2014-01-25
パソコンが壊れた、死んだ、殺した
パソコンが壊れた。立ち上がらなくなってしまった。手に負えなかったのですかさずバックアップ用のパソコンに取り替えた。悪いことは続くものである。何と一日で同じ状態となった。ま、数年間も放置していたのだからパソコンを責めるつもりはない。因みに太郎先輩から購入した中古パソコンであった。
電源スイッチを入れると黒い画面に「NTLDR is missing Press CTRL+ALT+DEL to restart」とのエラーメッセージが。ブルースクリーンではなかった。
・NTLDR is missing Press CTRL+ALT+DEL to restartとエラーメッセージが表示されてパソコンが起動しない
・NTLDR is missingのメッセージが出て起動しない
・NTLDR is missing Press CTRL+ALT+DEL to restart. の対処方法
すかさず太郎先輩に電話をした。返答は短いものであった。「そうか……あきらめろ」以上である。で、あきらめた。私は果断に富む男なのだ。
パソコンは私だ。私の主要な情報が詰まっているのだから。そこには脳味噌に収めきれなかった情報が網羅されている。私の過去の大半といってもよい。
立ち上がらなくなった時点で私は寝たきりとなった。そして捨てられた(まだ家にはあるが)。私は死んだ。あるいは殺されたも同然だ。そして買い替えたパソコンにクラウド上の情報がダウンロードされた。私は蘇った。だが厳密にいえばそれは私ではない。多分私の子供なのだろう。コピー。パーマン2号だ。
私は「私という情報」なのだろうか? ふとそんなことを思った。思い続けた。
そうではあるまい。なぜならそこには私の体温や匂いがないからだ。生きるとは息することだ。つまり呼気(体温+匂い)こそが生きる私であり、生きるとは「私が反応する」ことなのだ。
ブッダやクリシュナムルティは反応しない。死者は誰一人として反応することがない。だが彼らに思いを馳せた私が反応することで彼らは生き返るのだ。縁起とは「私に縁(よ)って起こる生命現象」を意味するのだろう。
パソコンと人間は異なる。人間は立ち上がらなくなっても存在する価値はある。もちろん家族の判断によるわけだが。私はいたずらに延命措置をすることを奨励しているわけではない。ただ、そこにいてくれるだけでいいという関係性もあるのだ(コミュニケーションの可能性/『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子)。
やがて私は死ぬ。確実に死ぬ。私の情報は発信したものだけがウェブ上に残る。それがたった一人であっても誰かの役に立てばよい。ブロガーの覚悟とはそんなものだ。
・コピーに関する覚え書き
・移動(コピー)した方が本物
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