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2021-08-25

日本人らしい意地悪な視線/『ドキュメント 生還 山岳遭難からの救出』羽根田治


・『ドキュメント 雪崩遭難』阿部幹雄
・『ドキュメント 滑落遭難』羽根田治

 ・日本人らしい意地悪な視線

・『ドキュメント 気象遭難』羽根田治
・『ドキュメント 道迷い遭難』羽根田治
・『ドキュメント 単独行遭難』羽根田治
・『ミニヤコンカ奇跡の生還』松田宏也、徳丸壮也構成

「助けにきてくれたのですか。おじさんの顔が神様みたいに見えます」
 この遭難事故は、Kがわずかなチョコレートによって命を支えていたことから、“奇跡の生還”としてテレビや新聞、週刊誌などで大々的に報じられた。山をまったく知らないふたりの女性がほとんど無防備な状態で山に入り、途中で離れ離れになりながらも、ひとりは9日間、もうひとりは11日間を生き延びたというドラマ性にマスコミが注目し、一般の人々が惹きつけられたのだ。
 なお、この遭難事故には後日談がある。
 事件の翌年の1969(昭和44)年5月、ふたりの女性が「西穂高岳の遭難現場を見にいく」と自宅に書き残して、上高地から西穂高岳へと入山した。だが、彼女たちは二度と帰ってこなかった。土砂に埋もれたふたりの遺体が外ヶ谷の上流部で発見されたのは、行方不明になってから1年以上が経過した、翌年7月のことであった。

【『ドキュメント 生還 山岳遭難からの救出』羽根田治〈はねだ・おさむ〉(ヤマケイ文庫、2012年)】

 文章がいいので最後まで読むことができたが、日本人らしい意地悪な視線がそこここに見られて辟易させられる。我が国では「世間に迷惑をかける=悪」という価値観が根強く、生還した人をヒーローと称えるアメリカのような見方ができない。

 どんなに文章を飾ったところで「失敗を叩く」行為に変わりはない。底の浅い人間性がせっかくの文章を台無しにしている。

 初心者であれば悔恨に駆られながら死んでいったことだろう。上級者であれば無念に沈みながら死んでいったことだろう。人は死ぬ。山や海で。そして事故や病気で。それらの死に差異はない。

 そして人は同じ失敗を繰り返す。戦争がその最たるものだろう。それを宿痾(しゅくあ)とも業(ごう)とも言うのだ。登山家は必ず山で死ぬ。山登りをやめない限りは。私はベッドの上で死ぬことが幸せだとは決して思わない。

2021-01-18

「生きてるか!」/『凍(とう)』沢木耕太郎


・『星と嵐』ガストン・レビュファ
『神々の山嶺』夢枕獏
・『狼は帰らず アルピニスト・森田勝の生と死』佐瀬稔
『ビヨンド・リスク 世界のクライマー17人が語る冒険の思想』ニコラス・オコネル
『そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』ヨッヘン・ヘムレブ、エリック・R・サイモンスン、ラリー・A・ジョンソン
・『ソロ 単独登攀者 山野井泰史』丸山直樹

 ・「生きてるか!」

『ポーカー・フェース』沢木耕太郎
・『白夜の大岩壁に挑む クライマー山野井夫妻』NHK取材班
・『垂直の記憶』山野井泰史
・『アルピニズムと死 僕が登り続けてこられた理由』山野井泰史
・『いのち五分五分』山野井孝有
世界最強ソロクライマー"山野井泰史"50年の軌跡 伝説のクライミンング人生を世界一詳しく解説!!【ゆっくり解説】

「なあ、『死のクレバス』ってあるだろう?」
 山野井が言った。
 イギリスのクライマー、ジョー・シンプソンの書いた『死のクレバス』は、南米アンデスのシウラ・グランデ峰における自らの遭難を描いたものである。
「もし俺たちが生き延びられたら、あれより凄いことになるかもしれないな」
 その頃から山野井も嘔吐するようになっていた。そして吐くものがなくなると、妙子と同じく胃液を吐くようになった。
「このまま眠ったら死んじゃうかな」
 妙子がつぶやくように言った。こんなに寒くて、何も食べていない状態では、ひょっとして死ぬこともあるのかなというくらいの軽い気持ちだった。だから、続けた。
「そんなに簡単には死なないよね」
 死ぬ人は諦めて死ぬのだ。俺たちは決して諦めない。だから、絶対に死なない。
「うん、死なない」
 山野井はそう答えながら、黙ったままじっとしている妙子を見て、ふと不安になって声を掛けた。
「生きているか?」
 すると妙子が返事をした。
「生きてるよ」
 山野井は少し安心したが、そのうちに妙子は嘔吐もしなくなった。
「生きてるか!」
 山野井が怒鳴るように言っても、妙子は反応しない。
「生きてるか!」
 山野井が返事のない妙子の体を揺すった。すると、しばらくして答えが返ってきた。
「うん……」
 やがて、妙子はうとうととし、山野井も膝に顔をうずめて眠りはじめた。

