2011-01-23

両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ


 ・両親の目の前で強姦される少女

『不可触民 もうひとつのインド』山際素男

必読書リスト その二

 読んだのは二度目だ。三度目は多分ないだろう。私は確かにプーランの怒りを受け取った。胸の内に点火された焔(ほのお)が消えることはない。私が生きている限りは。

 若い女性に読んでもらいたい一冊である。できることなら曽根富美子の『親なるもの 断崖』と併せて。女に生まれたというだけで、酷い仕打ちにあった人々がどれほどいたことか。

 プーラン・デヴィは私よりも少し年上だと思われる。つまり昭和30年代生まれだ(Wikipediaでは私と同い年になっている)。少なからず私は同時代を生きたことになる。しかし彼女が生きたのは全く異なる世界であった。

 わたしは読むことも書くこともできない。これはそんなわたしの物語だ。

【『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ:武者圭子〈むしゃ・けいこ〉(草思社、1997年/草思社文庫、2011年)以下同】

 本書は口述筆記で編まれたプーラン・デヴィの自伝である。ガンディーの説いた非暴力がたわごとであったことがよくわかる。どこを開いても凄まじい暴力に満ちている。たとえ親戚であったとしても、カーストが違うというだけで大人も子供も殴られる。

 プーランは両親の目の前で複数の男たちから強姦される──

 だれかがわたしの毛布を引き剥がした。声を出す間もなく、手がわたしの口をふさぐ。
「待て、ムーラ。動くな」と、声がする。「そこにいて、俺たちがおまえの娘をどうするか、ようく見ていろ」
 若い男の一団だった。手にライフルをもったサルパンチの息子と、前に見たことのある男がいた。だが暗くて、ほかの男たちの顔はわからなかった。わたしは怖くて目を閉じた。
 ひとりがわたしの両手を押さえつけ、別の男たちが脚を開かせる。母が殴られ、しっかり見るんだと言われているのが聞こえた。それから父の泣きながら懇願する声……。
「お願いです。勘弁してください。娘を連れて、あした出て行きますから。もう、この村は出て行きますから。お願いです、それだけは……」
 蝋燭の最後の輝きのように、わたしの気力は一緒戻ったが、すぐにまた潮がひくように消えていった。泣き叫ぶ声も懇願も、罵声もののしりも遠くなった。二つの肉体、二つのあわただしいレイプだった。わたしは目を固く閉じ、歯茎から血が出るほど強く、歯を噛みしめていた。

 まだ、10代そこそこの時であった。その後、父と共に拘留された警察署内でも10人ほどの警官からレイプされた。

 インドは滅ぶべきだ。ブッダもクリシュナムルティも関係ない。とっとと世界地図から抹消した方がいい。心からそう思う。そもそもカースト制度自体が暴力そのものなのだ。

 プーランは盗賊にさらわれ、彼らと一緒に生きる道を選んだ。若いリーダーと恋に落ち、結婚。だが愛する夫は仲間の裏切りによって殺される。プーランは夫亡き後、リーダーとして立ち上がった。

 プーランの復讐に怯える男たちの姿が浅ましい。彼らは村に戻ってきたプーランを女神として敬った。

 わたしを尊重し、心を開かせ、愛してくれた男はたったひとりだった。そのひとは教えてくれた──台地が川の流れを遮ることはないということを、この国がインドという国であり、貧しく低いカーストに生まれたものにもほかの者と同じ権利があるということを。
 だが彼は、わたしの目の前で殺された。その瞬間に、あらゆる希望がついえ去った。わたしにはもう、一つのこと──復讐しか考えられなかった。それだけが、生きていく目的になった。わたしは戦いの女神ドゥルガとなって、すべての悪魔を打ち負かしたいと願った。そして闘ってきた。そのことにいま、後悔はない。

 彼女はカーストにひれ伏して、ただ涙に暮れる父親とは違った。復讐することをためらわなかった。圧倒的な暴力が支配する世界で、他の生き方を選択することが果たして可能であっただろうか?

