村上博基による新訳の酷評。しかも説得力がある。菊池光訳を再び入手する羽目に。/http://t.co/BNHzGO2hY3: ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕の ダイアナ・ドルフィンさんのレビュー http://t.co/508H6Mpf56
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 22
【左が村上訳、右が菊池訳】
【2部、3部はもともと村上訳】
村上博基による新訳の酷評。しかも説得力がある。菊池光訳を再び入手する羽目に。/http://t.co/BNHzGO2hY3: ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ〔新訳版〕の ダイアナ・ドルフィンさんのレビュー http://t.co/508H6Mpf56
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 22
しかし凄いもんだね。木戸の逸話:木戸孝允 - Wikipedia http://t.co/8rGduW3tWY
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 21
勝海舟の木戸孝允論: 木戸松菊は、西郷などに比べると非常に小さい。しかし綿密な男さ。使い所によってはずいぶん使える奴だった。あまり用心しすぎるので、とても大きな事には向かないがノー(西郷びいきのあんたに言われたくない)。 http://t.co/7dkKV9lEoP
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 21
勝海舟は人物評をよくしたが、これに一定の法則があることに気付く。つまり、勝が絡んだ人物は高く評価し、そうでない人物の評価は低いことである。勝を敬遠し近づかなかった徳川慶喜、木戸孝允、福沢諭吉の評価は低い。 http://t.co/ta1jGKojgH
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 21
肥後藩士二人と小楠の三人で、酒宴を開き大いに盃を傾けてきたとき、突然座敷に刺客が押し入ってきた。小楠は、仲間を置き去りにして自分だけ逃げてしまい、一人が死亡し、一人が軽傷を負うと云う事件が起きた。 http://t.co/vMCKpX99Jw
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 21
おれは、今までに、天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠(よこい・しょうなん)と西郷南洲(さいごう・なんしゅう)とだ。(『氷川清話』勝海舟) http://t.co/esOVZiSaE5
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 21
セックスとはほんとうは交感の出来事であり、感覚のコミュニケーションの出来事であったはずなのに、それが身体の特定部位の性能の問題にずらされてしまっているのだ。
【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】
こういう読み物とかグラビアといった快楽情報が溢れているのは、ほんとうの快楽が他人とのあいだで得られていず、しかも情報は増える一方なので、恒常的な飢餓感や不足感だけが確実に膨らんできているということなのだろう。器官的なものとしての〈性〉ではなく、感情としての〈性〉がもうきちんと語りだされなくなってきている。
〈性〉は、個体と個体のあいだで起こる身体間のもっとも濃密な交通である。これを軸に、親子のあいだの親密な相互接触、さらにはじぶんの身体とのあいだの何重もの厚い関係が交叉しながら、これまで家庭という、複数の身体がなじみあう特異な空間を構成してきた。だから他人の家庭を訪れたとき、だれもが家庭というもののあの異様に濃密な空気にうろたえる。
氾濫する性情報のなかで〈性〉はむしろ義務のようなものになっており、そっとやりすごさないとせっかくの関係を壊しかねないという不安が、そこにはある。
〈食〉が自己への暴力へと転化することがあるように(過食や拒食)、〈性〉もまた自己への暴力となりうる。〈性〉の背景にあった〈愛〉や〈家族〉といった観念が、そしてそれを制度化してきた社会的装置が、さまざまな場面できしんでくると、〈性〉の不幸は社会的な問題性をますます深く内にはらむようになる。
新聞や雑誌を開ければ、援助交際、ブルセラ、投稿写真、ストーカー、家庭内強姦、あるいは中絶という自己への暴力のあとの底深い負い目、「純愛」として語りだされる不倫、自己解放としての身体毀損(ボディ・ピアシング)……と、気が落ち込むようなテーマがならんでいる。それぞれの性が、そしてそれぞれの世代が、共有できる物語を欠いたまま、問題としての〈性〉にむきだしで接触しているという感じがする。