・『管仲』宮城谷昌光
・『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
・大いなる人物の大いなる物語
・律令に信賞必罰の魂を吹き込んだ公孫鞅
・孫子の兵法
・田文の光彩に満ちた春秋
・枢軸時代の息吹き
・『長城のかげ』宮城谷昌光
・『楽毅』宮城谷昌光
・『香乱記』宮城谷昌光
風洪(ふうこう)と公孫鞅(こうそんおう)は行動を共にする。やがて、それぞれが進む道へと分かれてゆく。人生の転機は出会いによってもたらされ、鮮やかなアクセントをつけて調子を変える。
いかなる人物とどのように出会うか――そこに人生の縮図が表れる。
人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
寿洋(じゅよう)の目が少年のようだ、と風洪(ふうこう)が感じたのは、寿洋という商人が少年の純粋さをもちつづけてきたということであろうが、寿洋の心が商略という腥風(せいふう)の吹きすさぶ道を歩いてきたにもかかわらず、汚れなかったということであり、さらにいえば、かれを襲った不幸をはねかえし、かれを浸(ひた)した幸福におぼれなかったということでもあり、そのことはとりもなおさず、常人ばなれのした信念があるということである。
風洪はそう考えた。
【『孟嘗君』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】
人に噂はつきものである。しかし噂には責任が伴わない。又聞きも多く、熟慮や吟味を欠く。相手を見つめるのは「自分という鏡」だ。要らぬ先入観や勝手な思惑があれば、映像は歪んでしまう。
寿洋という商人がひとすじなわでないことくらい、風洪にもよくわかる。
──が、あの老人は、善人だ。
と、心のなかで断定した。その人をみきわめるには、初対面こそがもっとも重要である、と風洪はおもっている。その点、寿洋という老人は素直に心にはいってきた。
・ひらめき=適応性無意識/『第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』マルコム・グラッドウェル
パッと見た瞬間、生命(いのち)から滲み出る何かがある。それは匂いに近いものだ。繕(つくろ)えば、その繕い方から性根が垣間見える。威儀や振る舞いから伝わるものは多い。
公孫鞅(こうそんおう)は風洪(ふうこう)の妹を娶(めと)り、官職に就く。魏(ぎ)の恵王(けいおう)からは蔑ろにされたが、秦(しん)の若き君主・孝公(こうこう)は公孫鞅の熱弁を理解できた。官位を得た公孫鞅は法令改正を思い立つ。
公孫鞅(こうそんおう)は、連日、孤立無援の論陣を張っていた。
かれの思想の根幹にあるのは、
──いかに国を富ませ、兵を強くするか。
ということであり、そのためには国家の意志を統一しなければならないということであった。
たとえば法も国家の意志のあらわれであるが、その法が国民すべてに適用されなければ、効力をうしなってしまう。が、現実には公族や貴族には適用されていない。おなじ罪を犯しても、庶民は罰せられるが、貴門の者はゆるされる。
国民とひとくちにいうが、公民と私民とがあり、公民と私民とでは賦税(ふぜい)の率がちがい、私民のあいだでも、主君がちがえば賦税の重さがちがう。
こまなことをいえば、一升(しょう)の量でも、各領地によってちがうのである。
そのようにばらばらなものがよりあつまって秦(しん)ができている。それではいくら君主が心をくだき骨をけずって善政をおこなおうとしても、だれの目にもみえる業績とはならない。
このさい、ことごとく旧弊(きゅうへい)を廃し、新制度をしきたい。それが公孫鞅の主張であった。
富国強兵は政治の原点であろう。政治は経済と軍事に尽きる。ここを見落とすと政治は虚言(きょげん)と化す。法律や制度を見直し、予算を組むのも富国強兵のためである。
孝公(こうこう)は慎重であった。
改革に賛同する者の声が反対する者の声にかき消えないほどのたしかさをもつまで、自分の意中をいわず、議論をみまもりつづけた。
ふたつの声の量が、ひとしくなった。
臣下の目がそろって孝公を仰いだ。
──もうよかろう。
と、おもった孝公は、おもむろに口をひらいた。
「窮巷(きゅうこう)は怪(かい)多く、曲学(きょくがく)は弁(べん)多しときく。愚者(ぐしゃ)の笑いを智者は哀しみ、狂夫の楽しみを賢者は憂える。世にかかわりて、もって議するも、わしはこれを疑わず」
孝公がそういった瞬間、秦(しん)は改革の第一歩をふみだしたことになる。