 私からすれば、まだ生ぬるい方だ。やるなら徹底的にやらなくてはいけない。道徳も宗教も関係ない。求められるのは生のプラグマティズムであって、言葉や理屈ではないのだ。

 プーランは甘かった。親戚を始末することができなかった。インドのしきたりに負けたのだ。

 投降後、刑務所で勉強をしたプーランは1996年5月、インド社会党から立候補し見事当選。盗賊の女王が国会議員となった。

 そして2001年7月25日、自宅前で射殺された。暴力によって立った女神ドゥルガは暴力によって斃(たお)れた。

 悠久の大地から陸続と第二、第三のプーランが生まれ出ることを願わずにはいられない。

 

プーランデヴィ講演会 京都精華大学創立30周年記念事業
不可触民の少女になされた仕打ち/『不可触民 もうひとつのインド』山際素男
強姦から生まれた子供たち/『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク
常識を疑え/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
自由は個人から始まらなければならない/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ
王者とは弱者をいたわるもの/『楽毅』宮城谷昌光
「何が戦だ」/『神無き月十番目の夜』飯嶋和一
少女監禁事件に思う/『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね/『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二

2011-01-22

フロンティア・スピリットと植民地獲得競争の共通点/『砂の文明・石の文明・泥の文明』松本健一


 ・フロンティア・スピリットと植民地獲得競争の共通点

『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 微妙な本だ。正直に書いておくと、最初から最後まで違和感を覚えてならなかった。多分、企画ミスなのだろう。とてもじゃないが文明論的考察とは言い難い。文明論的教養を盛り込んだエッセイである。つまりタイトルと新書という体裁で二重に読者を騙(だま)しているとしか思えない。これが文庫本で『エッセイ 砂と石と泥の文明』であったなら、評価は星三つ半ってところだ。

 全体的に様々な事実を示した上で、「──と個人的に思う」といったレベルにとどまっていて、新書レベルの考察すら欠いている。医学セミナーへ行ったところ実は健康食品の販売だった、ってな感じだ。

 というわけで、文明論入門の雑談として読むことをお勧めしておこう。

 しかも、毎年毎年同水準の生活や産業を維持してゆくだけなら、同じ規模の土地を「エンクロージャー(囲いこみ)」して守っていけばいいが、その水準をあげてゆくためには、土地の規模を拡大していかなければならない。かくして、北フランスやイギリスなどの石の風土に成立した牧畜業は、不断に新しい土地(テリトリー)を外に拡大する動きを生む。これが、いわゆるフロンティア運動を生み、アメリカやアフリカやアジアでの植民地獲得競争(テリトリー・ゲーム)を激化させるのである。
 つまり、西欧に成立し、ひいてはアメリカにおいて加速されるフロンティア・スピリットは、本来、牧畜を主産業とするヨーロッパ近代文明の本質を「外に進出する力」としたわけである。これは、ヨーロッパ文明に先立つ、15〜16世紀のスペイン、ポルトガルが主導したキリスト教文明、いわゆる大航海時代の外への進出と若干その本質を異にする。
 いわゆる大航海時代の外への進出は、17世紀からのイギリスやオランダやフランスが主導した、国民国家(ネーション・ステイト)によるテリトリー・ゲームとは若干違う。大航海時代というのは、キリスト教文明の拡大、つまり各国の国王が王朝の富を拡大するとともに、その富を神に献ずる、つまり「富を天国に積む」ことを企てるものであった。

【『砂の文明・石の文明・泥の文明』松本健一(PHP新書、2003年/岩波現代文庫、2012年)以下同】

 わかりやすい話ではあるが、牧畜がヨーロッパの主産業であったという指摘は疑わしい。ここだけ読むと、農業をしていなかったように思い込んでしまうだろう。危うい文章だ。

 更に指摘しておくと、大航海時代に至った要因には様々なものがあって、貴金属の不足によって悪貨が出回り、新たな貴金属を求めて始まったとする説もある。また、モンゴル帝国が陸上輸送という弱点(コストが高い)を抱えて崩壊していったという背景も見逃せない。松本の指摘はファウスト的衝動に含まれる。

 たとえば、西欧の牧場で羊や牛を飼っている家で、子どもが生まれたり、子どもを学校に行かせたり、あるいはもう少しいいものを食べたいと思えば、その分だけ羊や牛を増やさなければならない。仮に100頭いる羊を120頭にしたいとおもったとしたら、牧場を20パーセント分ひろげる必要がある。いわゆるエンクロージャーした土地を外に拡大しなければならないわけだ。
 こうして牧場をひろげていくと、フロンティアの精神が顕著になる。それによってヨーロッパが発展するためには、ヨーロッパ外に進出しなければならない。ニューフロンティアを求めてアメリカに渡り、アメリカで足りなければアフリカに行き、またアフリカで足りなければアジアで進出する。西欧の近代は、そういう意味で「外に進出する力」というものを文明の本質として持つようになったのである。