【『凍(とう)』沢木耕太郎〈さわき・こうたろう〉(新潮社、2005年/新潮文庫、2008年)】

 山野井泰史〈やまのい・やすし〉・妙子夫妻を描いたノンフィクションである。人気作家の沢木耕太郎がよくぞ書いてくれた、と喝采を送りたい。夫妻ともに世界屈指のクライマーだが日本での注目度は低い。日本企業のスポンサーシップは商業主義に毒されており、儲けを見込んだ話題性にしかカネを出さない。山野井自身、若い頃はスポンサー探しに悪戦苦闘したが、結局資金提供をしてくれる企業は見つからず、アルバイトや執筆をしながら遠征費を捻出し続けた。

 山口絵理子著『自分思考』(講談社、2011年)を読みながら誰かに似ていると思った。ぼんやりと記憶をまさぐり「山野井だ!」と気づいた。続いて「山口も登山家だったんだな」と悟った。両者共に単独者である。「ただ一人歩む者」の厳しさと険しさが深い部分で通い合う。

 2002年、ギャチュンカンの登山で夫妻は下山の途中、嵐と雪崩(なだれ)のために遭難する。泰史は雪崩の衝撃で視力を失う。滑落した妙子を救うために彼は下へおりてゆこうとするのだがハーケンを打ち込む割れ目を見ることができない。そこで彼は手袋を脱いで凍りついた岩肌に指を這(は)わせる。失ってもいい順番でまずは小指から始めた。たった一つの割れ目を見つけるのに1時間以上を要したこともあった。結局彼は両手の薬指と小指、そして右足の全ての指を凍傷で失った。妙子夫人も手の指を第二関節から先の10本全てと、足の指8本の切断の重傷を負った。

 以下、当時の山野井通信から引用する。

山野井泰史・妙子夫妻ギャチュンカン事故概要

10月5日 BC出発 スロベニア・ルート取り付き付近(コックがABCと表現している)。
6日 50~60度の雪壁に時々岩壁が混じるルートで、1ピッチ以外はノーザイルで登る。7000mでビバーク。
7日 昨日同様のルートをノーザイルで登る。7500mでビバーク。
8日 雪時々晴れ 妙子不調のため、約7600m地点でこれ以上の登行を断念(この先さらに傾斜が増す) 泰史単独登頂後妙子と合流、ビバーク。
9日 雪。前向きで下降出来ない傾斜をノーザイルでクライム・ダウン。7200mでビバーク。
10日 雪。スタカットで下降を続ける。泰史が先に下降し、妙子を確保、後 5mで泰史のいる地点で妙子が雪崩に飛ばされ、頭部が下になった状態で、50mロープ一杯で止まる。左手の手袋は雪崩で失い、左手は瞬時に白色になった。この墜落で頭部右側と右肩、右ひじなどを強打、頭部は約8cm切れる。

この墜落後、左眼が見えなくなる。もがいて体制を立て直し上部を見ると、ハング気味の岩にロープがこすれて外皮がとれ、芯も幾筋か切れている。泰史が妙子を引き上げようとロープを引くが、ロープは今にも切れそうで、大声で引くな!と叫ぶが聞こえない様子。妙子はロープをはずし、少し右手の雪壁(氷壁?)にアックスとバイルを打ち込み、次の雪崩にそなえた。

ロープの加重が無くなり、妙子がロープをはずしたことを知った泰史は、妙子と合流しようとピトンを打ってシングルロープで妙子の所に下降し、無事を確認して泰史が登り返している時、二度雪崩が発生、眼を傷つけられたらしい。ロープの始点に辿り着き、そこから懸垂下降をしようとしたが目が見えず、手袋をはずして手探りでリスを探し、リスに合うピトンを打ちながら、妙子の声のする方向へ3ピッチ降り妙子と合流。その近くの腰掛けられる程度の狭いスペースでビバーク。

