(キャサリン・A・)マッキノンがこれまで主張してきたことは、ポルノは一種の憎悪発話であり、憎悪発話を取り締まるよう求める主張は、ポルノを取り締まるよう求める主張に基づかなければならないということだった。この考え方が依拠している前提は、ポルノの視覚イメージが強制的なものとして作用し、この強制力によってポルノの描写内容が現実化されるということである。マッキノンにとって問題は、ポルノが女性嫌悪の社会構造を反映したり表現しているということでは【なく】、ポルノはそれが描くものを出現させる行為遂行的な力をもつ制度だということである。彼女によれば、ポルノは社会的現実を代理しているだけでなく、この代理はそれ自体の社会的現実、つまりポルノという社会的現実を作りだすのである。彼女にとって、ポルノのこの自己充足能力は、ポルノがそれ自身の社会的文脈【である】という主張を、正当化する。いわく、
ポルノは経験を単に表現したり、解釈するだけではない。経験に取って代わるのである。現実からメッセージを引き出すのではなく、現実の代わりとなる……。視覚的ポルノの制作に関与し、そしてそれが伝える強制的メッセージに応えていくには、世の中、つまり女たちは、ポルノが「語り」たいと思っていることをやらなければならない。ポルノは、それを制作するに当たっての条件を、消費者に投げ返す……。ポルノは、制作され利用されることによって、世の中をポルノ的な場所に変え、女はどのような存在だと言われるのか、女はどのようなものとして見られるのか、女はどのようなものとして取り扱われるのかについてのイメージを作りあげ、女に何をしてよいか、そういうことをする男はどんな男かということに関連して、女とは何かとか、女はどうありうるかについての社会的現実を構築していく。(Only Words, 25)
【『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー:竹村和子訳(岩波書店、2004年)】
ポルノをバイブルに置き換えると宗教的な文脈でも通用しそうだ。イメージによる脳の支配。鋭い問いかけは必ず人間という水脈に辿りつく。
・ベルリン・パレードでジュディス・バトラーが受賞拒否 2010年
・セックスとは交感の出来事/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
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