 これも話としては理解できるが、根拠が何ひとつ示されていない。歴史的事実であったのか、それとも単なる例え話なのかが不明だ。極端に言えば農業に置き換えることも可能な内容となっている。

 こういった牧畜文明としてのヨーロッパ・アメリカの「外に進出する力」と、農耕文明としてのアジアの「内に蓄積する力」とが激突したのが、160年まえから100年まえあたりの「西力東漸」、言い換えるとアジアにおける「ウェスタン・インパクト」であった。

 これが真実であるなら、まずヨーロッパ圏内で牧畜vs農業の激突が起こってしかるべきではないのか? 日本国内でも起こっているはずだろう。

 何だかんだと言いながら、散々腐してしまったが決して悪い本ではない。



「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
残酷極まりないキリスト教/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
資本主義のメカニズムと近代史を一望できる良書/『資本主義の終焉と歴史の危機』水野和夫

2010-12-14

人間が人間に所有される意味/『奴隷とは』ジュリアス・レスター


『奴隷船の世界史』布留川正博

 ・「わしら奴隷は、天国じゃ自由になれるんでやすか?」
 ・奴隷は「人間」であった
 ・人間が人間に所有される意味

『砂糖の世界史』川北稔
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン
『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
『アメリカ・インディアン悲史』藤永茂
『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス
『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス
『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

世界史の教科書

 黒い人間が白い人間に所有された。人間が人間に所有されるとはどのような状態なのであろうか? 所有する側と所有される側の間にはいかなる関係性が成立しているのだろうか? 奴隷をこき使った人々と奴隷にされた人々が過去に実在した。あなたや私はどちらの側にいるのだろうか?

 奴隷とは力によって支配された人間の異名である。欲望を実現させるために力が発動する時、そこには必ず暴力性が立ち上がってくる。

 アフリカの黒人は餌に釣られた魚も同然だった──

 アフリカでは、こぎれいなものといってはほとんどなかったし、それに赤い色の布は全然なかったんだよ、とジューディスおばあさんは言いました。じっさい、布なんて全くなかったんです。ある日のこと、青白い顔をした見知らぬ人たちが、何人かやってきて、赤いフランネルのちいさな切れっぱしを、地面に落っことしたんです。黒人たちはだれもかれもが、その切れっぱしを取りあいました。つぎには、もっと大きな切れっぱしが、もう少しさきの方で落とされました。で、こんなふうにして、とうとう川のところにまでやってきたんです。するとこんどは、大きな切れっぱしが、川の中と川の向こう岸に落とされました。落とされるたびにその布切れを拾おうとしながら、みんなは、だんだんと先の方へ誘われていったんです。とうとう船のところまでたどり着いたとき、大きな切れっぱしが、舷側から突き出した板のうえと、もっと先の船のなかに、落とされました。こんなぐあいにしてついに、おおぜいの黒人たちが、積めるだけその船に積みこまれました。すると、船の門が鎖をかけて閉められ、もう誰ももどれなくなってしまいました。こんなふうにして、アメリカへ連れてこられたんだよ、とジューディスおばあさんは言ってます。(リチャード・ジョーンズ ボトキン、57ページ)

【『奴隷とは』ジュリアス・レスター:木島始〈きじま・はじめ〉、黄寅秀〈ファン・インスウ〉訳(岩波新書、1970年)以下同】

 赤い布切れは「小さな嘘」だった。奴隷は「騙された人々」でもあったのだ。黒人たちは立つこともままならぬ船倉に閉じ込められてアメリカへ輸送された。

 アフリカは紀元前から侵略され続けてきた。多分平和な人々であったのだろう。さらわれたアフリカ人は労働力として酷使された。鞭で打たれながら──

 鞭のひびきと、黒人の男女の泣き叫ぶ声につれて、奴隷所有者とアメリカは、裕福になっていった。

 いつの時代も繁栄を支えていたのは奴隷のような人々だった。富を生むのは労働力である。繁栄とは余剰の異名であり、搾取の分け前に与(あずか)ることを意味する。

 人間が奴隷にされうる二つの方法がある。
 ひとつは、力によってだ。人間は、垣根の背後に閉じこめられ、絶えまなく見張られ、ほんのちょっとした規則でも破ったら、手ひどく罰され、絶えまない恐怖のうちに暮らすようにされうる。
 もうひとつは、主人がしてもらいたいと望んでいるとおりのことをすれば、じぶんの利益には一番かなうのだと、そう考えるように人間を教えこむことだ。その人間は、じぶんが劣っているのだと、そして、奴隷制度を通してのみ、じぶんがやっとまあ主人の《水準》にまで達しうるのだと、そう教えこまれる(ママ)ことができるのだ。
 南部の奴隷所有者は、この両方を使った。

