2015-01-20

生きるとは単純なこと/『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ


『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ
『心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・何も残らない
 ・生きるとは単純なこと

1月1日 生きるとは単純なこと

 生きるとは、複雑なようであって、じつはとても単純です。
 歩いたり座ったり喋(しゃべ)ったり、寝たり置きたり。それ以外、特別なことは何もありません。
 この単純さを認めないことが、苦しみの原因のもとなのです。
 この単純さ以外に、何か人間を背後から支配している「宇宙の神秘」のようなものがあると思うのは、妄想です。
 人生とはいともかんたんに、自分で管理できるものなのです。

【『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ(PHP研究所、2008年)】

 本年より書写行を開始。セネカ著『人生の短さについて 他二篇』を終えて、本書と取り組む。新書サイズで上下二段。1ページに2日分の内容となっている。何の解説もないのだが、たぶんスマナサーラ本からの抄録であろう。このエッセンスを理解するには、ある程度スマナサーラ本を読む必要あり。手軽に読んでしまえばかえって理解から遠ざかることだろう。

 業(ごう)とは行為を意味する。日本だと悪業の意味で使われることが多いが善業も含む。その基本は歩く・座る・寝るの三つである。言われてみると確かにそうだ。健康の最低限の定義は「歩ける」ことだろう。身体障害の厳しさは歩くことを阻まれている事実にある。

 悩みがあろうとなかろうと、幸福であろうと不幸であろうと、人間の行為がこの三つに収まることは変わりがない。

 一方には豪華なソファに座る人がいて、他方には擦り切れた畳の上で胡座(あぐら)をかく人がいる。資本主義というマネー教に毒された我々は所有でもって人を測る。だが「座る」ことに変わりはない。つまり「座る」という姿こそが真理なのだろう。

 後期仏教(いわゆる大乗)は絢爛(けんらん)たる理論を張り巡らせ、「宇宙の神秘」を説くことでヒンドゥー教再興に抵抗したというのが私の見立てである。結果的にブラフマンアートマンを採用した(梵我一如)ことからも明らかだろう。

 この神秘主義はなかなか厄介なもので、スピリチュアリズムと言い換えてもよいだろう。後期仏教を密教化と捉えれば神秘主義が浮かび上がってくる。そこには必ずエソテリズム(秘伝・秘儀)の要素が生まれる。

 人間の脳は論理で満足することがない。どこかで不思議を求めている。ミステリーがマジックと結びつくと人は容易に騙される。宗教・占い・通販の仕組みは一緒だ。「物語の書き換え」によって人間を操作する。大衆消費社会を維持するのは広告なのだ。

 歩く、座るといった振る舞いに何かが表れる。颯爽と歩く人には風を感じるし、猫背でとぼとぼと歩く人には暗い影が見える。小学生の歩く姿をよく見てみるといい。悩みがある子は直ぐにわかるものだ。

 これに対して幼児はほぼ全員が歩くこと自体を喜びと感じている節(ふし)がある。だから見ているだけでこちらまで楽しくなってくる。きっと立った瞬間に、また歩いた瞬間に脳は激変している。そりゃそうだ。「見える世界」が変わったのだから。二足歩行を始めた人類の歴史が窺える。

「人生とは単純なものだ」と決めてしまえば、心の複雑性から解き放たれる。怒り、嫉妬、憎悪を生むのは心である。そこに宗教や思想が火をつけ、油を注ぐことも珍しくはない。

 我々は「自分の人生」を失ってしまった。他人に操作された人生を送るがゆえに争いの人生を強いられている。決して心が安らぐことがない。絶えず不安の波が押し寄せる。

 今、大事だと思っていることが、年を重ねるに連れてそうでもないことに気づく。手放せるものはどんどん捨ててしまえ。不要な物を捨て、不要な欲望を捨て、最後は自我まで捨ててしまえというのがブッダの教えである。

【追記】竹内敏晴は「人間が生きている、ということは、基本的には『立って』動いていることである」と指摘している(『ことばが劈(ひら)かれるとき』)。とすれば、人の行為は大別すれば、寝るか・起きるかに分けることができそうだ。

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)

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