2014-12-22

瀬島龍三はソ連のスパイ/『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行


『彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行
『ほんとに、彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行

 ・瀬島龍三はソ連のスパイ
  ・瀬島龍三スパイ説/『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
  ・瀬島龍三と堀栄三/『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
 ・イラク日本人人質事件の「自己責任」論

『私を通りすぎた政治家たち』佐々淳行
『私を通りすぎたマドンナたち』佐々淳行
『私を通りすぎたスパイたち』佐々淳行
『重要事件で振り返る戦後日本史 日本を揺るがしたあの事件の真相』佐々淳行

 国際的な大事件も、時が経てば忘れられていく。戦後史に残る一大事件になった【「ラストポロフ事件」】も、今やほとんどの人が知らないのではないだろうか。
 1954(昭和29)年1月、駐日ソ連大使館のユーリ・ラストポロフ二等書記官がアメリカに亡命し、日本でスパイ活動をしていたことを暴露したのである。彼はNKVD(内務人民委員部)という情報機関に所属していたのだが、スターリンの死去によって、内務省内の粛清が始まると噂されており、自分もその対象になると恐れたらしい。
 ラストポロフの日本での任務は、シベリア抑留から帰国した日本人エージェントと接触し、コントロールし、スパイ網をつくることだった。ソビエトは抑留した日本人を特殊工作員としてリクルートし、教育・訓練していたのである。いわゆる誓約引揚者としてスパイになって帰国した日本人は、【「スリーパー」】になった。
「出世するまでスパイとしては眠っていろ」というわけで、何もスパイ活動をしない。むしろ逆に反ソ的言動、反共産主義的な言動を取るように教育されていた。
 政界、財界、言論界、あらゆるところにシベリア抑留からの復員者がいたから、それぞれ管理職なりしかるべき役職なりに就いた頃合いを見て、駐日ソ連大使館の諜報部員が肩をたたく。そこで目覚めてスパイ活動を始めるから【「スリーパー」】と呼ばれていたのである。
 ラストポロフは亡命先のアメリカで、36人の日本人エージェントを持っていたと供述したから大騒ぎになった。元関東軍参謀の中佐や少佐が自首してきたほか、外務省欧米局などの事務官らが逮捕されたのだが、事務官の一人が取り調べ中に自殺したり、証拠不十分で無罪になったりで、全容解明にはほど遠い結末だった。

【『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行〈さっさ・あつゆき〉(海竜社、2013年)以下同】

 旧ソ連は終戦後、日本人捕虜50万人を強制労働させたのみならず、共産主義の洗脳を施していた。唯物思想は人間をモノとして扱うのだろう。歴史の苛酷な事実を知り、私は石原吉郎〈いしはら・よしろう〉を思った。石原は沈黙と詩作で洗脳に抗したのだろう。鹿野武一〈かの・ぶいち〉の偉大さがしみじみと理解できる(究極のペシミスト・鹿野武一/『石原吉郎詩文集』~「ペシミストの勇気について」)。

 洗脳は睡眠不足にすることから始められる。酷寒の地で激しい肉体労働をさせられていたゆえに睡眠不足で死んだ人々も多かったことだろう。日本政府がはっきりとソ連に抗議してこなかったのも、やはり後ろ暗いところがあったためと思われる。