 我々も奴隷だ。「やってられねーよな」と言って会社を休むことは許されない。現代のシステム化された国家機能において、奴隷は教育制度を通して選別される。そして最優秀の奴隷は官僚となる。あるいは一流企業への入社を許される。

 憲法や法律が変わろうとも内実は変わらない。社会とは人間が人間を手段にする修羅場なのだ。比較と競争に明け暮れながら、我々はヒエラルキー内部の階段を上がってゆくしか選択肢がない。なぜなら国家が有する軍事力や警察力(どっちも暴力ね)に依存せずして生きてゆくことができないためだ。

「柔らかな奴隷制度」とでも名づけておこう。

 じぶんじしんの名前がなくては、奴隷がじぶんを主人から切りはなして見る能力は、弱められるのだった。奴隷は、けっして、きみは誰だね、と尋ねられることはなかった。奴隷は、「だれの黒んぼだね、おまえは?」と尋ねられるのであった。奴隷は、切りはなされた本来の自分というものを、まるで持っていなかった。かれは、いつも、何某氏の黒んぼなのであった。

「名前がない」という意味については、岡真理(『記憶/物語』)やガヤトリ・C・スピヴァク(『サバルタンは語ることができるか』)が鋭く考察している。

 自分は何者なのか? 生きてゆく中で難問が現れたり、苦難に襲われた時に「俺は俺だ」と言える人はまずいない。世界から取り残されたような思いに取りつかれ、誰も手を差し延べてくれない情況において人は透明な存在と化す。

 確かに哲学や宗教、そして人間関係は砦(とりで)たり得るが、最終的には自分の内なる世界でもって外部世界に対抗するしかないのだ。

 私に名前はあるだろうか? 世論調査のパーセンテージや選挙の一票としてカウントされ、要介護者400万人や死亡者数114万2467人(2009年人口動態統計)に含められ、消費者・納税者・視聴者として扱われる私に果たして名前はあるのだろうか? いつでも交換可能な部品のように働かされる私に名前はあるのか?

 国家によって私が労働力として扱われているとすれば名前はないのだろう。私は無色透明な日本人となる。すなわち国家が所有する奴隷が国民の実体ではあるまいか?

 あらゆる奴隷たちが、必ずしも同じ経験をもっていたわけではなかった。なかには、あまりにも奴隷らしくなってしまっていたので、奴隷制度が終わったとき、悲しんだものもいた。

 これがシステムの恐ろしさだ。ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で描いた世界だ。システムが人間を完全に支配すると、システムに準じて脳内のシナプス結合が行われる。特に顕著なのは宗教や政治、高度な学問世界に【依存する】人々だ。絶対的な価値観に束縛された挙げ句、物事を疑うことができなくなる。

 奴隷制度という限られた狭い世界が全世界に格上げされると、中には心地よさを覚える者まで出てくるのだ。何とも恐ろしい限りである。まったく同様に、真の自由を求めていない人は社会の奴隷といえよう。

 最後に奴隷の相対性理論を。奴隷を必要とする奴隷の所有者は、奴隷に依存していると見ることができる。つまり所有者もまた欲望の奴隷なのだ。

 所有という問題、そして比較と競争の残酷さを暴いてみせたのが、ブッダとクリシュナムルティであった。



幼児虐待という所業/『囚われの少女ジェーン ドアに閉ざされた17年の叫び』ジェーン・エリオット
集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ

2010-11-11

妊娠中絶に反対するアメリカのキリスト教原理主義者/『守護者(キーパー)』グレッグ・ルッカ


 ・妊娠中絶に反対するアメリカのキリスト教原理主義者

『奪回者』グレッグ・ルッカ
『耽溺者(ジャンキー)』グレッグ・ルッカ

 アメリカでは堕胎を行う産婦人科医が毎年のように殺されている、と何度か書いてきた。その辺の情況を描いたミステリはないかと探して見つけたのが本書である。

 予想以上に面白かった。警句の余韻をはらんだ文章も中々お見事。関口苑生の「解説」を呼んでびっくりしたのだが、グレッグ・ルッカは26歳でこの作品を書き上げたという。トム・ロブ・スミスもそうだが、ミステリ界には若い書き手の台頭が見受けられる。