11日 泰史の左眼は回復したが妙子が両眼とも見えなくなり、かなりの時間をかけて取り付き付近(ABC)まで下降。 迎えに来ると言っていたガイドがいなかったが、降雪量が多くラッセルがひどいので来なかったのだろうと思った。
12日 依然泰史の右目も妙子の両目も回復せず。10時間ほど下降し、氷河上でビバーク。
13日 途中まで人が登って来た形跡があり、ひょっとして二人が遭難したと思われているのではないか、と思った。 BCに着くと案の定二人のテントはたたまれ、メステントだけがまだ建っていた。帰還した山野井たちに・コックチョモランマBC連絡官他一名が驚き、すぐテントを建て直し収容してくれた。
14日 山野井たちが行方不明と判断されており、荷下ろしのためBCにポーター3人が上がって来た。
15日 彼らに交代で背負ってもらい下山する途中で、荷下げのために上がってきたヤクとすれ違う。テンディ泊
16日 カトマンズまで帰り着き、教育病院に収容される。
17日 日本に帰国。現在凍傷についての権威である金田医師の治療を受けております。

山野井泰史・妙子夫妻事故概要報告 | 山野井通信 | EVERNEW

 奇蹟の生還を遂げた山野井は語った。「いい山登りだった。楽しかったしね」(【最強クライマー】山野井泰史・妙子夫妻の凄さ)と。二人はギャチュンカンでの出来事を決して「遭難」とは言わない。彼らにとっては折り込み済みのアクシデントに過ぎなかったのだろう。それどころか凍傷すら後悔をしていないのだ。

 無酸素単独で、より難しい山をより難しいルートで登るのが山野井の流儀である。それゆえ「登れる」ことがわかっているエベレストには振り向きもしない。

 無欲恬淡な人生から吐き出される言葉の数々は聖職者でも及ばぬ光彩を放っている。山野井夫妻は本当にいい貌(かお)をしている。私からすればこれほど理想的な夫婦を見たことがない。

 最後になるが「今あらためて問う、山野井泰史氏 ポタラ北壁「加油」ルートの意義: 月山で2時間もたない男とはつきあうな!」によると、山野井夫妻のルートに中国人登山家が挑んだという。中国のテレビ番組ですら紹介した山野井泰史を冷遇した日本社会を恨みたくなるのは私だけではあるまい。平山ユージも登場する。






ぼくは「想像」が得意。 - ほぼ日刊イトイ新聞
山野井泰史
山野井通信 | EVERNEW
山野井泰史:動画検索

2018-01-28

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 以下の地図は『続』(白山書房、2016年)より。画像サイズを大きくしたのでクリックして(Chromeの場合は右クリック→新しいタブで画像を開く)ご覧あれ。


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丹沢山系全体概念図 - 神奈川県公園協会
『日本の山はいま』 丹沢概念図

2012-12-10

アイガー北壁のスピードクライミング

Eiger - North Face

Eiger North Face.

Eiger north face

 スイスの登山家、ウエリ・シュテック氏が、三大北壁と呼ばれる難関ルート、アイガー北壁(高さ1800mの岩壁)を2時間47分で登った時の映像






 スイスのガイド、Dani Arnold(27) が、アイガー北壁をヘックマイヤールート経由で、4/20 に 2時間 28分というタイムで登頂しました。これまでの記録はウエリ・シュテックが 2008年に出した 2時間 47分という記録でした。Dani は 4/20 の 9:05 に北壁の基部をスタートし、山頂には 11:33 に到達しています。北壁の登攀ルートとしてはメジャーなルートであることから、トレースが残っていたりと条件が良かったようです。彼は、パタゴニアの Torre Egger の冬期初登などの記録を持っています。


 因みにアウトドアブランドの「ザ・ノースフェイス」はアイガー、グランドジョラス、マッターホルンの北壁(三大北壁)に由来する。ロゴの右側に描かれている三つのドームがそれ。

the-north-face-logo

『神々の山嶺』夢枕獏

2011-11-03

山野井泰史








白夜の大岩壁に挑む~クライマー 山野井夫妻~ [DVD] 白夜の大岩壁に挑む―クライマー山野井夫妻

垂直の記憶 (ヤマケイ文庫) 凍 (新潮文庫) ソロ―単独登攀者・山野井泰史

服部文祥


 cyranoさんのツイートで知った。

「山に対してフェアでありたい」という考えから、「サバイバル登山」と自ら名付けた登山を実践する。「サバイバル登山」とは、食料を現地調達し、装備を極力廃したスタイルの登山を指している。(Wikipedia









