2011-05-21

パスカルの賭け/『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ


『天才の栄光と挫折 数学者列伝』藤原正彦

 ・ゼロをめぐる衝突は、哲学、科学、数学、宗教の土台を揺るがす争いだった
 ・数の概念
 ・太陽暦と幾何学を発明したエジプト人
 ・ピュタゴラスにとって音楽を奏でるのは数学的な行為だった
 ・ゼロから無限が生まれた
 ・パスカルの賭け

『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎

必読書リスト その三

 amazonレビュー、恐るべし。

パスカルの賭け:Wikipedia

 第10章のパスカルの賭けに、非常に有名な批判が載っていないので書いておく。
「神が存在しても、信じていた神とは違う神(例えば、キリストの神を信じていたら、いたのはイスラムの神だった)、がいた場合、無限の幸福は得られず、おそらく無限の苦しみにあう」。

 なお、パスカルの賭けは、「無限の幸福は無限の価値がある」ということを前提にしているが、将来のことについてはその時間的遠さに基づいて幸福を割り引く(双曲割引など)という考えを導入することで、無限の幸福の価値が現時点では有限になり、この問題は解消される。

神の存在証明、または非存在証明 2007-11-26 By θ

 せっかくなんで、チャールズ・サイフェのテキストも紹介しておこう。

 パスカルの賭けは、このゲームと似ている。ただし、使われる封筒の取り合わせは異なる。キリスト教徒と無神論者だ(実際には、キリスト教徒の場合しか分析していないが、無神論者の場合は論理的な延長にすぎない)。議論の便宜上、差し当たって、神が存在する見込みは五分五分だと想像しよう(神が存在するとしたら、それはキリスト教の神だとパスカルが考えたのは言うまでもない)。ここでキリスト教徒の封筒を選ぶのは、信心深いキリスト教徒であることに相当する。この道を選んだ場合、可能性は二つある。信心深いキリスト教徒なら、神がいない場合、死んだら無のなかへと消え去るだけだ。だが、神がいる場合は、天国にいき、永遠に幸せに生きる。無限大である。したがって、キリスト教徒であることで得るものの期待値は、

 無のなかへ消え去る見込みが1/2……1/2×0=0
 天国に行く見込みが1/2×∞=∞
 期待値=∞

 何しろ、無限大の半分はやはり無限大だ。したがって、キリスト教徒であることの価値は無限大である。では、無神論者だったらどうなるだろう。その考えが正しければ――神などいないのなら――正しいことによって得るものは何もない。何しろ、神などいないのなら、天国もない。一方、その考えが間違っていて、神がいる場合は、地獄にいき永遠にそこで過ごすことになる。マイナス無限大だ。したがって、無神論者であることで得るものの期待値は、

 無のなかへ消え去る見込みが1/2……1/2×0=0
 地獄にいく見込みが1/2×-∞=-∞
 期待値=-∞

 マイナス無限大である。これ以上小さい価値はない。賢明な人なら無神論ではなくキリスト教を選ぶのは明らかだ。
 しかし、私たちはここである仮定をおいている。それは、神が存在する見込みは五分五分だというものだ。もし1/1000の見込みしかなかったら、どうなるだろう。キリスト教徒であることの価値は、

 無のなかへ消え去る見込みが999/1000……999/1000×0=0
 天国にいく見込みが1/1000×∞=∞
 期待値=∞

 やはり同じ、無限大だ。そして、無神論者であることの価値はやはりマイナス無限大である。やはりキリスト教であるほうがずっといい。確率が1/1000でも1/10000でも、結果は同じだ。例外はゼロである。
 パスカルの賭けと呼ばれるようになったこの賭けは、神が存在する見込みがないのなら無意味だ。その場合、キリスト教徒であることで得るものの期待値は0×∞だが、これはばかばかしい。誰も、神が存在する見込みはゼロだとは言わない。どんな見方をするにせよ、ゼロと無限の魔法のおかげで神を信じるほうが常にいい。賭けに勝つために数学を捨てても、どちらに賭けるべきかをパスカルが知っていたのは間違いない。

【『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』チャールズ・サイフェ:林大〈はやし・まさる〉訳(早川書房、2003年/ハヤカワ文庫、2009年)】


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