2011-11-14

アッシュの同調実験/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム


 ・服従の本質
 ・束縛要因
 ・一般人が破壊的なプロセスの手先になる
 ・内気な人々が圧制を永続させる
 ・アッシュの同調実験

『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス
『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー

権威を知るための書籍
必読書リスト その五

「同調」「服従」「内面化」は、人が集団に従うときの、不本意さの程度に応じた用語である。もっとも不本意なものが服従である。不本意だという感覚がある限り、服従は服従以上にはなり得ず、「無責任の構造」も拡大はしない。他方、不本意ながら、従っているうちに、やがて、従っている不本意な行為の背景にある価値観を、自分の価値観として獲得してしまうことがある。それが内面化である。服従や同調から内面化が生じるプロセスが、少なくとも一握りの人たちの心に起こることによって、「無責任の構造」が維持されるのである。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

 岡本浩一は東海村JCO臨界事故の調査委員を務めた人物で、東京電力の隠蔽体質は「無責任の構造」によるものと検証してみせた。

 集団における同調はソロモン・アッシュが同調行動の実験によって解明した。

アッシュの同調実験

 同調性に関する一連の見事な実験がS・E・アシュ(Ash,1951)によって行われている。6人の被験者集団が、ある長さの線を見せられて、別の3本の中でそれと同じ長さのものはどれか、と尋ねられる。実は被験者は一人を除いて全員が、毎回、あるいは一定割合で「まちがった」線の一つを選ぶように指示されている。何も知らない被験者は、集団の大半の人が答えるのを聞いてから自分の判断を述べるように仕組まれている。アシュによれば、このような社会的圧力の下では、被験者の相当数が自分の目という疑いようのない証拠を受け入れるよりも、集団に流されたという。
 アシュの被験者は集団に「同調」したことになる。本書での実験では、被験者は実験者に「服従」する。服従と同調はどちらも、自分の主体性を外部の源に預けることを指す。でも両者は重要な形で異なっている。

 1.ヒエラルキー●権威への服従は、行為者が、自分の上にいる人物が行動を指図する権利を持っていると感じるようなヒエラルキー構造の中で起きる。同調は同じ地位の人々の間で行動を左右する。服従はある地位と別の地位を結びつける。
 2.模倣●同調は模倣だが、服従はちがう。同調は、影響を受けた人が仲間の行動を採用するので、行動の均質化をもたらす。服従では、影響の源を模倣することなく、遵守が生じる。兵士は自分に与えられた命令を反復するだけではなく、それを実行する。
 3.明示性●服従においては、行動の指示は命令や指令の形をとるので明示的である。同調では、ある集団に流される要件は、しばしば暗黙のままである。したがって集団圧力に関するアシュの実験では、集団のメンバーから被験者に対して、自分たちに流されろというはっきりした要求が出されたりはしない。行動は自発的に被験者によって採用される。実際、多くの被験者は、集団のメンバーが明示的に同調しろと要求したら、かえって抵抗する。状況としては、その集団は平等な人々の集まりだとされているため、だれもお互いに命令する権利はないはずだからだ。
 4.自発性●だが服従と同調のいちばんはっきりしたちがいは、事後的に生じる――つまり、被験者が自分の行動をどう説明するかにあらわれる。被験者は、自分の行動の説明として同調は否定するが、服従は自ら認める。これをはっきりさせよう。集団圧力に関するアシュの実験では、被験者は自分の行動がどれだけ集団の他のメンバーに影響されたかについて、過小評価する。毎回集団に屈服した場合であっても、集団効果を最小化して、自分の自立性を強調したがる。判断をまちがえたとしても、それは自分自身のまちがいであり、目がよく見えなかったり、判断をあやまったりしただけなのだと固執することも多い。自分が集団に同調した度合いを最小化しようとする。

