バイクで丁字路(※T字路は誤り)に差し掛かった時、左手から5歳くらいの少女が歩いてきた。その子はちょうど真ん中でバイクを見て動けなくなり屈み込んだ。そして私の顔を見るなり、なんとニッコリ笑った。バイクもこの笑顔には負けたと見え、自然に減速した。私は手を振りながら右折した。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 29
2013-11-29
目撃された人々 49
ボストン・テラン、マルクス・アウレーリウス、池田清彦、オルダス・ハクスリー
2冊挫折、2冊読了。
『死者を侮るなかれ』ボストン・テラン:田口俊樹訳(文春文庫、2003年)/田口訳は結構出回っているが、明らかに文章の乱れが目立つ。「漆黒の道路には誰もいない。そのことが確かめられると、彼女は左右に木々が並び立つ袋小路に注意を戻す。その道を少し行ったところに水道電力局が所有し、その地区で働く従業員を住まわせている官舎が数件建っている、とチャーリーは言っていた」(16ページ)。こんな文章を読んだだけでうんざり。わずか2行に「その」が三つ。「確かめられる」という受動形も不自然だ。行動と状況が入り混じって頗るわかりにくくなっている。もっと若い翻訳家を起用するべきだ。ボストン・テランは好きな作家だけに残念。田口訳はしばらく読まないつもりだ。
『自省録』マルクス・アウレーリウス:神谷美恵子〈かみや・みえこ〉訳(岩波文庫、1956年/改版、2007年)/ストア派であるがセネカと比べると見劣りする。ささっと飛ばし読み。神谷美恵子訳でなかったらこれほど読み継がれなかったような気もする。
59冊目『科学とオカルト』池田清彦(講談社学術文庫、2007年)/勉強になった。池田本は初めて。ただし文体に臭みがあり性格の悪さが窺える。「必読書」に入れるかどうか思案中。合理性というレベルでは武田邦彦著『リサイクル幻想』といい勝負だ。「公共性」というタームが実によく理解できた。
60冊目『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳(光文社古典新訳文庫、2013年)/遂に読了。村松達雄訳で挫折しているだけに嬉しい。ザミャーチン著『われら』が1927年、本書が1932年、そしてオーウェルの『一九八四年』が1949年の刊行。オーウェルが暴力を描いたのに対してハクスリーは快楽を採用した。最初は読みにくいのだが天才的な造語センスに引っ張られ、野蛮人世界の件(くだり)から物語が膨らみ始める。シェイクスピアからの引用が銃弾のごとく放たれ、厳しいまでの純愛ドラマが展開。これぞ、ザ・ピューリタリズム。「著者による新板への前書き」と植松康夫の「解説」も素晴らしい。はっきり言って何も書く気がしなくなるほどだ。「条件づけセンター」というあたりにクリシュナムルティの影響を見てとれる。2000年前の人類も未来世界の人類も結局は鞭打たれる者を必要とし、十字架に貼り付けられる殉教者を求めたのだ。36~38歳でこれだけの物語を書けるのだからハクスリーは間違いなく文学的天才といえよう。
2013-11-28
60年前の赤ちゃん取り違えに思う
3800万円――これが60年間にわたって失われた「何か」の対価であった。
原告の実の両親は取り違えの事実を知らないまま他界しており、判決(で宮坂昌利裁判長)は「生活環境の格差は歴然としており、男性は重大な不利益を被った。真の親子の交流を永遠に絶たれた両親と男性の喪失感や無念は察するに余りある」と述べた。(読売新聞 2013年11月27日)
原告の60歳男性はどのような人生を歩んできたのだろうか?
2歳の時に養父が死亡。1人の子供は死亡したが、養母は生活保護を受けながら女手一つで原告ら3人の子供を育て上げた。一家が暮らす6畳の部屋には、当時、他の家庭に普及しつつあった家電製品は何一つなく、2人の兄は中学卒業後、すぐに働き始めた。(産経新聞 2013年11月27日)
男性は、中学卒業と同時に町工場に就職。自費で定時制の工業高校に通った。今はトラック運転手として働く。
取り違えられたもう一方の新生児は、4人兄弟の「長男」として育ち、不動産会社を経営。実の弟3人は大学卒業後、上場企業に就職した。(毎日新聞 2013年11月27日)
そうした数々の苦労が「新生児取り違え」に端を発していると考えられる。
「違う人生があったとも思う。生まれた日に時間を戻してほしい」(毎日新聞 2013年11月27日)
原告の60歳男性はこう語った。不幸な事件である。赤ちゃん取り違えは今に始まったことではないが。
一方15分後に生まれて裕福な家に送られてしまった男性はどうなのか? 当然、「生まれた日に時間を戻して」ほしくないはずだ。何もなければフラットな人生であったとすれば、マイナスとプラスは釣り合うはずだ。とすると裁かれたのは貧困であったのだろうか? 多分そうなのだろう。「失われた機会」といえば聞こえはいいが、結局のところ「貧しさは罪である」ということになる。
もっとわかりやすく述べよう。15分後に生まれた裕福男性が同病院を訴えた場合、果たして賠償金はいくらになるのか? 数学的に考えれば「3800万円-実の両親と過ごすことのできなかったことに対する金額」を原告に支払えと命じることになりそうなものだが……。
だが、訴訟を起こさなくても裕福男性には不幸の影が忍び寄っていた。
交わることのなかった2家族の運命が動いたのは平成20年。実弟3人が「兄」とされてきた男性を相手取り、自分たちの両親との間に親子関係がないことを確認する訴訟を起こした。(産経新聞 2013年11月2日)
ただ単にDNA鑑定で済まなかったのは相続か何かが絡んでいるような気がする。しかも60歳男性の訴訟は、
実弟3人とともに病院側に約2億5000万円の損害賠償を求めた訴訟(毎日新聞 2013年11月27日 大阪朝刊)
であった。
人間は物語を生きる動物である。それは「不幸な物語」と「幸福な物語」に大別される。60年前に入れ替わったのは不幸と幸福であった。その事実を知ったことで60歳原告男性のリアルな過去は完全に否定された。ここに正真正銘の不幸がある。
判決そのものに異論はないが、「人間は環境に支配される動物である」と言われているような気がして腑に落ちないものがある。取り違えがなければもっと幸せな人生を送れたはずだ、というのは空想に過ぎない。取り違われたおかげで交通事故死しなくて済んだのかもしれないし、事件に巻き込まれて殺害されずに済んだのかもしれない。もちろんこれまた空想だ。だが実際のことは誰にもわからない。
不幸は、そう判断することによって生まれるのだろう。幸福もまた。
2013-11-27
ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人
これは面白い。切実な合理性。/ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人:哲学ニュースnwk http://t.co/kYyg9sDipf
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 26
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