 書き出しはこうだ──

 そうしてやりたいのはやまやまだったが、わたしは、男の鼻を折らなかった。

【『守護者(キーパー)』グレッグ・ルッカ:古沢嘉通〈ふるさわ・よしみち〉訳(講談社文庫、1999年)以下同】

 暴力をコントロールする意思。主人公のアティカスはボディガードを生業(なりわい)としていた。彼はフリーランスだった。自分の職業を「パーソナル・セキュリティー・エージェント」と称した。

 物語はアティカスが恋人と産婦人科を訪れ、中絶を決意するところから始まる。病院の周囲を中絶反対派の人々がプラカードを林立させて取り巻いていた。

 やかまし男がメガフォンを掲げ、話しはじめた。
「諸君に殺人について話そう」男はいった。
 デモ隊はざわめいた。
「またしても殺人が、さらなる血塗られた殺人がおこなわれている」男はいった。「おびただしい死体、ちぎれ、引き裂かれた死体が彼らのゴミ箱を、大型ゴミ容器を、シンクを埋めている。冷たい金属、鋭い金属、あの子たちの感じるこのうえもなく冷たく、このうえもなく鋭いもの、母から引き離され、安全とぬくもりとふるさとから引き離されて二度めに感じるものがそれなのだ」

 中絶反対派のリーダーは長広舌を振るった。そして彼の言葉は全てが正しかった。戦争の大義名分と同じように。世間の耳目を糊塗する言動は、暴力にまぶされたシュガーパウダーだった。そして正しい言葉が暴力性を先鋭化してゆくのだ。正義によって狂信が増幅されることを見逃してはなるまい。

 言葉の限界は言葉の弱みでもある。整合性のある言葉は脳を支配する。考え込んでしまえば負けだ。即座に応答することができなければ、脳はコントロールされる。広告・占い・宗教・政治においても同じ手法がまかり通っている。

 アティカスは知性と直観を兼ね備えた人物だった。婦人科の女性医師が彼に警護を依頼した。

 この職業のいやなところをいわざるをえない。冷徹なる真実の部分。「あなたを完璧に守ることはできない。だれにもできない。だれかがあなたを本気で殺したいと願い、そいつらに忍耐心と半分でも脳味噌があり、多少の金があったなら、その仕事をやりとげるだろう。10年かかるかもしれないが、やりとげるはずだ。どんなに徹底的にセキュリティに気をつけても、どれだけおおぜいのボディーガードがいても、どんなに金をかけても、防ぐことはできない。カナダのユーコン準州みたいな僻地(へきち)に引っ越しても、本気であなたを殺したいと望んでいるなら、追ってきて、なんとか方法を見つけるはずだ。絶対の保護みたいなものはありえない」

 プロフェッショナルはできることとできないことを弁えている。そしてできることについては知り尽くしている。

 どんな世界にも原理主義者は存在する。彼らは原理に人間を合わせる。プロクルステスのベッドのように。原理主義は人間を手段化する。原理でがんじがらめにすれば自爆テロも可能となる。

 トリックスターとして描かれているブリジットの人物造形も巧みだ。減らず口を叩く警官もグッド。ただ、地味な展開と受け止めるか、リアリティを追求しているとするかで好みが分かれそうだ。マイクル・Z・リューインが好きな人にはオススメできる。

 タイトルは「守護者」となっているが、文中に「灯台守(キーパー)」と出てくる。きっと「人間性の光」を象徴したのだろう。「神の光」ではなく。

 キリスト教原理主義者は生まれてくる子供達を守るために殺人をも正当化する。歴史を振り返ってもキリスト教の正義は血と暴力に満ちている。彼らは「神の怒り」を実行する者と化す。だからこそアメリカ先住民を殺戮し、黒人を奴隷にした上で虫けらみたいに殺害できたのだろう。

 世界の宗教人口の比率は、キリスト教35%、イスラム教19%、ヒンドゥー教14%、仏教6%となっている。差別的な宗教が世界にはびこっている内は平和が訪れることはないだろう。