「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治

 ラストポロフの証言によって明らかになったスリーパーの中で、最大の要人となったのが、【元陸軍大本営参謀で、戦後は伊藤忠会長も務めた瀬島龍三〈せじま・りゅうぞう〉氏】である。自首してきた元関東軍参謀らとともに、捕虜収容所で特殊工作員として訓練されていた。
「シベリア抑留中の瀬島龍三が、日本人抑留者を前に『天皇制打倒! 日本共産党万歳!』」と拳を突き上げながら絶叫していた」という、ソ連の対日工作責任者の証言もある。抑留中、「日本人捕虜への不当な扱いに対し身を挺して抗議したために、自身が危険な立場になった」と瀬島本人は語っているが、多くの証言があり、事実ではない。
 戦後、彼はスリーパーであることを完全に秘匿(ひとく)して、経済界の大物になってしまった。さらには、中曽根政権では、第二次臨時行政調査会(土光臨調)委員などを務めたほか、中曽根総理のブレーンになったのである。
 私は警視庁のソ連・欧米担当の第一係長や、警視庁の外事課長も務めていたから、当然、瀬島龍三氏がスリーパーであることを知っていた。さまざまな会議は部会などで会う機会も多かったが、【彼は必ず目を逸(そ)らすのである】。お世辞を使った手紙をよこしたこともあった。
 内閣安全保障室長を辞めたとき、中曽根さんが会長を務める世界平和研究所の仕事を手伝ってくれと、ご本人からも熱心に頼まれたのだが、丁重にお断りしたところ、ほどなくして後藤田さんに呼ばれた。
「中曽根さんがあれだけ来てほしいと言って、礼を尽くして頼んでいるのに、どうしておまえは断るんだ」
「中曽根さんはいいけど、脇についているブレーンが気にくいません」
「たとえば誰だ?」
「瀬島龍三です」
「おまえはよく瀬島龍三の悪口を言っているけど、何を根拠にそう言ってるんだ?」
「私、外事課長だったんですよ。警視庁の」
 警視庁外事課が何をしていたのか一端を明かそう。KGBの監視対象者を尾行していると、ある日、暗い場所で不審な接触をした日本人がいた。別の班がその日本人をつけていったところ瀬島氏だったのだ。それを機に瀬島氏をずっと監視していたのである。
 彼が携わったと考えられるいちばん大きな事件が、1987(昭和62)年に発覚した「東芝機械ココム違反事件」である。
 東芝機械と伊藤忠商事は和光交易の仲介の下、1982年から84年にかけて、ソ連に東芝機械製のスクリュー加工用の高性能工作機械と数値制御装置やソフトウェア類を輸出した。これは対共産圏輸出統制委員会(ココム)の協定に違反していた。
 この工作機械によってソ連の原子力潜水艦のスクリュー音が静粛になり、米海軍に大きな脅威をもたらしたとして、日米間の政治問題に発展したのだが、【瀬島氏にとってはスターリン勲章ものの大仕事】だったはずだ。
 後藤田さんは「そうか。瀬島龍三は誓約引揚者か」と独りごちた。
 しばらくしたら、また後藤田さんが呼んでいるというので出かけていった。
「おまえの言っているのは本当だな。鎌倉警視総監を呼んで、佐々がこう言っているが本当かと聞いたら、『知らないほうがおかしいんで、みんな知ってますよ』と言っておった。君が言ってるのは本当だ」
「私の言うことを裏を取ったんですか、あなたは」
 そう言って苦笑したものだ。

 資料的価値があると考え、長文の引用となった。

 特定秘密保護法に反対する連中はこうした事実をどのように考えるのか? 報道の自由、知る権利、平和などを声高に叫ぶ輩(やから)は事の大小を弁(わきま)えていない。国家あっての自由であり、権利であり、平和である。

 この国は敗戦してから、平和という名の甘いシロップにどっぷりつ浸(つ)かり、その一方でアメリカの戦争によって経済的発展を享受してきた(アメリカ軍国主義が日本を豊かにした/『メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会』ノーム・チョムスキー)。そして国家の威信は失墜した。既に国家の体(てい)を成していないといっても過言ではない。

 北朝鮮による拉致被害をなぜ解決できないか? それは憲法9条があるためだ。であれば、アメリカの民間軍事会社に救出を依頼してもよさそうなものだが、日本政府は指をくわえて眺めているだけだ。まともな国家であれば、直ぐさま戦争を起こしてもおかしくはない。それどころか日本政府は長らく拉致被害の事実すら認めてこなかったのだ。

 もちろん戦争などしない方がいいに決まっている。しかし戦争もできないような国家は国家たり得ないのだ。それでも平和を主張したいなら、パレスチナやチベット、ウイグルに行って平和を叫んでみせよ。



「瀬島龍三はソ連の協力者であった」(『正論』10月号)
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