・『物語の哲学』野家啓一
・『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
・自爆せざるを得ないパレスチナの情況
・9.11テロ以降パレスチナ人の死者数が増大
・愛するもののことを忘れて、自分のことしか考えなくなったとき、人は自ら敗れ去る
・物語の再現性と一回性
・引用文献一覧
・『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
・物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
・『アメリカン・ブッダ』柴田勝家
・『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
・『悲しみの秘義』若松英輔
・必読書リスト その一
では、その「物語」はどこから来るのか。近代の小説が「著者」という起源によって創出されるのに対し、「物語」は作者不詳だ。その起源は定かではない。物語はつねに、かつて誰かから聴いた話だ。そして、その誰かは別の誰かからその物語を聴いたにちがいない。(※アントン・シャンマース著『アラベスク』で)「ぼく」が語る物語が、かつてユースフ叔父さんが「ぼくたち」に語ってくれた物語であるように、幼いユースフ叔父さんもまた、別の誰かからそれらの物語を聴いたにちがいない。物語は、時と場合に応じて変幻自在に語られる。同じ物語がいつも同じように物語られるとは限らない。「ぼく」もまた、やがてそれらの物語を「ぼく」流にアレンジしながら、誰かに語り直すだろう。語られる物語のなかに、その物語を聴き、語り継いできた複数の語り手、複数の声が存在し、一つの物語には無数の物語が存在するのだ。
【『アラブ、祈りとしての文学』岡真理(みすず書房、2008年/新装版、2015年)】
ブッダ、イエス、孔子はテキストを残さなかった。その理由を解く鍵がここにあると思う。
視覚情報に特化した「文字」は温度を欠く。言葉に魂が吹き込まれるのは「語る」という行為を通して、声や表情・仕草をまとった時である。枢軸時代に人類の教師たちが語ったのは単なる理窟ではなく智慧であったはずだ。そして言葉は世代を超えて語り継がれ、社会の変遷に応じて変わってゆく。やがて思想体系としてまとめ上げられた瞬間に言葉はまたしても死んでしまう。今度は死んだ言葉が人間を束縛し、裁く。
「一人の高齢者が死ぬと、一つの図書館がなくなる」とはアフリカのある部族に伝わる俚諺(りげん)だ。口承文化は濃密なコミュニケーションを育んだが、知の蓄積は一生という時間内に限定されてしまう。コミュニティの範囲も部族を超えることはなかった。
物語は人から人へ伝わる。画面や紙面越しのマス・コミュニケーションとは異なる。生の声と表情には温度・湿度・振動・匂いがある。そして相手の瞳に自分の姿が映っている。
物語という遺伝子は話者に応じ時に応じて表現を変える。「一つの物語には無数の物語が存在する」――その再現性と一回性の交錯に物語の醍醐味があるのだろう。
物語はやがて劇となり小説となり映画となり漫画となった。感動を通して自己の内部に規範が形成される。こう生きたい、かくありたいとのモデル(元型)が人を正す。
我々は語るべき物語を持っているだろうか? 伝えずにはいられない衝動があるだろうか?
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