 服従実験では、反応は真逆となる。ここでは被験者は、被害者に電撃を加えるという行動について、一切の個人的な関与を否定し、自分の行動をすべて、権威が課した外的な要件に帰属させている。つまり、同調する被験者は、自分の自立性が集団によって阻害されたことはないと頑固に主張するのに対し、服従する被験者は、自分が被害者に電撃を加えるにあたり自立性はまったくなかったと主張し、自分の行動は完全に自分の埒外だったのだと述べる。
 なぜこうなるのだろう? それは同調というのが、暗黙の圧力に対する反応だからだ。仲間に屈する正当な理由を指摘できないために、自分が圧力に屈したことを否定するわけだ。それも実験者に対してだけでなく、自分自身に対しても。服従では、正反対となる。状況は公式に、自発性のないものとして定義づけられる。というのも、服従が期待されている明示的な命令があるからだ。被験者は、自分の行動についての全面的な説明として、この状況の公式な定義をよりどころとする。
 したがって服従と同調の心理的な影響はちがっている。

【『服従の心理』スタンレー・ミルグラム:山形浩生〈やまがた・ひろお〉訳(河出書房新社、2008年/河出文庫、2012年/同社岸田秀訳、1975年)】



 最初の2回のテストでは、ほかのメンバーは正しい答えを言って、特に何事もなく進む。3回目では、3番目の線が正しいものなので、被験者はそう言おうと待ち構えている。ところが最初の被験者(※サクラ)は「(※長さが同じなのは)1番目の線です」と答える。そして二人目も「1番目の線です」と言う。ほかの参加者(※全員がサクラ)も「1番目の線です」と答える。回答が進むにつれ、真の被験者は何かが変だと考えるようになる。自分の番になったときには、その被験者は、自分の判断を信じるか、それとも意見が一致しているほあのメンバーの答えにあわせるかを今すぐ決めないといけないという困った状態に陥っていることに気づくのである。驚いたことに、だいたい13の試行において、真の被験者は、実験的に作り出されたいつわりの多数派に合わせた回答をしたのである。(ソロモン・アッシュの「同調行動の実験」)

【『服従実験とは何だったのか スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産』トーマス・ブラス:野島久男、藍澤美紀訳(誠信書房、2008年)】



 実験をやってみると、驚くほど多くの人が、サクラの影響を受け、正しくない線分を答えることがわかった。この実験では、なんと35パーセントの誤答率を記録している。単独回答ならば、誤答率は5パーセントの課題である。
 実験中の被験者の様子の記述が残されている。その典型的な様子は次のようなものである。
 最初のサクラが間違えたとき、被験者は「バカな奴だ」という感じで笑っている。サクラの2人目くらいまでは、笑ったりそっくりかえったりしているが、3人目くらいから、まず、目を凝らしてカードを凝視する。それから、課題の内容を確かめようとするように、他の「被験者」(サクラ)の顔を見たり、実験者に、こと問いたげ(ママ/「物問いたげな」の間違いか?)な視線を送ったりする。4人目、5人目では、あきらかに不安な表情や苛立ちを様子に表す。そして自分の番となると、サクラたちと同じ答えをするようになるのである。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】



 サクラの人数を減らして実験を行った結果、同調は、サクラが2人では有意に起こり始め、サクラが3人では、サクラがそれ以上の人数の場合とほとんどかわらない比率で同調が起こることがわかった。
 したがって、ごく少ない人数で同調が起こることがわかる。
 ここまで紹介した研究は、真の被験者が1人で、いつも1人対多数の同調者という条件の研究だが、自分以外に、同じ意見の人がいる場合はどうなのだろうか。
 同調しない「非同調者」がいる場合、同調はどのように変化するのだろうか。
 最初の実験では7人のサクラに対して、被験者はたった1人だったのだが、これが1人でなく2人だった場合、3人だった場合と、真の被験者の人数を変えて実験を繰り返している。その結果、被験者が2人ならば、同調の発生率は格段に下がることがわかった。つまり、被験者が孤立無援で同調する複数のサクラに出会ったときに、同調が起こるのである。逆にいえば、自分と同意見の正解者が1人でもいると、多数の他者と異なる違憲も表明しやすいということになる。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

