東日本大震災直後から考え続けてきたことがある。まずはこの映像をご覧いただきたい。
仙台市名取川河口付近に押し寄せた津波だ。ヘリコプターのカメラは明らかに配慮しており、逃げ惑う車をアップで撮ることはなかった。
どうして誰も泣かないのだろう? なぜ誰も悲鳴を上げないのだろう? カメラマンもアナウンサーも私も。さっきまで走っていた車の中には人がいる。彼、あるいは彼女が目の前で死につつあるにもかかわらず、「まったく凄いもんだな」と津波を眺めているのだ。
被災者が撮影した動画も同様だ。被害の惨状に悲鳴を上げることはあっても、流されている人や車を見て泣いた人はいなかった。
・東日本大震災まとめ30本
それどころか逃げ遅れた人々を見て「馬鹿だな」と言う声も聞かれた。
不思議なもので閉ざされた空間には安心感を与える何かがある。車や家の中にいると何となく大丈夫なような気がする。たぶん母親の胎内にいた頃の記憶が喚起されるためなのだろう。パソコンやヘッドホンにも同じ効果があると思う。
津波に流されたからといって死んだかどうかはわからない――心のどこかでそんなふうに誤魔化している自分がいる。そもそも「流された」という事実に対して想像力が及ばない。
苦悶の表情、断末魔の叫び声、途絶える息……そうした情報からしか我々は死を感じ取れないのだろうか。
もう一つ。我々は自分との距離に応じて悲哀の度合いが変わる。道端に見知らぬ人の遺体があっても、我々が泣くことはない。つまり、身内や友人など自我の延長線上にある人間関係の中で我々は悲しむのだ。
私も実際に経験しているが、多くの死に接すると心のどこかが擦り切れてくる。そして涙が涸れ果てる頃には胸の奥で噴き上げたマグマが岩のように変質して何も感じなくなってしまうのだ。私の心は悲しむ機能を失った。
例えば目の前で妻が死んだとしよう。それでも私は傍観者以外の立場をとることができない。なぜなら経験したことのない死を想像することは不可能だからだ。
死は遠くにある。私の死も。
永遠に続く物語。そんなものは誰も読まないことだろう。朝が夜となるように、そして夜が朝となるように物語には区切りがある。
終わりはいつくるのだろう? 「今が終わりである」というのがブッダの教えである。止観(しかん)とは時間の連続性を断つ行為である。明日はない。あるのは今この瞬間だけだ。生は現在の中にしか存在しない。
終わった生と流れる生とがある。そうであるならば、終わった死と流れる死もあることだろう。見える世界と見えない世界がある。実はまばたきするたびに新しい世界が立ち上がっているかもしれないのだ。
死という現実と生という現実がある。豊かな生があるのだから、豊かな死だってあるはずだ。生の光で死者を照らすしか道はない。だから、苦しくとも生の焔(ほのお)を絶やしてはならない。亡くなった人々と共に生きてゆこう。
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