9歳少女に中絶手術、医師を大司教が「破門」…ブラジル
映画『ジーザス・キャンプ アメリカを動かすキリスト教原理主義』
フェミニズムへのしなやかな眼差し/『フランス版 愛の公開状 妻に捧げる十九章』ジョルジュ・ヴォランスキー
無神論者/『世界の[宗教と戦争]講座 生き方の原理が異なると、なぜ争いを生むのか』井沢元彦

2010-10-16

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン


『複雑系 科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち』M・ミッチェル・ワールドロップ
『新ネットワーク思考 世界のしくみを読み解く』アルバート=ラズロ・バラバシ
『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』マーク・ブキャナン
『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』マルコム・グラッドウェル

 ・歴史を貫く物理法則
 ・歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?
 ・政治とは破滅と嫌悪との間の選択
 ・地震はまとまって起こる

必読書リスト その三

 歴史とは物語である。より多くの人々に影響を与えた出来事を恣意的につなぎ、現代へと至る道筋を解き明かす記述である。で、誰が書くのか? それが問題だ。

 歴史を綴るのは権力者の役目である。それは権力を正当化する目的で行われる。だから都合の悪い事柄は隠蔽(いんぺい)されてしまう。削除、割愛、塗りつぶし……。歴史は常に修正され、書き換えられる。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 果たして歴史が人を生むのか、それとも人が歴史をつくるのか? このテーマに複雑系をもって立ち向かったのが本書である。

 では第一次世界大戦を見てみよう。

 1914年6月28日午前11時、サラエボ。夏のよく晴れた日だった。二人の乗客を乗せた一台の車の運転手が、間違った角で曲った。車は期せずして大通りを離れ、抜け道のない路地で止まった。混雑した埃(ほこり)まみれの通りを走っているときには、それはよくある間違いだった。しかし、この日この運転手が犯した間違いは、何億という人々の命を奪い、そして世界の歴史を大きく変えることとなる。
 その車は、ボスニアに住む19歳のセルビア人学生、ガブリロ・プリンツィプの真正面で止まった。セルビア人テロリスト集団「ブラック・ハンド」の一員だったプリンツィプは、自分の身に起こった幸運を信じることができなかった。彼は歩を進め、車に近づいた。そしてポケットから小さな拳銃を取り出し、狙いを定めた。そして引き金を二度引いた。それから30分経たないうちに、車に乗っていたオーストリア=ハンガリー帝国の皇子フランツ・フェルディナンドと、その妻ソフィーは死んだ。それから数時間のうちに、ヨーロッパの政治地図は崩壊しはじめた。

【『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン:水谷淳〈みずたに・じゅん〉訳(ハヤカワ文庫、2009年/早川書房、2003年『歴史の方程式 科学は大事件を予知できるか』改題)以下同】

 一つの偶然と別の偶然とが出合って悲劇に至る。こうして第一次世界大戦が勃発する。1発の銃弾が1000万人の戦死者と800万人の行方不明者を生んだ。

 物事の因果関係はいつでも好き勝手に決められている。不幸や不運が続くとその原因を名前の画数や家の方角に求める人もいる。あるいは日頃の行いや何かの祟(たた)り、はたまた天罰・仏罰・神の怒り。

人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 第一次世界大戦を起こしたのは運転手と考えることも可能だ。あるいは皇子のサラエボ行きを決定した人物や学生テロリストの両親とも考えられるし、サラエボの道路事情によるものだったのかもしれない。

「歴史とは偉人たちの伝記である」と初めて言ったのは、イギリスの有名な歴史学者トーマス・カーライルである。そのように考える歴史学者にとって、第二次世界大戦を引き起こしたのはアドルフ・ヒトラーであり、冷戦を終わらせたのはミハイル・ゴルバチョフであり、インドの独立を勝ち取ったのはマハトマ・ガンジーである。これが、歴史の「偉人理論」だ。この考え方は、特別な人間は歴史の本流の外に位置し、「その偉大さの力で」自分の意志を歴史に刻みこむ、というものである。
 このような歴史解釈の方法は、過去をある意味単純にとらえているために、確かに説得力をもっている。もしヒトラーの邪悪さが第二次世界大戦の根本原因だというなら、我々はなぜそれが起こり、誰に責任を押しつけたらよいかを知ることができる。もし誰かがヒトラーを赤ん坊のうちに絞め殺していたとしたら、戦争は起こらず、数え切れない命が救われていたかもしれない。このような見方を取れば、歴史は単純なものであり、歴史学者は、何人かの主役たちの行動を追いかけ、他のことを無視してしまえばいいことになる。
 しかし多くの歴史学者はそうは考えておらず、このような考え方は歴史の動きを異様な形で模倣(もほう)したにすぎないととらえている。アクトン卿は1863年に次のように記している。「歴史に対する見方のなかで、個人の性格に対する興味以上に、誤りと偏見を生み出すものはない」。カーもまた、歴史の「偉人理論」を、「子供じみたもの」で「歴史に対する施策の初歩的段階」に特徴的なものだとして斥けている。

