2022-02-17

大川隆法の腕時計やスーツは特注品で一度しか使わない/『幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった』宏洋


 ・大川隆法の腕時計やスーツは特注品で一度しか使わない

『カルト村で生まれました。』高田かや
『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』米本和広
『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広
『カルト脱出記 エホバの証人元信者が語る25年間の記録』佐藤典雅
『杉田』杉田かおる
『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS
『マインド・コントロール』岡田尊司
『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 もうひとつ私が伝えたいのは、幸福の科学を熱心に進行されている信者さんに、「そんなことにお金や時間を費やしても、いいことは何もありませんよ」というメッセージです。
 信者の方々は、教団にお布施をします。お金持ちならポンと何百万円も出せるかもしれませんが、普通の方にとってはなけなしのお金であるはずです。そういう貴重な5000円や1万円が、希望されているような神聖な使われ方をしていないことを知ってほしい。
 皆さんが身を削るような思いでお布施をしたお金は、隆法が「世界に一つしかないんだ」と自慢するウン百万円やウン千万円の腕時計のほか、女性幹部の高い給料やアクセサリーに化けています。
 隆法の腕時計は、基本的に特注です。しかも、基本的に1回しか着けません。特に東京ドームなどの大きなイベントの際につけるものは、1回しか使いません。宝石がキンキラキンにちりばめられているお袈裟(けさ)もウン百万円しますが、やはり基本的に1回しか使いません。
 普段着るスーツも全て特注です。大手デパートの外商がやって来て、注文します。隆法にはファッションセンスがないので、女性秘書の方が選びますが、似合っているかどうかは疑問です。そうやってあつらえたスーツも、やはりほぼ1回しか着ません。
 大川隆法は至高神「エル・カンターレ」なので、神が身に着けた服や時計は、すべて宝物(ほうもつ)という扱いです。

【『幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった』宏洋〈ひろし〉(文藝春秋、2020年)】

 ロングインタビューをもとに構成した独白記。平凡というよりは凡庸な印象あり。表紙の顔写真は死んだ魚のような目で、「ひろし」という名前もボヤキ漫談を連想してしまう。

 教団側はかなり慌てたようで、「宏洋〈ひろし〉問題」に関する書籍を7冊も発行している。よほど都合が悪いのだろう。至高神も醜聞には弱いようだ。叛逆者を鞭打つのは創価学会にも共通する。両教団は宗教団体というよりも、ミニ独裁主義国家の様相を呈している。

 何を信じるかは人の自由である。お金だって好きなだけ出せばいいだろう。他人がどうこう口を挟む話ではない。否、信者諸兄は更なる信仰心を燃やして、自らがたとえ飢えようとも教団に喜捨すべきである。そう焚き付けておこう。

不適切な文章や語彙/『玩具修理者』小林泰三


 わたしは、わたしたちの声が聞こえない距離までウエートレスが離れるのをまってから、話を再開した。

【『玩具修理者』小林泰三〈こばやし・やすみ〉(角川書店、1996年/角川ホラー文庫、1999年)】

 広く知られた作品だが、最初のページでつまづいた。デビュー作とはいえ、これはないだろう。「わたしたちの声が聞こえない距離までウエートレスが離れるのをまってから、わたしは話を再開した」とするべきだ。あるいは「わたしたちの声が聞こえない距離まで」は不要だ。

 不適切な文章や語彙は思考の線を乱す。このテキストを私は三度読み返した。実際の会話で三度聞き直すとしたらどうだろうか? 私なら「お前の話は通訳しないと理解できない」と直言する。受け手の理解を想像するところにコミュニケーションは生まれる。

 三度も読み返すテキストに付き合うほどの時間的な余裕が私にはない。

2022-02-16

視覚というインターフェース/『世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』ドナルド・ホフマン


『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル
『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
・『脳は美をいかに感じるか ピカソやモネが見た世界』セミール・ゼキ
『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』藤田一郎
・『もうひとつの視覚 〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』メルヴィン・グッデイル、デイヴィッド・ミルナー

 ・視覚というインターフェース

『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル

必読書リスト その五

 実在に関する真実を告知しないのなら、知覚はどうして有用でありうるのか? いかに私たちの生存に資するのか? 直観を導いてくれるたとえ(メタファー)を用いて説明しよう。あなたが編集しているファイルは、デスクトップ画面の中央に青い長方形のアイコンで示されていたとする。この事実は、そのファイル自体が青く、長方形をし、コンピューターの中央部に存在していることを意味するのか? もちろんそうではない。アイコンの色はファイルの色ではない。それには色などなく、アイコンの形や位置は、ファイルの真の形や位置を示しているのではない。そもそも形、位置、色に関する言葉は、コンピューター上のファイルを記述することなどできない。
 デスクトップインターフェース[この例ではデスクトップ画面を指す]の目的は、利用者にコンピューターの「真実」を開示することにあるのではない。ちなみに、このたとえでの「真実」とは、電子回路や電圧や一連のソフトウェアを指す。むしろインターフェース[インターフェースについては訳者あとがき参照]の目的は、「真実」を隠して、Eメールを書く、画像を編集するなどといった有用な作業がしやすくなるよう、単純な図解(グラフィック)を提示することにある。Eメールを書くために自分で電圧を調節しなければならなかったら、あなたが書いたEメールが友人のもとに届くことは決してないだろう。
 これは進化がなし遂げた仕事である。つまり進化は、真実を隠して、子孫を生み育てるのに十分なだけ生存するために必要とされる単純なアイコンを表示する感覚作用を私たちに与えてくれたのだ。周囲を見渡したときにあなたが知覚する空間は三次元のデスクトップ画面であり、リンゴやヘビやその他の物体は、この三次元デスクトップ画面上のアイコンにすぎない。それらのアイコンが有用である理由の一つは、実在の持つ複雑さを隠蔽してくれるからだ。

