲的に区別しているものである。この島に(ママ)療養を続けている誰でもがそうであるように、私は社会に憧憬と郷愁をもっている。その私が、一度だけその現実の対象である、社会の対岸の街の土を踏むことに望みをかけた美しくもかなしい願いが実現したことがある。
それは5年程前の或る晴れた日、園内作業をしていたとき、同じ作業をしていた友達が作用の縫物をしながら、「いっぺん社会へ出てみたいな!」と言った。独言のようでもあったが、傍にいた私は大いに賛同した。それで日頃の悲願をその友に話したのである。ところが話はそれからとんとん拍子にその希望に対(むか)って進行し、遂に実現のはこびとなった。もちろんそれまでには、ややこしい手続や多少の嘘をまじえた理由を作らなければならなかったのであるが。
【『塔和子 いのちと愛の詩集』塔和子〈とう・かずこ〉(角川学芸出版、2007年)以下同】
「島の療養所」でピンときた人もいるだろう。塔和子はハンセン病患者であった。「13歳でハンセン病を発病、14歳で小さな島の療養所に隔離された苛酷な現実も、塔和子の豊かな命の泉を涸らすことはできなかった」と表紙見返しにある。言葉がやわらかい。だが、生を見据える眼差しには厳格さが光っている。
「いっぺん社会へ出てみたいな!」――印刷された文字が涙で歪んだ。彼女たちを島に隔離したのは「らい予防法」であった。
・ハンセン病の歴史
・日本のハンセン病問題
ハンセン病は姿形を損なうことから人々に忌み嫌われ、永きにわたり強い伝染力があると誤解されてきた。
彼らは「同じ人間」として扱われることがなかった。無知に基づく差別は今なお根強い。
「いっぺん社会へ出てみたいな!」という言葉に恨みは感じられない。むしろその明るさが彼女たちを島へ追いやった社会の残酷さを炙(あぶ)り出すのだ。
一軒の呉服店の前に立ち止まった友達は「あんた此処で何か買うて行けへんかな」と言った。私はそのとき初めて自分が自由に品物を選んで買い物の出来ることに気付き、優越感に似た感動を覚えた。
彼女の心の動き一つひとつを通して、我々がハンセン病の人々から何を奪ったかを知ることができる。
痛み
世界の中の一人だったことと
世界の中で一人だったこととのちがいは
地球の重さほどのちがいだった
投げ出したことと
投げ出されたこととは
生と死ほどのちがいだった
捨てたことと
捨てられたことは
出会いと別れほどのちがいだった
創ったことと
創られたことは
人間と人形ほどのちがいだった
燃えることと
燃えないことは
夏と冬ほどのちがいだった
見つめている
誰にも見つめられていない太陽
がらんどうを背景に
私は一本の燃えることのない木を
燃やそうとしている
ハンセン病の人々は親の葬式も知らされなかった。それでも塔和子は、凍てついた生命の木を言葉の焔(ほのお)で燃やし続ける。
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