・『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
・『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦
・『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦
・『陸奥宗光』岡崎久彦
・長く続いた貧苦困窮
・狂者と獧者
・『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦
・『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
・『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
・『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克
・日本の近代史を学ぶ
・必読書リスト その四
「バランスのとれた人物」という表現は、戦前の日本にはなかった。それよりも度胸とか腹とかいうことのほうが重視された。しかし、戦後の日本では「バランスのとれた」はすでに日本語として定着し、社会人の評価としては最高のほめ言葉の一つとなっている。
宋(そう)の人、蘇東坡(そとうば)はいっている。
「天下がまだ泰平でないときは、人々は相争(あいあらそ)って自らの能力を発揮しようとする。しかし天下が治まると、剛健(ごうけん)で功名(こうみょう)を求める人を遠ざけ、柔懦(じゅうだ)、謹畏(きんい)の人(かしこまってばかりいる人)を用いるようになる。そうして数十年も過ぎないうちに、能力のある者は能力を発揮する場もなく、能力のない者はますます何もしなくなる。
さて、そうなったときに皇帝が何かしようとして前後左右を見渡しても、使える人間が誰もない。……上の人はつとめて寛深不測(かんじんふそく)の量(りょう)をなし(度量が大きく、しかも中身が計り知れない大人物の恰好〈かっこう〉ばかりして)、下の人は口を開けば中庸(ちゅうよう)の道(バランスがとれている、というのが適訳であろう)ばかりい、……もってその無能を解説するのみなり」
そして蘇東坡は、「中庸」のもとの意味はこれとはまったく異なることを論証している。そして、右のような人々を孔孟(こうもう)は「徳の賊」と呼び、むしろ「狂者」(志の大にして言行の足らない人)を得ようとし、それが得られない場合は、「獧者」(けんじゃ/たとえ知は足りなくても何か守るところのある人)を得ようとしたという。狂者は皆のしないことをやる人であり、獧者は皆がするからといってもこれだけは自分はしないというものをもっている人、つまり土佐の「いごっそう」である。蘇東坡はいま天下をその怠惰(たいだ)から奮いたたせるには、狂者、獧者であってしかも賢い人間を使うに如くはない、というのである。
明治の人はよく自らを「狂」と呼んだ。山県有朋(やまがたありとも)は「狂介」(きょうすけ)と名乗り、陸奥宗光(むつむねみつ)は雅号(がごう)を「六石狂夫」(きょうふ)とした。まさに身に過ぎた志をもつ狂者と自らを呼んでいるのである。
小村は、まさに狂者であり獧者であった。とても「バランスのとれた人物」という範疇(はんちゅう)には入りようがない人物であった。明治維新から30年近く経て官僚制度もそろそろ硬直化してくる時期に、その小村が「余人(よじん)をもって代え難い」として重用(ちょうよう)されたのは、やはり日清、日露という日本の危機の時代だったからであろう。小村の業績に毀誉褒貶(きよほうへん)が現われるのは日露戦争の勝利後であり、それまでの危機の時期においては、あらゆる局面において小村の判断は結果として正確であり、小村の起用が正しかったことが実証されている。時代が狂者、獧者を必要とし、小村がその時代の要請に応えたのである。
【『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、1998年/PHP文庫、2003年)】
諸橋轍次〈もろはし・てつじ〉著『中国古典名言事典』(1972年)では「狷者」という表記になっている。異体字なのだろうが正字が判らず(Jigen.net - 漢字と古典の総合サイト)。
バランスは均衡と訳す。衡は秤(はかり)の意。バランスする、バランスさせると自動詞や他動詞を付けると「権」の字が浮かび上がってくる。権力の権には「はかる」という意味がある(『孟嘗君』宮城谷昌光)。「所体のなかにおいて、軽重を権(はか)る。これを権という」(墨子)。とすると権力を擁(よう)する者の慎みとして「軽重を権(はか)る」姿勢は堅持すべきものだが、彼の周囲にいる人々は種々雑多で構わない。むしろ宋江(そうこう)のように梁山泊(りょうざんぱく)の猛者(もさ)どもをバランスさせる能力が望ましい。平和の世には能吏(のうり)が、混乱する時代には狂者、獧者が求められるのだろう。
風変わりな人を見直し、称(たた)えよ。新しい時代を開くのは今表に出ていない人々なのだから。
・『銀と金』福本伸行
・恩讐の彼方に/『木村政彦外伝』増田俊也
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