・『管仲』宮城谷昌光
・『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
・『孟嘗君』宮城谷昌光
・『長城のかげ』宮城谷昌光
・マントラと漢字
・勝利を創造する
・気格
・第一巻のメモ
・将軍学
・王者とは弱者をいたわるもの
・外交とは戦いである
・第二巻のメモ
・先ず隗より始めよ
・大望をもつ者
・将は将を知る
・『青雲はるかに』宮城谷昌光
・『奇貨居くべし』宮城谷昌光
・『香乱記』宮城谷昌光
楽毅(がっき)の心底に憤然と沸いてくる感情がある。
王者とは弱者をいたわるものである。が、趙王はどうか。弱者である中山を攻め、あざむき、嬲(なぶ)り物にしようとしている。死んでも屈すべき相手ではない。心のどこかで武霊王を賛美していた楽毅は、大いなる失望を怨怒(えんど)で染めた。
――趙王とは戦いつづけてみせる。
この怨讎(えんしゅう)の気分はおそらく楚(そ)の平王に父と兄とを殺されて呉(ご)へ亡命した伍員(ごうん/子胥〈ししょ〉)のそれににているであろう。が、復讎は相手を滅ぼすと同時に自分をも滅ぼすという因果の力をもっている、ということを楽毅は知っている。武霊王を怨(うら)むのはよい。が、その怨みにこだわりつづけると、怨みそのものが魂を宿し、生き物となって、みさかいなく人を喰いはじめる。それをさけるためには、世の人の目に復讎とわからぬ復讎をとげなければならない。
「微なるかな微なるかな、無形に至る。神(しん)なるかな神なるかな、無声に至る。ゆえによく敵の司命(しめい)を為(な)す」
そう心のなかでつぶやいた楽毅には、にわかに孫子の教義があきらかになった。戦いは戦場にあるばかりではなく、平凡にみえる人の一生も戦いの連続であろう。自分が勝って相手をゆるすということはあっても、自分が負けてゆるされるということはない。それが現実なのである。相手にさとられないように戦い、それでこそ、敵の運命を司(つかさど)ることができる。真に兵法を知るとは、そういうことなのである。
【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)】
「王者とは弱者をいたわるものである」――若い楽毅の思いには甘さが潜(ひそ)んでいる。中国はおろか日本の権力者にも「弱者をいたわる」という志操は見えない。だからこそ胸を打つのだろう。強い者が弱い者をいじめる社会であるがゆえに光芒を放つのだ。
「恨晴らし(ハンブリ)」
という言葉が韓国語にはあるが、それだ。「恨(ハン)」を持った者には、「恨晴らし(ハンブリ)をするまで「恨(ハン)」が宿る。そして多くの場合、「恨」は内に沈殿してその者の生活すべてに負に作用する。「恨」を昇華させなければならない。
【『無境界の人』森巣博〈もりす・ひろし〉(小学館、1998年/集英社文庫、2002年)】
怨みはフロイト心理学の「抑圧」と考えてよい。怨念のあまり死にきれない幽霊の存在はPTSD(心的外傷後ストレス障害)を示唆する。
私は直接報復でも構わないと思う。例えば大阪産業大学付属高校同級生殺害事件のように。何もせずに泣き寝入りするのが一番ダメだ。世の中がよくならない根本的な原因もここにある。
プーラン・デヴィは直接的な復讐を果たした後に政治家となることで昇華したケースであろう(『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ)。
賢者は日常において危機的状況に想像を巡らせ、愚者は窮地に追い込まれて取り乱す。いざ、という時に速やかな行動を起こせるかどうかが生死を分ける。
復讐が「相手を凌(しの)ぐ」ことを意味するならば、より大きな自分をつくり上げることが真の復讐となる。ただしそこに自分を偽る姿勢があれば怨みは昇華されることがない。
いずれにせよ、「怒り」は必ず「殺」を志向する。中途半端な怒りはさっさと手放すことが正しい。
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