サバイバル登山家百年前の山を旅する狩猟サバイバルサバイバル!―人はズルなしで生きられるのか (ちくま新書)

2001-08-13

死して尚登り続ける遺体の崇高さ/『そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』ヨッヘン・ヘムレブ、エリック・R・サイモンスン、ラリー・A・ジョンソン


・『星と嵐』ガストン・レビュファ
『神々の山嶺』夢枕獏
・『狼は帰らず アルピニスト・森田勝の生と死』佐瀬稔
『ビヨンド・リスク 世界のクライマー17人が語る冒険の思想』ニコラス・オコネル

 ・死して尚登り続ける遺体の崇高さ

【動画】ジョージ・マロリーの遺体発見
『ビヨンド・ザ・エッジ 歴史を変えたエベレスト初登頂』リアン・プーリー監督
・『ソロ 単独登攀者 山野井泰史』丸山直樹
『凍(とう)』沢木耕太郎


【亡くなる4年前の写真。34歳】

 このあどけない風貌の男の内側で、修羅の炎が燃え盛っていた。

 副題は「伝説の登山家マロリー発見記」。著者に名を連ねるのはヨッヘン・ヘムレブ、ラリー・A・ジョンソン、エリック・R・サイモンスン。この3人がエヴェレストに登り、マロリーを発見したチームの主要人物。

 ニュース性が高い内容だけに、やや面白みに欠けるのは仕方がないだろう。夢枕獏の『神々の山嶺』(集英社)を読んだ方であれば、手に取らざるを得なくなるはずだ。表紙に配された2枚の写真。マロリーの肖像とエヴェレストにしがみつくような姿勢で真っ白な彫像を思わせる遺体。巻頭の写真をよくよく見ると、地面の傾斜角度は、ほぼ45度。右足首があらぬ方向を向き、完全に折れてしまっている。

 各章の頭にマロリーの言葉が掲げられている――

 打ち負かされて降りてくる自分の姿など、とても想像できない……

【『そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』ヨッヘン・ヘムレブ、エリック・R・サイモンスン、ラリー・A・ジョンソン:海津正彦〈かいつ・まさひこ〉、高津幸枝〈たかつ・ゆきえ〉訳(文藝春秋、1999年)以下同】

 それがどんなに私の心をとらえているか、とうてい説明しきれない……

 大胆な想像力で夢に描いたものより遥か高みの空に、エヴェレストの山頂が現われた

 もう一度、そしてこれが最後――そういう覚悟で、私たちはロンブク氷河を上へ上へ前進していく。待っているものは勝利か、それとも決定的敗北か

 マロリーの人とナリが窺えて興味深い。

 エヴェレストの山頂がエドマンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによって制覇されたのは1953年5月。これに先立つこと約30年、1924年にジョージ・マロリーは山頂近くでその姿を確認されたまま行方不明となった。当時の写真を見て驚かされるのはその服装である。ツイード・ジャケットにゲートルを巻いた程度の軽装で、現在であれば、富士山にも登れないような格好をしているのだ。世界で最も天に近い地を踏んでみせる!――男達の顔はそんな不敵な匂いを放っている。

「マロリーは登頂に成功したのか否か?」という最大の関心事には、遺体があった位置などから、かなり真実性を帯びた推測がなされている。これは読んでのお楽しみ。

「なぜ、山に登るのか?」
「そこに山があるからだ」

 実はこれ、意訳。正確にはこうだ。

「なぜ、エヴェレストに登るのか?」(記者からのしつこい質問)
「そこに、それ(人類未踏の最高峰)があるからだ」

 この名言を吐いた男の亡き骸は、発見されるまでの75年間にわたって、山頂を目指していた姿だ。最後の最後まで戦い続けた男の執念は、死にゆくその瞬間まで絶対にあきらめようとしなかった。エヴェレスト北面8160mで彼は死後も戦い続けていたのだ。滑落姿勢を保ち、エヴェレストの大地に指の爪を立てたままで――。「生きるとはこういうことだ! 私を見よ!」。マロリーの死に様は、生ある全ての人の背筋を正さずにはおかない。この姿を一度(ひとたび)見れば、誰もが生き方を変えざるを得なくなるはずだ。

 それは単なる遺体ではなく、不屈の魂そのものだった。マロリーの精神は、エヴェレストの山頂よりも遥かな高みから山男たちを見守っていることだろう。