窮巷、すなわちかたいなかに住んでいると、世知に欠け、なんでも怪しむようになり、曲学、つまり正しい学問をしていない者はいたずらにしゃべるだけである。愚かな者が笑ったことを知恵のある者は哀しみ、狂人の楽しむことを賢人は憂えるものである。世俗の旧習にとらわれた議論がどんなにおこなわれようとも、わしには信念がある。
孝公はそういったことになる。
その信念とは、秦を改革することであり、それは国法を変ずることになるので、当時のことばとして、
「変法」
である。議場は粛然(しゅくぜん)とした。
変法が行われたのは紀元前359年のことである(Wikipedia)。公孫鞅(こうそんおう)は法令に信賞必罰の魂を吹き込んだ。
中央の目がとどかないことをさいわいに、かってに法令を変える悪辣(あくらつ)な官吏もいる。法令の一字を加えても消しても死刑にする。公孫鞅(こうそんおう)がそういったとき、
「一字で、死刑か」
と、孝公はつぶやき、目をみはった。
「さようです」
公孫鞅は平然といい、ことばを継(つ)いだ。
不公平があれば民は法に従わない。役人の匙(さじ)加減で運用が変われば贈収賄の温床となる。公孫鞅(こうそんおう)は厳罰をもって施行に臨んだ。
とにかく公孫鞅の提言は重大なことをふくんでいた。公族や貴族の領地では法令の書きかえなど日常茶飯事(さはんじ)であったのに、それができなくなった。各地方の役人は法令の内容を人民にろくにしらせずに、独断でとりしまりをおこなっていたのに、こんどは法令の全文を人民に告げ、なおかつ説明しなければならない。それをおこたり人民が罪を犯すと自分が罰せられるのである。いわば人民もその法令によって、官吏(かんり)を監視できるのである。違法の官吏がいれば、法官の長に質問し、その質問は公表されるからである。
法令が人民から見えるようにしたことで、役人のインチキを未然に防いだ。この他にもありとあらゆる知恵を巡らした。
「法令は民の命です。政治をおこなう本(もと)です。それなくして民を守ることはできません」
と、あえて強く言上した。
今の官僚にこの気概がありやなしや。国家を治めるどころか、我欲を治めることもできずに自らの天下りを確保する姿は浅ましい限りである。政治は義を失って利で動くようになってしまった。既に政治とは「商い」をする言葉へと堕落した。
孝公(こうこう)の太子が法を犯した。
「太子をさばくのですか」
と、法官はうろたえぎみにいった。
「そうです。法の下には身分の上下はありません。わが君が罪を犯せば、たとえ一国の君主でも、刑罰をうけねばなりません。太子でも容赦はなりません」
公孫鞅(こうそんおう)は厳然としていった。
太子駟(たいしし)の罪状はあきらかとなり、有罪と決した。が、一国の嫡子に刑をおよぼすことをはばかり、傅(ふ)の公子虔(けん)を■(ぎ/鼻+リ)、師の公孫■(こうそんか)を黥(げい/いれずみをする)刑に処した。翌日から法令を非難する民の声はぴたりと熄(や)んだ。
公正さは厳しさを伴う。身内への甘さが腐敗を生む原因となる。諸葛孔明は泣いて馬謖(ばしょく)を斬った。
東日本大震災で原子力行政と東京電力の欺瞞(ぎまん)が明るみに出た。福島県の自殺者は昨年(4-6月期)に比べて2割も増えている。菅首相は「白紙に戻す」としておきながら、原子力推進を継続する旨を言明している。
誰一人罰することなく、誰一人責任をとっていない。官僚は今頃、新しい安全神話の作成に着手しているような気がする。
史実によれば公孫鞅(こうそんおう)は、この太子によって車裂の刑に処せられている。逃亡を試みたが、自分で作った法令が仇(あだ)となった。
公孫鞅(こうそんおう)が心血を注いで作り上げた法令は、唐の時代にまで影響を及ぼし、更には日本へと伝わった。
一方、風洪(ふうこう)は白圭(はくけい)と改名し、商人の道を歩み始める。
「利の世界で生きようとなさる」
「いえ、仁義の世界で生きるつもりです」
「ほう」
尸子(しし)は微笑をふくんだ。
「義を買い、仁(じん)を売ります。利は人に与えるものだとおもっております」
社会的責任において買ったものを心で売る。そこで得た利益を世の人に還元するということである。
「かつてそんな商人はいなかった。もしあなたがそれをなせば、あなたは万民に慕われるだろう」
と、尸子は楽しげにいった。
この物語は読み手の背中を垂直にする。人の歩むべき道が確かに存在することを教えてくれる。
・「武」の意義/『中国古典名言事典』諸橋轍次
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