・正しいキレ方
・輪廻する缶コーヒー
実に3月11日以来ずっと見続けてきた。「ほとんどビョーキ」(※山本晋也の決め台詞)である(笑)。かつて『狼/男たちの挽歌・最終章』(ジョン・ウー監督、1989年)を100回以上視聴しているが、不思議なほど取り憑(つ)かれてしまうのはスタイル(文体)に惹(ひ)かれるためだ。冒頭のスピーディーな展開とサリー・イップの歌声を紹介しよう。
はたと気づいた。「ああ、輪廻(りんね)か」と。厳密に言えば『狼』の場合は因果応報であるが、プラスとマイナスの違いこそあれ「繰り返し」という意味では同じだ。『恋ノチカラ』では缶コーヒーが本宮籐子(深津絵里)と貫井功太郎(堤真一)の間を往還し輪廻する。
籐子は以前、仕事でミスをし上司に絞られた際に、たまたま通りかかった貫井から励ましを受け缶コーヒーを手渡された。独立した貫井の事務所に籐子は引き抜かれるが実は人違いであった。一旦は元の会社へ戻ろうとした籐子だが貫井に対する嫌がらせを知り、貫井企画で働くことを選ぶ。籐子は貫井と木村壮吾(坂口憲二)に缶コーヒーを渡す。
次は貫井が仕事で行き詰まり事務所の空気が不穏になる。貫井と木村が衝突。事務所を出ていった貫井の後を籐子が追い掛ける。公園のベンチに座り込む貫井に籐子は肝コーヒを差し出した。ドラマの白眉ともいうべき部分だ。なんと堤真一はここで科白(せりふ)を間違えている(笑)。貫井は怒りのあまり缶コーヒーを地面に叩きつけた。籐子は思いのたけを吐き出し走り去る。翌朝、「昨日は悪かったな」と貫井が缶コーヒーをお返しする。
貫井がデザインしたという設定の缶コーヒーなのだが野暮ったいデザインでセンスが悪い。そもそも貫井のファッションがその辺のオッサンと変わりがなくてとてもデザイナーには見えない。しかも堤真一は酷いガニ股で歩く姿が絵にならない。
ま、悪口はいくらでも言える。そもそも広小路製薬の仕事を依頼されたのは籐子の必死な行動によるものであり、散々嫌がらせをしてきた吉武宣夫(西村雅彦)を貫井企画に引き抜いたのも籐子の功績である。そんな彼女をドラマの後半に至るまで軽々しく扱わせるのはストーリー設定がおかしい。フジテレビだから仕方がないのか?
輪廻する缶コーヒーは偶然生まれたものだろう。最初から考えていたのであれば最後にもう一捻(ひね)りありそうなものだ。貫井への恋心を抑えきれなくなった籐子は辞める決心をする。一人名残りを惜しむように事務所で思いに耽(ふけ)る籐子。貫井の席に座り、クルクルと椅子を回しながら両手を伸ばし天井を見上げ、微笑みながら涙を流す。デスクの上には缶コーヒーが置かれていた。
シンメトリーと輪廻について考える。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2017年4月12日
人間はシンメトリー(左右の対称性)に美を感じる。輪廻という考え方はヒンドゥー教や古代エジプト・ギリシャなど世界各地に見られる。多分、四季の移り変わりや繰り返される星の運行から生まれたのだろう。雨-川-海といった水の循環とも関係があるのかもしれない。いずれにせよ輪廻をシンメトリーと捉えれば美や秩序を見出すことは容易だ。
私が何度もこのドラマを繰り返し見続けてきたこと自体が輪廻に思える(笑)。我々は同じことを繰り返すのが好きなのだ。食事から仕事に至るまで日常生活の行動は同じことの繰り返しである。映画や小説は起承転結の繰り返しで、スポーツはルールの繰り返しに過ぎない。そして人類は戦争と平和を繰り返す。
繰り返すことと繰り返さないことの間に人生の個性があるのだろう。よく「同じ過ちを繰り返すな」という。これが実は簡単なようでなかなか難しい。仏教で説く業(カルマ)とは行為のことだが、繰り返しによって強化された癖との意味合いが強い。
もう、『恋ノチカラ』はしばらくの間見ない。輪廻から離脱する。