 共産主義をカール・マルクスの「創作物」と決めつけてしまうのは、その起源と特徴を分析することより安易であり、ボルシェビキ革命の原因をニコライ2世の愚かさやダッチメタルに帰してしまうことは、その深遠な社会的原因を探ることより安易である。そして今世紀の二度の大戦をウィルヘルム2世やヒトラーの個人的邪悪さの結果としてしまうのは、その原因を国際関係システムの根深い崩壊に求めるよりも安易なことである。

 カーは、歴史において真に重要な力は社会的な動きの力であり、たとえそれが個人によって引き起こされたものであっても、それが大勢の人間を巻き込むからこそ重要なのだと考えていた。彼は、「歴史はかなりの程度、数の問題だ」と結論づけている。

 歴史がパーソナルな要素に還元できるとすれば、その他大勢の人類はビリヤードの球である。こうして歴史はビリヤード台の上に収まる──わけがない(笑)。

 1+1は2であるが、3になることだってある。例えば1.4+1.3がそうだ。幸福+不幸=ゼロではないし、太陽+ブラックホール=二つの星とはならない。多分。

 このような事実から歴史学者がどんな教訓を引き出したとしても、その個人にとっての意味はかなりあいまいだ。世界が臨界状態のような形に組織化されているとしたら、どんなに小さな力でも恐ろしい影響を与えられるからだ。我々の社会や文化のネットワークでは、孤立した行為というものは存在しえない。我々の世界は、わずかな行為でさえ大きく増幅され記憶されるような形に、(我々によってではなく)自然の力によって設計されているからだ。すると、個人が力をもったとしても、その力の性質は、個人の力の及ばない現実の状況に左右されることになる。もし個人個人の行動が最終的に大きな結果を及ぼすとしたら、それらの結果はほぼ完全に予測不可能なものとなるはずだ。

 臨界状態とは高圧状態における沸点のことで、ここではエネルギーが貯まってバランスが崩れそうな情況を表している。砂粒を一つひとつ積み上げてゆくと、どこかで雪崩(なだれ)現象が起こる。雪崩が起こる一つ手前が臨界状態だ。この実験についても本書で紹介されている。

 つまりこうだ。多くの人々に蓄えられたエネルギーが、一つの出来事をきっかけにして特定の方向へ社会が傾く。これが歴史の正体だ。山火事は火だけでは起こらない。乾燥した空気と風の為せる業(わざ)でもある。

 熱した天ぷら油は発火する可能性もあるし、冷める可能性もある。次のステップを決めるのは熱量なのだ。

 とすると19歳のテロリストが不在であっても第一次世界大戦は起こっていたであろうし、大量虐殺は一人の首謀者が行ったものではなく、大衆の怒りや暴力性に起因したものと考えられる。

 すべての歴史的事柄に対する「説明」は、必ずそれが起こった【後で】なされるものだということは、心に留めておく必要がある。

 人生における選択行為も全く同様で、トーマス・ギロビッチが心理的メカニズムを解き明かしている。

 宇宙は量子ゆらぎから生まれた。そして自由意志の正体は脳神経の電気信号のゆらぎであるとされている。物理的存在は超ひもの振動=ゆらぎによる現象なのだ。

 ゆらぎが方向性を形成すると世界は変わる。人類の歴史は戦争と平和の間でゆらいでいる。



「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一
コジェーヴ「語られたり書かれたりした記憶なしでは実在的歴史はない」
歴史とは何か/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
歴史とは「文体(スタイル)の積畳である」/『漢字がつくった東アジア』石川九楊
エントロピーを解明したボルツマン/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー
歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘
読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
若きパルチザンからの鮮烈なメッセージ/『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
無意味と有意味/『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド
『ヒトラーの経済政策 世界恐慌からの奇跡的な復興』武田知弘