2010-07-15

自由のない国と信頼のない家族/『グラーグ57』トム・ロブ・スミス


『チャイルド44』トム・ロブ・スミス
・『子供たちは森に消えた』ロバート・カレン

・自由のない国と信頼のない家族

『グラーグ ソ連集中収容所の歴史』アン・アプロボーム
・『エージェント6』トム・ロブ・スミス
・『偽りの楽園』トム・ロブ・スミス

 チト苦しい。ストーリーが破天荒すぎて、あちこちに無理がある。「初めに事件ありき」といった印象を受けた。

チャイルド44』の続編である。それだけで期待は膨らむ。異様なまでに。過度な期待はおのずから厳しい眼差しとなる。傑作の後の駄作を許さないのは当然だ。

 それでも「読ませる」のだから、トム・ロブ・スミスの筆力は凄い。

 自殺も自殺未遂も鬱病(うつびょう)も――人生を終わらせたいと口に出すことさえ――国家に対する誹謗(ひぼう)中傷と見なされる。より高度に発達した社会には自殺もまた存在しえないものなのだ。殺人同様。

【『グラーグ57』トム・ロブ・スミス:田口俊樹訳(新潮文庫、2009年)以下同】

 ソ連は何も変わっていなかった。理想と現実とは懸け離れ、その距離を嘘で埋めていた。社会主義国はバラ色でなくてはならない。たとえ現実が灰色であったとしても、人々は「バラ色です」と答えることを強いられた。

 前作同様、家族がモチーフになっている。レオ・デミドフは二人姉妹の子を養子に迎えたが、姉のゾーヤはレオを憎んでいた。

 ゾーヤはいまだにレオを保護者と認めていなかった。両親を死に追いやったレオを今でも赦(ゆる)していなかった。レオのほうも自分を父と呼ぶことはなかった。

 レオがゾーヤの両親を殺したわけではなかったが、幼子の目にはそのように映った。自由のない国と信頼のない家族。二重の苦しみをレオはどう克服するのかが読みどころだ。

 突然ソ連に変化が生じた。フルシチョフがスターリンを批判したのだ。

 彼らが今耳にしているのは国家を批判することばだった。スターリンを批判することばだった。ラーザリはいまだかつてこのような形でこのようなことばが語られるのを聞いたことがなかった。恋人同士のあいだでさえ囁かれることのないことばだった。寝棚の囚人同士が囁き合うことさえ。そんなことばが彼らの指導者の口から語られたのだ。それも党大会で報告されたのだ。それらは書き取られ、印刷され、装丁され、こうしてこの国のさいはての地にまでたどり着いた。

 この収容所が「グラーグ57」だった。ここから荒唐無稽な筋運びとなる。既に家出をしたゾーヤは悪党の一味に加わり、ハンガリー動乱の扇動を行うといったもの。

 レオは前作と比べると明らかに老いが目立っている。本書ではレオという主人公の人物造形が凡人と超人の間で揺れており、それが物語を中途半端なものにしている。ゾーヤの落ちぶれようも救いがなく、全体のトーンが暗く明暗のアクセントを欠いている。

 このシリーズは三部作で完結する予定らしいが、次の作品はじっくりと時間をかけて再び傑作をものにして欲しい。

2010-07-07

ミステリ界に光を放つ超大型新星/『チャイルド44』トム・ロブ・スミス


 ・ミステリ界に光を放つ超大型新星

『子供たちは森に消えた』ロバート・カレン
『グラーグ57』トム・ロブ・スミス
・『エージェント6』トム・ロブ・スミス
・『偽りの楽園』トム・ロブ・スミス

ミステリ&SF

 老練なプロットと引き締まった文体から、トム・ロブ・スミスが20代の若者であることを想像するのは難しい。作品の舞台となったロシアでは発売禁止になっている。つまり、ロシアの現実が描かれているものと考えてよいだろう。

 一人の男の再生物語であり、男の半生はスターリン体制下のソ連とピッタリ重なっていた。

 主人公のレオ・デミドフは国家保安省(※KGBの前身)の優秀な捜査官だった。それは、彼が「人民の敵」であることを意味していた。逮捕した相手からこんなことを言われたこともあった――

「私はこの国を憎んでなどいないよ。憎んでいるのはむしろきみのほうだ。この国の人々を憎んでいるのは。そうでなければどうしてこんなに多くの人たちを逮捕したりなどできる?」

【『チャイルド44』トム・ロブ・スミス:田口俊樹訳(新潮文庫、2008年)以下同】

 異常な世界で評価されるためにはロボットと化す他なかった。それにしても旧ソ連の実態は酷い。同僚はありとあらゆる手段を駆使して足を引っ張り、賞罰が明らかでなければ怠け放題だ。階級闘争が階級内闘争を生み、無限の連鎖となって社会の至るところにストレスを与えていた。

 ある事件をきっかけにして、レオ・デミドフは体制に疑問を抱くようになる。健全な懐疑は真理の扉を開く。ソ連は寸足らずの衣服を国民に与え、「手足を縮めるよう」命令を下していた。寒い国だから手足を縮めるのはお手の物だ。

 国は詩人を必要とはしていない。哲学者も宗教家も必要としていない。国が必要としているのは、寸法と量が計れる生産性。ストップウォッチで計測できる成功だ。

 有罪となって死ぬことはもう避けられない。この社会のシステムはどんな逸脱も誤謬(ごびゅう)も認めていないからだ。見せかけの効率。それはここでは真実よりはるかに重要なものなのだ。

 唯物論は人間をモノとして扱う。マルクスは国家を暴力的に転覆することを高らかに宣言した。思想はどの思想も正義のマントを羽織っている。思想が暴力を肯定すると、人間の情動にブレーキが掛らなくなる。ソ連では至るところで拷問が行われた。ある時は容疑者に対して、そしてまたある時は罪なき市民に対して。共産主義は国民を恐怖で支配する体制だった。

 レオは同僚の讒言(ざんげん)によって田舎の警察署へ左遷させられる。警察署の上司は彼を煙たがった。長年連れ添った妻との関係も上手くいっていなかった。そんなある日のこと、幼児の虐殺死体が発見される。レオは一人で調査を開始した。同じ手口の犯行が別の場所でも行われていた。間違いなく連続猟奇犯の仕業だった。

 自由のない国で、しかも犯罪の事実を隠蔽(いんぺい)する社会主義国で、どのようにして正義を実現するか――これが本書のモチーフになっている。

 誰かのために立ち上がることは、取りも直さずその誰かの運命の裏地に自分の運命を縫いつけることだ。

 立ち上がれば、もう座り直すことはできなかった。あとは前に進むか、殺されるかという選択肢しか残されていない。レオは立ち上がった。殺された44人の子供達の家族のために。

 冒頭のエピソードがラストで花火のように爆発する。並大抵の衝撃ではない。登場人物は皆が皆、ソ連という政治システムの犠牲者だったのだ。トム・ロブ・スミスはシステム化された暴力を描き出すことで、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』的なミステリを創出している。

 ロバート・ラドラム亡き後のミステリ界を照らす、超大型新星の登場だ。