 見知らぬサクラの判断に影響を受けてしまうわけだから、友人などの感情を込めた反応に逆らい難いことは明々白々であろう。「エ、何言ってんの?(=ひょっとして馬鹿?)」という反応を我々は極度に恐れる。学校でのいじめを考えればもっとわかりやすいだろう。皆と違うことは「異質」と評価され、「排除」の対象となる。

 ここで重要なポイントを一つ。「権威」と「権力」は似て非なるものだ。

 権威は必ず服従を伴い、つねに服従を要求する。にもかかわらず、それは強制や説得とは相容れない。なぜなら、強制と説得はともに権威を無用にするからである。世界史におけるこの特異な時代状況のもとで、権威は他と明確に区別された独自のものとなる。(「緒言」フランソワ・レテ)

【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ:今村真介訳(法政大学出版局、2010年)】



注記。権威のなかに物理的強制力の現れしか見ない権威「理論」もたしかにある。だが後で見るように、物理的強制力は権威とは何の関係もないし、むしろそれとは正反対ですらある。だから、権威を物理的強制力に還元することは、権威の実在を端的に否定し、無視することである。したがって、われわれはこのまちがった見解を【権威の理論】のなかに含めない。

【『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ:今村真介訳(法政大学出版局、2010年)】

 権威に強制力はないのである。

 では、なぜこのような非合理的な判断を我々はするのだろうか? 人間心理の奥深くを探ってゆくと、善悪が混沌となる領域、すなわち本能に辿りつく。

 同調する心理は「共感」のメカニズムと隣り合わせに位置するのではないかと私は睨(にら)んでいる。

 共感とは、ごく簡単に言うと、ほかの人や動物の状態に影響される能力のことだ。だから、誰かの振るまいをまねるといった単純な動きも、共感と呼ぶことができる。相手が頭の後ろで手を組むと、つい自分も同じことをやりたくなる。会議では、脚を組んだりほどいたり、上半身を前に傾けたりうしろにそらしたり、髪を直したり、テーブルにひじをついたりといった行動が伝染することが多い。ことにこちらが好感を抱いている相手だと、無意識に動きを合わせようとする。長年連れそった夫婦が似たものどうしになるのも、物腰や身ぶりが同調してくるからだろう。こうした模倣の威力を逆手にとって、人間どうしの感情を操作することもできる。こちらの動作を忠実にまねる人と、いちいちちがう動作をする人――実験でそうするよう指示されているからだが――では、後者への好感度が低くなるのだ。恋に落ちるとき、「ピンときた」と感じるのは、脚を開く、腕を広げるといったボディランゲージで憎からぬ気持ちを発信するのに加えて、意識しないままおたがいの行動を反射的に模倣してきた結果だろう。

【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)】



 共感を抑え込んだり、心の中でブロックしたり、それに基づいて行動しなかったりすることは可能でも、精神病質者と呼ばれるごく一部の人を除いては、私たちはみな、他者の境遇に感情的な影響を受けずにはいられない。根本的であるにもかかわらず、めったに投げかけられることのない疑問がある。それは、自然淘汰はなぜ、私たちが仲間たちと調和し、仲間が苦しみや悲しみを感じれば自分も苦しみや悲しみを感じ、彼らが喜びを感じれば自分も喜びを感じるように人間の脳をデザインしたのかという疑問だ。他者を利用できさえすればいいのなら、進化は共感などというものには、ぜったいに手を染めなかっただろう。

【『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール:柴田裕之訳、西田利貞解説(紀伊國屋書店、2010年)】

 よく「他者への想像力」といわれるが、ドゥ・ヴァールはこれを斥(しりぞ)ける。人間が共感的であるのは「生まれつき」であるという学説を紹介している。

 ここからが問題だ。共感と同調は似て非なるものだ。同調は周囲のテンポに合わせるだけの行動であろう。それに対して共感は相手の手を握り、肩を抱きしめる感受性である。合理性を飛び越えて、一緒に泣く精神である。

 全然まとまらないのだが、結論を述べてしまおう(笑)。共感力の強い人ほど同調しない――これが結論だ。理由は、私がそうであるからだ(笑)。


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