最初から最後に至るまで二人の演技力だけでストーリーを引きずってゆくという怪作。完全な二人芝居。にもかかわらずカットが素晴らしい。サイエントロジーがモデルになっているようだが宗教性はまったく描けていない。っていうか描く気ないだろ?(笑)
ホアキン・フェニックスを初めて知ったがまあ凄いね。スペイン人あるいはイタリア人を思わせる陰影の濃い顔つき。激情に翻弄される落ち着きのない男を見事に演じている。一方フィリップ・シーモアは宗教家というよりは艶福家(えんぷくか)といった印象を受けた。たぶん成功を象徴しているのだろう。
結局この作品はドロップアウトした若者と新興宗教教祖との出会いを通して「父と子」の物語を描いたのだろう。アメリカ映画によく見られるパターンだ。父はもちろん神の暗喩である。「父と子と精霊の御名(みな)においてアーメン」ってわけだよ。
個人的にはプロセシシングと名づけられたカウンセリング療法が興味深かった。厳格なプロテスタント国家アメリカは一方でプラグマティズムを生みながらも、他方で心理療法を必要とする人々を生んでいるのだ。スクラップ・アンド・ビルド。物質も精神も。
序盤は上下を意識した映像が多く、それから航海が続く。この垂直から水平にシフトするところに物語の鍵があるのだろう。まるで十字架だ。主人公はオートバイに乗ったまま荒れ果てた地平線から消えてゆく。転落の余韻を残しながら。
最終的に二人の演技はストーリーを押しのけるところまで進む。それどころか観客まで突き放されてしまう。さしたる説明も教訓もないまま映画は終わる。残されたのは抜けない棘(とげ)、喉に引っ掛かった魚の小骨、腑に落ちないモヤモヤした感情、ざらついたままの皮膚感覚だ。
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