・『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集
・『ウパニシャッド』辻直四郎
・『はじめてのインド哲学』立川武蔵
・快楽中枢を刺激する文体
・『神の詩 バガヴァッド・ギーター』田中嫺玉訳
・『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編
・『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
・『イスラム教の論理』飯山陽
アルジュナはたずねた。
「クリシュナよ、智慧が確立し、三昧に住する人の特徴はいかなるものか。叡知が確立した人は、どのように語り、どのように坐し、どのように歩むのか」
聖バガヴァットは告げた。――
アルジュナよ、意(こころ)にあるすべての欲望を捨て、自ら自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立したと言われる。
不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、恐怖、怒りを離れた人は、叡知が確立した聖者と言われる。
すべてのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎みもしない人、その人の智慧は確立している。
亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収める時、その人の智慧は確立している。
断食の人にとって、感官の対象は消滅する。【味】を除いて……。最高の存在を見る時、彼にとって【味】もまた消滅する。
実にアルジュナよ、賢明な人が努力しても、かき乱す諸々の感官が、彼の意(こころ)を力ずくで奪う。
すべての感官を制御して、専心し、私に専念して坐すべきである。感官を制御した人の智慧は確立するから。
人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生ずる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。
怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破滅する。
愛憎を離れた、自己の支配下にある感官により対象に向いつつ、自己を制した人は平安に達する。
平安において、彼のすべての苦は滅する。心が静まった人の知性はすみやかに確立するから。
専心しない人には知性はなく、専心しない人には瞑想(修習)はない。瞑想しない人には寂静はない。寂静でない者に、どうして幸福があるだろうか。
実に、動きまわる感官に従う意(こころ)は、人の智慧を奪う。風が水上の舟を奪うように。
それ故、勇士よ、すべて感官をその対象から収めた時、その人の智慧は確立する。
万物の夜において、自己を制する聖者は目覚める。万物が目覚める時、それは見つつある聖者の夜である。
海に水が流れこむ時、海は満たされつつも不動の状態を保つ。同様に、あらゆる欲望が彼の中に入るが、彼は寂静に達する。欲望を求める者はそれに達しない。
すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。
アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時においても、この境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃に達する。
【『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦〈かみむら・かつひこ〉訳(岩波文庫、1992年)】
クリシュナムルティが常々虚仮(こけ)にしているヒンドゥー教の聖典だ。叙事詩『マハーバーラタ』(全18巻)の第6巻に編入されている。
(『マハーバーラタ』の場面を描いたオブジェ)
実際に読んで私は驚嘆した。その華麗なる文体と思想の深さに。はっきりいって私程度のレベルでは仏教と見分けがつかないほどだ。もっと正確に言おう。「それってブッダが説いたんじゃないの?」と吃驚仰天(びっくりぎょうてん)する場面が随所にある。
ってことはだよ、多分ブッダはヒンドゥー教的価値観の「何か」をスライドさせたのだろう。現代の我々が考えるように画然(かくぜん)と新宗教の旗を振ったわけではなかったのだろう。
読むほどに陶酔が襲う。この文体(スタイル)が秘める力はアルコールや薬物に近い。快楽中枢(側坐核)を直接刺激する美質に溢れている。
ブッダの弟子たちが根本分裂(大衆部と上座部に分裂した)に至った背景には、ヒンドゥーイズムの復興があったというのが私の見立てである。それゆえに大衆部(だいしゅぶ)はブッダの教えを理論化する過程でヒンドゥー教を仏教に盛り込んだのだろう。
そして本当に不思議なことだが中国を経て日本に伝わった仏教は完全に密教化しており、その内容はヒンドゥー教と酷似している。和製仏教で世界的に評価されているのは座禅(瞑想の様式化)くらいのものだろう。マントラを仏教と見なすことは難しい。
ま、バラモン教を安易に否定する仏教徒は一度読む必要がある。
尚、余談ではあるがクリシュナムルティの名前は第8子であったため、8番目の神であるクリシュナ神に由来している。
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