【『世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』ドナルド・ホフマン:高橋洋〈たかはし・ひろし〉訳(青土社、2020年/原書、2019年)】

 つまり感覚が捉えているのは「シンボル」に過ぎないというわけだ。中々スリリングなアイディアだ。私にとっては意外でも何でもない。なぜなら視覚は種(しゅ)によって全く違う世界が現れる。同じものの姿が違うのだ。


 視覚は種にとって有益な情報を取捨選択するように進化したのだろう。

 英単語の「Interface」の直訳は「境界面」「接点」であり、ビジネス用語の「インターフェース」はここから「異なる2つのものを仲介する」という意味で使われます。

「インターフェース」ってどういう意味? わかりやすい使い方と例文

 我々が視覚情報を絶対視してしまうのは触覚など別の感覚によって補強できるためだ。世界と接触した時の感覚全てがインターフェースに過ぎないと考えれば、我々が「ありのままの世界」を認識することは不可能であることが理解できよう。

 世界は感覚の中に存在すると考えたのが唯識(ゆいしき)である。しかしこれだと世界=インターフェースとなってしまう。むしろ感覚は世界を知る手掛かりと考えるべきだろう。



視覚情報は“解釈”される/『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』ビル・ブライソン

Best Pranks of 2016 (ONE HOUR) - Best of Just For Laughs Gags


前頭葉と大脳辺縁系/『警鐘』リー・チャイルド


『前夜』リー・チャイルド
『キリング・フロアー』リー・チャイルド
『反撃』リー・チャイルド

 ・前頭葉と大脳辺縁系

『葬られた勲章』リー・チャイルド

 透明人間でいることになれきってしまっていたからだ。自分がおかれた状況に目をそむけようとするもやもやした気分から出た反応であることは、脳みその前方の部分ではわかっていた。2年まえ、なにもかもがひっくり返ってしまった。お山の大将的な存在から、ただのその他大勢になった。高度に組織化された共同体の上官であり、なくてはならぬ存在から、2億7000万の名もなき市民のひとりになった。望まれる必要な人材から、いてもいなくてもいい存在になった。毎日つねに居場所を確認される状況から、この先たぶん40年以上にわたって、地図も日程表もなしに何百万平方キロにおよぶ広大なアメリカの大地と向き合う境遇になった。だからそういう反応もわからぬではないが、それにしても身構えすぎだ、と頭のなかで前頭葉が言っていた。ひとりでいるのは好きなくせに、まわりにだれもいなくなることには不安をおぼえる男の反応。そういうのは白か黒でないと気がすまない人間の反応だから、少し気をつけるべきだと前頭葉は語りかけていた。
 しかし、前頭葉のうしろに埋もれていて生存本能をつかさどるトカゲ脳は、やはりひとりでいたいと告げていた。名無しの存在でいることが好きだった。だれにも知られない存在でいることが好きだった。そのほうが心穏やかでいられたし、快適で、安心できた。それをだいじにしていた。表向きは友好的で社交的だったが、自分のことを多く語ったことはなかった。支払いは現金、移動は陸路を好んだ。どんな乗客名簿にも載ったことがなかったし、クレジットカードをカーボン・コピーされたこともなかった。自分から名前を告げたこともなかった。キー・ウェストでは、ハリー・S・トルーマンの名前で安っぽいモーテルに宿を取った。宿泊者名簿に書かれた名前を見ていくと、自分だけが元大統領の名前を使っているのではないことがわかった。

【『警鐘』リー・チャイルド:小林宏明〈こばやし・ひろあき〉訳(講談社文庫、2006年)】

 小林宏明の訳文は平仮名が多すぎる。せめて「だいじ」は漢字にすべきだろう。

 ヒトの脳は左右に分かれているが、上下の位置によっても全く別の顔を見せる。トカゲ脳とは大脳辺縁系(情動脳)である。考えていることと感じることは違う。この不一致を克服するために「努力」という言葉があるのだ。

 リーチャーが根無し草のような生活スタイルを愛するのは計画性の放棄である。計画や努力は社会的成功を目指す。そこで得られるものが何であるかよりは、羨望の眼差しが注がれることで幸福を覚えるのだろう。有名人、政治家、官僚など。ただし彼らの姿が幸せには見えない。ひょっとしたら私の眼が曇っているのだろう。

 何らかの責任に伴う幸福はあり得る。世の中ではそれが金儲けにつながっているところに不幸がある。どんなに小さくてもよい。社会が向上するような仕事や行動が幸福に通じる。その意味から言えば、「自分だけの幸福」はあり得ない。幸せという感情は人と人との間に流れ通うものだ。

 ジャック・リーチャーは漂泊しながら様々な出会いを重ね、ドラマを紡いでゆく。時折、軍という過去が蘇るが、決してそこに埋没することはない。飽くまでも遊撃手の立場を貫く。自由を声高に主張するよりは、気ままに行動する方が楽しくて余裕がある。